冥府への案内人

伊駒辰葉

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四章

優しい時間

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 ざわつく店内に一際賑やかな声が響く。

「おっちゃん! ねぎまとつくね追加ね! あと、ビール!」

 元気にカウンターに叫んでからつかさがテーブルに向き直る。

「だからねー。ジュンチャンの声ってとおってもいいんだけどぉ。なんてゆーの? 魂入ってないってーの?」

 すっかり出来上がったつかさはろれつが相当に怪しい。しかもどうやらつかさは酒が入ると説教を開始する癖があるらしい。その隣ではビールを飲みながら静がうんうんと頷いている。順は引きつるのを堪えてつかさに合鎚を打った。

 あれから順はバンドのメンバーと共に街に出た。案内された居酒屋は小さいながらもとても雰囲気のいい店だった。店主を始め、店員たちもこのメンバーとはすっかり顔なじみになっているらしく、多少の無理も通ってしまう。その店の一番奥の座敷の席を順たちは陣取っていた。

 つかさはいかに順の歌がまずかったかを解説中だ。が、口調はしっかりしていなくてもつかさの言うことにはいちいち頷ける。順は肩身の狭い思いをしつつも逃げずにつかさの言うことを大人しく聞いていた。

 テーブルの上には空になった食器に紛れて料理の乗った皿が残っている。順は小皿につまみを取り分けて手元に寄せた。隣ではずっと和也が黒田と何事かを話し合っている。どうやら新しい曲を作るために案を出し合っているようだ。熱心に話し込む二人をちらりと見てから順はつかさに目を戻した。

「ものは悪くないんだけどー、素材が活かしきれてないってーかねー」
「あ、ツカちゃん、焼き鳥きたよ」

 腕組みをして唸っていたつかさがぱっと明るい顔になる。つかさは静から回ってきた皿からさっそくねぎまを取り上げた。

「やっぱ、磨いてこそだと思うんだよねー。ジュンチャンの歌ってさー」
「そ、そうかな」

 説教されているという緊張感から、ついつい正座をしていた足をさりげなく崩しながら順はそう返した。そうよお、とつかさが頷く。その顔はほんのりと赤く染まっている。

「もったいないっていうかさー。なんかさー」

 そう言いながらつかさがテーブルに突っ伏する。片手に持ったねぎまを上下に振りながらつかさは、あー、と意味のない声を上げた。

「あーあ。ツカちゃん飲みすぎだよ」

 困ったように笑って静がつかさの顔を覗き込む。確かにこれまでつかさが消費した酒の量を考えると、そろそろやめた方がいいかも知れない。順はテーブルに身を乗り出してつかさに声をかけた。

「大丈夫か?」
「平気よーお。っていうかね! カズ!」

 いきなり叫んでつかさががばと身を起こす。唐突に矛先を向けられた和也は怪訝そうにつかさを見た。

「なんで今まで黙ってたのよぅ! こーんないいのがいるのにさ!」
「いや、黙ってた訳じゃねえだろ。木村に目をつけてるってのは最初っから言ってただろが」

 呆れたように言いながら和也が腕を伸ばす。唐突に肩を抱かれた順は息を飲んで首を竦めた。なー、と和也が順に同意を求める。するとそれまでつかさを気遣っていた静の目が急に鋭くなった。

「だってカズくん、じゅんくんが歌えるって言わなかっただろ」
「そーよー。あんただけが知ってたんでしょぉ? それってずるいわよねー」

 静が加勢したことで勢いがついたのか、絡みながらつかさが焼き鳥で和也をさし示す。順は額を覆ってため息をついてさりげなく和也を押しのけようとした。だがその直前に和也が余計に腕に力をこめる。

「おー、いいだろー。羨ましいか?」

 にやにやと笑って和也が二人に向かって舌を出す。順は困り果てて黒田を見た。だが黒田は一人で静かにグラスを傾けている。騒ぎ始めたこちらのことは完全に無視する構えだ。順は口許を引きつらせて三人を止めようと声をかけた。

「あ、あの」
「くっそー! むかつく! 抜け駆けしないって言ってたくせに!」
「そうよぉー。ダメよー、カズ。勝負とはー! 公平にだなー!」

 静が叫べばつかさが後に続く。本当にいいコンビだよ、と内心で呟いて順は力なく首を振った。一度だけ参加したコンパより性質が悪い気がする。

「抜け駆けだあ? アホか。こいつは最初っからオレのもんなの!」

 強気で言い放って和也が手にしていたジョッキの中身を一気に干す。店内には酔っ払った人々ばかりからなのか、誰もこちらには注目してはいない。それだけが順にとって救いだった。店員や店の主人もいつものことと笑っている。

「おかわり!」

 三人が同時に空のジョッキを掲げる。店員の元気のいい返事を聞きながら順は深々とため息をついた。せめてここで酔えれば気分も少しは楽になるのだろう。が、残念ながら飲んでいるのにちっとも酔えない。

 やがて三人がただの酔っ払いと化した後、五人は店を後にした。息を揃えて静とつかさが和也に覚えてろ、と喚く。それを受けた和也もやかましい、と答えて立てた親指を地面に向ける。だが本気で喧嘩をしている訳ではないらしい。じゃあねー、と笑って静とつかさが同じ方向に歩き出す。気をつけろよ、と和也もそれに応えて手を上げる。順は店を出てもずっと和也に肩を抱かれたままだった。解こうとしても頑として和也が腕を離さないのだ。

「うー……酔ったー……」

 順にもたれかかって和也が呻く。順は息をついて和也の身体を脇から支えた。黒田だけが一人平然としている。

「後は頼めるな?」
「あ、うん。もう帰るだけだし」

 酔っ払った和也を支えながら順は何も考えず頷いた。和也は酔っていてもしっかりとギターは担いでいる。このままタクシーを拾えばいいだろう。じゃあ、と順は黒田に会釈してその場を去ろうとした。

 不意に目の前が暗くなる。踵を返そうとしていた順は驚いて足を止めた。黒田が手を伸ばして順の耳に触れる。何事かと順は仰天して黒田を見た。

「そこの馬鹿。聞こえてるだろ。後は自分で何とかしろ」

 そう言ったかと思うと黒田は順の耳朶から手を離した。それから手を上げて順と和也に背を向ける。順はなにが起こったか判らず、しばし呆然と黒田の姿を見送った。

 とりあえず帰らないと。順は和也を支え直してゆっくりと歩き出した。タクシーの拾える通りまで出て手を上げる。和也は相当に酔っているらしい。タクシーに乗る時も降りる時も和也は順に半ば引っ張られるようにして動いた。アパートの前からタクシーが去って行くのを見送ってから順はおもむろに踵を返した。和也の身体がずれないようにしっかりと支える。

 階段を上がってドアを開ける。ぐったりとした和也を何とかベッドに寝かせてから順は大きく息をついた。ケースに入ったギターをそっと床に下ろす。ケースから出すのは明日にでも和也が自分でするだろう。

 窓から入る月明かりが和也の顔を照らしている。酔っている筈なのに顔色が青白く見えるのはきっと月明かりのせいだろう。そうは思ったが順はしばし和也の傍から動けなかった。

 ふと和也が閉じていた目を開ける。和也は横に立つ順を見つめて小さく笑った。

「……悪い。オレがこんなんなってちゃ世話ねえよな」
「何だ。起きてたのか」

 小声で答えて順はベッドに腰を下ろした。いつも家でも和也はビールを飲んでいるが、こんなに酔ったのを見たのは初めてだ。順は苦笑して飲みすぎだ、と渋い顔をした。

「そ、だな。ちょっと今日ははしゃいじまった」

 そう言って和也が手を伸ばす。順は腕をつかまれて引き寄せられるままに身を捻った。唇を合わせて目を閉じる。和也はしばし順の頭を撫でていたが、やがて手を耳に滑らせた。耳朶を指先でくすぐられて首筋をなぞられる。ざわりとした心地のよさが背中を伝ったところで順は顔を上げた。

「今日は大人しく寝ろ」
「なあ。木村は楽しかったか? 今日」

 順の忠告を無視して和也が訊ねる。順は眉を寄せて間近にある和也の顔を覗き込んだ。いつものように笑っているのだとばかり思ったが、意外にも和也は真面目な顔をしている。順は一日の出来事を思い返して素直に頷いた。

 バンドをバックに歌ったのも初めてだし、あんなに歌を下手くそだと言われたのも初めてだ。話すこと全てが新鮮で、彼らと一緒に過ごした時間はとても短く感じられた。練習を終えた後の騒ぎも妙に心地よかった。考えてみればこれまで同じ年頃の誰かとあんな風に騒ぐことはなかった。コンパに引きずり出された時とはまた違う、妙な満足感がある。

「ああ、楽しかった」

 考えてみればこれまで三人以上の人間と楽しい時間を過ごした記憶が殆どない。和也とはいつも一緒にいるからなのか、共にいる時間を楽しいと感じることはさほどない。ただ、いない時間を寂しいと感じるだけだ。

 つかさは音楽系の学校を中退し、今は音楽業界でアルバイトに励んでいるという。したっぱだけどね、と笑うつかさの表情はとても充実しているように見えた。静は美大に通いつつバンドに参加している。将来の夢は玉の輿などと笑っていたが、きっとやりたいことがあって大学に通っているのだろう。油絵のことを訊ねるととても真剣な眼差しで描く楽しさを語ってくれた。黒田は黒田でどこかで働いているという。どこで働いているのかを訊ねた時、黒田はとても渋い顔をして内緒だと言った。だがきっと黒田もバンドと同じように仕事にも真面目に打ち込んでいるに違いない。何しろ黒田はバンドメンバーの中で唯一、練習中に一度もミスをしなかったのだ。気難しそうな印象は受けるが話すと意外と気さくに応えてくれることも判った。

 こんな風に人を見ようとしたことは今までない。近付いてくる者は何らかの意図があり、必要以上に寄られればそれは全て監視者だと思ってきた。順は屈めていた身体を起こして小さく笑った。

「あんな世界があるんだって初めて知ったよ。俺はこれまでなにを見てきたのかなって思った」

 何も見てはいなかった。和也に言った後、順は心の中でだけそう呟いた。俺は今まで何も見てはいない。あの日からずっと見ることを拒んで来ただけだ。知らされた事に衝撃を受けただけで何もしてはいない。情報を探る名目で大学に入ったけれど、集めた情報なんてたかが知れている。引き換えに自由を手に入れるほどのものは得られていない。

「楽しかったんならなによりだ。っちゅーわけで、ちっと頼みあるんだが」
「え、なに?」
「わりいんだけどさー。抜いてくんない?」

 そう言って和也が自分の股間を指差す。これまでの自分の行いをしみじみと振り返っていた順はそこで思考を中断した。和也を睨んでそっぽを向く。

「ばかか、お前は。今日くらいは大人しく」
「いやー、寝たいんだけどさー。これがどーも」

 いつもより間延びした口調で和也が順の言葉を遮る。ほれ、と言われて順は仕方なく和也の股間を見た。

「……確かにこのままじゃ寝られないかもな」

 ジーンズ越しにもはっきりと判るほど、和也の股間は膨れ上がっている。やれやれと諦めの呟きを漏らして順は腰を上げた。
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