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二章 碧緑の宝剣(リゲル編)
3.思わぬ衝突
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***
パシンと乾いた音が響く。
強烈な左頬へのビンタに頭が一瞬ぐわんと揺れた。
「お兄様に近づかないでくださる!」
深い緑の髪に翡翠色の瞳の少女は睨みを効かせてヒステリックに叫ぶ。
リゲルの家で剣術を習うようになってから約一週間が経ったころだった。流石に毎日行くと、怪しまれるので俺は間を空けて行くようにしていた。なので、実質、二、三回行ったくらいだろうか。
お祖父様は厳しく、俺はまだ剣どころか棒切れ一つを握らせてももらえないが、友と一緒に体を動かすのは楽しかった。それに、お母様はアルキオーネに友だちができたことを喜んで、リゲルのお屋敷に行くときは必ず焼き菓子を持たせてくれたし、お祖父様やリゲルの家宛てに手紙を書いてくれたらしい。
少々、話は大きくなってしまったような気もするが、概ね順調だと、俺は思っていた。しかし、実際はそうではなかったらしい。
冒頭の叫び声はリゲルの妹、ミモザのものだった。
どうやら、気付かなかったが、俺はミモザに嫌われていたようだ。
それはいつもの風景。俺やレグルス、リゲルが中庭で剣の練習をしていると、必ずと言っていいほどミモザがやってくる。柱の裏に隠れてこそこそとこちらを覗く姿はとても可愛らしく、他人の妹ながら庇護欲がそそられた。
思わず、俺は仲良くなりたいなんてちょっとした下心もあってミモザに声を掛けた、「そんなところじゃなくて、もっと近くで見ませんか?」と。
すると、ミモザは俺の手を叩くなり、冒頭のように「お兄様に近づかないでくださる!」と叫んだのだった。
「婚約者がありながら、お兄様に近づくなんて節操のない。とんだ恥知らずの阿婆擦れね!」
ミモザは涙目でもう一度叫ぶ。そして、勢いよく手を振り上げた。
叩かれる。そう思って咄嗟に目を瞑るが、いつまで経っても衝撃はなかった。
そっと目を開けると、リゲルがミモザの手を握っていた。
「ミモザ、やめるんだ」
「やめないわ!」
「どうしてそんなことをするんだ」
「お兄様は騙されているのよ!」
「騙されてなどいない」
「騙されている人間は騙されていることが分からないのよ! 私が止めなきゃいけないの!」
「やめてくれ、ミモザ。お前にそんなことをする権利はないだろう」
「権利? いいえ、義務よ! 私はジェード家――侯爵家の娘よ! 節操なしの阿婆擦れ女たちからお兄様を守る義務があるの!」
俺は他人事のようにそれを見ていた。
寧ろ、節操なしとか阿婆擦れなんて言葉をこんな小さい子がよく知っているなんて感心すらしていた。語彙力があるようだからミモザはきっと頭がいいんじゃないだろうかなんて考えたくらいだ。
「だから、アルキオーネはそんな女じゃないと言っているだろ!」
最初は穏やかに話していたリゲルもついに焦れたように叫んだ。
そうだ、そうだ。リゲルの言う通り、俺は女じゃない……なんて言えたら楽なのに。そんなこと、ここで言ったら余計に混乱するので俺はお口チャックで黙っていた。
「うーん」
俺は頭を抱えて小さく唸り声を上げた。
「今回も……また一段とすごいな……」
レグルスがこそこそと俺に近付いてきて、げんなりとした顔で呟く。
「今回も? ということは、前回もあったのですか?」
「嗚呼、リゲルに近づく女は例に漏れずだ。全員、ミモザに撃退されているぞ」
「撃退だなんてまるで害虫や害獣のようですわ」
俺は令嬢らしく口を隠しながらコロコロと笑ってみせる。
「その通り。彼女には女が害虫か害獣に見えているんだろう。大体、アルキオーネの婚約者であるわたしの目の前で節操なしの阿婆擦れ呼ばわりしているんだ。視覚か認知に何かがあるとしか思えないな。これでも、わたしは王子なんだぞ?」
レグルスは眉を顰めてそう漏らす。
確かにあの様子じゃ、ここにレグルスがいることすら分かっていないようだ。
婚約発表がお流れになって公的にはまだ微妙な立場であるが、一応、アルキオーネはレグルスの婚約者だ。それを知っているものも少なくはない。
発言を少しでも間違ったら王子への侮辱とも取られかねない、この状況をミモザは分かっているのだろうか。
これには兄であるリゲルの心労を察する。自分の身に置き換えてみても、妹が可愛いとはいえ、自ら災厄の種を撒き続ける妹を流石に守りきれる自信はない。
それでも、リゲルは必死に妹を制御し、自分から敵をつくるような行為をやめさせようと試みているようだ。俺とレグルスがあれこれ話している間も、ジェード兄妹は言い合いをしていた。お互いがお互いを想うだけに平行線のような口撃が続く。
「いいか、アルキオーネは俺の友だ。お前が何と言おうと絶対、一緒にいてやる!」
そして、リゲルは熱くなりすぎたのか、とんでもないことを叫んだ。おいおい、他の人が聞いたら告白と勘違いしそうな言葉じゃないか。
現にレグルスも顔を顰めている。
レグルスにリゲル。確かにかっこいいんだけど、俺はどうしてもお付き合いはできない。どうせならメリーナとかミモザとか可愛い女の子にモテたいよ。
俺はため息を吐いた。
「お兄様の馬鹿!!!」
ミモザはぽろぽろと涙を零しながら、屋敷の方へ走って行った。
「ミモザ様!」
俺は叫ぶが、ミモザはすぐに見えなくなってしまう。
嗚呼、絶対ミモザも勘違いしているよ。
「ミモザ様は泣いてました。追いかけなくていいのですか?」
女の子が泣いているのを見ると胸が痛む。俺は良心に耐えかねてそう言った。
「いいんだよ。俺は妹可愛さのあまり、ミモザを甘やかしすぎたみたいだ。たまにはきつく言ってやらないと」
リゲルも珍しく怒っているらしく、ぶっきらぼうに言った。
「わたしにはリゲルの気持ちもわかるぞ。今までできた女友だち、婚約者、お側付のメイド、女教師……みんなミモザに撃退されているんだもんな」
レグルスはそう言ってリゲルの肩を叩いた。
「そうだ」
リゲルは暗いトーンで返す。
「このままだとリゲルは子どもはおろか結婚……いや婚約すらできない。ジェード家の危機だ。どうする、リゲルよ?」
レグルスは芝居がかった口調で言う。
「レグルス様、言葉が過ぎます」
俺は窘めるように言った。
それはいくらなんでも言い過ぎだ。単なる妹の可愛い嫉妬だろう。
しかし、リゲルはもっと重く受け止めているようだった。
「いや、レグルスの言う通りだ。ミモザに必要なのは兄離れだ。アルキオーネには悪いが、いい機会だよ。徹底的にやらせてもらう」
リゲルはそう言うと強く拳を握った。
「そうだ! アルキオーネを悪く言うやつにはお仕置きだ!」
レグルスは囃し立てた。
なるほど。レグルスの本音はこっちか。確かにこんなに可愛いアルキオーネをいじめるやつは許せない。
でも、ミモザの気持ちもなんとなく理解できる。
俺が男ならただの腰巾着風情がと思われるだけなのだろうが、女であるとそうはいかない。侯爵家のご令嬢から見れば、伯爵家令嬢の癖に「王子と婚約」、「次期侯爵とも仲が良い」なんてどんな悪女だよって思うだろう。兄につく悪女を排除しようとするのも無理はない。有り得る反応だ。
勿論、相手が「王子と婚約している」のだからもう少し慎重に動く必要はあるが、どうもミモザが悪いとは思えなかった。
「ほどほどになさってくださいね」
俺はそう言うことしか出来なかった。
リゲルはその言葉を聞いているのか、いないのか、拳を握ったまま、ミモザの走って行った方向を見つめていた。
「おい、剣の稽古を始めるぞ」
騒ぎを知らないお祖父様が中庭に入ってくる。
俺たちは慌ててお祖父様の元に駆け寄ると、剣の練習を再開した。
パシンと乾いた音が響く。
強烈な左頬へのビンタに頭が一瞬ぐわんと揺れた。
「お兄様に近づかないでくださる!」
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リゲルの家で剣術を習うようになってから約一週間が経ったころだった。流石に毎日行くと、怪しまれるので俺は間を空けて行くようにしていた。なので、実質、二、三回行ったくらいだろうか。
お祖父様は厳しく、俺はまだ剣どころか棒切れ一つを握らせてももらえないが、友と一緒に体を動かすのは楽しかった。それに、お母様はアルキオーネに友だちができたことを喜んで、リゲルのお屋敷に行くときは必ず焼き菓子を持たせてくれたし、お祖父様やリゲルの家宛てに手紙を書いてくれたらしい。
少々、話は大きくなってしまったような気もするが、概ね順調だと、俺は思っていた。しかし、実際はそうではなかったらしい。
冒頭の叫び声はリゲルの妹、ミモザのものだった。
どうやら、気付かなかったが、俺はミモザに嫌われていたようだ。
それはいつもの風景。俺やレグルス、リゲルが中庭で剣の練習をしていると、必ずと言っていいほどミモザがやってくる。柱の裏に隠れてこそこそとこちらを覗く姿はとても可愛らしく、他人の妹ながら庇護欲がそそられた。
思わず、俺は仲良くなりたいなんてちょっとした下心もあってミモザに声を掛けた、「そんなところじゃなくて、もっと近くで見ませんか?」と。
すると、ミモザは俺の手を叩くなり、冒頭のように「お兄様に近づかないでくださる!」と叫んだのだった。
「婚約者がありながら、お兄様に近づくなんて節操のない。とんだ恥知らずの阿婆擦れね!」
ミモザは涙目でもう一度叫ぶ。そして、勢いよく手を振り上げた。
叩かれる。そう思って咄嗟に目を瞑るが、いつまで経っても衝撃はなかった。
そっと目を開けると、リゲルがミモザの手を握っていた。
「ミモザ、やめるんだ」
「やめないわ!」
「どうしてそんなことをするんだ」
「お兄様は騙されているのよ!」
「騙されてなどいない」
「騙されている人間は騙されていることが分からないのよ! 私が止めなきゃいけないの!」
「やめてくれ、ミモザ。お前にそんなことをする権利はないだろう」
「権利? いいえ、義務よ! 私はジェード家――侯爵家の娘よ! 節操なしの阿婆擦れ女たちからお兄様を守る義務があるの!」
俺は他人事のようにそれを見ていた。
寧ろ、節操なしとか阿婆擦れなんて言葉をこんな小さい子がよく知っているなんて感心すらしていた。語彙力があるようだからミモザはきっと頭がいいんじゃないだろうかなんて考えたくらいだ。
「だから、アルキオーネはそんな女じゃないと言っているだろ!」
最初は穏やかに話していたリゲルもついに焦れたように叫んだ。
そうだ、そうだ。リゲルの言う通り、俺は女じゃない……なんて言えたら楽なのに。そんなこと、ここで言ったら余計に混乱するので俺はお口チャックで黙っていた。
「うーん」
俺は頭を抱えて小さく唸り声を上げた。
「今回も……また一段とすごいな……」
レグルスがこそこそと俺に近付いてきて、げんなりとした顔で呟く。
「今回も? ということは、前回もあったのですか?」
「嗚呼、リゲルに近づく女は例に漏れずだ。全員、ミモザに撃退されているぞ」
「撃退だなんてまるで害虫や害獣のようですわ」
俺は令嬢らしく口を隠しながらコロコロと笑ってみせる。
「その通り。彼女には女が害虫か害獣に見えているんだろう。大体、アルキオーネの婚約者であるわたしの目の前で節操なしの阿婆擦れ呼ばわりしているんだ。視覚か認知に何かがあるとしか思えないな。これでも、わたしは王子なんだぞ?」
レグルスは眉を顰めてそう漏らす。
確かにあの様子じゃ、ここにレグルスがいることすら分かっていないようだ。
婚約発表がお流れになって公的にはまだ微妙な立場であるが、一応、アルキオーネはレグルスの婚約者だ。それを知っているものも少なくはない。
発言を少しでも間違ったら王子への侮辱とも取られかねない、この状況をミモザは分かっているのだろうか。
これには兄であるリゲルの心労を察する。自分の身に置き換えてみても、妹が可愛いとはいえ、自ら災厄の種を撒き続ける妹を流石に守りきれる自信はない。
それでも、リゲルは必死に妹を制御し、自分から敵をつくるような行為をやめさせようと試みているようだ。俺とレグルスがあれこれ話している間も、ジェード兄妹は言い合いをしていた。お互いがお互いを想うだけに平行線のような口撃が続く。
「いいか、アルキオーネは俺の友だ。お前が何と言おうと絶対、一緒にいてやる!」
そして、リゲルは熱くなりすぎたのか、とんでもないことを叫んだ。おいおい、他の人が聞いたら告白と勘違いしそうな言葉じゃないか。
現にレグルスも顔を顰めている。
レグルスにリゲル。確かにかっこいいんだけど、俺はどうしてもお付き合いはできない。どうせならメリーナとかミモザとか可愛い女の子にモテたいよ。
俺はため息を吐いた。
「お兄様の馬鹿!!!」
ミモザはぽろぽろと涙を零しながら、屋敷の方へ走って行った。
「ミモザ様!」
俺は叫ぶが、ミモザはすぐに見えなくなってしまう。
嗚呼、絶対ミモザも勘違いしているよ。
「ミモザ様は泣いてました。追いかけなくていいのですか?」
女の子が泣いているのを見ると胸が痛む。俺は良心に耐えかねてそう言った。
「いいんだよ。俺は妹可愛さのあまり、ミモザを甘やかしすぎたみたいだ。たまにはきつく言ってやらないと」
リゲルも珍しく怒っているらしく、ぶっきらぼうに言った。
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「レグルス様、言葉が過ぎます」
俺は窘めるように言った。
それはいくらなんでも言い過ぎだ。単なる妹の可愛い嫉妬だろう。
しかし、リゲルはもっと重く受け止めているようだった。
「いや、レグルスの言う通りだ。ミモザに必要なのは兄離れだ。アルキオーネには悪いが、いい機会だよ。徹底的にやらせてもらう」
リゲルはそう言うと強く拳を握った。
「そうだ! アルキオーネを悪く言うやつにはお仕置きだ!」
レグルスは囃し立てた。
なるほど。レグルスの本音はこっちか。確かにこんなに可愛いアルキオーネをいじめるやつは許せない。
でも、ミモザの気持ちもなんとなく理解できる。
俺が男ならただの腰巾着風情がと思われるだけなのだろうが、女であるとそうはいかない。侯爵家のご令嬢から見れば、伯爵家令嬢の癖に「王子と婚約」、「次期侯爵とも仲が良い」なんてどんな悪女だよって思うだろう。兄につく悪女を排除しようとするのも無理はない。有り得る反応だ。
勿論、相手が「王子と婚約している」のだからもう少し慎重に動く必要はあるが、どうもミモザが悪いとは思えなかった。
「ほどほどになさってくださいね」
俺はそう言うことしか出来なかった。
リゲルはその言葉を聞いているのか、いないのか、拳を握ったまま、ミモザの走って行った方向を見つめていた。
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