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第一章 義士
律の調べ(1)
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十月一日、藩主である長国公が国元へ帰ってきた。詰番である鳴海は、広間番の頃よりも前列で公にお目見えすることができる。それが、鳴海は嬉しかった。
長国公は鳴海と一つ違いで妾腹の生まれであり、そのため二本松で生まれ育った。歳が近いということもあり、鳴海が子供の頃は、長国公のお遊び相手を務めたこともあった。
大書院の前から二列目に位置取り、鳴海は心持ち顔を上気させた。
「皆の者、久しいな」
柔らかな長国公の声が、頭上から降り注ぐ。その言葉につられて、一同が頭を下げた。
「殿におかれましても、ご健勝のご様子。よう帰って来られました」
現在座上の丹波は江戸にいるため、日野源太左衛門が家臣らを代表して挨拶を述べた。鳴海がそっと視線を長国公に向けると、長国公が柔らかく微笑んでいるのが見えた。
やはり、藩公が国元にいらっしゃると空気が違う。いつもは家臣同士で意見を活発に交わしているが、主君の姿がそこにあることで、家臣らの心も一つにまとまっているように感じられた。
ふと、鳴海と長国公の視線が合った。慌てて目を伏せるが、長国公の柔らかな眼差しは、目を伏せていても感じられた。
「鳴海。そなたとこのように近しく接するのも、久しぶりだな」
特別の言葉に、鳴海はさらに深々と頭を下げた。広間番だった今までは、長国公のお側に寄ることを許されなかったのだ。これほど長国公に近づくのは、子供の頃以来かもしれない。
「勿体ないお言葉でございまする」
鳴海の言葉に、長国公はますます笑みを深くした。
「縫殿助のことは残念だったが、これからはお主も頼りにするぞ」
「ははっ!」
公からの親しげな言葉に、隣に控えていた志摩が羨ましそうな眼差しを向けているのが、感じられた。
その席上、長国は改めて妹の照子姫が大垣藩主、戸田氏良に嫁ぐことを告げた。祝言は大垣藩の江戸藩邸で行い、それから照子姫は大垣に下向する予定だという。正妻でありながら国元に下向するのは参勤交代の制度変更があったことによる。これまでとは異なり、藩主の正妻や嫡子は、どこにいてもお構いなしとなったのだ。
二本松藩は、公の正妻である久子も大垣藩の出身である。徳川家譜代大名の中においても戸田家は名門の一つであり、それだけ二本松藩が譜代大名諸藩から信頼を得ている証でもあった。
長国公の説明が終わると、そのまま御前会議となった。和左衛門によると、十三日には仙台侯の奥方が本宮の南町本陣にて休息される予定だという。仙台藩では、参勤交代の変更を受けて、早速奥方を国元に帰すことにしたらしかった。
「仙台藩は、懐に余裕があるようですな」
和左衛門が、やや皮肉な物言いをした。二本松では、まだ公の正妻である久子様や妹君の帰国の予定の目処が立っていない。妻女の下向というのは先例がないが、参勤交代そのものが一種の武威を披露する場である。行列は、自ずと豪華なものになりがちだった。
さらに、新十郎から仁井田村の遠藤源七郎ら八名が、二十五日より伊勢参宮へ行きたいとの願い届けが出されているとの報告があった。庶民の伊勢参宮などの長期旅行は、原則として藩の許可を得なければ認められない。
「お主、それを認めるつもりか」
渋い顔をしたのは、やはり和左衛門である。和左衛門の吝嗇癖は皆が広く知るところであるが、さすがにそこまで取り締まるのは如何なものかと、鳴海は密かにため息をついた。
「義父上。伊勢参りくらい、良いではありませんか。農民らにも農民らの願いがあります。そこまで取り締まれば、却って反発を招きましょう」
答えている新十郎も、苦虫を噛み潰したような顔をしている。判断を仰ぎたいのか、新十郎はちらりと源太左衛門に視線を投げかけた。
「儂もそう思いますぞ、和左衛門殿。二十五日といえば、仙台の御一行らも既に本宮を通過されているはず。寄人馬に支障はございますまい」
源太左衛門が、穏やかな声色で和左衛門を説得にかかった。
寄人馬とは、宿郷だけでは宿場町の雑事をこなしきれない場合に、近隣の村々へ助っ人を頼む制度のことである。藩領が広く奥州街道に面している二本松では、郡山、本宮、二本松、八丁目(現在の松川)などが宿場町として栄えているが、これらの宿場町の雑事は、農民らの助っ人によって成り立っているのだった。仙台藩は奥州随一の大藩であるから、幕府の道中奉行から寄人馬の要請が出るのは容易に予想出来た。
その最中に、伊勢参りと称して農民らが物見遊山に行くのを認めるのは、贅沢ではないかと和左衛門は渋っているのである。
「まさか、賂を受け取ったから認めようというわけではございませぬな?」
じろりと源太左衛門睨みつける和左衛門を、長国公は穏やかな笑みを浮かべて見守っているだけだった。
番頭や詰番は行政に口を挟まないのが鉄則であるが、二人のやり取りを見ている鳴海の胃も、きりきりと痛み始めた。
長国公は鳴海と一つ違いで妾腹の生まれであり、そのため二本松で生まれ育った。歳が近いということもあり、鳴海が子供の頃は、長国公のお遊び相手を務めたこともあった。
大書院の前から二列目に位置取り、鳴海は心持ち顔を上気させた。
「皆の者、久しいな」
柔らかな長国公の声が、頭上から降り注ぐ。その言葉につられて、一同が頭を下げた。
「殿におかれましても、ご健勝のご様子。よう帰って来られました」
現在座上の丹波は江戸にいるため、日野源太左衛門が家臣らを代表して挨拶を述べた。鳴海がそっと視線を長国公に向けると、長国公が柔らかく微笑んでいるのが見えた。
やはり、藩公が国元にいらっしゃると空気が違う。いつもは家臣同士で意見を活発に交わしているが、主君の姿がそこにあることで、家臣らの心も一つにまとまっているように感じられた。
ふと、鳴海と長国公の視線が合った。慌てて目を伏せるが、長国公の柔らかな眼差しは、目を伏せていても感じられた。
「鳴海。そなたとこのように近しく接するのも、久しぶりだな」
特別の言葉に、鳴海はさらに深々と頭を下げた。広間番だった今までは、長国公のお側に寄ることを許されなかったのだ。これほど長国公に近づくのは、子供の頃以来かもしれない。
「勿体ないお言葉でございまする」
鳴海の言葉に、長国公はますます笑みを深くした。
「縫殿助のことは残念だったが、これからはお主も頼りにするぞ」
「ははっ!」
公からの親しげな言葉に、隣に控えていた志摩が羨ましそうな眼差しを向けているのが、感じられた。
その席上、長国は改めて妹の照子姫が大垣藩主、戸田氏良に嫁ぐことを告げた。祝言は大垣藩の江戸藩邸で行い、それから照子姫は大垣に下向する予定だという。正妻でありながら国元に下向するのは参勤交代の制度変更があったことによる。これまでとは異なり、藩主の正妻や嫡子は、どこにいてもお構いなしとなったのだ。
二本松藩は、公の正妻である久子も大垣藩の出身である。徳川家譜代大名の中においても戸田家は名門の一つであり、それだけ二本松藩が譜代大名諸藩から信頼を得ている証でもあった。
長国公の説明が終わると、そのまま御前会議となった。和左衛門によると、十三日には仙台侯の奥方が本宮の南町本陣にて休息される予定だという。仙台藩では、参勤交代の変更を受けて、早速奥方を国元に帰すことにしたらしかった。
「仙台藩は、懐に余裕があるようですな」
和左衛門が、やや皮肉な物言いをした。二本松では、まだ公の正妻である久子様や妹君の帰国の予定の目処が立っていない。妻女の下向というのは先例がないが、参勤交代そのものが一種の武威を披露する場である。行列は、自ずと豪華なものになりがちだった。
さらに、新十郎から仁井田村の遠藤源七郎ら八名が、二十五日より伊勢参宮へ行きたいとの願い届けが出されているとの報告があった。庶民の伊勢参宮などの長期旅行は、原則として藩の許可を得なければ認められない。
「お主、それを認めるつもりか」
渋い顔をしたのは、やはり和左衛門である。和左衛門の吝嗇癖は皆が広く知るところであるが、さすがにそこまで取り締まるのは如何なものかと、鳴海は密かにため息をついた。
「義父上。伊勢参りくらい、良いではありませんか。農民らにも農民らの願いがあります。そこまで取り締まれば、却って反発を招きましょう」
答えている新十郎も、苦虫を噛み潰したような顔をしている。判断を仰ぎたいのか、新十郎はちらりと源太左衛門に視線を投げかけた。
「儂もそう思いますぞ、和左衛門殿。二十五日といえば、仙台の御一行らも既に本宮を通過されているはず。寄人馬に支障はございますまい」
源太左衛門が、穏やかな声色で和左衛門を説得にかかった。
寄人馬とは、宿郷だけでは宿場町の雑事をこなしきれない場合に、近隣の村々へ助っ人を頼む制度のことである。藩領が広く奥州街道に面している二本松では、郡山、本宮、二本松、八丁目(現在の松川)などが宿場町として栄えているが、これらの宿場町の雑事は、農民らの助っ人によって成り立っているのだった。仙台藩は奥州随一の大藩であるから、幕府の道中奉行から寄人馬の要請が出るのは容易に予想出来た。
その最中に、伊勢参りと称して農民らが物見遊山に行くのを認めるのは、贅沢ではないかと和左衛門は渋っているのである。
「まさか、賂を受け取ったから認めようというわけではございませぬな?」
じろりと源太左衛門睨みつける和左衛門を、長国公は穏やかな笑みを浮かべて見守っているだけだった。
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