冥府への案内人

伊駒辰葉

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五章

夢が醒めた時

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 だるい身体を引きずり起こして順は枕元に放ってあった懐中時計を取り上げた。十一時。もうとっくに講義は始まっている。

「えーっと……」

 あのままうたた寝をしたのがまずかったらしい。身体はまだ汗と精液に塗れている。順はのろのろとベッドを降りて汚れたシーツと服を引っ張ってシャワーを浴びにバスルームに入った。洗濯機に洗濯物を放り込み、浴室に入って手早く身体を洗い流す。

 あと一週間もすれば大学祭が始まる。ステージ演奏の打ち合わせは既に済んでいるし、歌も満足のいく仕上がりになっている。バンドの他のメンバーたちの調子も悪くないようで、今回のステージはきっと大成功だよ、とつかさのお墨付きももらってはいる。

 だがどうしても落ち着かない。何故か近頃、妙な胸騒ぎがするのだ。

「何で急にあんなこと言ったんだろう」

 バスルームから出て身支度をしながら順はぽつりと呟いた。これまで和也は名前で呼べと言い出したことはない。順はしばし黙考してから和也の名前を口に出してみた。交わっている最中に名を口にした時と同じ感覚に襲われる。強く何かを揺さぶられる奇妙な感覚に順は眉を寄せた。

 和也は精液を飲み下しても平然としていたように見えた。その後も特に変わったところはなかった。顔色が悪かったのは気になるが、それは特に今回に限った話ではない。交わる回数を増すごとに和也の体調は崩れているようだ。だが和也はそのことを順が口にするとさりげなく話題をすりかえる。その点については触れるなという無言の主張に順はこれまでは黙って従っていた。

 順は姿見を覗きながら唇を引き結んだ。和也が何かを隠していることは判る。現に近頃はどれだけ激しい快楽に晒されても順の瞳の色は変わらない。だがそれと引き換えに和也はどんどん身体を病んでいるのではないか。

 姿見に映った自分の姿を睨みつけて順はため息をついた。一人で考えていても埒があかない。和也を問い詰めてみればいいだけのことだ。そう考えて順はよし、と頷いた。

 支度をして急いでアパートを出る。いくら九月になったと言っても日中はやはり暑い。走って駅にたどり着いた時には順は汗だくになっていた。改札を抜けて慌ただしく電車に飛び込む。朝には乗客の多いこの路線も平日の昼間だとかなり空いている。順は手近な席に腰を下ろして乱れた息を整えた。

 電車に揺られてしばらくして大学の最寄り駅に着く。順は開いた扉から駆け出して改札を走って抜けた。大通りにかかる横断歩道を走って渡る。慌ただしく大学にたどり着いた順は正門にすがって呼吸を整えてからまた走り出した。昼休憩に入ったためか、キャンパスには学生の姿がちらほらと見える。

 中庭を走り抜けて校舎の中に入る。そこで順はようやく走るのを止めた。根拠もなく、ばかばかしいとは思うが、急がなければならない気がしたのだ。どうせこんな中途半端な時間に来ても講義はない。それも判っていたが順はしばし立ち止まったまま休んでから今度は歩き出した。真っ先に和也が先の時間に講義を受けていたはずの講義室を覗く。だがやはり誰もいなくなった後だった。仕方なく食堂に向かう。探しているうちに順はどんどん焦り始めた。食堂の中にも和也の姿はない。試しに和也がよく一緒にいた友達を見つけて声をかけてみるが、誰も今日は和也を見ていないという。

「あら、木村君? どうしたの?」

 急いで廊下を歩いていた順の後ろから声がかかる。順は聞き覚えのある声に慌てて振り返った。

「あ、こんにちは。篠塚先生」

 前にホテルで過ごしたことを思い出して順は赤くなりながら美恵に挨拶した。美恵がにっこりと笑って挨拶を返す。

「すっ、すみません! 急いでますので!」

 叫ぶようにして言ってから順は駆け出した。背後で美恵が微かに眉を寄せたことにも順は気付かなかった。急いで階段を駆け上がって手近な講義室から覗いていく。だがどこにも和也の姿はない。何度か講義室を覗いた後、ひょっとして、と呟いて順は再び廊下を歩き始めた。和也が以前、笠置教授に会わないかと誘ってくれたことを思い出したのだ。

 呼吸を落ち着けて扉をノックする。中から聞こえてきたのは落ち着いた男性の声だ。順は失礼します、と断ってドアを開けた。机や書棚が並ぶ部屋の奥に笠置が立っている。

「すみません、突然。二年の木村順と申します」
「ああ、それは知っているよ」

 笠置が苦笑して頷く。順は折り目正しく礼をしてから質問した。

「あの、こちらに渡部くんがいないかと思いまして」

「渡部くん? ああ、彼か。いや、彼は今日は見ていないよ」

 そう答えて笠置が首を振る。そうですか、と力なく答えて順は失礼しましたと踵を返した。ドアに手をかけた順にふと声がかかる。

「気が向いたらいつでもわたしを訪ねてきたまえ。君の席は空けてあるよ」
「お気遣いありがとうございます」

 そう告げて順はもう一度、礼をしてからその部屋を出た。今日、和也が受講予定だった講義は笠置が担当していた筈だ。なのに和也を見ていないということは、和也は今日は講義を欠席したということだ。

 いったい、どこで何をしてるんだ。苛々と頭をかいて順は和也の行きそうなところを次々に回った。そうしているうちに午後の講義開始を報せるチャイムが鳴る。だが順はそれを無視して構内を歩き回った。校舎の中、屋上、中庭、裏庭と順繰りに巡る。鍵のかけられていない場所を探し尽くしたところで順は深々とため息をついた。講堂のつつじの木の傍にあるベンチに座り込む。

 何でこんなにむきになって探してるんだろう。そう自問して順は疲れた身体をベンチに預けて空を仰いだ。まだ夏の暑さが残っているというのに空は妙に高い。空を仰ぎながら順は何気なく歌を口ずさんだ。和也がリクエストした早春賦を歌いながら順は目を細めて雲の動きを追いかけた。

 千切れては風に流れ、雲はゆっくりと動いていく。かと思うと小さな雲がやがてまとまって一つの大きな雲になる。真っ青な空に浮かぶ雲を見つめながら順は脳裏に和也を思い描いた。

 ふと、何かが記憶を弾く。順は眉を寄せて歌うのを止めた。

 頼むからオレより先に逝くな。

 激しい水音にかき消されそうなほどの小さな囁きをあの時確かに聞いた。順ははっと目を見張って背もたれに預けていた上体を起こした。
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