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一章
ライツとエタンダールの塔
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広々とした緑色の大地が一面に広がっている。その所々には岩や石が剥き出しになっていた。岩と石の傍には影が落ち、そして空は明るく晴れ渡っている。上に行くほど青味が深くなる空には虹が架かっている。その虹を映すのは、鏡のように静かな湖面だ。
大地の緑と岩石の灰色、空の青、虹色、そしてそれを映す水色。一枚の絵画の中には工夫を凝らした色が乗せられている。
悪くない思ったのに。
両手を前に出来るだけ伸ばし、絵を見つめたライツは軽く呻いてため息を吐いた。
「粘っても駄目だぞ。ほら、次の奴を呼んでこい」
難しい顔をして絵を眺めていたライツにいつもと変わらない師匠の声が飛んでくる。ライツはしかめ面をして絵を下ろし、目の前に座る一見若い男に渋々と頷いた。このぱっと見た目には二十代半ばに見える男こそが、この塔の主だ。男の名はエタンダールという。
大きな扉を開けてエタンダールの部屋を出たライツは、試験待ちで廊下に並んだ弟子達の先頭の男に声を掛けた。緊張した面持ちをした男が頷いてエタンダールの部屋に入っていく。それを見送ってから、ライツは肩を落としてその場を後にした。
ライツはエタンダールの塔に所属する、魔道士の見習だ。そして今日は月に一度の試験日なのだ。廊下に並んでいる弟子達も多い。ライツは彼らを横目に見ながらエタンダールの部屋を離れた。ちなみに試験を行うのはエタンダール自身で、試験結果を決めるのもエタンダール本人だ。
今回の見習い階級に与えられた課題は『絵を描け』だった。だが、魔道士に対する試験なのだから、エタンダールの出した課題は文字通り絵を描くことではない。課題の真意は自分で予想し、自分なりの答えを導かなければならない。
ライツは考えに考えた末に、白地のキャンバスに魔術で作り出した色粉を乗せるという方法を選んだ。石や植物から作られた絵の具に比べ、魔術で作る色粉の方が色の種類が多い。だから絵の具を用いて描くよりはずっと緻密に風景を表せた、とライツは自信を持っていたのだ。
ところがエタンダールはライツの絵を見て皮肉な笑みを浮かべてこう言った。
頭、かたいねえ、お前。全然、駄目じゃん。
欠伸混じりに言われたことにライツは強いショックを受けた。絵が下手だと貶されるなら判る。ライツは絵描きではないし、いくら凝った色粉を使っても描けるものには限界もある。だがエタンダールの出した課題は言葉通りの意味ではないはずだ。だからきっとエタンダールの言った、頭がかたいという評価は絵の上手い下手のことではないのだろう。
なにが駄目だったんだろう。心の中で呟いてライツは足を止めた。振り返るとエタンダールの部屋の前から伸びた弟子たちの行列が見える。列の最後尾はライツがいる場所からまだずっと先の方だ。階段まで続いているらしい列の先を背伸びをしてうかがってから、ライツは重い足取りで再び歩き出した。
万年見習い、という、一部の心ない者が使う嫌なあだ名を消し去るためにも、今回の試験は合格したかった。だが結果は不合格。近頃、毎月繰り返されているその結果にライツは深く落ち込んだ。エタンダールは親切にどこが悪いかとは教えてくれない。ライツに限った話ではなく、どの弟子に対してもエタンダールは同じ態度を取る。弟子達の自主性が重んじられるこの塔ならではのやり方だ。
それでも塔にいる以上、縛りがない訳ではない。例えば食事の用意などはしっかりと分担されているし、仕事をきちんとこなさない弟子には罰も与えられる。決められた仕事をさぼっていたある弟子にエタンダールが直々に罰を与えた結果、この塔にいることに耐えられなくなって逃げたということもあった。
入門の時に一応試験はあるが、基本的にはこの塔は来るのも出るのも自由だ。そしてここでなにを学び、どう活用するかを考えるのは自分自身だ。何度も言われたことを思い出し、ライツは憂鬱な気分になった。月に一度の試験に合格すれば魔道士としての階級を上げることが可能だ。階級が上がればそれだけ学べることも増える。なのにライツは魔道士の階級としては一番下の見習い階級、正式名では見習魔道士の位に居続けているのだ。
また駄目だったと落ち込んでいても始まらない。階段が近くなった時にはライツはすっかり立ち直っていた。この塔にいると長く鬱々と落ち込んでいたらついて行けなくなってしまうのだ。そんな暇があったら次のことを考えた方がいい。
階段を無視して廊下を折れ、ライツは真っ直ぐに自分の部屋に向かった。この塔では階級に関わらず、弟子は全て個室を持っている。弟子の数は総勢九十八。塔にしては特に多くも少なくもない、平均的な数だ。
「うわ、そういえば当番だっけ!」
別棟に移動したところでライツははっと我に返った。慌ただしく廊下を駆け出したライツに、通りすがりの兄弟子が気をつけろよ、と注意する。判りましたと行儀のいい返事をしつつもライツは長い廊下を急いで駆け抜けた。階段を数階層分ほど下りてから、鍵の使える陣の上に乗る。
弟子達に与えられた部屋のある建物の高さは二十階以上ある。二十階層分もの階段を上り下りするのはきつい。最上階の部屋を割り当てられている者も、食事のたびに一階の食堂に降りなければならないのだ。そのため、階段の踊り場には五階ごとにこうした移動のための魔法陣が敷かれているのだ。
ライツは魔法陣を動かすための鍵をローブの内側から取り出した。魔法陣と鍵、そして簡単な移動用の呪文が揃った時、初めて魔法が発動する仕組みだ。魔法陣の上からかき消えた直後、ライツは一階の階段の踊り場に一瞬で移動した。鍵を元通りにポケットに突っ込んで急いで自分の部屋に向かう。
ライツが移動に使った魔法陣を敷いたのはエタンダールだ。この塔で学ぶ者は全てエタンダールの弟子ということになっている。この国には階級の高い魔道士の所有する多くの塔があるが、大抵の塔では魔道士を志す者が日々学んでいる。そしてそんな塔の中でもエタンダールの所有する、バレンティア地方唯一のこの塔の弟子達はとても個性豊かだ。
まあ、師匠には誰もかなわないんだけどね。
人種もまちまち、髪の色一つとっても様々な弟子達のことを思い浮かべたライツは思わず苦笑した。そんな弟子達に負けず劣らず、エタンダールは強烈な性格をしているのだ。
なにしろ、女癖がとことん悪い。ふらっと遊びに出かけては、色街で騒ぎの一つや二つ起こすのは日常茶飯事だ。おまけに金勘定はいいかげん、国王からの親書をいとも簡単に紛失するわ、寝起きの時間はいいかげんだわ、とにかく一貫してけじめがない。
そんなだらしない師匠の尻ぬぐいをするのは塔に詰める弟子達なのだが、そのことをエタンダールは何とも思っていないらしい。そのせいか、塔の近くの街で暮らす人々は、エタンダールが力のある魔道士だとは思っていないらしい。
ところがエタンダールが実は数多いる魔道士の中でも、トップクラスの実力の持ち主だから笑えない。
この国に多く存在する魔道士の中でも歴史書に名前が記される程の実力者は五名。エヴァン国の中心であるラルーセン地方にある巨大な塔の魔導師、ゼクー。セモヴェンテのライノゼ。ラシュハン砂漠の遺跡の地下深くにこもると言われるマギハ。フバイルの騎士の異名を誇るナキリ。そして最後がこのバレンティアのエタンダールだ。
彼らは魔道士としては最高位である上級魔導師の称号を持つ。国王直々に認めた者にだけ与えられるこの称号を持つのは、今のところこの五人だけだ。
そんな風に見えないけどね。ライツはだらしないエタンダールのことを思い浮かべ、頬を引きつらせた。慌ただしく自分の部屋に駆け込み、急いで絵を置いて、再び部屋を駆け出す。ライツは慌ただしく調理場に向かった。
十三になったばかりのライツの身丈は他の弟子に比べて一回りは小さい。調理場に入ったライツは入り口のところにいた大柄な男に遅いぞ、と叱られた。すみませんと謝りつつ、食事当番の他の弟子達の間をすり抜ける。
真っ先に流し場で手を洗い、ライツはナイフを持って調理場の隅の椅子に腰掛けた。足許の木箱から野菜を取り上げて皮を剥く。
「よう、ライツ。試験はどうだったんだ?」
調理台について作業をしていた顔見知りの弟子に訊ねられ、ライツは目をあげた。すぐに手元に目を戻してライツは答えの代わりに肩を竦めてみせた。相変わらずか、と苦笑する相手にライツは頷いた。
専門の調理人も二、三人は調理場に出入りしているが、百名近くの弟子全員の食事をそれだけの調理人で作るのは難しい。そのため、見習魔道士が毎食の調理の手伝いを順番で行っているのだ。ちなみに見習魔道士はこの塔全体で十名強だ。ライツの担当は材料の皮むきや下ごしらえで、焼きや煮込みと言った調理は別の弟子に分担されている。
何故、調理の手伝いが見習魔導卒のみに振り分けられるかと言えば、塔に住まう者の中で一番暇だからだ。かつて軍隊に加わり活躍していた時代の名残で、魔道士は幾つかの階級に分けられている。その階級の底辺、一番下位なのがライツの見習魔道士の位なのだ。
手早く根菜の皮を剥いては金属製の器に放り込む。それを何度か繰り返した後、ライツは別の野菜の皮を剥き始めた。今日のメニューは野菜のたっぷり入ったシチューと焼きたてパン、それにこんがりと焼いた肉だ。
一通りの下準備が終わると今度は本格的な調理が始まる。下準備の仕事を終えたライツは他の弟子達が働く調理場を後にした。
そう、普通は暇だから割り当てられる仕事なんだけど。愚痴っぽいことを考えつつ、ライツは再びエタンダールの部屋に向かった。
廊下を走ってエタンダールの居る塔に戻ったライツは急いで最上階を目指した。ちなみにエタンダールや上位階級に属する弟子の数名が住む場所を塔と呼ぶ。それに対して、弟子の個室がある棟は寮と呼ばれている。だがそれらはこの塔に所属する者の間だけでの俗称だ。通常、塔と言えば弟子のいる寮や調理場、食堂などを含めた敷地、運営主に与えられた土地全体を指す。例えばここ、エタンダールの塔なら建物のある場所だけではなく小高い丘を丸ごと塔と呼ぶ訳だ。
大抵の力ある魔道士は塔を所有している。が、塔を所有する魔道士には様々なタイプがあり、塔の内にこもって魔術の研究にひたすら打ち込むものもあれば、同じ目的を持つ者と共に仕事場として活用する者もある。中でも一番多い使用法は、魔道士を目指す者のための教育の場、つまり未来の魔道士のための学校という使い方だ。そしてエタンダールの塔も学ぶ場所として魔道士を目指す者に門戸は開かれている。
学びたい者に門を開き、これまでに多くの魔道士を輩出したエタンダールの塔。だがその実、塔の所有者はだらしがないことこの上なく、おまけに自分の身の回りの世話が一切出来ないと来ている。ライツは急いでエタンダールの部屋のある塔に移動しつつ、深々とため息を吐いた。
移動の魔法陣を用い、手っ取り早く塔の最上階に辿り着いたライツはふと眉を寄せた。あれだけ廊下に並んでいた弟子達が一人も居なくなっている。もしかして試験は終了したのだろうか。そう考えながらライツは静かに廊下を進んだ。さっきまで賑わっていた廊下はやけに静まり返っている。いつもなら他人の試験の見学希望者も出るはずだ。エタンダールは試験は個別に行うが、見学には許可を出してくれる。なのに弟子が一人もいない。
もしかして師匠の部屋に全員入っちゃったのかな。そんなことを考えながらライツはエタンダールの部屋の前に立った。他の部屋とは違い、重厚さをかもし出している深い焦げ茶色の扉は大きく、とても古びている。ライツは周囲に誰もいないことをもう一度確認してから扉を軽く叩いた。だが、中から返事はない。ライツは仕方なく金色の取っ手に手をかけた。磨き抜かれた取っ手をゆっくり引く。
唐突にライツの耳に悲鳴が飛び込んでくる。どうやら内部の音が漏れないように部屋の内側に音を遮断する魔術が施されていたらしい。
「ご主人さまあ! 倒れてないで、助けてください!」
聞こえてきた愛らしい少女の声に背を押されるようにしてライツはエタンダールの部屋に滑り込んだ。背後できっちりとドアを閉じて部屋の様子を確認する。広々とした部屋の床には弟子が一人、目を回して引っくり返っている。荒れた机の上、出しっぱなしになった椅子、提出された課題の山、それらを順繰りに眺めてからライツは目を正面に戻した。
声の主は壁際にへたり込んでいた。一目で怯えていると判るほど少女は震えている。身体を震わせながら懸命に主人を呼ぶ少女をライツはまじまじと見た。愛らしい顔に見慣れぬ紫色の髪、人にしてはやけに大きな耳、そして少女には深い闇色の羽根が生えていた。剥き出しになった足は膝辺りからつま先にかけて赤く、足先には鈎のような形の爪もある。その上、少女は服を一切身につけていない。ライツはそんな少女を見つめてから、部屋の中央に立っているエタンダールの背中にうろんな眼差しを向けた。
「オレ様を淫魔でたぶらかそうなんざ、百年早いわ! この馬鹿め!」
大声で笑いながら言ったエタンダールが嬉々としてマントを取る。ライツは手近なものをつかんで真っ直ぐに駆けた。
「馬鹿はあんただ!」
身軽に飛んだライツは手にした分厚い魔術書でエタンダールの後頭部をめいっぱいぶん殴った。
大地の緑と岩石の灰色、空の青、虹色、そしてそれを映す水色。一枚の絵画の中には工夫を凝らした色が乗せられている。
悪くない思ったのに。
両手を前に出来るだけ伸ばし、絵を見つめたライツは軽く呻いてため息を吐いた。
「粘っても駄目だぞ。ほら、次の奴を呼んでこい」
難しい顔をして絵を眺めていたライツにいつもと変わらない師匠の声が飛んでくる。ライツはしかめ面をして絵を下ろし、目の前に座る一見若い男に渋々と頷いた。このぱっと見た目には二十代半ばに見える男こそが、この塔の主だ。男の名はエタンダールという。
大きな扉を開けてエタンダールの部屋を出たライツは、試験待ちで廊下に並んだ弟子達の先頭の男に声を掛けた。緊張した面持ちをした男が頷いてエタンダールの部屋に入っていく。それを見送ってから、ライツは肩を落としてその場を後にした。
ライツはエタンダールの塔に所属する、魔道士の見習だ。そして今日は月に一度の試験日なのだ。廊下に並んでいる弟子達も多い。ライツは彼らを横目に見ながらエタンダールの部屋を離れた。ちなみに試験を行うのはエタンダール自身で、試験結果を決めるのもエタンダール本人だ。
今回の見習い階級に与えられた課題は『絵を描け』だった。だが、魔道士に対する試験なのだから、エタンダールの出した課題は文字通り絵を描くことではない。課題の真意は自分で予想し、自分なりの答えを導かなければならない。
ライツは考えに考えた末に、白地のキャンバスに魔術で作り出した色粉を乗せるという方法を選んだ。石や植物から作られた絵の具に比べ、魔術で作る色粉の方が色の種類が多い。だから絵の具を用いて描くよりはずっと緻密に風景を表せた、とライツは自信を持っていたのだ。
ところがエタンダールはライツの絵を見て皮肉な笑みを浮かべてこう言った。
頭、かたいねえ、お前。全然、駄目じゃん。
欠伸混じりに言われたことにライツは強いショックを受けた。絵が下手だと貶されるなら判る。ライツは絵描きではないし、いくら凝った色粉を使っても描けるものには限界もある。だがエタンダールの出した課題は言葉通りの意味ではないはずだ。だからきっとエタンダールの言った、頭がかたいという評価は絵の上手い下手のことではないのだろう。
なにが駄目だったんだろう。心の中で呟いてライツは足を止めた。振り返るとエタンダールの部屋の前から伸びた弟子たちの行列が見える。列の最後尾はライツがいる場所からまだずっと先の方だ。階段まで続いているらしい列の先を背伸びをしてうかがってから、ライツは重い足取りで再び歩き出した。
万年見習い、という、一部の心ない者が使う嫌なあだ名を消し去るためにも、今回の試験は合格したかった。だが結果は不合格。近頃、毎月繰り返されているその結果にライツは深く落ち込んだ。エタンダールは親切にどこが悪いかとは教えてくれない。ライツに限った話ではなく、どの弟子に対してもエタンダールは同じ態度を取る。弟子達の自主性が重んじられるこの塔ならではのやり方だ。
それでも塔にいる以上、縛りがない訳ではない。例えば食事の用意などはしっかりと分担されているし、仕事をきちんとこなさない弟子には罰も与えられる。決められた仕事をさぼっていたある弟子にエタンダールが直々に罰を与えた結果、この塔にいることに耐えられなくなって逃げたということもあった。
入門の時に一応試験はあるが、基本的にはこの塔は来るのも出るのも自由だ。そしてここでなにを学び、どう活用するかを考えるのは自分自身だ。何度も言われたことを思い出し、ライツは憂鬱な気分になった。月に一度の試験に合格すれば魔道士としての階級を上げることが可能だ。階級が上がればそれだけ学べることも増える。なのにライツは魔道士の階級としては一番下の見習い階級、正式名では見習魔道士の位に居続けているのだ。
また駄目だったと落ち込んでいても始まらない。階段が近くなった時にはライツはすっかり立ち直っていた。この塔にいると長く鬱々と落ち込んでいたらついて行けなくなってしまうのだ。そんな暇があったら次のことを考えた方がいい。
階段を無視して廊下を折れ、ライツは真っ直ぐに自分の部屋に向かった。この塔では階級に関わらず、弟子は全て個室を持っている。弟子の数は総勢九十八。塔にしては特に多くも少なくもない、平均的な数だ。
「うわ、そういえば当番だっけ!」
別棟に移動したところでライツははっと我に返った。慌ただしく廊下を駆け出したライツに、通りすがりの兄弟子が気をつけろよ、と注意する。判りましたと行儀のいい返事をしつつもライツは長い廊下を急いで駆け抜けた。階段を数階層分ほど下りてから、鍵の使える陣の上に乗る。
弟子達に与えられた部屋のある建物の高さは二十階以上ある。二十階層分もの階段を上り下りするのはきつい。最上階の部屋を割り当てられている者も、食事のたびに一階の食堂に降りなければならないのだ。そのため、階段の踊り場には五階ごとにこうした移動のための魔法陣が敷かれているのだ。
ライツは魔法陣を動かすための鍵をローブの内側から取り出した。魔法陣と鍵、そして簡単な移動用の呪文が揃った時、初めて魔法が発動する仕組みだ。魔法陣の上からかき消えた直後、ライツは一階の階段の踊り場に一瞬で移動した。鍵を元通りにポケットに突っ込んで急いで自分の部屋に向かう。
ライツが移動に使った魔法陣を敷いたのはエタンダールだ。この塔で学ぶ者は全てエタンダールの弟子ということになっている。この国には階級の高い魔道士の所有する多くの塔があるが、大抵の塔では魔道士を志す者が日々学んでいる。そしてそんな塔の中でもエタンダールの所有する、バレンティア地方唯一のこの塔の弟子達はとても個性豊かだ。
まあ、師匠には誰もかなわないんだけどね。
人種もまちまち、髪の色一つとっても様々な弟子達のことを思い浮かべたライツは思わず苦笑した。そんな弟子達に負けず劣らず、エタンダールは強烈な性格をしているのだ。
なにしろ、女癖がとことん悪い。ふらっと遊びに出かけては、色街で騒ぎの一つや二つ起こすのは日常茶飯事だ。おまけに金勘定はいいかげん、国王からの親書をいとも簡単に紛失するわ、寝起きの時間はいいかげんだわ、とにかく一貫してけじめがない。
そんなだらしない師匠の尻ぬぐいをするのは塔に詰める弟子達なのだが、そのことをエタンダールは何とも思っていないらしい。そのせいか、塔の近くの街で暮らす人々は、エタンダールが力のある魔道士だとは思っていないらしい。
ところがエタンダールが実は数多いる魔道士の中でも、トップクラスの実力の持ち主だから笑えない。
この国に多く存在する魔道士の中でも歴史書に名前が記される程の実力者は五名。エヴァン国の中心であるラルーセン地方にある巨大な塔の魔導師、ゼクー。セモヴェンテのライノゼ。ラシュハン砂漠の遺跡の地下深くにこもると言われるマギハ。フバイルの騎士の異名を誇るナキリ。そして最後がこのバレンティアのエタンダールだ。
彼らは魔道士としては最高位である上級魔導師の称号を持つ。国王直々に認めた者にだけ与えられるこの称号を持つのは、今のところこの五人だけだ。
そんな風に見えないけどね。ライツはだらしないエタンダールのことを思い浮かべ、頬を引きつらせた。慌ただしく自分の部屋に駆け込み、急いで絵を置いて、再び部屋を駆け出す。ライツは慌ただしく調理場に向かった。
十三になったばかりのライツの身丈は他の弟子に比べて一回りは小さい。調理場に入ったライツは入り口のところにいた大柄な男に遅いぞ、と叱られた。すみませんと謝りつつ、食事当番の他の弟子達の間をすり抜ける。
真っ先に流し場で手を洗い、ライツはナイフを持って調理場の隅の椅子に腰掛けた。足許の木箱から野菜を取り上げて皮を剥く。
「よう、ライツ。試験はどうだったんだ?」
調理台について作業をしていた顔見知りの弟子に訊ねられ、ライツは目をあげた。すぐに手元に目を戻してライツは答えの代わりに肩を竦めてみせた。相変わらずか、と苦笑する相手にライツは頷いた。
専門の調理人も二、三人は調理場に出入りしているが、百名近くの弟子全員の食事をそれだけの調理人で作るのは難しい。そのため、見習魔道士が毎食の調理の手伝いを順番で行っているのだ。ちなみに見習魔道士はこの塔全体で十名強だ。ライツの担当は材料の皮むきや下ごしらえで、焼きや煮込みと言った調理は別の弟子に分担されている。
何故、調理の手伝いが見習魔導卒のみに振り分けられるかと言えば、塔に住まう者の中で一番暇だからだ。かつて軍隊に加わり活躍していた時代の名残で、魔道士は幾つかの階級に分けられている。その階級の底辺、一番下位なのがライツの見習魔道士の位なのだ。
手早く根菜の皮を剥いては金属製の器に放り込む。それを何度か繰り返した後、ライツは別の野菜の皮を剥き始めた。今日のメニューは野菜のたっぷり入ったシチューと焼きたてパン、それにこんがりと焼いた肉だ。
一通りの下準備が終わると今度は本格的な調理が始まる。下準備の仕事を終えたライツは他の弟子達が働く調理場を後にした。
そう、普通は暇だから割り当てられる仕事なんだけど。愚痴っぽいことを考えつつ、ライツは再びエタンダールの部屋に向かった。
廊下を走ってエタンダールの居る塔に戻ったライツは急いで最上階を目指した。ちなみにエタンダールや上位階級に属する弟子の数名が住む場所を塔と呼ぶ。それに対して、弟子の個室がある棟は寮と呼ばれている。だがそれらはこの塔に所属する者の間だけでの俗称だ。通常、塔と言えば弟子のいる寮や調理場、食堂などを含めた敷地、運営主に与えられた土地全体を指す。例えばここ、エタンダールの塔なら建物のある場所だけではなく小高い丘を丸ごと塔と呼ぶ訳だ。
大抵の力ある魔道士は塔を所有している。が、塔を所有する魔道士には様々なタイプがあり、塔の内にこもって魔術の研究にひたすら打ち込むものもあれば、同じ目的を持つ者と共に仕事場として活用する者もある。中でも一番多い使用法は、魔道士を目指す者のための教育の場、つまり未来の魔道士のための学校という使い方だ。そしてエタンダールの塔も学ぶ場所として魔道士を目指す者に門戸は開かれている。
学びたい者に門を開き、これまでに多くの魔道士を輩出したエタンダールの塔。だがその実、塔の所有者はだらしがないことこの上なく、おまけに自分の身の回りの世話が一切出来ないと来ている。ライツは急いでエタンダールの部屋のある塔に移動しつつ、深々とため息を吐いた。
移動の魔法陣を用い、手っ取り早く塔の最上階に辿り着いたライツはふと眉を寄せた。あれだけ廊下に並んでいた弟子達が一人も居なくなっている。もしかして試験は終了したのだろうか。そう考えながらライツは静かに廊下を進んだ。さっきまで賑わっていた廊下はやけに静まり返っている。いつもなら他人の試験の見学希望者も出るはずだ。エタンダールは試験は個別に行うが、見学には許可を出してくれる。なのに弟子が一人もいない。
もしかして師匠の部屋に全員入っちゃったのかな。そんなことを考えながらライツはエタンダールの部屋の前に立った。他の部屋とは違い、重厚さをかもし出している深い焦げ茶色の扉は大きく、とても古びている。ライツは周囲に誰もいないことをもう一度確認してから扉を軽く叩いた。だが、中から返事はない。ライツは仕方なく金色の取っ手に手をかけた。磨き抜かれた取っ手をゆっくり引く。
唐突にライツの耳に悲鳴が飛び込んでくる。どうやら内部の音が漏れないように部屋の内側に音を遮断する魔術が施されていたらしい。
「ご主人さまあ! 倒れてないで、助けてください!」
聞こえてきた愛らしい少女の声に背を押されるようにしてライツはエタンダールの部屋に滑り込んだ。背後できっちりとドアを閉じて部屋の様子を確認する。広々とした部屋の床には弟子が一人、目を回して引っくり返っている。荒れた机の上、出しっぱなしになった椅子、提出された課題の山、それらを順繰りに眺めてからライツは目を正面に戻した。
声の主は壁際にへたり込んでいた。一目で怯えていると判るほど少女は震えている。身体を震わせながら懸命に主人を呼ぶ少女をライツはまじまじと見た。愛らしい顔に見慣れぬ紫色の髪、人にしてはやけに大きな耳、そして少女には深い闇色の羽根が生えていた。剥き出しになった足は膝辺りからつま先にかけて赤く、足先には鈎のような形の爪もある。その上、少女は服を一切身につけていない。ライツはそんな少女を見つめてから、部屋の中央に立っているエタンダールの背中にうろんな眼差しを向けた。
「オレ様を淫魔でたぶらかそうなんざ、百年早いわ! この馬鹿め!」
大声で笑いながら言ったエタンダールが嬉々としてマントを取る。ライツは手近なものをつかんで真っ直ぐに駆けた。
「馬鹿はあんただ!」
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