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◇◆◇◆◇
その日は仕事が上手くいかなかった。
家に上がり込み、老人に親切にし、それから商品の説明をする。上手く行けば、直ぐに買ってくれるし、上手く行かなければまた後日同じように来る。それを繰り返して平凡な商品をさも素晴らしいものかのように謳い、売るのが僕の仕事だ。
勿論、平凡な商品が怪しい商品に変わることもある。会社は頻繁に品を変え、名前を変えるので、その分扱う商品も豊富にあった。
さて、僕がいつものように商品の説明をしていると、相手の息子が乱入してきた。まあ、これはよくあることだ。
僕は冷静に話を進めていたが、相手の息子は激昂し、僕を殴った。これも時々あることだ。
ただ、今回は、殴られた回数がかなり多かったこと、勢い余って机の角に頭をぶつけたせいで流血してしまったこと、それを見た相手の息子が慌てて僕に金を投げつけたことがいつもと違っていた。
殴られたのは痛かったけど、僕は殴られ慣れていたから急所は上手く外したし、何も売らずにお金を手に入れられることが出来たので、仕事自体は上手くいかなかったが、結果は良かったと思う。
僕は会社にお金のことは伏せ、怪我したことだけ伝えると、包帯を買って家に帰った。
家に帰れば、カッパがいる。
朝見た天気予報では今日も雨だったけど、カッパがいるだけで世界は晴れた日の空のように明るい。
僕はスキップをしたいくらいはしゃいでいた。
頭から血を流しているのに馬鹿らしい。馬鹿らしいけど、一刻も早く会いたくて、いつもよりも早く会えることに喜びを感じていた。
家に着いて扉を開ける。部屋は暗く、とても静かだった。
「カッパ?」
名前を呼ぶが返事がない。
ダイニングにも、奥の部屋にも、風呂場にも、トイレにも、ベランダにも、カッパはいない。靴もない。
心臓が痛い。息が出来ない。どうして。
地面が酷く頼りなく感じる。まるで底なしの沼に嵌ってしまったみたい。床に脚を取られ、身動きが取れなくなる。
僕は玄関の前に座り込んだ。
僕は置いていかれたのだろうか。
もしかしたら、彼は家族を見つけてカッパ王国に戻ってしまって、もう戻ってこないのかも知れない。嘘だと分かっているのに、僕はカッパのことを何も知らなくて、そんな妄想しか出来なかった。
どのくらい床に座り込んでいたのか、分からない。時間の感覚がなくなるほど僕の心は麻痺していた。
何も考えたくなくて、僕はぼんやりとしていた。
「ただいま」
頭上から声がした。
見上げると、真っ白な顔をしたカッパがそこにいた。顔はとても白いのに頬は赤く腫れている。
「カッパ?」
「もう帰っていたんだね。おかえり」
おかえりと言わなければならなかったのは僕の方だったのに、カッパはそう言った。
何年も、いや、生まれてこの方、おかえりなんて言ったこともなくて、そんな簡単な言葉すら出てこなかった。
「お、おかえり」
「ただいま」
カッパは腫れた頬を押さえてからもう一度そう言った。とてもぎこちない笑顔だった。
「何処に……何処に行っていたんだ?」
「服を取りに……あ、いや、カッパ王国に戻っていたんだ」
カッパは一瞬、嘘を忘れてそう言った。
僕は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「家に帰ったのか?」
「いや、えっと……」
「僕を置いて、殴られに?」
自分でもゾッとするような低い声が出る。
カッパは酷く怯えた目で僕を見た。
「ごめんなさい。カワウソが帰ってくる前にすぐに帰るつもりだったんだ」
カッパは頭を振る。可哀想にカタカタと身体を震わせて、それでも僕の前から逃げないでじっとしている。
なんて可愛いんだろう。
僕はカッパの腫れた頬に手を伸ばす。
カッパは怯えたように目をぎゅっと瞑った。その拍子にぽろっと真珠のような涙が零れた。
胸が焦げつくようなこの感情はなんだろう。痛くて苦しいのに心地好くて、とても目の前のカッパが可愛くて欲しくなる。酷いことをしたくないのに壊したくて、もっとぐちゃぐちゃにしたいのに優しくしたい。
「カッパ、カッパ……泣かないで」
僕は夢中になってカッパの涙を舌で舐めとった。
カッパの身体はまだ震えている。
「寒いの? それならあたためてあげる」
僕はそう言ってカッパを抱き締めた。
「やだ!」
カッパは僕を突き放そうとした。
それでも、年の割りに華奢なカッパの力は笑ってしまうくらい弱くて、僕は平然とカッパを抱き締め続けた。
「やだ、やだ! 汚いから! 俺は汚いから触らないで!」
カッパは叫んで抵抗しようとする。
僕はこのか弱く無駄な抵抗がとても愛しいと思った。
「汚くない」
「嘘だ!」
「汚くない」
「これを見たら、カワウソだって!」
「汚くないから」
僕は何度も子どもを宥めすかすみたいに言い聞かせた。
「怖い」
ついにカッパはそう呟いた。
「怖い。怖い。叩かないで、嫌わないで、捨てないで」
「叩かないし、嫌わない。万が一、カッパの言う通り、汚かったとしても捨てたりしないから。洗って、綺麗にして、大事にしてあげる」
「本当に?」
カッパは涙で濡れた瞳で縋るように僕を見つめる。
「どんな君でも、嫌わないよ」
僕はもう一度、頬に流れていたカッパの涙を舐めとった。
「本当?」
「本当だよ。昨日の君を愛しく思って、急に今日の君を嫌うの? 昨日の君と今日の君は変わらないのに。そんなのおかしいじゃないか」
僕の言葉にカッパは僅かに顔を明るくした。
「変わってないかな?」
「いつものカッパだよ」
「分かった。カワウソにだけ、本当の俺を見せるね」
カッパはそう言って、僕から少し離れると、上半身の服を脱いだ。服の下には真っ白な肌に無数の傷と、赤い花びらのような痕があった。
「ショックだよね? この下はもっと酷いんだ」
カッパは黒い細身のパンツに手をかけて、トランクスごと下ろした。
カッパの腿にも、際どい部分にも、赤い花びらは散っている。暫くすると、白いヌルヌルとした液体がすぅっと滑り落ちてくるのが見えた。
僕は嫉妬に狂いそうだった。
すぐにでも押し倒して、全部滅茶苦茶にしてやりたかった。
でも、僕はカッパを抱き締めた。かつての僕がそうして欲しかったように、きっとカッパもそれを求めているのではないかと思った。
「ねぇ、どうして欲しい?」
僕はカッパに囁いた。
その日は仕事が上手くいかなかった。
家に上がり込み、老人に親切にし、それから商品の説明をする。上手く行けば、直ぐに買ってくれるし、上手く行かなければまた後日同じように来る。それを繰り返して平凡な商品をさも素晴らしいものかのように謳い、売るのが僕の仕事だ。
勿論、平凡な商品が怪しい商品に変わることもある。会社は頻繁に品を変え、名前を変えるので、その分扱う商品も豊富にあった。
さて、僕がいつものように商品の説明をしていると、相手の息子が乱入してきた。まあ、これはよくあることだ。
僕は冷静に話を進めていたが、相手の息子は激昂し、僕を殴った。これも時々あることだ。
ただ、今回は、殴られた回数がかなり多かったこと、勢い余って机の角に頭をぶつけたせいで流血してしまったこと、それを見た相手の息子が慌てて僕に金を投げつけたことがいつもと違っていた。
殴られたのは痛かったけど、僕は殴られ慣れていたから急所は上手く外したし、何も売らずにお金を手に入れられることが出来たので、仕事自体は上手くいかなかったが、結果は良かったと思う。
僕は会社にお金のことは伏せ、怪我したことだけ伝えると、包帯を買って家に帰った。
家に帰れば、カッパがいる。
朝見た天気予報では今日も雨だったけど、カッパがいるだけで世界は晴れた日の空のように明るい。
僕はスキップをしたいくらいはしゃいでいた。
頭から血を流しているのに馬鹿らしい。馬鹿らしいけど、一刻も早く会いたくて、いつもよりも早く会えることに喜びを感じていた。
家に着いて扉を開ける。部屋は暗く、とても静かだった。
「カッパ?」
名前を呼ぶが返事がない。
ダイニングにも、奥の部屋にも、風呂場にも、トイレにも、ベランダにも、カッパはいない。靴もない。
心臓が痛い。息が出来ない。どうして。
地面が酷く頼りなく感じる。まるで底なしの沼に嵌ってしまったみたい。床に脚を取られ、身動きが取れなくなる。
僕は玄関の前に座り込んだ。
僕は置いていかれたのだろうか。
もしかしたら、彼は家族を見つけてカッパ王国に戻ってしまって、もう戻ってこないのかも知れない。嘘だと分かっているのに、僕はカッパのことを何も知らなくて、そんな妄想しか出来なかった。
どのくらい床に座り込んでいたのか、分からない。時間の感覚がなくなるほど僕の心は麻痺していた。
何も考えたくなくて、僕はぼんやりとしていた。
「ただいま」
頭上から声がした。
見上げると、真っ白な顔をしたカッパがそこにいた。顔はとても白いのに頬は赤く腫れている。
「カッパ?」
「もう帰っていたんだね。おかえり」
おかえりと言わなければならなかったのは僕の方だったのに、カッパはそう言った。
何年も、いや、生まれてこの方、おかえりなんて言ったこともなくて、そんな簡単な言葉すら出てこなかった。
「お、おかえり」
「ただいま」
カッパは腫れた頬を押さえてからもう一度そう言った。とてもぎこちない笑顔だった。
「何処に……何処に行っていたんだ?」
「服を取りに……あ、いや、カッパ王国に戻っていたんだ」
カッパは一瞬、嘘を忘れてそう言った。
僕は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「家に帰ったのか?」
「いや、えっと……」
「僕を置いて、殴られに?」
自分でもゾッとするような低い声が出る。
カッパは酷く怯えた目で僕を見た。
「ごめんなさい。カワウソが帰ってくる前にすぐに帰るつもりだったんだ」
カッパは頭を振る。可哀想にカタカタと身体を震わせて、それでも僕の前から逃げないでじっとしている。
なんて可愛いんだろう。
僕はカッパの腫れた頬に手を伸ばす。
カッパは怯えたように目をぎゅっと瞑った。その拍子にぽろっと真珠のような涙が零れた。
胸が焦げつくようなこの感情はなんだろう。痛くて苦しいのに心地好くて、とても目の前のカッパが可愛くて欲しくなる。酷いことをしたくないのに壊したくて、もっとぐちゃぐちゃにしたいのに優しくしたい。
「カッパ、カッパ……泣かないで」
僕は夢中になってカッパの涙を舌で舐めとった。
カッパの身体はまだ震えている。
「寒いの? それならあたためてあげる」
僕はそう言ってカッパを抱き締めた。
「やだ!」
カッパは僕を突き放そうとした。
それでも、年の割りに華奢なカッパの力は笑ってしまうくらい弱くて、僕は平然とカッパを抱き締め続けた。
「やだ、やだ! 汚いから! 俺は汚いから触らないで!」
カッパは叫んで抵抗しようとする。
僕はこのか弱く無駄な抵抗がとても愛しいと思った。
「汚くない」
「嘘だ!」
「汚くない」
「これを見たら、カワウソだって!」
「汚くないから」
僕は何度も子どもを宥めすかすみたいに言い聞かせた。
「怖い」
ついにカッパはそう呟いた。
「怖い。怖い。叩かないで、嫌わないで、捨てないで」
「叩かないし、嫌わない。万が一、カッパの言う通り、汚かったとしても捨てたりしないから。洗って、綺麗にして、大事にしてあげる」
「本当に?」
カッパは涙で濡れた瞳で縋るように僕を見つめる。
「どんな君でも、嫌わないよ」
僕はもう一度、頬に流れていたカッパの涙を舐めとった。
「本当?」
「本当だよ。昨日の君を愛しく思って、急に今日の君を嫌うの? 昨日の君と今日の君は変わらないのに。そんなのおかしいじゃないか」
僕の言葉にカッパは僅かに顔を明るくした。
「変わってないかな?」
「いつものカッパだよ」
「分かった。カワウソにだけ、本当の俺を見せるね」
カッパはそう言って、僕から少し離れると、上半身の服を脱いだ。服の下には真っ白な肌に無数の傷と、赤い花びらのような痕があった。
「ショックだよね? この下はもっと酷いんだ」
カッパは黒い細身のパンツに手をかけて、トランクスごと下ろした。
カッパの腿にも、際どい部分にも、赤い花びらは散っている。暫くすると、白いヌルヌルとした液体がすぅっと滑り落ちてくるのが見えた。
僕は嫉妬に狂いそうだった。
すぐにでも押し倒して、全部滅茶苦茶にしてやりたかった。
でも、僕はカッパを抱き締めた。かつての僕がそうして欲しかったように、きっとカッパもそれを求めているのではないかと思った。
「ねぇ、どうして欲しい?」
僕はカッパに囁いた。
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