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五章
つかさの家で 後
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つかさは将来を期待されていたのではないか。ピアニストとして有望だったからこそ、二人の教師は嫌がるつかさに無理にでもその道を示したのではないだろうか。だがつかさはそんな二人の示した道には断固進みたくなかったのだろう。
「家を出た時はどーなることかと思ったけどねー」
「それはそうだろう。その時いくつ? 十代だろ? 高校の頃だよな?」
そう言って順はケーキを食べる手を止めた。いつの間にかつかさが順を見つめている。にやにやと笑うつかさの表情の意味を理解出来ず、順は眉を寄せて黙り込んだ。
「あのね、ジュンチャン。女に年を訊くと嫌われることもあるよ?」
「え、そうなのか?」
「それに勘違いしてるみたいだからいうけどー。アタシ、ジュンチャンよりけっこう年上だよ? クロチャンと変わんないんじゃないかなー」
そこまで聞いて順はえっ、と思わず驚きの声を上げた。黒田は順の目から見ると二十代後半に見える。が、目の前に座るつかさはどう見ても自分と大して年が違わないようにしか見えないのだ。
「だーから、年はあんま訊かないほーがいいよってば」
まあ、アタシは気にしないけどねー。そう続けてつかさが楽しそうに笑う。順は目を丸くしてしばしつかさを食い入るように見つめた。その後、ぎこちなくフォークを取り、ケーキを切り分ける。俯いてケーキを食べ始めた順をつかさが笑い飛ばす。順は真っ赤になったまま無言でケーキを食べ終えた。
茶を飲みながらしばし雑談をした後、つかさはピアノに向かった。順は呼ばれた通りにつかさの傍に立つ。
「アルペジオ……は判る?」
「ああ、判る」
「じゃ、弾くからそれに合わせて声ちょーだい」
あー、でいいからねー。そう続けながらつかさが右手だけで鍵盤を叩く。順は深く息を吸って言われた通りに音をなぞった。一つの和音が終わると次は半音上がる。それを繰り返していくうちに順はとあるところで声を出せなくなった。思わず咳き込んでごめん、と詫びる。
「ひゅー。すごいわ、やっぱ。声域ばかみたいに広いね」
「え、でも」
「いやいや、すごいっすよ、これは。一回、ちゃんと確かめてみたかったんだよねー。ほーん……」
何かを考えるように唇に指を当ててつかさが黙る。順はつかさの考えているのを邪魔しないよう、そっとピアノから離れて残っていた紅茶を啜った。乾いた喉にぬるい紅茶が通って心地いい。
「あのさー」
ふと、つかさが低い声で呼びかける。順はテーブルに紅茶のカップを戻してピアノの傍に寄った。
「実はね。ちょっと前にクロチャンが持ってきた曲があってさ。まあ、いちおー、カズが詞をつけて曲は出来たんだけどさ」
言いながらつかさがペンの尻で頭をかく。いつもの朗らかなつかさの性格からすれば、この時の口調は嫌に歯切れが悪かった。順はつかさにつられて眉を寄せながらそれで、と合鎚をうった。
「うーん、それがねー。ちょおっと普通じゃ歌えないんだな、これが」
困ったように言ってからつかさが再び鍵盤に指を乗せる。つかさは今度は両手とペダルを使ってある曲を弾き始めた。聞き覚えがない。これまでに練習したことがない曲だ。順は自然と旋律に耳を澄ました。
唐突につかさが歌い始める。いつもとは全く違う、つかさの声に順は驚いて息を飲んだ。低音から高音に旋律が駆け上がる。酷く乱暴に上下に音が動くようにも思えるが、歌として聴くとその旋律はまるで違って聞こえた。太く迫力のあるつかさの声だからなのかも知れない。その歌は酷く心臓を叩くのだ。
唐突につかさの声が途切れる。あー、やっぱり無理か。そう呟いてつかさはまた再び歌い始めた。どうやらつかさの声域では出ない音だったらしい。その後もつかさは何度か声を途切れさせた。
「んで、終わり、と」
最後は静かに曲が終わる。順は心からの拍手を送った。つかさが照れ笑いをしながらいやいやと手を振る。
「凄いじゃないか。そんなに歌えるのに、つかさは何で歌わないんだ?」
「そりゃ、あれっすよ。歌にかまけてたら他のことお留守になっちゃうじゃん。アタシはキーボードを愛してるのだ!」
おどけて言ってからつかさが順に向き直る。
「この曲ね。アタシも静もすっごく好きなの。でも、ウチのメンツじゃ誰も歌えなかったんだよねー」
片手でそっと和音を鳴らしてつかさが苦笑する。へえ、と呟いてから順ははたと気付いた。もしかしてこの曲を歌えと言っているのか。そう、順が内心で呟いた時、つかさが悪戯っぽく笑いながら順の顔を覗き込んだ。
「いい勘してるじゃん」
「いや、でも」
「ジュンチャンの声域ならいけると思うんだよー」
そう言ってつかさがピアノの上に手を伸ばす。積み重なった楽譜の中から一枚を器用に抜き、つかさはそれを順に差し出した。手書きの楽譜にクリップで別の紙が留められている。紙に連なる綺麗な文字を順はしばし見つめていた。
「思い切りラブソングだな」
「うむ。まごうことなきラブソングざんす」
真面目な顔で順に同意してからつかさがぷっと吹き出す。つかさは順が手にした楽譜を裏からペンのキャップでつついて笑った。
「この詞を見てラブソングだってすぐに判るってのが、ジュンチャンの面白いとこだよねー」
つかさがピアノに向かう。順は顔をしかめて頭をかいた。紙に連なる文字を見つめて苦笑する。これまでに歌ったどんな歌より、その歌詞は和也の気持ちを素直に表しているような気がした。
「家を出た時はどーなることかと思ったけどねー」
「それはそうだろう。その時いくつ? 十代だろ? 高校の頃だよな?」
そう言って順はケーキを食べる手を止めた。いつの間にかつかさが順を見つめている。にやにやと笑うつかさの表情の意味を理解出来ず、順は眉を寄せて黙り込んだ。
「あのね、ジュンチャン。女に年を訊くと嫌われることもあるよ?」
「え、そうなのか?」
「それに勘違いしてるみたいだからいうけどー。アタシ、ジュンチャンよりけっこう年上だよ? クロチャンと変わんないんじゃないかなー」
そこまで聞いて順はえっ、と思わず驚きの声を上げた。黒田は順の目から見ると二十代後半に見える。が、目の前に座るつかさはどう見ても自分と大して年が違わないようにしか見えないのだ。
「だーから、年はあんま訊かないほーがいいよってば」
まあ、アタシは気にしないけどねー。そう続けてつかさが楽しそうに笑う。順は目を丸くしてしばしつかさを食い入るように見つめた。その後、ぎこちなくフォークを取り、ケーキを切り分ける。俯いてケーキを食べ始めた順をつかさが笑い飛ばす。順は真っ赤になったまま無言でケーキを食べ終えた。
茶を飲みながらしばし雑談をした後、つかさはピアノに向かった。順は呼ばれた通りにつかさの傍に立つ。
「アルペジオ……は判る?」
「ああ、判る」
「じゃ、弾くからそれに合わせて声ちょーだい」
あー、でいいからねー。そう続けながらつかさが右手だけで鍵盤を叩く。順は深く息を吸って言われた通りに音をなぞった。一つの和音が終わると次は半音上がる。それを繰り返していくうちに順はとあるところで声を出せなくなった。思わず咳き込んでごめん、と詫びる。
「ひゅー。すごいわ、やっぱ。声域ばかみたいに広いね」
「え、でも」
「いやいや、すごいっすよ、これは。一回、ちゃんと確かめてみたかったんだよねー。ほーん……」
何かを考えるように唇に指を当ててつかさが黙る。順はつかさの考えているのを邪魔しないよう、そっとピアノから離れて残っていた紅茶を啜った。乾いた喉にぬるい紅茶が通って心地いい。
「あのさー」
ふと、つかさが低い声で呼びかける。順はテーブルに紅茶のカップを戻してピアノの傍に寄った。
「実はね。ちょっと前にクロチャンが持ってきた曲があってさ。まあ、いちおー、カズが詞をつけて曲は出来たんだけどさ」
言いながらつかさがペンの尻で頭をかく。いつもの朗らかなつかさの性格からすれば、この時の口調は嫌に歯切れが悪かった。順はつかさにつられて眉を寄せながらそれで、と合鎚をうった。
「うーん、それがねー。ちょおっと普通じゃ歌えないんだな、これが」
困ったように言ってからつかさが再び鍵盤に指を乗せる。つかさは今度は両手とペダルを使ってある曲を弾き始めた。聞き覚えがない。これまでに練習したことがない曲だ。順は自然と旋律に耳を澄ました。
唐突につかさが歌い始める。いつもとは全く違う、つかさの声に順は驚いて息を飲んだ。低音から高音に旋律が駆け上がる。酷く乱暴に上下に音が動くようにも思えるが、歌として聴くとその旋律はまるで違って聞こえた。太く迫力のあるつかさの声だからなのかも知れない。その歌は酷く心臓を叩くのだ。
唐突につかさの声が途切れる。あー、やっぱり無理か。そう呟いてつかさはまた再び歌い始めた。どうやらつかさの声域では出ない音だったらしい。その後もつかさは何度か声を途切れさせた。
「んで、終わり、と」
最後は静かに曲が終わる。順は心からの拍手を送った。つかさが照れ笑いをしながらいやいやと手を振る。
「凄いじゃないか。そんなに歌えるのに、つかさは何で歌わないんだ?」
「そりゃ、あれっすよ。歌にかまけてたら他のことお留守になっちゃうじゃん。アタシはキーボードを愛してるのだ!」
おどけて言ってからつかさが順に向き直る。
「この曲ね。アタシも静もすっごく好きなの。でも、ウチのメンツじゃ誰も歌えなかったんだよねー」
片手でそっと和音を鳴らしてつかさが苦笑する。へえ、と呟いてから順ははたと気付いた。もしかしてこの曲を歌えと言っているのか。そう、順が内心で呟いた時、つかさが悪戯っぽく笑いながら順の顔を覗き込んだ。
「いい勘してるじゃん」
「いや、でも」
「ジュンチャンの声域ならいけると思うんだよー」
そう言ってつかさがピアノの上に手を伸ばす。積み重なった楽譜の中から一枚を器用に抜き、つかさはそれを順に差し出した。手書きの楽譜にクリップで別の紙が留められている。紙に連なる綺麗な文字を順はしばし見つめていた。
「思い切りラブソングだな」
「うむ。まごうことなきラブソングざんす」
真面目な顔で順に同意してからつかさがぷっと吹き出す。つかさは順が手にした楽譜を裏からペンのキャップでつついて笑った。
「この詞を見てラブソングだってすぐに判るってのが、ジュンチャンの面白いとこだよねー」
つかさがピアノに向かう。順は顔をしかめて頭をかいた。紙に連なる文字を見つめて苦笑する。これまでに歌ったどんな歌より、その歌詞は和也の気持ちを素直に表しているような気がした。
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