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5-7 子供のころから恐れていたもの
しおりを挟む 山賊たちが従うことを約束し、意気揚々と帰るつもりだったのだが、ジェイに肩を掴まれた。
「い、いやいや、ちょっと待ってください。約束ったって口約束ですよ? このまま帰ったら裏切るかもしれないじゃないですか」
「……確かにそうだけど、見張っておくのはもっと難しくないか?」
「人手が足りませんからね。だからこういうときは、何人か人質にとっておくんですよ。女子供を人質にとられたら手を出せませんからね」
「それはちょっと人としてどうかと……」
ジェイの言うことも分かるが、人質というのは気分がよろしくない。相手だって反発するだろうし、そのほうが裏切る可能性は上がるんじゃないだろうか?
なにか良い手をと話し合っていたのだが、特に良い手は思いつかない。減刑してやるだけでは弱いらしい。
ほとほと困った俺は、ちょっとしたハッタリを使うことにした。
集めてもらった特に害の無い、小さな赤い実を山賊たち全員へ飲ませる。
山賊たちが不信がってる中、俺は実を見せながら言った。
「よく見る実だと思っているかもしれないが、それには毒が入っている」
まさか、とほとんどの山賊が鼻で笑っている。
そんな彼らの前に、後ろ手に持っていた青い実を取り出す。
「この実は、俺が加工したものでね。諸君らを眠らせたのも、この実の力だ」
「そんな話を信じると思ってんのかぁ?」
「あぁ、もちろん信じなくていい。そのまま信じず笑っていても困ることはない。……ただ、一応警告しておこう。その赤い実に混入させた毒は、俺の作った薬でしか治すことができない。薬を飲まない限り、必ず三日以内に死ぬ」
いまだ、山賊たちは笑っている。だがそれで構わないと、俺も頷いた。
「では、俺たちは帰らせてもらう。信じるか信じないかは好きに決めてくれ」
広場の中央へ青い実を放り投げ、急ぎその場を立ち去る。眠っている間に何人かの縄を切っておくように見張りへ頼んであるから、程なくして全員解放されるだろう。
うまくいくかは賭けになるが、たかだか30人ほどで、100人以上を管理するのには無理がある。
うまくいきますように、と祈るしかなかった。
カンミータの町で待つこと二日。キン・ベルたちには山賊たちから押収した金を送って誤魔化せていることから、彼らはどうやらこちら側につくことを決めたらしい。……毒を信じただけかもしれないが、それはそれで良いだろう。
再度王都には書状を送っているが、この件では間に合うはずがない。
そう、この件では、だ。
各王位継承者の遣わせた使者が、カンミータの町を訪れたのは昼過ぎの事だった。
「……セス殿下。これは一体どういうことですか?」
「まぁ大したことじゃないよ。種明かしをしに行くとしようか」
十から二十の兵を、十を超える王位継承者が遣わせているのだ。総数は軽く百を超えていた。
彼らが目指す先がどこかなんて考えるまでもない。オリアス砦だ。
少し手間を減らしてやろうと、彼らの元を訪れることにした。
……どうやら話を聞くに、この使者部隊は別々の派閥だが、数が多すぎるので王の命で統率されてはいるらしい。仲が良さそうには見えないので、便宜上、というやつだろう。
自分がセス=カルトフェルンであることを伝えると、すぐにその責任者の元へ案内される。さすがに王位継承者を向かわせるわけにはいかない案件なので、恐らくはそれなりに地位の高い人物が来ているだろう。
案内された先へ入ると、室内は薄暗く、カリカリという音が聞こえている。
暗闇の中から、スッと二人が前に出た。
「セス殿下ですね」
無言で頷くと、男が笑顔を見せる。
「此度の件について、第一王子ファアル=カルトフェルン殿下が使者をまとめる運びとなりました」
「こちらがお預かりしている書状となります」
十数枚の書状の中身はほとんど変わらず、「一度会って話がしたい」というものだった。
そううまくはいかないか、と肩を落としていたのだが、もう一人が部屋の外へ声を掛けると、重い箱が室内に並べられる。
「こちらは、各王位継承者の方々から預かったものとなります。ご確認を」
中身を調べようとしたのだが、エルペルトが制する。代わりにスカーレットが箱の中身を確認し、声を上げた。
「ちょ、なによ! この大金!」
「面白い提案であり、乗りたいという方が多く、話をする前に一部渡しておきたいと申しておりました」
俺からの提案を信じ切ったわけではないが、先に金を渡してしまえば、今さら提案を翻しにくくなる。そう考えてのことだろう。
兄弟姉妹へ送ったのと同じ文面をしたためた紙を取り出し、エルペルトへ渡す。
彼は内容を確認し……肩を震わせながら笑った。
「なるほど、そういうことですか」
「ちょっと父上! あたしにもどういうことか教えてよ!」
「分かりました。要約しますと……『王位に興味無い。できれば手柄も立てず、オリアス砦で一生を終えたい。敵対しないことを約束するから、代わりに継続的な資金援助をしてくれ』という内容です」
「つまり……?」
「金で敵を一人減らせるのであればと、送られて来たのでしょう。なるほど、これで資金問題はセス殿下が死ぬまでの間、解決したということですね」
「なるほどねぇ」
スカーレットはいまいち分かっていなさそうな顔だったが、金が入ることは分かったのだろう。嬉しそうな顔をしていた。
それに対し、無言のまま頷いた俺を見て、エルペルトの顔が曇る。だがすぐに気付いたのだろう。その顔が引き締められる。
暗闇の先にいるもう一人は、ほんの少しだけカーテンを動かし、室内に光を入れた。
「……驚いたよ、セス。君はずっと静かに暮らしていくと思っていたのに、その狡猾さを発揮するとはね」
「……」
「でも、良かったのかい? ずっと隠していたんだろ? それで良いと僕も思っていたし、君もそれが良いと望んでいたはずだ。ファンダルのせいで金が回らなくなったのは分かるが、他に方法があったはずだ。例えば、そう。この町の不祥事なんていうつまらない問題を解決せず、自分も金を吸い上げる立場になれば良かった。そうすれば、兄弟姉妹にバレることなく、静かに暮らせたはずだ」
拳を強く握り、首を横に振る。
ふっと笑う声が聞こえた。
「あぁそうだね、君はそういうやつだったのかもしれない。うん、確かにそうだ。うまく隠していたから気付かなかったが、正義感の強いやつだったのだろう。……いいんじゃないかな? 僕は嫌いじゃないよ?」
一人で一方的に喋り続けるところは変わらない。
幼いころに言っていたが、人に話しながら思考を整理する癖があるらしい。
彼が、一体どれほどのことを考えているのかは分からない。だが、闇のように黒い髪と目に気圧される。瞬き一つしない穴のような目は、こちらの心の中まで見透かしているようだった。
「だから、ね。弟の躍進を祝福し、キン・ベルたちは処分しておいた。余計な手間が省けて嬉しいだろう? これから協力を申し出て、うまいこと倒さなければならなかった相手が、もういないんだ。あぁでも、山賊たちには手を出していないよ。どうせ、減刑でも約束してやったんだろう? 重労働を数年課すが、その後は見逃してやるよ」
話に頭が追い付かない。爪をカリカリと噛んでいる音だけが、耳に残る。
色々考えてやっているつもりだったが、全ては手の内だった。お前が生き残るため引き篭もっていたことも知っている。なにもかも、全て、分かっている。そう伝えられることは、心臓を握られている様に似ていた。
息が荒い。短い呼吸を制御できずにいると、彼は立ち上がり、親指の爪がボロボロになった手で、俺の頬に触れた。
「お前は子供のころからなにかを恐れていたね。一体、なにを恐れているんだい? いい加減、兄さんに話してごらんよ。君が敵じゃないのであれば、僕に害を為さないのであれば、力になってやるよ」
すぐ目の前に、光の無い黒い瞳がある。俺は目を逸らすことも、声を出すこともできなかった。
第三王子ティグリスは、見る人を威圧する恐ろしい武人だ。
第二王女シュティーアは、賢く冷たい女性で、ナイフのような鋭利さを持った女性だ。
しかし、幼いころからずっと、その二人よりも恐ろしかった人がいる。
――第一王子ファアル=カルトフェルン。俺より十歳上の彼は、他の人には無い底知れぬなにかを秘めており、凡そ同じ生物とは思えぬ存在だった。
グイッと体が後ろに引っ張られる。
俺を下がらせてくれたスカーレットの顔は青く、手は震えていた。
「……スカーレット=アルマーニ。先代剣聖の娘、か。セスの護衛をしてくれているんだったね。ありがとう。でも今は、下がっていてもらおうか。これは僕たち兄弟の話し合いだ」
「ざっけんじゃないわよ! こ、こんなに弟を怯えさせておいて、大人しくすっこんでいられるわけがないでしょ!」
「だから、その理由を聞こうとしているんじゃないか。僕は、セスに危害を加えたことは無い。だが、常に彼は恐れている。僕だけじゃなく、他にも色々とだ。兄として、それを解決しようとするのは自然なことだろう?」
パンッと音が響く。
全員が目を向けた先には、エルペルトの姿があった。
「ファアル殿下、口を挟ませていただいても?」
「あぁ、もちろんだ。君の意見も聞かせてもらおうか」
「ありがとうございます。……これは私の見た限りですが、セス殿下は少しずつ変わっておられます。直に、今の状態も克服されるでしょう」
「ふむ。つまり、僕に余計なことをするなと?」
「変わろうとしていなかったころとは違います。今しばらく見守ることも、兄としての務めかと」
静かに、ファアル殿下は扉へ向かって歩き出した。
「うん、分かった。今回は引いておこう。どうせ時間切れだからね。王都に戻らないと、仕事がたくさん残っているんだ。あぁ本当に嫌になる。可愛い弟と話す時間も作れないなんて、自分の無能さが恥ずかしいよ。……セス。困ったことがあったら、いつでも連絡をするといい。僕は、君たちが敵にならない限り、全員の兄で、味方だよ」
パタリと、扉が閉じられる。酸素を取り込もうと、肺が大きく動いた。
「ぶはぁっ……ぜっ……ぜっ……n」
「な、なによあれ。ティグリスなんて目じゃないわよ? お付き二人も只者じゃないし!」
「剣を抜かなかったのは成長したところでしょうね。もしスカーレットが剣を抜いていれば、セス殿下以外は死んでいたでしょう」
その言葉にギョッとする。相手が手練れだったとはいえ、先代の剣聖を有しているこちらが、あの三人に負けていたというのだから。
「……セスは逃がせる自信があったってこと?」
「私があの二人を同時に相手取れば、ファアル殿下が自由になります。しかし、ファアル殿下にスカーレットが勝つのはまだ無理でしょう」
「~~~~っ!」
無言のまま、スカーレットが壁を叩く。
俺は小声でエルペルトに聞いた。
「まだ?」
「えぇ、いずれは」
娘を信じているんだなと、笑みを浮かべた。
――二日後。ほとんどの問題は解決し、オリアス砦へと戻る。
それにしてもファアル殿下はさすがだ。キン・ベルたちの代わりまで用意しているとは思わなかった。
山賊たちも悪いようにはしないようだし、これで当分はゆっくりできる。
……などという甘い考えは、砦へ戻った瞬間に消え失せた。
「セス司令! 大変だ!」
「シヤ? なにかあったのか?」
その狼狽具合から、ただ事では無いと察せる。
渡された手紙には、ホライアス王国の印。そして内容は……三日以内にセス=カルトフェルンの首を差し出さぬ場合、オリアス砦へ総攻撃を行う、というものだった。
「い、いやいや、ちょっと待ってください。約束ったって口約束ですよ? このまま帰ったら裏切るかもしれないじゃないですか」
「……確かにそうだけど、見張っておくのはもっと難しくないか?」
「人手が足りませんからね。だからこういうときは、何人か人質にとっておくんですよ。女子供を人質にとられたら手を出せませんからね」
「それはちょっと人としてどうかと……」
ジェイの言うことも分かるが、人質というのは気分がよろしくない。相手だって反発するだろうし、そのほうが裏切る可能性は上がるんじゃないだろうか?
なにか良い手をと話し合っていたのだが、特に良い手は思いつかない。減刑してやるだけでは弱いらしい。
ほとほと困った俺は、ちょっとしたハッタリを使うことにした。
集めてもらった特に害の無い、小さな赤い実を山賊たち全員へ飲ませる。
山賊たちが不信がってる中、俺は実を見せながら言った。
「よく見る実だと思っているかもしれないが、それには毒が入っている」
まさか、とほとんどの山賊が鼻で笑っている。
そんな彼らの前に、後ろ手に持っていた青い実を取り出す。
「この実は、俺が加工したものでね。諸君らを眠らせたのも、この実の力だ」
「そんな話を信じると思ってんのかぁ?」
「あぁ、もちろん信じなくていい。そのまま信じず笑っていても困ることはない。……ただ、一応警告しておこう。その赤い実に混入させた毒は、俺の作った薬でしか治すことができない。薬を飲まない限り、必ず三日以内に死ぬ」
いまだ、山賊たちは笑っている。だがそれで構わないと、俺も頷いた。
「では、俺たちは帰らせてもらう。信じるか信じないかは好きに決めてくれ」
広場の中央へ青い実を放り投げ、急ぎその場を立ち去る。眠っている間に何人かの縄を切っておくように見張りへ頼んであるから、程なくして全員解放されるだろう。
うまくいくかは賭けになるが、たかだか30人ほどで、100人以上を管理するのには無理がある。
うまくいきますように、と祈るしかなかった。
カンミータの町で待つこと二日。キン・ベルたちには山賊たちから押収した金を送って誤魔化せていることから、彼らはどうやらこちら側につくことを決めたらしい。……毒を信じただけかもしれないが、それはそれで良いだろう。
再度王都には書状を送っているが、この件では間に合うはずがない。
そう、この件では、だ。
各王位継承者の遣わせた使者が、カンミータの町を訪れたのは昼過ぎの事だった。
「……セス殿下。これは一体どういうことですか?」
「まぁ大したことじゃないよ。種明かしをしに行くとしようか」
十から二十の兵を、十を超える王位継承者が遣わせているのだ。総数は軽く百を超えていた。
彼らが目指す先がどこかなんて考えるまでもない。オリアス砦だ。
少し手間を減らしてやろうと、彼らの元を訪れることにした。
……どうやら話を聞くに、この使者部隊は別々の派閥だが、数が多すぎるので王の命で統率されてはいるらしい。仲が良さそうには見えないので、便宜上、というやつだろう。
自分がセス=カルトフェルンであることを伝えると、すぐにその責任者の元へ案内される。さすがに王位継承者を向かわせるわけにはいかない案件なので、恐らくはそれなりに地位の高い人物が来ているだろう。
案内された先へ入ると、室内は薄暗く、カリカリという音が聞こえている。
暗闇の中から、スッと二人が前に出た。
「セス殿下ですね」
無言で頷くと、男が笑顔を見せる。
「此度の件について、第一王子ファアル=カルトフェルン殿下が使者をまとめる運びとなりました」
「こちらがお預かりしている書状となります」
十数枚の書状の中身はほとんど変わらず、「一度会って話がしたい」というものだった。
そううまくはいかないか、と肩を落としていたのだが、もう一人が部屋の外へ声を掛けると、重い箱が室内に並べられる。
「こちらは、各王位継承者の方々から預かったものとなります。ご確認を」
中身を調べようとしたのだが、エルペルトが制する。代わりにスカーレットが箱の中身を確認し、声を上げた。
「ちょ、なによ! この大金!」
「面白い提案であり、乗りたいという方が多く、話をする前に一部渡しておきたいと申しておりました」
俺からの提案を信じ切ったわけではないが、先に金を渡してしまえば、今さら提案を翻しにくくなる。そう考えてのことだろう。
兄弟姉妹へ送ったのと同じ文面をしたためた紙を取り出し、エルペルトへ渡す。
彼は内容を確認し……肩を震わせながら笑った。
「なるほど、そういうことですか」
「ちょっと父上! あたしにもどういうことか教えてよ!」
「分かりました。要約しますと……『王位に興味無い。できれば手柄も立てず、オリアス砦で一生を終えたい。敵対しないことを約束するから、代わりに継続的な資金援助をしてくれ』という内容です」
「つまり……?」
「金で敵を一人減らせるのであればと、送られて来たのでしょう。なるほど、これで資金問題はセス殿下が死ぬまでの間、解決したということですね」
「なるほどねぇ」
スカーレットはいまいち分かっていなさそうな顔だったが、金が入ることは分かったのだろう。嬉しそうな顔をしていた。
それに対し、無言のまま頷いた俺を見て、エルペルトの顔が曇る。だがすぐに気付いたのだろう。その顔が引き締められる。
暗闇の先にいるもう一人は、ほんの少しだけカーテンを動かし、室内に光を入れた。
「……驚いたよ、セス。君はずっと静かに暮らしていくと思っていたのに、その狡猾さを発揮するとはね」
「……」
「でも、良かったのかい? ずっと隠していたんだろ? それで良いと僕も思っていたし、君もそれが良いと望んでいたはずだ。ファンダルのせいで金が回らなくなったのは分かるが、他に方法があったはずだ。例えば、そう。この町の不祥事なんていうつまらない問題を解決せず、自分も金を吸い上げる立場になれば良かった。そうすれば、兄弟姉妹にバレることなく、静かに暮らせたはずだ」
拳を強く握り、首を横に振る。
ふっと笑う声が聞こえた。
「あぁそうだね、君はそういうやつだったのかもしれない。うん、確かにそうだ。うまく隠していたから気付かなかったが、正義感の強いやつだったのだろう。……いいんじゃないかな? 僕は嫌いじゃないよ?」
一人で一方的に喋り続けるところは変わらない。
幼いころに言っていたが、人に話しながら思考を整理する癖があるらしい。
彼が、一体どれほどのことを考えているのかは分からない。だが、闇のように黒い髪と目に気圧される。瞬き一つしない穴のような目は、こちらの心の中まで見透かしているようだった。
「だから、ね。弟の躍進を祝福し、キン・ベルたちは処分しておいた。余計な手間が省けて嬉しいだろう? これから協力を申し出て、うまいこと倒さなければならなかった相手が、もういないんだ。あぁでも、山賊たちには手を出していないよ。どうせ、減刑でも約束してやったんだろう? 重労働を数年課すが、その後は見逃してやるよ」
話に頭が追い付かない。爪をカリカリと噛んでいる音だけが、耳に残る。
色々考えてやっているつもりだったが、全ては手の内だった。お前が生き残るため引き篭もっていたことも知っている。なにもかも、全て、分かっている。そう伝えられることは、心臓を握られている様に似ていた。
息が荒い。短い呼吸を制御できずにいると、彼は立ち上がり、親指の爪がボロボロになった手で、俺の頬に触れた。
「お前は子供のころからなにかを恐れていたね。一体、なにを恐れているんだい? いい加減、兄さんに話してごらんよ。君が敵じゃないのであれば、僕に害を為さないのであれば、力になってやるよ」
すぐ目の前に、光の無い黒い瞳がある。俺は目を逸らすことも、声を出すこともできなかった。
第三王子ティグリスは、見る人を威圧する恐ろしい武人だ。
第二王女シュティーアは、賢く冷たい女性で、ナイフのような鋭利さを持った女性だ。
しかし、幼いころからずっと、その二人よりも恐ろしかった人がいる。
――第一王子ファアル=カルトフェルン。俺より十歳上の彼は、他の人には無い底知れぬなにかを秘めており、凡そ同じ生物とは思えぬ存在だった。
グイッと体が後ろに引っ張られる。
俺を下がらせてくれたスカーレットの顔は青く、手は震えていた。
「……スカーレット=アルマーニ。先代剣聖の娘、か。セスの護衛をしてくれているんだったね。ありがとう。でも今は、下がっていてもらおうか。これは僕たち兄弟の話し合いだ」
「ざっけんじゃないわよ! こ、こんなに弟を怯えさせておいて、大人しくすっこんでいられるわけがないでしょ!」
「だから、その理由を聞こうとしているんじゃないか。僕は、セスに危害を加えたことは無い。だが、常に彼は恐れている。僕だけじゃなく、他にも色々とだ。兄として、それを解決しようとするのは自然なことだろう?」
パンッと音が響く。
全員が目を向けた先には、エルペルトの姿があった。
「ファアル殿下、口を挟ませていただいても?」
「あぁ、もちろんだ。君の意見も聞かせてもらおうか」
「ありがとうございます。……これは私の見た限りですが、セス殿下は少しずつ変わっておられます。直に、今の状態も克服されるでしょう」
「ふむ。つまり、僕に余計なことをするなと?」
「変わろうとしていなかったころとは違います。今しばらく見守ることも、兄としての務めかと」
静かに、ファアル殿下は扉へ向かって歩き出した。
「うん、分かった。今回は引いておこう。どうせ時間切れだからね。王都に戻らないと、仕事がたくさん残っているんだ。あぁ本当に嫌になる。可愛い弟と話す時間も作れないなんて、自分の無能さが恥ずかしいよ。……セス。困ったことがあったら、いつでも連絡をするといい。僕は、君たちが敵にならない限り、全員の兄で、味方だよ」
パタリと、扉が閉じられる。酸素を取り込もうと、肺が大きく動いた。
「ぶはぁっ……ぜっ……ぜっ……n」
「な、なによあれ。ティグリスなんて目じゃないわよ? お付き二人も只者じゃないし!」
「剣を抜かなかったのは成長したところでしょうね。もしスカーレットが剣を抜いていれば、セス殿下以外は死んでいたでしょう」
その言葉にギョッとする。相手が手練れだったとはいえ、先代の剣聖を有しているこちらが、あの三人に負けていたというのだから。
「……セスは逃がせる自信があったってこと?」
「私があの二人を同時に相手取れば、ファアル殿下が自由になります。しかし、ファアル殿下にスカーレットが勝つのはまだ無理でしょう」
「~~~~っ!」
無言のまま、スカーレットが壁を叩く。
俺は小声でエルペルトに聞いた。
「まだ?」
「えぇ、いずれは」
娘を信じているんだなと、笑みを浮かべた。
――二日後。ほとんどの問題は解決し、オリアス砦へと戻る。
それにしてもファアル殿下はさすがだ。キン・ベルたちの代わりまで用意しているとは思わなかった。
山賊たちも悪いようにはしないようだし、これで当分はゆっくりできる。
……などという甘い考えは、砦へ戻った瞬間に消え失せた。
「セス司令! 大変だ!」
「シヤ? なにかあったのか?」
その狼狽具合から、ただ事では無いと察せる。
渡された手紙には、ホライアス王国の印。そして内容は……三日以内にセス=カルトフェルンの首を差し出さぬ場合、オリアス砦へ総攻撃を行う、というものだった。
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