冥府への案内人

伊駒辰葉

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四章

ホテルでの密会

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 心に痛すぎる記憶は防衛本能から時に忘れ去ってしまうという。だがそれは完全に記憶が消えた訳ではない。あくまでも思い出しにくい引出しの奥に記憶がしまわれただけだ。

 順はぼんやりと窓の外の夜景を眺めながら、どうしても引き出せない記憶があることを思い出していた。

「なあに? どうしたの、急に黙り込んで」
「あ、すみません。ちょっと考え事をしていて」

 美恵の問いかけに慌てて答えて順は止まっていた手を動かした。カトラリーは手に吸い付くようにぴったりと合っている。それだけでもこの店がそれなりに高級であることが判る。磨きぬかれたマホガニーの床といい、真っ白なクロスの張られたテーブルといい、久しく忘れていた空間だ。

 あれから資料室にこもってメインフレームに接続した。だが結局、目ぼしいデータは入手出来なかった。危険を冒す覚悟でなら新しいデータは入手できたのかも知れない。が、残念ながらその危険を冒すためのパスワードはまだ発見出来ていないのだ。仕方なく順はこれまでに入手したデータを再度確認するに留めた。

 講義が全て終了した後、順は約束通りに美恵の部屋を訪れた。改めて美恵と待ち合わせの時間を約束して大学を出た。着替えなければとアパートに戻ってみたものの、順はしばらく家の前で佇んでいた。昼にあんな別れ方をしていただけに和也と顔を合わせ辛い。

 だが順の心配を余所に和也はアパートには戻っていなかった。誰もいない部屋で着替えを済ませてしばし時間を潰す。だがそれでも和也は戻らず、結局順は何も言えないままで一人待ち合わせ場所に向かった。

 でもよく考えたら別にあいつに断る必要はないよな。そう内心で呟いて順はそっとため息をついた。一緒に暮らし始めてまださほど日は経っていない。なのにどうして和也のことを考えてしまうのだろう。

「もしかして口に合わなかった?」

 不安そうに美恵が訊ねる。いつの間にか暗い顔をしてしまっていたらしい。順はいいえ、と首を振って微笑みを浮かべた。

「とても美味しいですよ」

 多分、最高級のフランス料理なのだとは思う。訪れている客層を見れば、この店がどんなに高い店かはわかる。順はさりげなく周囲を伺って内心でため息をついた。

 味だけは判る。かつてよく屋敷で出されていた料理に似ているからだ。舌に乗せればどんな素材を使ってあるかも判るし、調味料に何を用いているかも判る。が、それと美味いと感じるかどうかはまた別の話だ。何しろ空腹感がないのだ。辛うじて胃に食べ物を納めているという感覚しかない。順は静かにカトラリーを置いてグラスを取った。ワインで口の中を少し湿らせてから再びカトラリーを取る。

 懐かしいという気持ちはある。大きな白い皿に綺麗に飾られた料理は昔よく見ていたものだ。屋敷にいた頃、順はほぼ毎日そういう料理を口にしていた。最初はマナーを躾るために専属の教師がいた。幼い頃は教師によく叱られたものだ。時折、都子が食事中にべそをかいていたことを覚えている。そのことを思い出して順は懐かしさに微笑んだ。

 おにいちゃん、おかしがたべたいよう。

 いつだったか都子がそうねだったことがある。毎日、子供だった彼らにはおやつの時間には手作りのケーキやクッキーが出されていた。だがどうしても都子はそれが納得出来なかったらしい。

 どうして? だってもう少ししたらおやつの時間だよ?

 不思議に思って順は都子に訊ねた。すると都子は拗ねて頬を膨らませ、一枚の白い紙を持ち出した。クレヨンで不器用に紙に絵を描く。都子が描いたのは色とりどりの菓子の絵だった。

 ちがうのっ。みやこ、こういうのがたべたいのっ。

 どうやら幼稚園で友達がそういう菓子の話をしていたらしい。順は困り顔で都子を説得しようとした。だが頑として都子は譲らない。

 順は都子の手を引いて屋敷を抜け出した。たどたどしく歩く都子を連れて、順は近所のマーケットに行った。そこで二人を待ち受けていたのはこれまでに見たことのないような菓子の山だった。順と都子は時間も忘れて菓子に見入っていた。

 思い思いの菓子を買い、二人は手を繋いで近くの公園に行った。ベンチに腰掛けてそれぞれの菓子の蓋を開ける。

 その時に食べた菓子の味は今でも思い出せる。甘ったるいカラフルなキャンデーと色とりどりのチョコレート。それは二人にとってまるで宝物のように感じられた。

 結局、二人は血相を変えた屋敷の使用人に連れ戻された。二人は教師にこっぴどく叱られ、その日のおやつは抜きにされた。

「でも、よく席が取れましたね」

 そう呟いて順は美恵を見た。美恵が食事の手を止めて小さく笑う。

「このお店は私のとっておきなの。いつでも食事が出来るように、この席は確保しているのよ」

 にっこりと笑って美恵が軽く手を上げる。静かに寄ってきたウエイターが美恵のグラスにワインを満たす。それが済むとウエイターはまた静かに席を離れて行った。

 大きなホテルの中にあるこの店は恐らく完全予約制だ。急に入れる店ではないだろう。客たちの中には見覚えのある顔もある。フロアの中央近くに財界人の一人を見つけた順はさりげない風を装って目を戻した。

 ゆっくりと食事をとった後、美恵に頼まれるままに順はエレベーターに向かった。隣を並んで歩く美恵を何となく見やる。今日の美恵はいつもとは違い、赤いイブニングドレスを着ている。胸元の大きく開いたそのドレスは美恵にとてもよく似合っていた。じゅうたんの敷かれたフロアを横切ってエレベーターホールに辿り着く。目的の階層を訊ねて順はエレベーターのボタンを押した。

「ごめんなさいね。本当に。うっかりしていて」

 どうやら美恵はとある書類を順に見せたがっているらしい。順は何の疑いもなく美恵の言葉を信じていた。いいえ、と微笑みを返してドアの開いたエレベーターに美恵を促す。美恵の後からエレベーターに乗り込んだ順は言われた通りの階層のボタンを押した。

 大きなエレベーターが静かに上昇する。順は何気なくエレベーターの階層を示す数字を見上げた。

「そんな格好をしていると見違えるわね。いつもそうしていればいいのに」

 そう告げて美恵がくすくすと笑う。順は自分の姿を見下ろして苦笑した。

「いつもこれだとさすがに息が詰まりますよ」

 ホテルのレストランでの食事と聞き、順はスーツに身を固めていた。屋敷から持ち出した服が役に立ったのは初めてだ。本当はタキシードにしようかとも思ったのだが、さすがにそれで外を歩くのは勇気がいったのでやめておいた。それに今は夏だ。タキシードは冬物でとても着ていられない。

 愛らしい音と共にエレベーターが止まる。順はエレベーターの奥に乗っていた美恵にどうぞ、と促した。にっこりと笑って美恵が先に降りる。順は続いてエレベーターを降り、美恵の後に続いた。

 ホテルの廊下はとても静かだった。人気のない廊下を歩きながら順は何気なく周囲を伺った。敷かれているじゅうたん、さりげなく置かれている調度品も相当にいい品だ。恐らく、この階にあるのはスイートルームなのではないか。そう思いながら順は黙って美恵について歩いた。美恵も先ほどからずっと無言を通している。

 嫌な予感がする。身体の線がよく判る美恵のドレスを後ろから見つめながら順は眉を寄せた。美恵は書類を見て欲しいと言っていた。だが何故、美恵はわざわざホテルの部屋をとったのだろう。それにこの階層は恐らくスイートルームが設えられている。急に部屋を取ろうとしても無理なのではないか。となると、美恵はあらかじめ部屋を取っていたということになる。

 ……何のために? 順の頭に疑問が浮かぶ。

「ここよ」

 ハンドバッグから取り出したカードキーをドアに差し込みながら美恵が告げる。それまで考えることに没頭していた順ははっと我に返った。美恵に促されるままに部屋に入ったところで順は慌てて振り返った。後から部屋に入った美恵がドアチェーンをかけてしまう。

「あ、あの?」

 もしかしたら端末を使ってデータを引き出したのがばれたのだろうか。だが、それと判る形跡は残していない筈だ。焦る順の頭に様々な疑問が浮かんでは消える。そんな順を余所に美恵は部屋の明かりを灯して奥に進んでいく。順は戸惑いながらも美恵について行った。

 部屋は広々としていた。順や和也の部屋とは比べ物にならない広さだ。部屋の中には応接セットが並び、テーブルには果物の盛られた籠が置かれている。色とりどりの花が至る所に飾られている。その部屋の奥にはさらに別の部屋がある。順は隣の部屋に続くドアを眺めてから美恵に向き直った。

「書類でしたよね」

 どんな内容なんですか。そう続けた順に美恵が微笑んでみせる。だがその微笑みはそれまでのものとは違い、明らかに何かを企んでいる風だった。

「……篠塚先生?」

 恐る恐る声をかけて順はじりじりと後ずさりした。どうやら嫌な予感は的中したらしい。先ほどまでとはまるで美恵の雰囲気が違う。美恵はソファにハンドバッグを置いて順に歩み寄った。一歩、二歩と次第に二人の距離が縮まっていく。

 大きな窓の外には暗い夜景が広がっている。それをバックにすると美恵の身体はドレス越しにもはっきりとラインが浮き出していた。豊かな胸、細い腰。順は歩み寄ってくる美恵に思わず見とれた。

 昼間の熱が蘇る。順は抱きついてくる美恵を拒まなかった。
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