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四章
音が触れる時
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二時間歌いっぱなし……。順はそう内心で呟き、肩で息をしながらマイクスタンドに寄りかかった。だめー、とつかさが容赦のない声を飛ばす。
「ぜんぜんだめだめー! きゃっかー!」
「つかっちは厳しいからなあ。んでも、ちょっと休もうぜ」
そう言って和也が片手を上げる。それを合図に演奏は中断し休憩することになった。順はずるずるとスタンドを伝ってステージにへたりこんだ。歌い続けているからだろう。全身は汗だくだ。持っていたハンカチで辛うじて顔は拭ったが、この分ならシャワーを浴びた方が早いかも知れない。
マイクの前で何曲かアニメソングを歌った後、順は改めてバンドオリジナルの曲を歌うように言われた。その曲は以前に和也が口ずさんでいたものだった。幸い、一度聴いた曲は覚えていられるからと順は安易な気持ちでその歌を歌った。
歌いだして数秒のところでまず最初の駄目出しを食らった。最初に駄目を出したのはつかさではなく静だった。それから立て続けに駄目と言われて同じ曲を繰り返し歌ったのだ。順はぐったりと肩を落として全身で息をついた。
「も、駄目。声、出ない」
誰かが歩み寄ってくる気配を感じて順はそう告げた。疲れ果てていた順の頭を冷たいものがつつく。のろのろと顔を上げた順は静に差し出された缶ジュースをありがたく受け取った。
「ツカちゃんはきついけどいい人だよ。ボクも最初はたくさん駄目出しされたんだ」
困ったように笑った静が順の隣に座る。静につられて力なく笑ってから、順はちらりとつかさを振り返った。つかさはキーボードに置いた楽譜に何かを書いている。その前に立ってジュースを飲んでいるのが和也と黒田だ。
「アレンジは彼女の担当?」
「そう。曲を書くのがクロ。詞を入れるのがカズくん。それをまとめてアレンジするのがツカちゃん」
にこにこしてそう静が説明する。ふうん、と呟いて順は缶ジュースの封を切った。冷たいオレンジジュースが喉にしみる。一気に半分ほどを空けてから順は大きく息をついた。
「たぶん、キーを下げてるんだろうね。木村くんの声、低音の方がよく響くから」
「え、そうなの?」
順が真顔で問い返すと静がくすくすと笑う。うん、と頷いて静は持っていたジュースのプルトップを引いた。
「木村くんってかなり声域が広いからうちの曲は全部いけそうだけどね。低音の方がいい響き方してるよ。自分で聴くと判らないかも知れないけど」
解説しながら静がにっこりと笑う。愛らしいその笑みに順はつい見とれてしまった。邪気のない微笑みだ。あいつとは大違いだな。何となく心の中で和也と比べてしまってから順は慌てて考えを中断した。
「低音、ねえ……」
自覚はない。が、このステージは混ざった音が前に抜けるのではなく、ステージ上にこもるという特徴があるらしい。反響板の位置の問題だと言っていたのはつかさだ。前に音が抜けないのなら、メンバーの一番奥にいる静に音がよく聴こえるのも判る。順はなるほど、と頷いた。
「ねえねえ。木村くんのこと、じゅんくんって呼んでいい?」
缶ジュースを傾けていた順は手を止めて隣に座る静を見た。静はもじもじと指を膝の上で絡ませ合って俯いている。照れているらしい。順は苦笑して静の頭に手を乗せて軽くなぜた。金色の髪は見た目の派手さとは裏腹にとても柔らかい。
「いいよ」
「ほんと!?」
ぱっと顔を上げた静はとても嬉しそうな表情をしている。にこにこと笑いながら静が順にしがみつく。その仕草はまるですり寄ってくる猫を思わせる。静の頭を撫で続けていた順は静の可愛らしさにつられて微笑んだ。
「……あー。言っとくが」
不意に後ろから声をかけられる。順は肩越しに振り返って和也に何、と問い返した。
「静はばりばりのサディストだぞ」
「しかも男だ」
和也の笑い混じりのせりふの後に間髪入れずに黒田が続ける。順は硬直して静の頭から手を離した。静はまだ嬉しそうに順の胸元に頬擦りしている。順はぎこちなく静の肩をつかんで少しずつ横に移動した。引き剥がすと静が不服の声を上げる。
「えー、ボクこんなに可愛いのにー」
「アホか。本性知ったらみんな引くわっ」
呆れたように和也が告げる。すると静はにっこりと笑って肩越しに和也を振り返った。
「黙れ、両刀野郎」
それまでの可愛いイメージをぶち壊す乱暴な言葉が静の口から飛び出す。
「うっさい、猫かぶり」
負けじと和也が言い返す。二人が言い合っている隙に順はそろそろと立ち上がってその場を離れた。何となく身の危険を感じつつステージの端に寄る。
「ボクが先につばつけようと思ってたのに、まんまと横からかっさらいやがって!」
小柄な身体に力をこめて静が怒鳴る。華奢な少女のイメージはそれだけでがらがらと崩れ去った。深々とため息をつき、順は缶ジュースを飲み干した。
「てめえはオレの財布から勝手に木村の写真抜いただけだろが!」
「何いってるんだ! ボクが持ってた写真だろ、それ! 勝手に定期入れから取ったの、カズくんじゃないか!」
一気に雲行きが怪しくなってきた。順はうろんな眼差しで言い合う二人を眺めてからつかさと黒田のところに向かった。和也は言い合いに夢中になっているのか段々と静に歩み寄っている。静も言い合いを続けながら和也に迫る。体格も身長も和也が一回り大きいためか、二人が並ぶとまるで親子のようにも見える。
賑やかにやり取りをしている二人から目を逸らし、順はつかさに訊ねた。
「ええと、笛吹さんってひょっとして美大?」
「うん。そう」
あっさりと肯定してつかさが楽譜に向き直る。どうりで和也がモデルのバイトのことを知っていはずだ、と順は遅まきながら納得した。二人を見てから黒田が呆れたようにため息をついて首を振る。
「放っておけ。あいつらのあれはいつものことだ」
「そーそー。ジュンチャンを巡っていっつも火花散らしてんのよん」
指の間でペンをくるりと回してつかさが付け足す。順は引きつりながらそうなんだ、と力なく頷いた。
「何だと、この変態ドチビ!」
「変態!? 男女の見境なくさかってるよりましだろ!?」
二人はまだ言い合いをしている。順はやれやれとため息をついて二人を無視することに決めた。つかさが書き込んでいる楽譜を覗き込む。確かに静の言った通り、つかさはキーを下げて曲を書き直しているらしい。時折、黒田がつかさに注文をつける。そのたびにつかさは渋い顔をしては楽譜を新たに書き換える。
「できたー! よし、ちっとコピー行って来る!」
数分後、楽譜を掲げてつかさが言った。慌ただしくステージを駆け下りて出口から飛び出して行く。順は大きく息をついて屈めていた身を起こした。
作曲や作詞が出来ることももちろん凄いと思うが、それらをまとめた曲をアレンジするのも才能がなければ出来ないだろう。順はつかさを見送りながら思わず感嘆の声を漏らした。
「凄いんだな。彼女」
「まあな」
事もなげに頷いて黒田がキーボードから離れていく。言い合いを続けている二人を余所に順は何となく黒田について行った。二人の言い合いはどんどん低レベルになりつつあった。今はもう、どっちが攻め手として上かなどという下らない言い合いに夢中になっている。
「もしかしてみんな大学は別々?」
そう問いながら順は言い合う二人をちらりと見返った。和也は順と同じ大学だが、静は美大だという。恐らくつかさも別の学校だろう。あんな派手な頭をした学生が同じ学校にいたら覚えていない筈がない。
「大学生なのはお前ら三人だけだ。つかさは音楽系の学校を中退しているし、オレは学校には通っていない」
「え、じゃあどうやって知り合ったんだ?」
順が問うと黒田は肩を竦めて答えた。
「楽器店とかによく張り紙がしてあるだろう。バンドのメンバーを募集って」
「ごめん。俺、そういう場所には出入りしたことが」
ない、と順が言う前に黒田が続ける。
「あるんだよ、そういうのが。それでまず最初につかさが張り紙をしていたのを静が見つけてメンバーになって、それから奴が張り紙を見つけた」
そう言いながら黒田が和也を指差す。へえ、と呟いて順は頷いた。
「じゃあ、黒田さんはその後で? 張り紙を見たのか?」
「いや。オレは奴の昔からの知り合いだ。ベースが足りないからと強引に引っ張り込まれた」
ため息を吐いて黒田が顔をしかめる。だが本気で嫌な訳ではないのだろう。きつい表情はしているが、特に嫌悪は感じられない。
しばらくしてつかさが走って戻ってくる。他のメンバーと同じように楽譜のコピーを順も受け取った。どうやら本当にいつも同じことを繰り返しているようだ。本気で喧嘩をしている訳ではないのだろう。つかさが戻ってきたところで言い合っていた二人はぴたりと口を閉じた。
「ぜんぜんだめだめー! きゃっかー!」
「つかっちは厳しいからなあ。んでも、ちょっと休もうぜ」
そう言って和也が片手を上げる。それを合図に演奏は中断し休憩することになった。順はずるずるとスタンドを伝ってステージにへたりこんだ。歌い続けているからだろう。全身は汗だくだ。持っていたハンカチで辛うじて顔は拭ったが、この分ならシャワーを浴びた方が早いかも知れない。
マイクの前で何曲かアニメソングを歌った後、順は改めてバンドオリジナルの曲を歌うように言われた。その曲は以前に和也が口ずさんでいたものだった。幸い、一度聴いた曲は覚えていられるからと順は安易な気持ちでその歌を歌った。
歌いだして数秒のところでまず最初の駄目出しを食らった。最初に駄目を出したのはつかさではなく静だった。それから立て続けに駄目と言われて同じ曲を繰り返し歌ったのだ。順はぐったりと肩を落として全身で息をついた。
「も、駄目。声、出ない」
誰かが歩み寄ってくる気配を感じて順はそう告げた。疲れ果てていた順の頭を冷たいものがつつく。のろのろと顔を上げた順は静に差し出された缶ジュースをありがたく受け取った。
「ツカちゃんはきついけどいい人だよ。ボクも最初はたくさん駄目出しされたんだ」
困ったように笑った静が順の隣に座る。静につられて力なく笑ってから、順はちらりとつかさを振り返った。つかさはキーボードに置いた楽譜に何かを書いている。その前に立ってジュースを飲んでいるのが和也と黒田だ。
「アレンジは彼女の担当?」
「そう。曲を書くのがクロ。詞を入れるのがカズくん。それをまとめてアレンジするのがツカちゃん」
にこにこしてそう静が説明する。ふうん、と呟いて順は缶ジュースの封を切った。冷たいオレンジジュースが喉にしみる。一気に半分ほどを空けてから順は大きく息をついた。
「たぶん、キーを下げてるんだろうね。木村くんの声、低音の方がよく響くから」
「え、そうなの?」
順が真顔で問い返すと静がくすくすと笑う。うん、と頷いて静は持っていたジュースのプルトップを引いた。
「木村くんってかなり声域が広いからうちの曲は全部いけそうだけどね。低音の方がいい響き方してるよ。自分で聴くと判らないかも知れないけど」
解説しながら静がにっこりと笑う。愛らしいその笑みに順はつい見とれてしまった。邪気のない微笑みだ。あいつとは大違いだな。何となく心の中で和也と比べてしまってから順は慌てて考えを中断した。
「低音、ねえ……」
自覚はない。が、このステージは混ざった音が前に抜けるのではなく、ステージ上にこもるという特徴があるらしい。反響板の位置の問題だと言っていたのはつかさだ。前に音が抜けないのなら、メンバーの一番奥にいる静に音がよく聴こえるのも判る。順はなるほど、と頷いた。
「ねえねえ。木村くんのこと、じゅんくんって呼んでいい?」
缶ジュースを傾けていた順は手を止めて隣に座る静を見た。静はもじもじと指を膝の上で絡ませ合って俯いている。照れているらしい。順は苦笑して静の頭に手を乗せて軽くなぜた。金色の髪は見た目の派手さとは裏腹にとても柔らかい。
「いいよ」
「ほんと!?」
ぱっと顔を上げた静はとても嬉しそうな表情をしている。にこにこと笑いながら静が順にしがみつく。その仕草はまるですり寄ってくる猫を思わせる。静の頭を撫で続けていた順は静の可愛らしさにつられて微笑んだ。
「……あー。言っとくが」
不意に後ろから声をかけられる。順は肩越しに振り返って和也に何、と問い返した。
「静はばりばりのサディストだぞ」
「しかも男だ」
和也の笑い混じりのせりふの後に間髪入れずに黒田が続ける。順は硬直して静の頭から手を離した。静はまだ嬉しそうに順の胸元に頬擦りしている。順はぎこちなく静の肩をつかんで少しずつ横に移動した。引き剥がすと静が不服の声を上げる。
「えー、ボクこんなに可愛いのにー」
「アホか。本性知ったらみんな引くわっ」
呆れたように和也が告げる。すると静はにっこりと笑って肩越しに和也を振り返った。
「黙れ、両刀野郎」
それまでの可愛いイメージをぶち壊す乱暴な言葉が静の口から飛び出す。
「うっさい、猫かぶり」
負けじと和也が言い返す。二人が言い合っている隙に順はそろそろと立ち上がってその場を離れた。何となく身の危険を感じつつステージの端に寄る。
「ボクが先につばつけようと思ってたのに、まんまと横からかっさらいやがって!」
小柄な身体に力をこめて静が怒鳴る。華奢な少女のイメージはそれだけでがらがらと崩れ去った。深々とため息をつき、順は缶ジュースを飲み干した。
「てめえはオレの財布から勝手に木村の写真抜いただけだろが!」
「何いってるんだ! ボクが持ってた写真だろ、それ! 勝手に定期入れから取ったの、カズくんじゃないか!」
一気に雲行きが怪しくなってきた。順はうろんな眼差しで言い合う二人を眺めてからつかさと黒田のところに向かった。和也は言い合いに夢中になっているのか段々と静に歩み寄っている。静も言い合いを続けながら和也に迫る。体格も身長も和也が一回り大きいためか、二人が並ぶとまるで親子のようにも見える。
賑やかにやり取りをしている二人から目を逸らし、順はつかさに訊ねた。
「ええと、笛吹さんってひょっとして美大?」
「うん。そう」
あっさりと肯定してつかさが楽譜に向き直る。どうりで和也がモデルのバイトのことを知っていはずだ、と順は遅まきながら納得した。二人を見てから黒田が呆れたようにため息をついて首を振る。
「放っておけ。あいつらのあれはいつものことだ」
「そーそー。ジュンチャンを巡っていっつも火花散らしてんのよん」
指の間でペンをくるりと回してつかさが付け足す。順は引きつりながらそうなんだ、と力なく頷いた。
「何だと、この変態ドチビ!」
「変態!? 男女の見境なくさかってるよりましだろ!?」
二人はまだ言い合いをしている。順はやれやれとため息をついて二人を無視することに決めた。つかさが書き込んでいる楽譜を覗き込む。確かに静の言った通り、つかさはキーを下げて曲を書き直しているらしい。時折、黒田がつかさに注文をつける。そのたびにつかさは渋い顔をしては楽譜を新たに書き換える。
「できたー! よし、ちっとコピー行って来る!」
数分後、楽譜を掲げてつかさが言った。慌ただしくステージを駆け下りて出口から飛び出して行く。順は大きく息をついて屈めていた身を起こした。
作曲や作詞が出来ることももちろん凄いと思うが、それらをまとめた曲をアレンジするのも才能がなければ出来ないだろう。順はつかさを見送りながら思わず感嘆の声を漏らした。
「凄いんだな。彼女」
「まあな」
事もなげに頷いて黒田がキーボードから離れていく。言い合いを続けている二人を余所に順は何となく黒田について行った。二人の言い合いはどんどん低レベルになりつつあった。今はもう、どっちが攻め手として上かなどという下らない言い合いに夢中になっている。
「もしかしてみんな大学は別々?」
そう問いながら順は言い合う二人をちらりと見返った。和也は順と同じ大学だが、静は美大だという。恐らくつかさも別の学校だろう。あんな派手な頭をした学生が同じ学校にいたら覚えていない筈がない。
「大学生なのはお前ら三人だけだ。つかさは音楽系の学校を中退しているし、オレは学校には通っていない」
「え、じゃあどうやって知り合ったんだ?」
順が問うと黒田は肩を竦めて答えた。
「楽器店とかによく張り紙がしてあるだろう。バンドのメンバーを募集って」
「ごめん。俺、そういう場所には出入りしたことが」
ない、と順が言う前に黒田が続ける。
「あるんだよ、そういうのが。それでまず最初につかさが張り紙をしていたのを静が見つけてメンバーになって、それから奴が張り紙を見つけた」
そう言いながら黒田が和也を指差す。へえ、と呟いて順は頷いた。
「じゃあ、黒田さんはその後で? 張り紙を見たのか?」
「いや。オレは奴の昔からの知り合いだ。ベースが足りないからと強引に引っ張り込まれた」
ため息を吐いて黒田が顔をしかめる。だが本気で嫌な訳ではないのだろう。きつい表情はしているが、特に嫌悪は感じられない。
しばらくしてつかさが走って戻ってくる。他のメンバーと同じように楽譜のコピーを順も受け取った。どうやら本当にいつも同じことを繰り返しているようだ。本気で喧嘩をしている訳ではないのだろう。つかさが戻ってきたところで言い合っていた二人はぴたりと口を閉じた。
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