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第一章 義士
北条谷談義(2)
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平助はしばし沈黙した鳴海を見守っていたが、やがて答えを告げた。
「一つは、殺されざるべきなり。次に、必生は虜にさるべきなり。忿速は侮らるべきなり。廉潔は辱めらるべきなり。愛民は煩わさるべきなり」
指を折って、鳴海も数えてみる。
最初は分かる。指揮官が状況判断を冷静に分析することなく、死をも辞さずに必死になって闘ってはいけないということだ。敵のまたとない目標になって殺され、敵に勢いを与えかねない。
次に、土壇場で臆病風を吹かせてはならない。指揮官が状況の不利を察して、何とか生き延びようとしてあがけば、的に追い詰められて捕虜にされてしまう。土壇場で臆病風を吹かせる者は、「必生」を求めてはならない。最初の教えと矛盾するようだが、その塩梅は、実戦の場に立ってみないとわからないだろう。
中指まで折って、鳴海の手が止まった。
「忿速は侮らるべきなり……」
一人の人物が、脳裏に浮かぶ。傍らにいた十右衛門も、苦笑を浮かべた。
「それは、正に丹波様のことではないか、兄者」
丹波の激昂しやすい性格は、山鹿流に解釈すれば、確かに指揮官向きとは言えない。
「私が言うのは、何も丹波様だけではない」
平助も、苦笑いで答える。
「拙者も、か……」
鳴海にも、思い当たる節があった。激昂するとまではいかないが、鳴海もやや短気なところがある。おまけに口下手ときているから、人に誤解されることも、ままあるのだった。
「なぜ、忿速がよろしくないかおわかりかな?」
鳴海は、首を横に振った。直感的には良くないことがわかるのだが、その理由が思い浮かばなかった。
「短気で怒りやすい指揮官は、己の激情の為に心の平衡を見失い、部下の信頼をも失う。その性格を利用されて敵の術中に嵌まりかねない、ということです」
平助の説明に、鳴海は吐息を漏らした。自分も、丹波のことをとやかくは言えない。
「ですが、怒りは人の自然な情でありましょう」
「その通り。さりとて、それを直ちに表に出さず、常に自制できる器を大将や物頭は備えるべきと山鹿流では考えます」
「なるほど……」
山鹿流の教えに従うならば、身近な人物では与兵衛がそうだ。日頃穏やかな印象があるが、鳴海も与兵衛に叱られることがある。決して怒りの感情を持っていないわけではない。また、年若の頃は息子の志摩を怒鳴りつけているのを見たこともあるから、与兵衛はうまくその仮面を使い分けているのだろう。
「激情を抑える方法はあるのでしょうか」
「まずは己が怒っていることを、素早く自覚する。その上で、その怒りを目の前の者にぶつけた場合、どのような事態になるか判断せよ、ということです。相手次第では事態を拗らせることもあれば、逆にその怒りを利用し、自分の意のままにに事を動かせる場合もある」
平助の言うことは、至極理に適っている。鳴海の性格は一朝一夕で変わるものではなかろうが、己の性を制するように、常々心掛けよということだ。
そこまで考えると、四つ目の条件の方が、むしろ鳴海が自制するのが難しいかもしれない。
「廉潔は辱めらるべきなり……」
清廉潔白さは、日頃より二本松の道徳規範として叩き込まれる。だが、頭では分かっていても、それを完璧に守り抜ける人間など、そうそういるものではない。
清廉潔白を信条とする指揮官は、概ね几帳面であり、名誉を保つ心が先行する。誇りが高いとも言えるが、万が一誇りを傷つけられると我慢がならずに、敵の挑発に乗ってしまい、無能な指揮官としての汚名を受けることになる。平助はそのように補足した。
「こちらは、和左衛門殿など危ないのではございませぬか、兄者」
再びの十右衛門の問にも、平助はちらりと苦笑を浮かべただけだった。たとえ兄弟が相手と言えども、立場上、人の評判に関わる言葉は口にしないことにしているのだろう。
だが、十右衛門の言葉はその通りである。息子の新十郎も、その危うさを指摘していたではないか。将たる者、清濁を併せ呑む柔軟な価値観が求められる、ということだ。
そして、意外だったのが五つ目だ。
「愛民は煩わさるべきなり……」
この言葉の意味は、よくわからなかった。つまり、部下を愛するな、ということだろうか。
鳴海の戸惑いを察したように、平助は説明を補足した。
「部下を信頼して愛情を注ぐのは、将として当然のこと。だが、そのことのみに因われて厳しい作戦を展開できないようなことがあってはならない。そういうことです」
この言葉は、今の鳴海にはよくわからない。そもそも、大阪の役以来、二本松藩はもちろんのこと、日本の多くの藩が戦をしたことがないからだ。
「敵方に優れた間(諜報員)がいれば、こちらの将の性格も把握していると見て良い。その性格が間を通じて敵方に伝えられれば、必ずや利用しようとするでしょう。戦に勝つためには、どのような手段を用いても勝たねばなりませぬ。それこそが社稷を守る術であり、道義を説いている場合ではないと、心得られよ」
そう言い切った平助の顔には、微かに影が浮かんでいた。
平助の言葉に、背筋に戦慄が走った。儒教的な教えも含んでいるとは言え、確かに山鹿流は兵法に違いない。勝つためには、どのような手段を使ってでも勝たなければならない。たとえ、部下を死なせるような事態になったとしても、だ。戦場で自分が指揮官になった場合に、そこまで冷静になれるだろうか。
「一つは、殺されざるべきなり。次に、必生は虜にさるべきなり。忿速は侮らるべきなり。廉潔は辱めらるべきなり。愛民は煩わさるべきなり」
指を折って、鳴海も数えてみる。
最初は分かる。指揮官が状況判断を冷静に分析することなく、死をも辞さずに必死になって闘ってはいけないということだ。敵のまたとない目標になって殺され、敵に勢いを与えかねない。
次に、土壇場で臆病風を吹かせてはならない。指揮官が状況の不利を察して、何とか生き延びようとしてあがけば、的に追い詰められて捕虜にされてしまう。土壇場で臆病風を吹かせる者は、「必生」を求めてはならない。最初の教えと矛盾するようだが、その塩梅は、実戦の場に立ってみないとわからないだろう。
中指まで折って、鳴海の手が止まった。
「忿速は侮らるべきなり……」
一人の人物が、脳裏に浮かぶ。傍らにいた十右衛門も、苦笑を浮かべた。
「それは、正に丹波様のことではないか、兄者」
丹波の激昂しやすい性格は、山鹿流に解釈すれば、確かに指揮官向きとは言えない。
「私が言うのは、何も丹波様だけではない」
平助も、苦笑いで答える。
「拙者も、か……」
鳴海にも、思い当たる節があった。激昂するとまではいかないが、鳴海もやや短気なところがある。おまけに口下手ときているから、人に誤解されることも、ままあるのだった。
「なぜ、忿速がよろしくないかおわかりかな?」
鳴海は、首を横に振った。直感的には良くないことがわかるのだが、その理由が思い浮かばなかった。
「短気で怒りやすい指揮官は、己の激情の為に心の平衡を見失い、部下の信頼をも失う。その性格を利用されて敵の術中に嵌まりかねない、ということです」
平助の説明に、鳴海は吐息を漏らした。自分も、丹波のことをとやかくは言えない。
「ですが、怒りは人の自然な情でありましょう」
「その通り。さりとて、それを直ちに表に出さず、常に自制できる器を大将や物頭は備えるべきと山鹿流では考えます」
「なるほど……」
山鹿流の教えに従うならば、身近な人物では与兵衛がそうだ。日頃穏やかな印象があるが、鳴海も与兵衛に叱られることがある。決して怒りの感情を持っていないわけではない。また、年若の頃は息子の志摩を怒鳴りつけているのを見たこともあるから、与兵衛はうまくその仮面を使い分けているのだろう。
「激情を抑える方法はあるのでしょうか」
「まずは己が怒っていることを、素早く自覚する。その上で、その怒りを目の前の者にぶつけた場合、どのような事態になるか判断せよ、ということです。相手次第では事態を拗らせることもあれば、逆にその怒りを利用し、自分の意のままにに事を動かせる場合もある」
平助の言うことは、至極理に適っている。鳴海の性格は一朝一夕で変わるものではなかろうが、己の性を制するように、常々心掛けよということだ。
そこまで考えると、四つ目の条件の方が、むしろ鳴海が自制するのが難しいかもしれない。
「廉潔は辱めらるべきなり……」
清廉潔白さは、日頃より二本松の道徳規範として叩き込まれる。だが、頭では分かっていても、それを完璧に守り抜ける人間など、そうそういるものではない。
清廉潔白を信条とする指揮官は、概ね几帳面であり、名誉を保つ心が先行する。誇りが高いとも言えるが、万が一誇りを傷つけられると我慢がならずに、敵の挑発に乗ってしまい、無能な指揮官としての汚名を受けることになる。平助はそのように補足した。
「こちらは、和左衛門殿など危ないのではございませぬか、兄者」
再びの十右衛門の問にも、平助はちらりと苦笑を浮かべただけだった。たとえ兄弟が相手と言えども、立場上、人の評判に関わる言葉は口にしないことにしているのだろう。
だが、十右衛門の言葉はその通りである。息子の新十郎も、その危うさを指摘していたではないか。将たる者、清濁を併せ呑む柔軟な価値観が求められる、ということだ。
そして、意外だったのが五つ目だ。
「愛民は煩わさるべきなり……」
この言葉の意味は、よくわからなかった。つまり、部下を愛するな、ということだろうか。
鳴海の戸惑いを察したように、平助は説明を補足した。
「部下を信頼して愛情を注ぐのは、将として当然のこと。だが、そのことのみに因われて厳しい作戦を展開できないようなことがあってはならない。そういうことです」
この言葉は、今の鳴海にはよくわからない。そもそも、大阪の役以来、二本松藩はもちろんのこと、日本の多くの藩が戦をしたことがないからだ。
「敵方に優れた間(諜報員)がいれば、こちらの将の性格も把握していると見て良い。その性格が間を通じて敵方に伝えられれば、必ずや利用しようとするでしょう。戦に勝つためには、どのような手段を用いても勝たねばなりませぬ。それこそが社稷を守る術であり、道義を説いている場合ではないと、心得られよ」
そう言い切った平助の顔には、微かに影が浮かんでいた。
平助の言葉に、背筋に戦慄が走った。儒教的な教えも含んでいるとは言え、確かに山鹿流は兵法に違いない。勝つためには、どのような手段を使ってでも勝たなければならない。たとえ、部下を死なせるような事態になったとしても、だ。戦場で自分が指揮官になった場合に、そこまで冷静になれるだろうか。
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