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第一章 義士
北条谷談義(1)
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先に、和左衛門の目と鼻の先で「新十郎に小川平助を紹介してもらう」と述べたからには、その言葉を守らなければならない。鳴海は、敬学館で教鞭を取っている小川を訪ねることにした。
安達太良山からの爽やかな秋風が吹き抜ける中、鳴海は学館に足を運んだ。多くの藩の子弟が出席し、「子曰わく」と声を張り上げる儒学の部屋の前を通り過ぎると、学館の片隅にある兵法の教授部屋に辿り着く。まだ暑気が残る季節だからか、部屋の襖は開け放たれていた。この部屋には数人の若者がいて、何やら熱心に討論していた。授業の邪魔にならないように、ひんやりとした廊下に正座し、鳴海はその討論に耳を傾けた。
「それでは四郎。侍大将や物頭奉行に申し付けるべき人品を述べてみよ」
廊下まで、平助の落ち着いた声が漏れ聞こえてきた。
「ええと……。一つは、優れて勇者に生まれついた侍。次に、知恵や才覚のある侍。温和であり慈愛のある侍、でしょうか」
答えたのは、元家老の嫡子である浅見四郎だろう。
それだけではあるまい、と廊下で授業の終わりを待っていた鳴海は、胸の内で呟いた。それらに加えて、真実深き侍、忠節忠孝の侍。平助の父、長充からそのような教えを習った覚えがある。
「よろしい。又一、逆に侍大将や物頭に申し付けるべきでない人品とは?」
「はい。我を通そうとし、血の気が多く、勝負の善悪を知らない侍のこと。邪な知恵が多く、軽薄な侍のこと。油断が多くて気が弱く、人に任せがちな侍のこと。武辺は場数があってのものとは言え、道理を知らず義を正さずしてよく考えない侍のこと。邪欲の深い侍のこと。大将たる者、日頃よりこれらの道理をわきまえねばなりませぬ」
「よし」
爽やかに答えた小川又一が、廊下に座っていた鳴海と視線が合い、目礼した。師範の平助とは、遠い親戚筋にあたる家の子である。鳴海も、又一に対して軽く肯いた。
それが合図だったかのように、七つ時の版木が鳴らされた。本日の講義の終わりである。生徒らが「ありがとうございました」と平助に挨拶をし、ぞろぞろと廊下へ出てきた。更に鳴海にも頭を下げていく。
「気をつけて帰るのだぞ」
「はい」
ありきたりな教師と生徒のやり取りを、鳴海は静かに見送った。いずれは鳴海も、これらの子供たちの顔を覚えていかなければならないのだろう。番頭の職務の一つには、学館の見回りも含まれている。儒学の授業で言えば、月に三回ある二の日の講釈日には番頭も臨席することがあるし、武芸所の監督も、各番の番頭が交代で行う。それらの見分を経て子弟の中から優秀な者を選抜し、上役に報告して召し出しにつなげるのも、平時の番頭の仕事だった。
「鳴海殿。話は新十郎殿から伺っております」
生徒たちが部屋から完全に出ていったのを確認して、平助がゆったりと笑った。
「かたじけない。まさか彦十郎家を継ぐことになるとは思わなかったもので」
和左衛門親子の対立に危うく巻き込まれそうになった鳴海だが、兵法学者である平助の教えを請いたいのも、また確かである。彦十郎家の慣習として、鳴海自身も小川家の家塾に通って山鹿流兵法を習ったことはあったが、何分、昔の話である。さらに、現在の当主である小川平助藤延は、三浦家の出身で入婿のため、鳴海が小川家に出入りしていた頃は親しく交わることはなかったのである。鳴海も、平助の人柄には興味があった。
「縫殿助殿のことは残念でしたが、鳴海殿ならば万事間違いないでしょう」
平助にそう言われても、番頭になることへの一抹の不安は拭えない。武事に関してはいずれの方面も自信があるが、兵全体を動かす立場となると、また話は別だ。番頭は、兵全体に目配りをして、士卒・兵卒らの心を理解・掌握しなければならない。鳴海は、それが苦手だった。藤田の件は、それを思い知らされた事件でもあった。山鹿流兵法には、将として人心を統べる術も含まれていることもあり、改めて山鹿流を学び直そうと思ったのである。自分の欠点を自分で矯正するのは難しく、他人に自分の欠点を洗い出してもらったほうが良い。それを告げると、平助は口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「よろしければ、北条谷の我が家へお越しくださいませ」
北条谷は、二本松の郊外にある谷間である。丹羽家の入植以来、代々小川家がその一帯の土地を所有してきた。この辺りの奥には、斎藤家や木村家などの砲術家が居を構え、道場を開いて弟子を取っている。そのため、時折タアン、タアンと小銃の音が聞こえてきた。
二本松藩と山鹿流の関わりは古い。初代光重公が存命の頃、会津藩出身の山鹿素行が、甲州流兵法を大成させた。もっとも、多分に朱子学批判の要素も含む学問であり、時の幕府の方針に逆らうものとして、執政であった保科正之に睨まれたこともある。だが、その学問はあまねく知られるようになり、二本松藩では光重公が素行から直々に兵法を学んだ他、小川家の初代である藤興が素行の直弟子として薫陶を受けた。その後、幕府の方針に倣って蘭流の兵法なども取り入れたものの、山鹿流は今でも二本松藩の兵制の根幹を為している。
鳴海が訪れたその日、小川家の居間にはもう一人、客人の姿があった。
「お主も来ておったのか」
相手の姿を認めて、鳴海はやや寛いだ様子を見せた。客人は、鳴海もよく知る三浦十右衛門だった。鳴海と同い年であり、平助の実の弟でもある。
十右衛門は、藩内でも指折りの砲術の専門家だ。二本松が安政年間に洋術を取り入れた際に江戸に赴き、既に所持していた武衛流の免許の他に、最先端の高島流の砲術免許も取得している。
「兄者から、我が藩が戦場に送られたときに、どの者を大砲操作の指揮役にすべきか、相談されていたところだ」
十右衛門も、さらりと答えた。平助は生徒へ教授するばかりでなく、万が一二本松藩が戦場に立ったときに備えて、自らも研究を怠っていないらしい。
鳴海の来訪を受けて、十右衛門は席を立とうとしたが、平助はそれを押し留めた。見知った仲ならば、そこまで遠慮することはあるまい、ということである。鳴海にも、異存はない。
「それでは、鳴海殿。先日、生徒らに教えていた話の続きからでもよろしいですかな」
平助が、やや真面目な顔つきになった。自然と鳴海の背筋も伸びる。
「鳴海殿は、将軍や物頭が陥りやすい五つの危険な兆候を、覚えていらっしゃいますか?」
はて、そんな教えがあっただろうか。どうやら、学館では教えない実践編の知識を、鳴海に教えてくれようとしているらしい。
安達太良山からの爽やかな秋風が吹き抜ける中、鳴海は学館に足を運んだ。多くの藩の子弟が出席し、「子曰わく」と声を張り上げる儒学の部屋の前を通り過ぎると、学館の片隅にある兵法の教授部屋に辿り着く。まだ暑気が残る季節だからか、部屋の襖は開け放たれていた。この部屋には数人の若者がいて、何やら熱心に討論していた。授業の邪魔にならないように、ひんやりとした廊下に正座し、鳴海はその討論に耳を傾けた。
「それでは四郎。侍大将や物頭奉行に申し付けるべき人品を述べてみよ」
廊下まで、平助の落ち着いた声が漏れ聞こえてきた。
「ええと……。一つは、優れて勇者に生まれついた侍。次に、知恵や才覚のある侍。温和であり慈愛のある侍、でしょうか」
答えたのは、元家老の嫡子である浅見四郎だろう。
それだけではあるまい、と廊下で授業の終わりを待っていた鳴海は、胸の内で呟いた。それらに加えて、真実深き侍、忠節忠孝の侍。平助の父、長充からそのような教えを習った覚えがある。
「よろしい。又一、逆に侍大将や物頭に申し付けるべきでない人品とは?」
「はい。我を通そうとし、血の気が多く、勝負の善悪を知らない侍のこと。邪な知恵が多く、軽薄な侍のこと。油断が多くて気が弱く、人に任せがちな侍のこと。武辺は場数があってのものとは言え、道理を知らず義を正さずしてよく考えない侍のこと。邪欲の深い侍のこと。大将たる者、日頃よりこれらの道理をわきまえねばなりませぬ」
「よし」
爽やかに答えた小川又一が、廊下に座っていた鳴海と視線が合い、目礼した。師範の平助とは、遠い親戚筋にあたる家の子である。鳴海も、又一に対して軽く肯いた。
それが合図だったかのように、七つ時の版木が鳴らされた。本日の講義の終わりである。生徒らが「ありがとうございました」と平助に挨拶をし、ぞろぞろと廊下へ出てきた。更に鳴海にも頭を下げていく。
「気をつけて帰るのだぞ」
「はい」
ありきたりな教師と生徒のやり取りを、鳴海は静かに見送った。いずれは鳴海も、これらの子供たちの顔を覚えていかなければならないのだろう。番頭の職務の一つには、学館の見回りも含まれている。儒学の授業で言えば、月に三回ある二の日の講釈日には番頭も臨席することがあるし、武芸所の監督も、各番の番頭が交代で行う。それらの見分を経て子弟の中から優秀な者を選抜し、上役に報告して召し出しにつなげるのも、平時の番頭の仕事だった。
「鳴海殿。話は新十郎殿から伺っております」
生徒たちが部屋から完全に出ていったのを確認して、平助がゆったりと笑った。
「かたじけない。まさか彦十郎家を継ぐことになるとは思わなかったもので」
和左衛門親子の対立に危うく巻き込まれそうになった鳴海だが、兵法学者である平助の教えを請いたいのも、また確かである。彦十郎家の慣習として、鳴海自身も小川家の家塾に通って山鹿流兵法を習ったことはあったが、何分、昔の話である。さらに、現在の当主である小川平助藤延は、三浦家の出身で入婿のため、鳴海が小川家に出入りしていた頃は親しく交わることはなかったのである。鳴海も、平助の人柄には興味があった。
「縫殿助殿のことは残念でしたが、鳴海殿ならば万事間違いないでしょう」
平助にそう言われても、番頭になることへの一抹の不安は拭えない。武事に関してはいずれの方面も自信があるが、兵全体を動かす立場となると、また話は別だ。番頭は、兵全体に目配りをして、士卒・兵卒らの心を理解・掌握しなければならない。鳴海は、それが苦手だった。藤田の件は、それを思い知らされた事件でもあった。山鹿流兵法には、将として人心を統べる術も含まれていることもあり、改めて山鹿流を学び直そうと思ったのである。自分の欠点を自分で矯正するのは難しく、他人に自分の欠点を洗い出してもらったほうが良い。それを告げると、平助は口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「よろしければ、北条谷の我が家へお越しくださいませ」
北条谷は、二本松の郊外にある谷間である。丹羽家の入植以来、代々小川家がその一帯の土地を所有してきた。この辺りの奥には、斎藤家や木村家などの砲術家が居を構え、道場を開いて弟子を取っている。そのため、時折タアン、タアンと小銃の音が聞こえてきた。
二本松藩と山鹿流の関わりは古い。初代光重公が存命の頃、会津藩出身の山鹿素行が、甲州流兵法を大成させた。もっとも、多分に朱子学批判の要素も含む学問であり、時の幕府の方針に逆らうものとして、執政であった保科正之に睨まれたこともある。だが、その学問はあまねく知られるようになり、二本松藩では光重公が素行から直々に兵法を学んだ他、小川家の初代である藤興が素行の直弟子として薫陶を受けた。その後、幕府の方針に倣って蘭流の兵法なども取り入れたものの、山鹿流は今でも二本松藩の兵制の根幹を為している。
鳴海が訪れたその日、小川家の居間にはもう一人、客人の姿があった。
「お主も来ておったのか」
相手の姿を認めて、鳴海はやや寛いだ様子を見せた。客人は、鳴海もよく知る三浦十右衛門だった。鳴海と同い年であり、平助の実の弟でもある。
十右衛門は、藩内でも指折りの砲術の専門家だ。二本松が安政年間に洋術を取り入れた際に江戸に赴き、既に所持していた武衛流の免許の他に、最先端の高島流の砲術免許も取得している。
「兄者から、我が藩が戦場に送られたときに、どの者を大砲操作の指揮役にすべきか、相談されていたところだ」
十右衛門も、さらりと答えた。平助は生徒へ教授するばかりでなく、万が一二本松藩が戦場に立ったときに備えて、自らも研究を怠っていないらしい。
鳴海の来訪を受けて、十右衛門は席を立とうとしたが、平助はそれを押し留めた。見知った仲ならば、そこまで遠慮することはあるまい、ということである。鳴海にも、異存はない。
「それでは、鳴海殿。先日、生徒らに教えていた話の続きからでもよろしいですかな」
平助が、やや真面目な顔つきになった。自然と鳴海の背筋も伸びる。
「鳴海殿は、将軍や物頭が陥りやすい五つの危険な兆候を、覚えていらっしゃいますか?」
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