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第一章 義士
脱藩者(3)
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「これはこれは。二本松藩の方々ですな。高位の方々が自らお出迎えとは、恐れ入りました」
男は、ゆったりと笑ってみせた。こちらを挑発しているとも揶揄しているとも、取れた。
「その寺の内にいる者は、我が藩の罪人。三浦殿、こちらへお引渡し願おう」
鳴海は、凄んでみせた。二本松藩内の者であれば、この鳴海の迫力に大抵押されてしまう。だが、この男は落ち着いた素振りで、軽く片頬を歪めただけだった。鳴海の「三浦殿」という呼びかけを否定しないところを見ると、どうやら新十郎の見立ては正しかったらしい。
「これは、二本松藩の御方の言葉とも思えませぬな。我が藩と二本松藩は、隣同士。守山の決まりを知らぬ訳ではございますまい、大谷鳴海殿」
今度は、鳴海が眉を上げる番だった。鳴海が詰番に昇格したのは、つい先日のことである。それまで広間番の平身分に過ぎなかった鳴海の名を知っているということは、二本松藩の人事や家柄について、この三浦平八郎はかねてから調べをつけていたのだろう。そのことも、三浦が老獪な者であることを匂わせていた。
「欠け入り寺の制度が適用されるのは、守山の領民に限られるのではありませぬか。二本松の者には関係のないことのはず。よって、こちらへお引渡し願いたい」
新十郎も、口下手な鳴海に代わって説得にかかる。だが、そんな新十郎のことをも、平八郎は軽くいなした。
「ここはあくまでも守山領。守山には守山の決まりがあります。寺の者が引き渡しを拒んでいる以上、守山の役人である我々ですら手出しは致しかねる」
「何っ!」
思わず刀の柄に手を掛けた鳴海を、新十郎が押し留めた。さすがに、隣藩の上役と斬り合いになってはまずい。だが、二本松藩が虚仮にされたのも同然であった。平静を装っているが、新十郎の目にも怒りの色が浮かんでいる。
ふと、寺の伽藍の方から視線を感じた。あそこに、芳之助は潜んでいるに違いない。鳴海は新十郎に肯き、三浦に構わず伽藍の建物に近づいた。
「芳之助、後生である。なぜ、このような真似をしたか、申し開いてみよ」
やはり芳之助の気配を感じ取ったか、新十郎が境内の奥に向かって呼びかけた。それは、鳴海も疑問であった。脱藩が重罪であるのは、芳之助も承知しているだろう。
「……旧弊に守られてきたお主らには、分かるまい」
聞き覚えのある声が、聞こえてきた。その声からは、特に敵愾心は感じられない。それが意外であり、また、芳之助の覚悟の程が伺える。鳴海は思わず新十郎と顔を見合わせた。
「知っての通り、我が祖父は丹羽貴明様に重用され、一時は二〇〇石まで上り詰めた。だが、その次の富訓様の代になってからは、周りの旧臣らの目を恐れ、我が父は永暇を出された。たとえ剣豪だ何だと持ち上げられても、他所からの流れ者はいつまで経っても余所者扱い。それがどれほど屈辱的なことか、お主らに分かるか」
痛いところを突かれた。鳴海は咄嗟に視線を下に向けた。鳴海自身は初代から丹羽家の古参として仕えてきた彦十郎家の出であり、隣にいる新十郎も、その実家である石見家はやはり代々の重臣である。二人共、新参者の心中について、よく通じているとは言い難い。さらに、芳之助は言葉を続けた。
「わが祖父は、剣の道を究めるために相馬中村の地を十七で出て、水戸や江戸、上州を渡り歩いた。その祖父の再来と言われた私が、国難に見舞われていようとしているこのときに、どうして二本松の鄙の地で安穏としていられようか」
二本松を鄙の地、と言い切った芳之助に対し、今度は新十郎が気色ばんだ。だが、二本松が鄙の地であるのは紛れもない事実である。
「国難とは、異人らがやってきたことか」
鳴海は、声が震えるのを押さえて、問い返した。
「痴れたこと。異人どもは、我が国よりも先に支那の地を我が者顔でのし歩き、無体を働いているというではないか。無秩序に異人らをこの国に招き入れれれば、我が国は同じように蹂躙される。幕府に諂い、己の保身しか考えていない丹波様らは、国体の危機が我が事として感じられていないだろう。それよりも我が剣技を磨き、子弟にその剣技を伝えた方がよほど二本松のためになろうというもの。私は、かねてより鳴海殿にもそう申し上げてきたはずだ」
芳之助の言葉に、新十郎が鳴海に顔を向けた。知っていたのか、と言いたげである。鳴海はそれを、目頭で押さえた。詳細については、丹波の意向もあり、簡単には語れない。
それにしても、芳之助がここまで攘夷について饒舌に語るのは、何度か剣を交えたことのある鳴海も初めて聞いた。だが、その過程において芳之助が見えていないものがある。
「お主は勘違いしていないか」
怒りを滲ませながらも淡々と語る鳴海の言葉に、寺の向こうにいる芳之助が息を呑む気配が伝わってきた。
「我々が守るべきは、まずは公であり二本松の国土。今の二本松の封土は、我が祖先らが艱難の果てにようやく得た物だ。それらを蹂躙する者は、何人であろうと許さぬ。たとえ御三家の方であろうとも、だ」
隣で、新十郎が息を吐き出すのがわかった。鳴海の言葉は、水戸藩の重職に真っ向から喧嘩を売ったとも捉えられかねない。さて、三浦平八郎はどう出るか。
「大谷鳴海殿と申されたな」
平八郎は、やはり傲岸不遜な笑みを崩さないまま、改めて問い質した。
「お言葉、ごもっともでござる。だが、守山には守山の立場というものがある。ここは一つ、守山の顔を立ててはもらえぬか」
鳴海は是とも否とも答えずに、じろりと平八郎の顔を睨めつけた。
「藤田殿のお身内の処分は、貴藩に任せる。だが、藤田殿の身はご本人の希望されるように、拙者の水戸藩の知己に預けたい。水戸は烈公の御遺訓で、固陋に捕らわれることなく才ある者を寛く集める藩風ゆえな」
うっすらと口元に笑みを浮かべながら、平八郎が弁じた。
「その知己の名をお教え願おう」
相手のペースに巻き込まれまいと、鳴海は冷静さを装いながら言葉をつなげた。鳴海の胸中を知ってか知らずか、平八郎はその名を告げた。
「水戸から少し行ったところの野口郷に、時雍館という郷校がある。その館長の猿田愿蔵というのが、若いが気骨のある人物だ。猿田の内弟子にするということで藤田殿の身柄を預かりたいと思うが、如何か」
鳴海は、再び新十郎と顔を見合わせた。新十郎が、黙って首を振った。どうやら、彼も水戸藩の内情までは知らないらしい。
続けて、平八郎は猿田の略歴を説明してくれた。年は十九とまだ若いが、幼少の頃から水戸城下の塾に通い、水戸藩の重鎮、藤田東湖の息子である小四郎と鎬を削る天才肌だという。剣の腕も抜群であり、また、上京して昌平黌にも通っていた経歴を持つなど、学問にも明るい。野口村以外からも、彼の人柄を慕って遠く下野からも富農や郷士の子弟で、時雍館への入学を希望する者が押しかけているのだという。ただし猿田当人も年若で血気に逸る部分があり、また雑多な身分の者らが集っているため、郷校運営のための手助けがいる。もう少し落ち着きのある、分別を備えた補佐役を探していたというのだ。
二本松を出ていこうとする者に対し、掛ける情けは不要だろう。だが、守山藩を通じて水戸に口出しされては、二本松の立場が危うくなる。
しばし熟考した上で、鳴海は決断を下した。
「その旨、我が主にお伝え申す」
三浦は、あからさまにほっとした様子だった。ただし、と鳴海は付け加えた。
「二本松を出ていくからには、藤田が二度と二本松領内に足を踏み入れることは罷りならぬ。良いな」
その言葉に、平八郎が顔を顰めた。たかが脱藩でそこまで言わなくとも、という顔である。だが鳴海にしてみれば、それくらいは当然のけじめだった。
くるりと馬首を西に向け、鳴海と新十郎は再び阿武隈川の方へ向かった。
男は、ゆったりと笑ってみせた。こちらを挑発しているとも揶揄しているとも、取れた。
「その寺の内にいる者は、我が藩の罪人。三浦殿、こちらへお引渡し願おう」
鳴海は、凄んでみせた。二本松藩内の者であれば、この鳴海の迫力に大抵押されてしまう。だが、この男は落ち着いた素振りで、軽く片頬を歪めただけだった。鳴海の「三浦殿」という呼びかけを否定しないところを見ると、どうやら新十郎の見立ては正しかったらしい。
「これは、二本松藩の御方の言葉とも思えませぬな。我が藩と二本松藩は、隣同士。守山の決まりを知らぬ訳ではございますまい、大谷鳴海殿」
今度は、鳴海が眉を上げる番だった。鳴海が詰番に昇格したのは、つい先日のことである。それまで広間番の平身分に過ぎなかった鳴海の名を知っているということは、二本松藩の人事や家柄について、この三浦平八郎はかねてから調べをつけていたのだろう。そのことも、三浦が老獪な者であることを匂わせていた。
「欠け入り寺の制度が適用されるのは、守山の領民に限られるのではありませぬか。二本松の者には関係のないことのはず。よって、こちらへお引渡し願いたい」
新十郎も、口下手な鳴海に代わって説得にかかる。だが、そんな新十郎のことをも、平八郎は軽くいなした。
「ここはあくまでも守山領。守山には守山の決まりがあります。寺の者が引き渡しを拒んでいる以上、守山の役人である我々ですら手出しは致しかねる」
「何っ!」
思わず刀の柄に手を掛けた鳴海を、新十郎が押し留めた。さすがに、隣藩の上役と斬り合いになってはまずい。だが、二本松藩が虚仮にされたのも同然であった。平静を装っているが、新十郎の目にも怒りの色が浮かんでいる。
ふと、寺の伽藍の方から視線を感じた。あそこに、芳之助は潜んでいるに違いない。鳴海は新十郎に肯き、三浦に構わず伽藍の建物に近づいた。
「芳之助、後生である。なぜ、このような真似をしたか、申し開いてみよ」
やはり芳之助の気配を感じ取ったか、新十郎が境内の奥に向かって呼びかけた。それは、鳴海も疑問であった。脱藩が重罪であるのは、芳之助も承知しているだろう。
「……旧弊に守られてきたお主らには、分かるまい」
聞き覚えのある声が、聞こえてきた。その声からは、特に敵愾心は感じられない。それが意外であり、また、芳之助の覚悟の程が伺える。鳴海は思わず新十郎と顔を見合わせた。
「知っての通り、我が祖父は丹羽貴明様に重用され、一時は二〇〇石まで上り詰めた。だが、その次の富訓様の代になってからは、周りの旧臣らの目を恐れ、我が父は永暇を出された。たとえ剣豪だ何だと持ち上げられても、他所からの流れ者はいつまで経っても余所者扱い。それがどれほど屈辱的なことか、お主らに分かるか」
痛いところを突かれた。鳴海は咄嗟に視線を下に向けた。鳴海自身は初代から丹羽家の古参として仕えてきた彦十郎家の出であり、隣にいる新十郎も、その実家である石見家はやはり代々の重臣である。二人共、新参者の心中について、よく通じているとは言い難い。さらに、芳之助は言葉を続けた。
「わが祖父は、剣の道を究めるために相馬中村の地を十七で出て、水戸や江戸、上州を渡り歩いた。その祖父の再来と言われた私が、国難に見舞われていようとしているこのときに、どうして二本松の鄙の地で安穏としていられようか」
二本松を鄙の地、と言い切った芳之助に対し、今度は新十郎が気色ばんだ。だが、二本松が鄙の地であるのは紛れもない事実である。
「国難とは、異人らがやってきたことか」
鳴海は、声が震えるのを押さえて、問い返した。
「痴れたこと。異人どもは、我が国よりも先に支那の地を我が者顔でのし歩き、無体を働いているというではないか。無秩序に異人らをこの国に招き入れれれば、我が国は同じように蹂躙される。幕府に諂い、己の保身しか考えていない丹波様らは、国体の危機が我が事として感じられていないだろう。それよりも我が剣技を磨き、子弟にその剣技を伝えた方がよほど二本松のためになろうというもの。私は、かねてより鳴海殿にもそう申し上げてきたはずだ」
芳之助の言葉に、新十郎が鳴海に顔を向けた。知っていたのか、と言いたげである。鳴海はそれを、目頭で押さえた。詳細については、丹波の意向もあり、簡単には語れない。
それにしても、芳之助がここまで攘夷について饒舌に語るのは、何度か剣を交えたことのある鳴海も初めて聞いた。だが、その過程において芳之助が見えていないものがある。
「お主は勘違いしていないか」
怒りを滲ませながらも淡々と語る鳴海の言葉に、寺の向こうにいる芳之助が息を呑む気配が伝わってきた。
「我々が守るべきは、まずは公であり二本松の国土。今の二本松の封土は、我が祖先らが艱難の果てにようやく得た物だ。それらを蹂躙する者は、何人であろうと許さぬ。たとえ御三家の方であろうとも、だ」
隣で、新十郎が息を吐き出すのがわかった。鳴海の言葉は、水戸藩の重職に真っ向から喧嘩を売ったとも捉えられかねない。さて、三浦平八郎はどう出るか。
「大谷鳴海殿と申されたな」
平八郎は、やはり傲岸不遜な笑みを崩さないまま、改めて問い質した。
「お言葉、ごもっともでござる。だが、守山には守山の立場というものがある。ここは一つ、守山の顔を立ててはもらえぬか」
鳴海は是とも否とも答えずに、じろりと平八郎の顔を睨めつけた。
「藤田殿のお身内の処分は、貴藩に任せる。だが、藤田殿の身はご本人の希望されるように、拙者の水戸藩の知己に預けたい。水戸は烈公の御遺訓で、固陋に捕らわれることなく才ある者を寛く集める藩風ゆえな」
うっすらと口元に笑みを浮かべながら、平八郎が弁じた。
「その知己の名をお教え願おう」
相手のペースに巻き込まれまいと、鳴海は冷静さを装いながら言葉をつなげた。鳴海の胸中を知ってか知らずか、平八郎はその名を告げた。
「水戸から少し行ったところの野口郷に、時雍館という郷校がある。その館長の猿田愿蔵というのが、若いが気骨のある人物だ。猿田の内弟子にするということで藤田殿の身柄を預かりたいと思うが、如何か」
鳴海は、再び新十郎と顔を見合わせた。新十郎が、黙って首を振った。どうやら、彼も水戸藩の内情までは知らないらしい。
続けて、平八郎は猿田の略歴を説明してくれた。年は十九とまだ若いが、幼少の頃から水戸城下の塾に通い、水戸藩の重鎮、藤田東湖の息子である小四郎と鎬を削る天才肌だという。剣の腕も抜群であり、また、上京して昌平黌にも通っていた経歴を持つなど、学問にも明るい。野口村以外からも、彼の人柄を慕って遠く下野からも富農や郷士の子弟で、時雍館への入学を希望する者が押しかけているのだという。ただし猿田当人も年若で血気に逸る部分があり、また雑多な身分の者らが集っているため、郷校運営のための手助けがいる。もう少し落ち着きのある、分別を備えた補佐役を探していたというのだ。
二本松を出ていこうとする者に対し、掛ける情けは不要だろう。だが、守山藩を通じて水戸に口出しされては、二本松の立場が危うくなる。
しばし熟考した上で、鳴海は決断を下した。
「その旨、我が主にお伝え申す」
三浦は、あからさまにほっとした様子だった。ただし、と鳴海は付け加えた。
「二本松を出ていくからには、藤田が二度と二本松領内に足を踏み入れることは罷りならぬ。良いな」
その言葉に、平八郎が顔を顰めた。たかが脱藩でそこまで言わなくとも、という顔である。だが鳴海にしてみれば、それくらいは当然のけじめだった。
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