鬼と天狗

篠川翠

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序章

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 久慈くじ川の川面から、冷たい霧が立ち上ってくる。無理もない。もう九月なのだ。常州は二本松より温暖な気候の筈なのだが、それでも、川霧の寒さは防ぎようがなかった。
鳴海なるみ殿、冷えますね」
 部下の大島成渡なりとが、ぶるりと身を震わせた。部下と言っても、鳴海とはほぼ同い年であり、藩校である敬学館けいがくかんでは、共に机を並べた仲だ。
「二本松では、そろそろ稲を刈る時期だからな」
 鳴海は、少し笑ってみせた。部下の手前、内心の恐れを悟られてはならない。鳴海の思いを代弁するかのように、馬がブルルと鼻息を鳴らした。
 現在、鳴海らが布陣しているのは、久慈村だ。聞いたところによると、水戸藩は既に内戦状態にあり、諸村も天狗党と諸生党しょせいの真っ二つに割れて戦っている。二本松藩は、幕命により諸生党の面々と共に、天狗党を征伐するためにこの地にやってきた。鳴海と共に陣を構えている戸祭とまつりは、水戸藩では物頭格の男である。その戸祭はというと、ギラギラと目を輝かせて鳴海の隣に並んでいる。鳴海に負けず劣らず戦闘的な性格と見え、鳴海は密かに苦笑した。
大谷おおや殿。来ましたな」
 戸祭が、久慈川の一点を指した。朝日が昇るにつれて、川霧が徐々に晴れていく。その川霧の中で見えた光景は、二本松藩が押されている光景だった。とどめの渡しで、煙が上がるのが見える。あそこを守っていたのは、六番隊の殿しんがりを務める青山伊記だ。だが、あっさりと敗れたらしく、六番隊本隊の守る竹河原たけかわらへ攻め掛かかろうとしているのが、ここからも見えた。
 与兵衛よへえの率いる六番隊が、苦戦しているのが手に取るようにわかる。
「鳴海様、このままでは父が……」
 側で、大谷右門うもんが震えている。無理もない。六番隊を率いているのは、右門の父なのだ。だが、今鳴海が軽卒な動きを見せれば、散切隊だけでなく、那珂湊なかみなとの方にいる大発勢が攻めてくる可能性がある。
「右門。父君を信じられよ」
 鳴海は、自身の動揺を押し殺し、そう励ますのが精一杯だった。今は、ある男の報告を待っている。そこへやってきたのは、待ちに待っていた旧友だった。
「鳴海殿。湊にいる大発勢には、宇都宮勢が差し向けられた。この分であれば、湊の大発勢は、動けまい。散切の輩に大発勢は合流しないと見た」
 知らせを持ってきた三浦十右衛門は、そう告げた。
「そうか」
 鳴海は、少し考えた。苦戦してはいるが、与兵衛らは全滅するまで闘うことはするまい。また、少しでも余力を残したい散切隊も、それは同じである。散切隊が引き上げてくるとすれば――。
「今のうちに、石名坂へ向かう」
 鳴海は、素早く命令を下した。攻めるならば、坂の上からの方が有利。そう考えての決断である。夜戦にもつれ込むと兵の動きが読みづらくなるから、日が落ちる前に決着させなければならない。
 五番隊は方向を転じ、石名坂の上に布陣した。その坂の下には、既に散切隊の兵らが押し寄せている。
「鳴海殿。あの畑の中に、塚がござる。塚の影に、我が手勢を配して突撃させよう。鳴海殿らは、坂の上からの援護を頼む」
 物頭である水野九右衛門が、土地の地図を指した。九右衛門が率いる足軽隊や士卒らが突撃の役割を引き受け、鳴海に配属された砲撃隊が背後から水野らを援護する。その役回りに、偵察から帰ってきたばかりの十右衛門も肯いてみせた。
「散切隊を散らすだけではなく、大将首を狙うならば、その案が良かろう。砲の指揮は、儂が取る」
 横にいる戸祭にちらりと視線を投げかけると、彼も賛同の意を示した。
「坂の上とあらば、こちらが有利。我が隊が、搦手を受け持つ」
 狙うは、散切隊の田中愿蔵らの首だ。
「任せる」
 鳴海は、九右衛門に下知した。
「戦場で槍を振るうは、武者の夢。我らも九右衛門らと共に行って参ります」
 小笠原是馬介の勇ましい言葉に、鳴海は口元を上げた。手働衆である是馬介は、本来ならば、侍大将である鳴海の身を警固しなければならない役回りである。だが、槍術の達人でもあり、名を挙げてやろうという心意気に違いない。
「武名を上げて来られよ」
 鳴海の激励に、小笠原は軽く肯くと、くるりと背を向けた。
 やがて、下の方から、わーっと散切隊の者らと思しき喚声が聞こえてきた。あの中には、かの男が混じっているに違いない。
 その雑念を振り払うが如く、鳴海はしばし目を閉じていたが、目を見開いて、大音声を発し、ぱらりと采配を鳴らした。
「者共、かかれ!」
 目の前で、僅かな供回りの者らを残して、部下たちが突撃していく。二年前の鳴海であれば、きっとあの集団の中に混じって、一番槍をつけていたに違いなかった。
 それを思って、鳴海は再び口元に微かな笑みを浮かべた――。
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