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第一章 義士
改革派の言い分(5)
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翌日、登城すると番頭の間の前で与兵衛に呼び止められた。
「見たか?」
何を指しているかは、明白だった。例の和左衛門に賄賂を贈ろうとした連中の名札である。
「見ました」
鳴海も肯いた。その背後では、志摩が笑いをこらえている気配が感じられる。
「あの圧力は、なかなかのものでしょう」
「志摩」
息子の軽口を、与兵衛が窘めた。だが、その嗜める声にすら笑いが混じっている。
そう言えば、と志摩が思い出したように続けた。
「鳴海殿、新十郎殿と一緒にお帰りになられたのでしょう?連れ立っているお姿を拝見しました」
「見ていたのか」
見られて困る相手ではないのだが、何となく志摩の言葉に引っ掛かるものを感じた。
「新十郎殿も頭の良い御方だから、鳴海殿と話をされてみたかったのでしょうか」
志摩が、ふと考え込む表情をみせた。志摩なりに、藩内の相関関係を分析しようとしているのだろう。殊更口にすることはないが、親戚ということもあり、鳴海が決して武勇ばかりの男ではないことを、与兵衛も志摩も知っている。
「共に我が家で茶を飲んだだけだ」
新十郎との茶室での会談は、鳴海もあまり人には語りたくなかった。背後に尊攘思想の影響があり、それが人の口の端に登ってどのような無責任な噂話に発展するか、分からない。万が一丹波の耳に入ったら、事態が拗れかねないだろう。
「それでよい」
与兵衛も鳴海が語りたがらないのを察したか、軽く肯いてみせた。ついでだからと、話の流れで、和左衛門が指摘していた「参勤交代の制度の変更」に伴う変更についての懸念を、二人にも伝えた。
「確かに、宿場の者や近隣の者らが騒ぐかもしれぬな」
鳴海の言葉に、与兵衛もぐっと眉根を寄せる。
二本松藩は、今年はちょうど参勤の年に当たっている。幕府の法令改正があったとは言え、例の麻疹を警戒して、長国公や公の御家族の帰国はもう少し先延ばしにすると、家老らの間で取り決められていた。藩公が留守の間の国元の乱れは、避けたい。
「先日は大内蔵殿が富津へ向かっていきましたし、国元でも人手が足りないんですよね」
志摩も真面目な顔つきになった。八月に縫殿助が死にかけていたときに、大内蔵は富津の様子を聞くために、彦十郎家に遊びに来たことがあった。あれから一月ほどして、大内蔵は組兵を率いて富津へ旅立っていった。
また、二本松藩内で麻疹が猛威を振るっている頃、江戸近くでも変事があった。横浜近くの生麦村で、イギリス人が薩摩藩主島津久光公の行列を横切ろうとして、斬られたというのである。俗に言う「生麦事件」であるが、イギリスがこれを口実として喧嘩を売ってくる可能性は大いにあった。
二本松国内の情勢に目を転じれば、公の妹姫である照子姫の輿入れが予定されている。照子姫は遠く大垣藩戸田家への輿入れである。公の奥方である久子様の実家と二重に紐帯を結ぼうというわけであるが、その化粧料やら何やらで、二本松藩は何かと出費が嵩んでいるのだった。
「万が一の騒ぎに備えて、うちでも組の者らを特訓しておきましょうか、父上」
志摩は、そう述べた。与兵衛が考え込んでいる様子を伺うに、どうやら本気で志摩の言葉を実行するつもりらしい。少なくとも、国元で有事の控え番だからといって、気を緩めるような与兵衛ではなかった。
「ふむ。それならば、彦十郎家でもそちらへ人をやって、一緒に鍛えてもらうとするか」
鳴海は至極真面目に話しているのに、なにがおかしいのか志摩は口元を緩めた。
「鳴海殿。ご自身が一切手加減出来ないものですから、逃げ出されないようにうちに預けるつもりでしょう。うちの組でも私や父上が号令するよりも、鳴海殿の一喝を怖がる者も多いですし」
「お主、俺を愚弄しているか」
鳴海はむっとして、志摩を睨んだ。
「とんでもない。頼りにしているということですよ」
目元を三日月形に細めた志摩は、とても先日まで麻疹で寝込んでいたというようには見えない。だが、その志摩も性格はなかなかの猛者である。まだ組の者を制御するに至っていないのは、歳が若いからに過ぎないのだろう。
「見たか?」
何を指しているかは、明白だった。例の和左衛門に賄賂を贈ろうとした連中の名札である。
「見ました」
鳴海も肯いた。その背後では、志摩が笑いをこらえている気配が感じられる。
「あの圧力は、なかなかのものでしょう」
「志摩」
息子の軽口を、与兵衛が窘めた。だが、その嗜める声にすら笑いが混じっている。
そう言えば、と志摩が思い出したように続けた。
「鳴海殿、新十郎殿と一緒にお帰りになられたのでしょう?連れ立っているお姿を拝見しました」
「見ていたのか」
見られて困る相手ではないのだが、何となく志摩の言葉に引っ掛かるものを感じた。
「新十郎殿も頭の良い御方だから、鳴海殿と話をされてみたかったのでしょうか」
志摩が、ふと考え込む表情をみせた。志摩なりに、藩内の相関関係を分析しようとしているのだろう。殊更口にすることはないが、親戚ということもあり、鳴海が決して武勇ばかりの男ではないことを、与兵衛も志摩も知っている。
「共に我が家で茶を飲んだだけだ」
新十郎との茶室での会談は、鳴海もあまり人には語りたくなかった。背後に尊攘思想の影響があり、それが人の口の端に登ってどのような無責任な噂話に発展するか、分からない。万が一丹波の耳に入ったら、事態が拗れかねないだろう。
「それでよい」
与兵衛も鳴海が語りたがらないのを察したか、軽く肯いてみせた。ついでだからと、話の流れで、和左衛門が指摘していた「参勤交代の制度の変更」に伴う変更についての懸念を、二人にも伝えた。
「確かに、宿場の者や近隣の者らが騒ぐかもしれぬな」
鳴海の言葉に、与兵衛もぐっと眉根を寄せる。
二本松藩は、今年はちょうど参勤の年に当たっている。幕府の法令改正があったとは言え、例の麻疹を警戒して、長国公や公の御家族の帰国はもう少し先延ばしにすると、家老らの間で取り決められていた。藩公が留守の間の国元の乱れは、避けたい。
「先日は大内蔵殿が富津へ向かっていきましたし、国元でも人手が足りないんですよね」
志摩も真面目な顔つきになった。八月に縫殿助が死にかけていたときに、大内蔵は富津の様子を聞くために、彦十郎家に遊びに来たことがあった。あれから一月ほどして、大内蔵は組兵を率いて富津へ旅立っていった。
また、二本松藩内で麻疹が猛威を振るっている頃、江戸近くでも変事があった。横浜近くの生麦村で、イギリス人が薩摩藩主島津久光公の行列を横切ろうとして、斬られたというのである。俗に言う「生麦事件」であるが、イギリスがこれを口実として喧嘩を売ってくる可能性は大いにあった。
二本松国内の情勢に目を転じれば、公の妹姫である照子姫の輿入れが予定されている。照子姫は遠く大垣藩戸田家への輿入れである。公の奥方である久子様の実家と二重に紐帯を結ぼうというわけであるが、その化粧料やら何やらで、二本松藩は何かと出費が嵩んでいるのだった。
「万が一の騒ぎに備えて、うちでも組の者らを特訓しておきましょうか、父上」
志摩は、そう述べた。与兵衛が考え込んでいる様子を伺うに、どうやら本気で志摩の言葉を実行するつもりらしい。少なくとも、国元で有事の控え番だからといって、気を緩めるような与兵衛ではなかった。
「ふむ。それならば、彦十郎家でもそちらへ人をやって、一緒に鍛えてもらうとするか」
鳴海は至極真面目に話しているのに、なにがおかしいのか志摩は口元を緩めた。
「鳴海殿。ご自身が一切手加減出来ないものですから、逃げ出されないようにうちに預けるつもりでしょう。うちの組でも私や父上が号令するよりも、鳴海殿の一喝を怖がる者も多いですし」
「お主、俺を愚弄しているか」
鳴海はむっとして、志摩を睨んだ。
「とんでもない。頼りにしているということですよ」
目元を三日月形に細めた志摩は、とても先日まで麻疹で寝込んでいたというようには見えない。だが、その志摩も性格はなかなかの猛者である。まだ組の者を制御するに至っていないのは、歳が若いからに過ぎないのだろう。
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