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1巻
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いつしか日が落ち、あたりは闇に包まれた。
ある程度進んだところで、野宿をすることになる。
馬車から降りると、そこは水音が涼やかに響く渓谷だった。上空には星が瞬き、生い茂る緑が夜風に煽られザワザワと音をたてている。
「よし、きょうそうだ!」
「ぼく、負けないからな!」
「かけっこ、かけっこ!」
疲れ知らずの三人の子供たちは、ようやく狭い馬車から出ることができて興奮しているようだった。さっそく我先にと走り出し、どんどん遠ざかっていくものだから、これには泣きじゃくる赤ん坊をあやしている母親も参っていた。
「こらっ! 夜だから、あまり遠くに行ってはダメよ! 戻ってきなさい!」
とはいえ、赤ん坊を抱えて追いかけるのは容易ではない。
子供たちは母親の言うことに耳を貸す様子はなく、彼女があたふたしているうちに、あっという間に闇の中に見えなくなってしまった。
亭主はというと、焚き火の準備に夢中で、我関せずといった具合だ。
「大丈夫です、私が行きますから!」
見かねたレイラは、すぐさま子供たちを追って走り出した。
「すまないねえ。暗いから、気をつけるんだよ!」
森育ちのレイラは夜目がきく。だから、すぐに子供たちを見つけられると思っていた。
だが彼らは小さい割に足が速いようで、予想に反してなかなか見つからない。
それでもどうにかこうにか、林の中で長男と次男を見つけることに成功する。やれどちらが勝っただの負けただの、小競り合いの最中のようだ。
それなのに、まだ三歳程度の末っ子だけが、どこを捜してもいなかった。
(もしかして、崖の方に行ったのかしら)
切り立った崖はかなりの高さがあり、小さな子が過って落下したらひとたまりもないだろう。
焦ったレイラは、崖へと急いだ。そして案の定、きゃっきゃとはしゃぎながら石集めをしている末っ子を視界に収めた。
あろうことか、一歩でも足を踏み外したら渓谷へと真っ逆さまに落ちてしまう、きわどいところをウロチョロしている。
暗いため、自分が危険な場所にいるのを分かっていないようだ。
レイラは顔を青くすると、必死に声を張り上げた。
「そんなところにいたら、危ないわ! 早くこっちに戻ってきて!」
ところが末っ子は、レイラを見るなり、こちらに来るどころかその場でぴょんぴょん飛び跳ね始めた。
「あ、レイラ! みてみて! このいし、光っててすごくきれいだよ」
無邪気な声でそんなことを言われ、レイラはますます生きた心地がしなくなる。
そのとき、低い唸りとともに強い風が吹き、あたりの木々が悲鳴のような葉音を鳴らした。
突風に煽られた末っ子の体がぐらりとよろめく。
「ひゃあっ!」
小さな手足を必死に動かし、バランスを取ろうとしているが、うまくいかないようだ。
(大変!)
レイラは、ぐらついている末っ子のもとへと無我夢中で駆けだした。
そしてありったけの力で、彼の体を崖とは反対方向に突き飛ばす。
ドンッ!
レイラに突き飛ばされた末っ子が、地面にしりもちをついた。急なことにびっくりしたようで、瞳をうるうるさせ、今にも泣きだしそうになっている。
だがレイラがホッとできたのは、ほんの一瞬のことだった。
直後、ぐらりと体が傾き、視界が星空で埋め尽くされたからだ。
どうやら、今度はレイラの方が崖から足を踏み外してしまったらしい。
末っ子を助けるのに夢中で、いつの間にか自分が崖ぎりぎりにいたことに、レイラはこの瞬間まで気づかなかった。
そしてレイラは、声を上げる間もないまま、渓谷へと真っ逆さまに落ちていった。
バチン、と火の爆ぜる音で目が覚めた。
全身が鉛をまとっているかのように重だるい。
熱があるのか、意識が朦朧としていて、呼吸もままならなかった。
(ここは……?)
いつの間にか、レイラは知らない部屋のベッドに横たわっていた。
体には、丁寧に縫われたキルトのブランケットが掛けられている。高価なものではないが、ぽかぽかと温かい。
壁には縄や銃、獣の毛皮などがずらりと掛けられており、暖炉では赤々とした炎が燃え盛っていた。暖炉の上には、夫婦らしき男女の写真が飾られている。
物音がして、レイラはそちらに視線を移した。
近くにあるテーブルで、女性が、桶の水に浸した布巾を絞っている。白髪交じりの髪を後頭部できちんとまとめており、丸眼鏡の奥の瞳は穏やかそうだ。
「あの……」
重い体をどうにか起こし、乾いた喉を動かすと、女性が驚いたように顔を上げた。
「目を覚ましたのかい! よかったよ!」
「ここは、どこですか?」
「ここは、リネイラだよ」
「リネイラ? いったいどうして、そんなところに……」
リネイラは、隣国デガスに接するザルーラ王国の辺境地であり、レイラの住む〝死霊の森〟からはずいぶん離れている。
記憶が曖昧で状況が飲み込めない。
「あんた、うちの近くの川のほとりに倒れていたんだよ。たぶんどこかの崖から落下して、ここまで運ばれてきたんだろう。四日も眠り続けていたから、もう目覚めないんじゃないかと心配していたんだ」
涙まで浮かべて赤の他人であるレイラを心配している彼女は、見た目どおり思いやりにあふれた人のようだ。
(そうだった。私、崖から足を踏み外したんだったわ)
女性の言葉がきっかけで、記憶が徐々によみがえる。
どうやら、馬車に乗せてもらった行商人一家の子供を助けた際、崖から川に転落してリネイラまで流されたらしい。
(どうしよう。アンバーが寂しがってないかしら?)
真っ先に思い浮かんだのは、きっと今もあの丸太小屋でレイラを待っている、小さな家族の面影だった。
翌日には帰ると言ったのに、四日も経ってしまったなんて、間違いなく心配している。ひとりぼっちの暗い小屋で、悲しげに鳴くアンバーを想像すると、いても立ってもいられなかった。
「助けてくださり、ありがとうございます。でも私、すぐに帰らないと……」
レイラは大急ぎで身を起こそうとした。だが――。
「いたっ!」
起き上がろうとした瞬間、両足に激痛が走った。
思い出したかのように、頭痛もガンガン襲ってくる。
「ああっ、動いちゃだめだよ!」
女性が、起き上がろうとしたレイラをたしなめるように、肩を押さえた。
よく見ると、両足には厳重に包帯が巻かれている。どうやら頭にも巻かれているようだ。
「あんた、大怪我をしているんだよ。流されている間に、あちこち岩場にぶつけたんだろう。モルグス川は大岩が多い上に、川の流れが速いからね。とにかく、今はとてもじゃないが帰れる状態じゃないよ。治るまで、ここでゆっくりしていきな、ねえエドモン?」
女性が後ろを振り返る。
今まで気づかなかったが、顎髭を生やした初老の男性が、ロッキングチェアに腰かけパイプをふかしていた。女性と同じく、温厚そうな顔立ちをしている。
男性が、頷きながら女性の声に答えた。
「そうだ、ゆっくり療養したらいい。なに、わしらには子供がいなくてな。年寄りだけで、年がら年じゅう暇してるんだ。遠慮はいらないよ」
帰りたくとも体がこれではどうにもならず、結局レイラは、申し訳ないと思いながらもふたりの親切に甘えることにしたのだった。
エドモンはかつて辺境の砦を守る警備兵だったが、引退してからは、狩猟を生業としているらしい。ふたりの家の中は、かつてエドモンが仕留めた獲物の毛皮があふれていた。
妻の名は、ポーラといった。
趣味の裁縫に日々勤しみながら、エドモンとともに、穏やかに老後の生活を送っているとのこと。
第一印象のままに、ふたりはとても親切な人たちだった。
見ず知らずのレイラをかいがいしく看病し、温かくて美味しい食事を与えてくれた。
レイラの知らないリネイラの話をたくさん聞かせてくれたし、所持品のないレイラの服を手ずからあつらえもしてくれた。
松葉杖をついて歩けるようになると、レイラは料理や掃除、鶏の世話などを手伝って、ふたりに恩返しをするようになった。
日に日にふたりとの暮らしに慣れていったが、アンバーのことは常に頭の中にあった。
エドモンに、アンバーの様子を見てきてもらおうと考えたこともある。
だが、すぐに思い直した。
エドモンは親切だが、狩猟を生業としているだけあり、獣を獲物としか思っていない。
もしもエドモンが森でアンバーに遭遇したら、間違いなく銃弾を放つだろう。
そんな悲しい事態だけは、何としても避けたかった。
レイラの怪我が完治するのには、およそ二ヶ月かかった。
ある夜、ついに頃合いと見て、そろそろ自分の家に帰りたいと、レイラはエドモンとポーラに申し出た。
するとポーラが目に涙を浮かべ、レイラをひしと抱きしめてくる。
「ああ、レイラ。あんたのことは、本当の娘のように大事に思っているんだよ。できればこのままあんたと一緒に暮らしたい。ダメかね? 家族がいないのなら、ここに住んでも問題はないだろ?」
「ありがとう、ポーラ。私も、エドモンとポーラのことが大好きよ。でも、どうしても家に帰らないといけないの。ごめんなさい」
森で自分の帰りを待ちわびているであろう小さな家族を、このまま放ってはおけない。
ぎゅっと抱きしめて、何度も謝って、安心させてやりたい。
するとエドモンが、レイラの気持ちを汲んでくれたかのように、皺だらけの大きな手で優しくレイラの頭を撫でてくれた。
「いいんだよ、レイラ。気をつけて帰りなさい。だがもしも何かうまくいかないことがあって、人恋しくなったら、いつでもここに戻っておいで。わしらはいつだってお前を歓迎するからな」
翌朝、レイラは二ヶ月間世話になった夫妻の家をあとにした。
文無しのレイラに、夫婦は少しのお金まで持たせてくれた。
おかげで王都まで辻馬車に乗り、宿にまで泊まることができた。
翌朝、さらに馬車を乗り継いで、レイラはようやく生まれ育った〝死霊の森〟近くの村に行き着いた。
胸を高鳴らせながら、久々に森の中に足を踏み入れる。
やがて、森の中ほどにポツンと建っている、住み慣れた丸太小屋を見つけた。
レイラはホッと胸を撫で下ろすと、はやる気持ちを抑えながら、家路を急いだ。
「アンバー! 遅くなってごめんなさい!」
ドアを開け放つなり、大声で叫んだ。いつものように、アンバーが尻尾をパタパタ振って飛びかかってくることを期待しながら。
だが、家の中はシンと静まり返ったままである。
「アンバー?」
不安になりながら、レイラは家の中を隅々まで見て回った。
寝室や納戸、ベッドの下や戸棚の中まで、くまなく目を配る。
だが、アンバーはどこにもいない。
レイラは小屋を飛び出すと、今度は森の中を捜し回ることにする。
「アンバー、どこにいるのーっ?」
声が枯れるのも構わず、必死に叫びながら、森を何往復もした。
だが、それでもアンバーは見つからなかった。
そもそも、鼻の効くアンバーのことだ。
森のどこかにいるなら、遠くからでもレイラの匂いに気づき、駆けつけてくれるだろう。
どんなに時間が経っても現れないということは、アンバーはもう、ここにはいないのだ。
日が暮れ森がすっかり闇に覆われた頃、レイラはついにあきらめた。
レイラが帰ってこなかったから、アンバーはきっと、森を出ていってしまったのだ。
がっくりと肩を落としながら、久しぶりに自分のベッドに身を横たえる。
ランプの灯りだけが頼りの薄暗い室内に、微かな埃が舞い上がった。
そのときレイラは、突っ伏した枕に、銀色の毛が一本落ちているのを見つけた。
慎重に手に取り、ランプにかざす。朱色の灯りの中で、それは淡い銀色の光を放っていた。
「アンバー……」
たまらなくなって、レイラは声を震わせた。
あの小さな温もりを、唯一の家族を、この手から失ってしまった。
もう二度と、あの愛くるしい琥珀色の瞳を見ることはできないし、『ウォン!』と賢く返事をする声を聞くこともできない。
もちろん、もふもふの体に身をゆだねて眠ることも。
「うっ、うぅ……」
レイラのエメラルドグリーンの瞳からあふれた涙が、頬を滑り落ち、枕を濡らす。
その日レイラは、一晩中後悔に苛まれ、一睡もできなかった。
そして翌朝、日が昇るなり、荷造りを始めた。
少しの衣服に、まずまずの価値がある銀のカトラリー、家宝として引き継がれてきた万能薬の調合文書。必要なものや大事なものはわずかしかなく、あっという間に終わってしまう。
レイラは今日、生まれ育ったこの森を離れるつもりだった。
ここにいるとアンバーのことを思い出して、つらくなるからだ。
レイラはもう、アンバーと出会う前の、ひとりでも平気な彼女には戻れなかった。
それにエドモンとポーラのところに戻れば、歓迎してくれるのが分かっている。
こんなにも寂しい思いをしなくて済むだろう。
レイラは最後に、昨日拾ったアンバーの毛を大事に布にくるむと、懐にしまった。
そして、思い出のたくさん詰まった家の中をゆっくりと見渡す。
「さようなら」
最後にポツンとそう言い残して、小さな鞄を手に、レイラは小屋をあとにした。
第二章 国王陛下に俺の子を孕めと言われました
十年の歳月が流れた。
レイラは二十四歳になっていた。
その日もレイラは、調合したばかりの万能薬を売りに行くために、台所のテーブルで瓶を箱に詰めていた。
今回は大量に作ったため、五箱にものぼる。
すべて売りさばけば、どうにか目標金額に到達できるだろう。
「おや、今回はずいぶんたくさんできたんだね。重くないかい? 手伝おうか?」
すると、寝室で横になっていたはずのポーラが出てきて、心配そうに声をかけてきた。
「ううん、じきにダニエルが来て手伝ってくれるから大丈夫よ。ポーラは無理せずに、ゆっくり寝てて。お医者様もなるべく寝ていなさいって言ってたじゃない」
「ああ、そうだね、でも……ゴホゴホッ!」
会話の途中で咳き込んだポーラの背中を、レイラは慌ててさすった。
すっかり年をとったポーラの背中は、日に日に小さくなっているように感じる。
三年前、病で床に臥していたエドモンが亡くなってからというもの、病状が悪化するばかりだ。
「さあ、ベッドに戻りましょ。私が留守の間は、いつものようにコレットおばさんに家のことをお願いしてるから。二日もすれば帰ってくるから、安心して」
「いつもすまないねえ、レイラ。本当はもう、とっくに結婚しているような年なのに、私たち夫婦の世話ばかりさせてしまって申し訳なく思うよ」
「またその話? だから、結婚にはまったく興味がないって言ってるじゃない。ポーラとずっと一緒にいられて、私は充分幸せよ」
レイラは困った笑みを浮かべながら、寝室に戻るポーラに付き添った。それから再び台所へ戻ると、草色のワンピースのポケットから紙切れを取り出し、小さくため息をつく。
「無事に全部売れるといいんだけど……」
レイラが手にしているのは、ポーラの薬の請求書である。
ポーラの持病の薬代は、年々高額になっていた。
レイラの子守りの収入とエドモンの遺してくれた蓄えだけでは足りなくなり、一年ほど前から、レイラはまた万能薬を作るようになった。
昔のように、定期的に王都エンメルの市場に売りに行って、どうにか薬代を工面している。
それまでは万能薬の主原料であるエポックの花が手に入らず、作ることができなかったのだが、ダニエルが近くの森の奥に生えているのを教えてくれたのだ。調合器具は、古道具屋でなんとか揃えることができた。
玄関扉をコツコツとノックする音がする。
「レイラ、準備は整ったか?」
入ってきたのは、レイラと同じ年ごろの、逞しい体躯をした青年だった。
短めの茶色い髪に、涼しげな目元。先ほどポーラとの会話の中に出てきたコレットおばさんの息子、ダニエルである。
コレットおばさんは近所に住む女性で、家族でぶどう農園を営んでいた。
この界隈では群を抜いて裕福だが、気取らない世話好きな性分で、病気のポーラのことを心配し、しょっちゅう訪ねてきてくれる。
息子のダニエルも母親の気さくな性分を受け継いでおり、レイラが王都に薬を売りに行くときは、いつもすすんで馬車を出してくれた。
「ええ、今終わったところよ。ごめんなさい、ダニエル。今回は量がたくさんあるから、重いと思うわ」
「平気だよ。ほら、この頑丈な腕を見ろよ。君を抱き上げることだってわけないさ」
そう言ってダニエルは、二の腕の筋肉を見せびらかしてくる。
おどけた仕草に、たまらずレイラは笑った。
「たしかに立派な腕だけど、私を抱き上げるのはさすがに無理よ」
「無理なもんか。だって君は、心配になるくらいスリムじゃないか」
「スリムだなんて言い回し、おかしいわ。貧相なだけよ」
「そんなことないさ。だって――」
「だって?」
ダニエルが妙なところで言葉を止めたので、レイラは首を傾げる。
「――いや、何でもない。さ、早めに積んじまおう」
ダニエルは誤魔化すように咳払いをして、箱を三つ、いっぺんに抱えた。
レイラも箱をひとつ持ち、玄関先に停められた馬車の荷台まで運ぶ。
背中まで伸びた波打つキャラメル色の髪の隙間から、ふたつの小さな赤い痣のある、白くて細いうなじがのぞいている。
全体的にほっそりしているが、女らしいなだらかな曲線を描く体。エメラルドグリーンの輝く瞳には純粋さと艶めかしさが混在していて、薄桃色のふっくらとした唇は果実のようにみずみずしく愛らしい。
そんな自分を、赤らんだ顔のダニエルが、チラリと盗み見したのにレイラは気づかない。
すべての荷を積み終えると、レイラはダニエルとともに王都に向けて出発した。
辺境の地リネイラから王都エンメルまでは、馬車で丸一日かかる。
途中野宿をして、翌朝ふたりはようやく王都に到着した。
街へと通ずる通用門で通行手形を見せれば、高い壁に囲まれた大陸最大の街が目の前に広がる。
王都エンメルは三つの区域に分かれており、入ってすぐの区域が、レイラが目指す商業区だった。
田舎者にしてみれば、今日は祭日かと思い違うほどの人通りである。
ひっきりなしに馬車が行き交い、そこかしこで人々の楽しげな話し声や笑い声が絶えない。沿道にはずらりと多種多様な店が並び、あちらこちらで売り子の呼び声が響いていた。
広場では、道化師による大道芸のショーまで催され、人だかりを作っている。
三つの区域の中心に堂々とそびえているのは、言わずもがな、由緒正しき白亜のザルーラ城だ。
「相変わらず、ものすごい人ね。年々賑やかになっているみたい」
活気あふれる街を見渡しながら、レイラは感嘆した。
来るたびに思うことだが、山と川しかないリネイラとは、何もかもが違う。
「ああ。街を囲む防壁も完成したし、この一年で、ますます派手になったよな。狼神のおかげだよ」
手綱を握り、狭い街道を行く馬を器用に操りながら、ダニエルが答えた。
狼神――ダニエルがそう呼んだのは、ここザルーラ王国の若き王である。
イライアス・アルバン・ザルーラ。
齢二十一の彼は、五年前、急な前王の崩御を機に、わずか十六歳でザルーラ国王となった。
前王の代は、弱小国と揶揄されていたザルーラ王国だったが、イライアスが王位に就いてからはガラリとその様相を変えた。
イライアスは類まれなる軍事手腕を発揮し、前王の崩御にかこつけて攻撃をしかけた近隣国を次々と降伏させた。そしてわずか五年で、ザルーラ王国を大陸随一の大国に押し上げたのである。
狼神の呼び名は、戦の際、君主自ら先陣を切って馬で駆ける姿からきている。
鋭い瞳と、対峙した者を震え上がらせる素早い剣技は狼そのもので、誰彼ともなくそう呼ぶようになったという。
軍事手腕に乏しかった前王の代は、先行き危ういとされていたザルーラ王国だが、狼神のおかげで今はその片鱗すらない。
国民は若き国王を崇拝し、他国からの侵略に怯えることなく平安に暮らしていた。
ふと、レイラはある噂を思い出した。
「でも、ときどき残虐王なんていう呼び名を聞くけど、どうしてかしら?」
「それは、残虐な一面もあるからさ。うちの農園の得意先に、とある男爵家があるんだけどね。そこの三番目のご子息が、最近まで王宮に出仕していたんだ。彼が言うには、普段の陛下は、神どころか悪魔そのものらしい」
驚いたレイラは、目を瞬いた。
「悪魔? まあ、本当なの?」
「ああ、気に入らないことがあったら、女子供関係なく、厳しく処罰を与えるらしいよ。中には処刑された者もいるとかいないとか。寝室に忍び込んで寵愛を得ようとした貴族令嬢を、不敬罪として国外追放したこともあるらしい。いくら不快だったとはいえ、そこまでするのはやり過ぎだと思わないか?」
「たしかにそうね。きっと、厳格な方なんだわ」
ダニエルの言葉に同意しつつも、レイラは、そういった彼の冷酷な面がここまで国を発展させたのではないかとも思う。温厚だった前王はまるで役に立たなかったと聞くから、大国を率いる者としては必要な性分なのだろう。
とはいえ、平民のレイラが、雲の上のような存在の彼とこの先相まみえることはない。だから国王の意外な噂話を聞いても、まるで本の中の出来事を耳にしているようで、現実味がなかった。
停車場に馬車を繋ぐと、レイラとダニエルは、市場に向かった。
いつものように、顔なじみの雑貨屋のテントの端を借りて、万能薬を売ることにする。
長テーブルにずらりと瓶を並べると、すぐに客が寄ってきた。
「おや、またこの薬を売ってるのかい? この間歯が痛いときに塗ったら、ずいぶん効いたんだ。両親にあげたいから、またひとつ買ってくよ」
「おお、やっと来たか! この薬がないと、肩凝りがひどくてな。お前さんたちがくるのを心待ちにしていたんだ」
レイラが再び王都で万能薬を売るようになって、一年が経つ。九年ぶりに売ったときは、あまり客がつかなかったが、この頃は愛用者が増えていた。
とはいえ今回はかなり大量に準備したため、すべて売るには時間がかかるだろう。
(よし、頑張らなくちゃ!)
レイラは気合いを入れると、周囲の店の呼び込みの声に負けないよう精いっぱい声を張り上げた。
そのせいか、万能薬が飛ぶように売れていく。
(よかった。この調子だと、夕方までには売り切れそうだわ)
ある程度進んだところで、野宿をすることになる。
馬車から降りると、そこは水音が涼やかに響く渓谷だった。上空には星が瞬き、生い茂る緑が夜風に煽られザワザワと音をたてている。
「よし、きょうそうだ!」
「ぼく、負けないからな!」
「かけっこ、かけっこ!」
疲れ知らずの三人の子供たちは、ようやく狭い馬車から出ることができて興奮しているようだった。さっそく我先にと走り出し、どんどん遠ざかっていくものだから、これには泣きじゃくる赤ん坊をあやしている母親も参っていた。
「こらっ! 夜だから、あまり遠くに行ってはダメよ! 戻ってきなさい!」
とはいえ、赤ん坊を抱えて追いかけるのは容易ではない。
子供たちは母親の言うことに耳を貸す様子はなく、彼女があたふたしているうちに、あっという間に闇の中に見えなくなってしまった。
亭主はというと、焚き火の準備に夢中で、我関せずといった具合だ。
「大丈夫です、私が行きますから!」
見かねたレイラは、すぐさま子供たちを追って走り出した。
「すまないねえ。暗いから、気をつけるんだよ!」
森育ちのレイラは夜目がきく。だから、すぐに子供たちを見つけられると思っていた。
だが彼らは小さい割に足が速いようで、予想に反してなかなか見つからない。
それでもどうにかこうにか、林の中で長男と次男を見つけることに成功する。やれどちらが勝っただの負けただの、小競り合いの最中のようだ。
それなのに、まだ三歳程度の末っ子だけが、どこを捜してもいなかった。
(もしかして、崖の方に行ったのかしら)
切り立った崖はかなりの高さがあり、小さな子が過って落下したらひとたまりもないだろう。
焦ったレイラは、崖へと急いだ。そして案の定、きゃっきゃとはしゃぎながら石集めをしている末っ子を視界に収めた。
あろうことか、一歩でも足を踏み外したら渓谷へと真っ逆さまに落ちてしまう、きわどいところをウロチョロしている。
暗いため、自分が危険な場所にいるのを分かっていないようだ。
レイラは顔を青くすると、必死に声を張り上げた。
「そんなところにいたら、危ないわ! 早くこっちに戻ってきて!」
ところが末っ子は、レイラを見るなり、こちらに来るどころかその場でぴょんぴょん飛び跳ね始めた。
「あ、レイラ! みてみて! このいし、光っててすごくきれいだよ」
無邪気な声でそんなことを言われ、レイラはますます生きた心地がしなくなる。
そのとき、低い唸りとともに強い風が吹き、あたりの木々が悲鳴のような葉音を鳴らした。
突風に煽られた末っ子の体がぐらりとよろめく。
「ひゃあっ!」
小さな手足を必死に動かし、バランスを取ろうとしているが、うまくいかないようだ。
(大変!)
レイラは、ぐらついている末っ子のもとへと無我夢中で駆けだした。
そしてありったけの力で、彼の体を崖とは反対方向に突き飛ばす。
ドンッ!
レイラに突き飛ばされた末っ子が、地面にしりもちをついた。急なことにびっくりしたようで、瞳をうるうるさせ、今にも泣きだしそうになっている。
だがレイラがホッとできたのは、ほんの一瞬のことだった。
直後、ぐらりと体が傾き、視界が星空で埋め尽くされたからだ。
どうやら、今度はレイラの方が崖から足を踏み外してしまったらしい。
末っ子を助けるのに夢中で、いつの間にか自分が崖ぎりぎりにいたことに、レイラはこの瞬間まで気づかなかった。
そしてレイラは、声を上げる間もないまま、渓谷へと真っ逆さまに落ちていった。
バチン、と火の爆ぜる音で目が覚めた。
全身が鉛をまとっているかのように重だるい。
熱があるのか、意識が朦朧としていて、呼吸もままならなかった。
(ここは……?)
いつの間にか、レイラは知らない部屋のベッドに横たわっていた。
体には、丁寧に縫われたキルトのブランケットが掛けられている。高価なものではないが、ぽかぽかと温かい。
壁には縄や銃、獣の毛皮などがずらりと掛けられており、暖炉では赤々とした炎が燃え盛っていた。暖炉の上には、夫婦らしき男女の写真が飾られている。
物音がして、レイラはそちらに視線を移した。
近くにあるテーブルで、女性が、桶の水に浸した布巾を絞っている。白髪交じりの髪を後頭部できちんとまとめており、丸眼鏡の奥の瞳は穏やかそうだ。
「あの……」
重い体をどうにか起こし、乾いた喉を動かすと、女性が驚いたように顔を上げた。
「目を覚ましたのかい! よかったよ!」
「ここは、どこですか?」
「ここは、リネイラだよ」
「リネイラ? いったいどうして、そんなところに……」
リネイラは、隣国デガスに接するザルーラ王国の辺境地であり、レイラの住む〝死霊の森〟からはずいぶん離れている。
記憶が曖昧で状況が飲み込めない。
「あんた、うちの近くの川のほとりに倒れていたんだよ。たぶんどこかの崖から落下して、ここまで運ばれてきたんだろう。四日も眠り続けていたから、もう目覚めないんじゃないかと心配していたんだ」
涙まで浮かべて赤の他人であるレイラを心配している彼女は、見た目どおり思いやりにあふれた人のようだ。
(そうだった。私、崖から足を踏み外したんだったわ)
女性の言葉がきっかけで、記憶が徐々によみがえる。
どうやら、馬車に乗せてもらった行商人一家の子供を助けた際、崖から川に転落してリネイラまで流されたらしい。
(どうしよう。アンバーが寂しがってないかしら?)
真っ先に思い浮かんだのは、きっと今もあの丸太小屋でレイラを待っている、小さな家族の面影だった。
翌日には帰ると言ったのに、四日も経ってしまったなんて、間違いなく心配している。ひとりぼっちの暗い小屋で、悲しげに鳴くアンバーを想像すると、いても立ってもいられなかった。
「助けてくださり、ありがとうございます。でも私、すぐに帰らないと……」
レイラは大急ぎで身を起こそうとした。だが――。
「いたっ!」
起き上がろうとした瞬間、両足に激痛が走った。
思い出したかのように、頭痛もガンガン襲ってくる。
「ああっ、動いちゃだめだよ!」
女性が、起き上がろうとしたレイラをたしなめるように、肩を押さえた。
よく見ると、両足には厳重に包帯が巻かれている。どうやら頭にも巻かれているようだ。
「あんた、大怪我をしているんだよ。流されている間に、あちこち岩場にぶつけたんだろう。モルグス川は大岩が多い上に、川の流れが速いからね。とにかく、今はとてもじゃないが帰れる状態じゃないよ。治るまで、ここでゆっくりしていきな、ねえエドモン?」
女性が後ろを振り返る。
今まで気づかなかったが、顎髭を生やした初老の男性が、ロッキングチェアに腰かけパイプをふかしていた。女性と同じく、温厚そうな顔立ちをしている。
男性が、頷きながら女性の声に答えた。
「そうだ、ゆっくり療養したらいい。なに、わしらには子供がいなくてな。年寄りだけで、年がら年じゅう暇してるんだ。遠慮はいらないよ」
帰りたくとも体がこれではどうにもならず、結局レイラは、申し訳ないと思いながらもふたりの親切に甘えることにしたのだった。
エドモンはかつて辺境の砦を守る警備兵だったが、引退してからは、狩猟を生業としているらしい。ふたりの家の中は、かつてエドモンが仕留めた獲物の毛皮があふれていた。
妻の名は、ポーラといった。
趣味の裁縫に日々勤しみながら、エドモンとともに、穏やかに老後の生活を送っているとのこと。
第一印象のままに、ふたりはとても親切な人たちだった。
見ず知らずのレイラをかいがいしく看病し、温かくて美味しい食事を与えてくれた。
レイラの知らないリネイラの話をたくさん聞かせてくれたし、所持品のないレイラの服を手ずからあつらえもしてくれた。
松葉杖をついて歩けるようになると、レイラは料理や掃除、鶏の世話などを手伝って、ふたりに恩返しをするようになった。
日に日にふたりとの暮らしに慣れていったが、アンバーのことは常に頭の中にあった。
エドモンに、アンバーの様子を見てきてもらおうと考えたこともある。
だが、すぐに思い直した。
エドモンは親切だが、狩猟を生業としているだけあり、獣を獲物としか思っていない。
もしもエドモンが森でアンバーに遭遇したら、間違いなく銃弾を放つだろう。
そんな悲しい事態だけは、何としても避けたかった。
レイラの怪我が完治するのには、およそ二ヶ月かかった。
ある夜、ついに頃合いと見て、そろそろ自分の家に帰りたいと、レイラはエドモンとポーラに申し出た。
するとポーラが目に涙を浮かべ、レイラをひしと抱きしめてくる。
「ああ、レイラ。あんたのことは、本当の娘のように大事に思っているんだよ。できればこのままあんたと一緒に暮らしたい。ダメかね? 家族がいないのなら、ここに住んでも問題はないだろ?」
「ありがとう、ポーラ。私も、エドモンとポーラのことが大好きよ。でも、どうしても家に帰らないといけないの。ごめんなさい」
森で自分の帰りを待ちわびているであろう小さな家族を、このまま放ってはおけない。
ぎゅっと抱きしめて、何度も謝って、安心させてやりたい。
するとエドモンが、レイラの気持ちを汲んでくれたかのように、皺だらけの大きな手で優しくレイラの頭を撫でてくれた。
「いいんだよ、レイラ。気をつけて帰りなさい。だがもしも何かうまくいかないことがあって、人恋しくなったら、いつでもここに戻っておいで。わしらはいつだってお前を歓迎するからな」
翌朝、レイラは二ヶ月間世話になった夫妻の家をあとにした。
文無しのレイラに、夫婦は少しのお金まで持たせてくれた。
おかげで王都まで辻馬車に乗り、宿にまで泊まることができた。
翌朝、さらに馬車を乗り継いで、レイラはようやく生まれ育った〝死霊の森〟近くの村に行き着いた。
胸を高鳴らせながら、久々に森の中に足を踏み入れる。
やがて、森の中ほどにポツンと建っている、住み慣れた丸太小屋を見つけた。
レイラはホッと胸を撫で下ろすと、はやる気持ちを抑えながら、家路を急いだ。
「アンバー! 遅くなってごめんなさい!」
ドアを開け放つなり、大声で叫んだ。いつものように、アンバーが尻尾をパタパタ振って飛びかかってくることを期待しながら。
だが、家の中はシンと静まり返ったままである。
「アンバー?」
不安になりながら、レイラは家の中を隅々まで見て回った。
寝室や納戸、ベッドの下や戸棚の中まで、くまなく目を配る。
だが、アンバーはどこにもいない。
レイラは小屋を飛び出すと、今度は森の中を捜し回ることにする。
「アンバー、どこにいるのーっ?」
声が枯れるのも構わず、必死に叫びながら、森を何往復もした。
だが、それでもアンバーは見つからなかった。
そもそも、鼻の効くアンバーのことだ。
森のどこかにいるなら、遠くからでもレイラの匂いに気づき、駆けつけてくれるだろう。
どんなに時間が経っても現れないということは、アンバーはもう、ここにはいないのだ。
日が暮れ森がすっかり闇に覆われた頃、レイラはついにあきらめた。
レイラが帰ってこなかったから、アンバーはきっと、森を出ていってしまったのだ。
がっくりと肩を落としながら、久しぶりに自分のベッドに身を横たえる。
ランプの灯りだけが頼りの薄暗い室内に、微かな埃が舞い上がった。
そのときレイラは、突っ伏した枕に、銀色の毛が一本落ちているのを見つけた。
慎重に手に取り、ランプにかざす。朱色の灯りの中で、それは淡い銀色の光を放っていた。
「アンバー……」
たまらなくなって、レイラは声を震わせた。
あの小さな温もりを、唯一の家族を、この手から失ってしまった。
もう二度と、あの愛くるしい琥珀色の瞳を見ることはできないし、『ウォン!』と賢く返事をする声を聞くこともできない。
もちろん、もふもふの体に身をゆだねて眠ることも。
「うっ、うぅ……」
レイラのエメラルドグリーンの瞳からあふれた涙が、頬を滑り落ち、枕を濡らす。
その日レイラは、一晩中後悔に苛まれ、一睡もできなかった。
そして翌朝、日が昇るなり、荷造りを始めた。
少しの衣服に、まずまずの価値がある銀のカトラリー、家宝として引き継がれてきた万能薬の調合文書。必要なものや大事なものはわずかしかなく、あっという間に終わってしまう。
レイラは今日、生まれ育ったこの森を離れるつもりだった。
ここにいるとアンバーのことを思い出して、つらくなるからだ。
レイラはもう、アンバーと出会う前の、ひとりでも平気な彼女には戻れなかった。
それにエドモンとポーラのところに戻れば、歓迎してくれるのが分かっている。
こんなにも寂しい思いをしなくて済むだろう。
レイラは最後に、昨日拾ったアンバーの毛を大事に布にくるむと、懐にしまった。
そして、思い出のたくさん詰まった家の中をゆっくりと見渡す。
「さようなら」
最後にポツンとそう言い残して、小さな鞄を手に、レイラは小屋をあとにした。
第二章 国王陛下に俺の子を孕めと言われました
十年の歳月が流れた。
レイラは二十四歳になっていた。
その日もレイラは、調合したばかりの万能薬を売りに行くために、台所のテーブルで瓶を箱に詰めていた。
今回は大量に作ったため、五箱にものぼる。
すべて売りさばけば、どうにか目標金額に到達できるだろう。
「おや、今回はずいぶんたくさんできたんだね。重くないかい? 手伝おうか?」
すると、寝室で横になっていたはずのポーラが出てきて、心配そうに声をかけてきた。
「ううん、じきにダニエルが来て手伝ってくれるから大丈夫よ。ポーラは無理せずに、ゆっくり寝てて。お医者様もなるべく寝ていなさいって言ってたじゃない」
「ああ、そうだね、でも……ゴホゴホッ!」
会話の途中で咳き込んだポーラの背中を、レイラは慌ててさすった。
すっかり年をとったポーラの背中は、日に日に小さくなっているように感じる。
三年前、病で床に臥していたエドモンが亡くなってからというもの、病状が悪化するばかりだ。
「さあ、ベッドに戻りましょ。私が留守の間は、いつものようにコレットおばさんに家のことをお願いしてるから。二日もすれば帰ってくるから、安心して」
「いつもすまないねえ、レイラ。本当はもう、とっくに結婚しているような年なのに、私たち夫婦の世話ばかりさせてしまって申し訳なく思うよ」
「またその話? だから、結婚にはまったく興味がないって言ってるじゃない。ポーラとずっと一緒にいられて、私は充分幸せよ」
レイラは困った笑みを浮かべながら、寝室に戻るポーラに付き添った。それから再び台所へ戻ると、草色のワンピースのポケットから紙切れを取り出し、小さくため息をつく。
「無事に全部売れるといいんだけど……」
レイラが手にしているのは、ポーラの薬の請求書である。
ポーラの持病の薬代は、年々高額になっていた。
レイラの子守りの収入とエドモンの遺してくれた蓄えだけでは足りなくなり、一年ほど前から、レイラはまた万能薬を作るようになった。
昔のように、定期的に王都エンメルの市場に売りに行って、どうにか薬代を工面している。
それまでは万能薬の主原料であるエポックの花が手に入らず、作ることができなかったのだが、ダニエルが近くの森の奥に生えているのを教えてくれたのだ。調合器具は、古道具屋でなんとか揃えることができた。
玄関扉をコツコツとノックする音がする。
「レイラ、準備は整ったか?」
入ってきたのは、レイラと同じ年ごろの、逞しい体躯をした青年だった。
短めの茶色い髪に、涼しげな目元。先ほどポーラとの会話の中に出てきたコレットおばさんの息子、ダニエルである。
コレットおばさんは近所に住む女性で、家族でぶどう農園を営んでいた。
この界隈では群を抜いて裕福だが、気取らない世話好きな性分で、病気のポーラのことを心配し、しょっちゅう訪ねてきてくれる。
息子のダニエルも母親の気さくな性分を受け継いでおり、レイラが王都に薬を売りに行くときは、いつもすすんで馬車を出してくれた。
「ええ、今終わったところよ。ごめんなさい、ダニエル。今回は量がたくさんあるから、重いと思うわ」
「平気だよ。ほら、この頑丈な腕を見ろよ。君を抱き上げることだってわけないさ」
そう言ってダニエルは、二の腕の筋肉を見せびらかしてくる。
おどけた仕草に、たまらずレイラは笑った。
「たしかに立派な腕だけど、私を抱き上げるのはさすがに無理よ」
「無理なもんか。だって君は、心配になるくらいスリムじゃないか」
「スリムだなんて言い回し、おかしいわ。貧相なだけよ」
「そんなことないさ。だって――」
「だって?」
ダニエルが妙なところで言葉を止めたので、レイラは首を傾げる。
「――いや、何でもない。さ、早めに積んじまおう」
ダニエルは誤魔化すように咳払いをして、箱を三つ、いっぺんに抱えた。
レイラも箱をひとつ持ち、玄関先に停められた馬車の荷台まで運ぶ。
背中まで伸びた波打つキャラメル色の髪の隙間から、ふたつの小さな赤い痣のある、白くて細いうなじがのぞいている。
全体的にほっそりしているが、女らしいなだらかな曲線を描く体。エメラルドグリーンの輝く瞳には純粋さと艶めかしさが混在していて、薄桃色のふっくらとした唇は果実のようにみずみずしく愛らしい。
そんな自分を、赤らんだ顔のダニエルが、チラリと盗み見したのにレイラは気づかない。
すべての荷を積み終えると、レイラはダニエルとともに王都に向けて出発した。
辺境の地リネイラから王都エンメルまでは、馬車で丸一日かかる。
途中野宿をして、翌朝ふたりはようやく王都に到着した。
街へと通ずる通用門で通行手形を見せれば、高い壁に囲まれた大陸最大の街が目の前に広がる。
王都エンメルは三つの区域に分かれており、入ってすぐの区域が、レイラが目指す商業区だった。
田舎者にしてみれば、今日は祭日かと思い違うほどの人通りである。
ひっきりなしに馬車が行き交い、そこかしこで人々の楽しげな話し声や笑い声が絶えない。沿道にはずらりと多種多様な店が並び、あちらこちらで売り子の呼び声が響いていた。
広場では、道化師による大道芸のショーまで催され、人だかりを作っている。
三つの区域の中心に堂々とそびえているのは、言わずもがな、由緒正しき白亜のザルーラ城だ。
「相変わらず、ものすごい人ね。年々賑やかになっているみたい」
活気あふれる街を見渡しながら、レイラは感嘆した。
来るたびに思うことだが、山と川しかないリネイラとは、何もかもが違う。
「ああ。街を囲む防壁も完成したし、この一年で、ますます派手になったよな。狼神のおかげだよ」
手綱を握り、狭い街道を行く馬を器用に操りながら、ダニエルが答えた。
狼神――ダニエルがそう呼んだのは、ここザルーラ王国の若き王である。
イライアス・アルバン・ザルーラ。
齢二十一の彼は、五年前、急な前王の崩御を機に、わずか十六歳でザルーラ国王となった。
前王の代は、弱小国と揶揄されていたザルーラ王国だったが、イライアスが王位に就いてからはガラリとその様相を変えた。
イライアスは類まれなる軍事手腕を発揮し、前王の崩御にかこつけて攻撃をしかけた近隣国を次々と降伏させた。そしてわずか五年で、ザルーラ王国を大陸随一の大国に押し上げたのである。
狼神の呼び名は、戦の際、君主自ら先陣を切って馬で駆ける姿からきている。
鋭い瞳と、対峙した者を震え上がらせる素早い剣技は狼そのもので、誰彼ともなくそう呼ぶようになったという。
軍事手腕に乏しかった前王の代は、先行き危ういとされていたザルーラ王国だが、狼神のおかげで今はその片鱗すらない。
国民は若き国王を崇拝し、他国からの侵略に怯えることなく平安に暮らしていた。
ふと、レイラはある噂を思い出した。
「でも、ときどき残虐王なんていう呼び名を聞くけど、どうしてかしら?」
「それは、残虐な一面もあるからさ。うちの農園の得意先に、とある男爵家があるんだけどね。そこの三番目のご子息が、最近まで王宮に出仕していたんだ。彼が言うには、普段の陛下は、神どころか悪魔そのものらしい」
驚いたレイラは、目を瞬いた。
「悪魔? まあ、本当なの?」
「ああ、気に入らないことがあったら、女子供関係なく、厳しく処罰を与えるらしいよ。中には処刑された者もいるとかいないとか。寝室に忍び込んで寵愛を得ようとした貴族令嬢を、不敬罪として国外追放したこともあるらしい。いくら不快だったとはいえ、そこまでするのはやり過ぎだと思わないか?」
「たしかにそうね。きっと、厳格な方なんだわ」
ダニエルの言葉に同意しつつも、レイラは、そういった彼の冷酷な面がここまで国を発展させたのではないかとも思う。温厚だった前王はまるで役に立たなかったと聞くから、大国を率いる者としては必要な性分なのだろう。
とはいえ、平民のレイラが、雲の上のような存在の彼とこの先相まみえることはない。だから国王の意外な噂話を聞いても、まるで本の中の出来事を耳にしているようで、現実味がなかった。
停車場に馬車を繋ぐと、レイラとダニエルは、市場に向かった。
いつものように、顔なじみの雑貨屋のテントの端を借りて、万能薬を売ることにする。
長テーブルにずらりと瓶を並べると、すぐに客が寄ってきた。
「おや、またこの薬を売ってるのかい? この間歯が痛いときに塗ったら、ずいぶん効いたんだ。両親にあげたいから、またひとつ買ってくよ」
「おお、やっと来たか! この薬がないと、肩凝りがひどくてな。お前さんたちがくるのを心待ちにしていたんだ」
レイラが再び王都で万能薬を売るようになって、一年が経つ。九年ぶりに売ったときは、あまり客がつかなかったが、この頃は愛用者が増えていた。
とはいえ今回はかなり大量に準備したため、すべて売るには時間がかかるだろう。
(よし、頑張らなくちゃ!)
レイラは気合いを入れると、周囲の店の呼び込みの声に負けないよう精いっぱい声を張り上げた。
そのせいか、万能薬が飛ぶように売れていく。
(よかった。この調子だと、夕方までには売り切れそうだわ)
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