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三章
夕暮れの向こう
しおりを挟む 不安と恐怖が順を支配する。だがそれでも順はどうしても自分のルーツを知りたかったのだ。
両親に当り前に愛されたいと望んだのではない。そんな望みはあの日以来、抱いたことはない。彼らにどんなに働きかけようと、彼らは所詮、自分を実験動物以上には見てはくれないだろう。だがもしも自分の正体が判れば都子のことも少しは判るかも知れない。もし、都子が自分と同じように実験動物にされているのなら。
その時は都子と一緒に逃げよう。そのためだけに順は苦しい日々を耐えて過ごした。父親は幼いあの日、順がボールを追いかけて話を聞いていたことを薄々は悟っていたらしい。あの日を境に順に微笑みかけることはなくなった。辛うじて母親はあの日以降も同じように順に接しようとしたが、それは逆に順にとって苦痛になった。何故なら母親は自分を大人しくさせるためだけに優しい顔を見せているのだと、順自身が理解していたからだ。
順は高校生になった。その頃には都子も順を追い掛け回すことはなくなった。少しずつではあるが、順以外の友達を作り始めたからだ。順は以前のように都子と四六時中一緒にいようとはしなかった。本当は都子と離れることはとても辛かった。が、この頃の順は自分が何故これほど都子に執着するのかを薄々理解していたのだ。
実験過程、若しくは実験そのもののために順は無条件に都子を求める。それなら逆に都子に対してはごく当り前の兄妹のように接したほうがいい。幸い、都子には両親も普通に接しているように見える。それなら辛いのは自分だけだ。これまでのように都子に執着せず、ごく当り前の兄妹のように接することにより、両親は順に何らかの異常が発生したと判断するのではないか。そうすれば近いうちに順は検査されるだろうと考えたのだ。
その時に少しは何か判るかも知れない。一縷の望みをかけて、順はあえて都子との距離をとった。
結果、順は思惑通りに検査に回された。だがそこで順が見たものは欲しかった情報ではなかった。検査室と書かれた部屋に入った途端、甘ったるい匂いが順の鼻をついた。怪訝に思いつつも順は何気なく呼吸をし……その後、きっかけも何もないままで欲情した。急に熱を帯びた股間をどうすることも出来ず、順はその場でうろたえるしかなかった。
それまでにも順は何度か検査を受けていた。だがその度に麻酔を打たれていたため、実際に自分が何をされていたのかを全く理解出来てはいなかったのだ。そしてこの時に初めて順は自分に何が起こったのかを知る。
強制的に欲情させられた順は白衣を着た数人の男に服を剥ぎ取られた。必死で暴れて抵抗する順を男たちがベッドに押さえつける。あっという間に順の股間は剥き出しにされ、薄いゴム手袋を嵌めた男たちの手によりペニスに強引に何かをはめ込まれた。
それは乳牛に使用する搾乳機を思わせる太いパイプ状の機械だった。ペニスを覆う形で嵌められたそれは、内部は柔らか素材で出来ていた。リモコン操作で稼動するらしく、一人の男が手に握った小さな機械に触れると同時に動き始めた。
悲鳴を上げて身をよじった順は、次の瞬間に射精した。股間に嵌った機械が内部でペニスを扱いたのだ。快楽など感じる間もなく精液が吸い上げられていく。その感覚に順は声を殺して何度も精を放った。
声を出すことも出来ないほどに疲れ果てた頃、検査は終了した。順の記憶はそこで途切れた。
気付いた時には自分の部屋のベッドに横たわっていた。虚ろな眼差しで天井を見上げた順はようやく気がついた。下手な真似をすれば何度でも同じ目にあわせてやろう。それは無言の脅迫だった。だからその日に限って麻酔なしの検査が行われたのだ。
だから家を出ようと思った。両親の傍にいては調べることすらままならない。だが今すぐに家を出るのは得策ではない。少なくとも大学に入るまでは我慢しよう。
そう決意してから二年。順は無事に目的の大学に合格した。そして合格通知を受け取った直後、順はあの家を黙って出た。連れ戻される可能性はもちろんある。そうなれば前よりもっと酷いことをされるかも知れない。だがそれでももしかしたら。
残された都子がどうなったのかを思うと今でも胸が締め付けられる。だが両親が都子には酷い真似をしないという打算が順にはあった。何故なら両親にとって順は出来損ないでも、都子は違っていたからだ。順が家を出るあの時まで都子は何も知らなかった筈だ。少なくとも知っていればそれまでのように生活は出来なかっただろう。そんな都子にわざわざ両親が何事かを報せるような真似をするとは思えない。
それに、と呟いて順は目を開けた。夢から現実に急速に意識が戻ってくる。
「都子は大丈夫だ」
そう続けて順は額に手を当てた。やけに体が熱い。短く浅い呼吸をしながら順は枕元の時計を取ろうとした。が、滑って取り損ねてしまう。順は転がって床に落ちた時計を何とかつかみ取った。伸ばした腕は意志とは関係なく震えている。時計はいつになく冷たく感じられ、そのことで順は熱が身体全体に及んでいることを知った。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい。
つかんだ懐中時計を引き寄せる。長く細いチェーンのついた時計の蓋を開いて順は目を細めた。十時五分。受講予定だった講義の真っ最中だ。順は顔をしかめてふらつく身体を何とか起こした。講義そのものを一度くらいさぼるのは何の問題もない。が、助教授の心証が悪くなるのは困る。
大学に入学した直後、順は受講可能な講義は出来るだけ出席することにした。何を調べるにしても、とにかく情報が必要だったからだ。そう決めた順は学費や家賃を稼ぐためにアルバイトを掛け持ちして、入学当初はとても忙しかった。眠る時間が三時間取れればいい方だった。だがその甲斐あって、今ではとある助教授にいたく気に入られるまでになった。そう、それが最初から順の目的だったのだ。
多少のわがままが通る程度に付き合いを保てればいい。その人間関係を維持している間は少なくとも情報が手に入る。順は顔をしかめてこめかみを押さえた。これも熱のせいだろうか。酷い頭痛がする。順は意識して深く呼吸をし、止まっていた手を再び動かし始めた。ジャケットを引っ張り出してからビニールロッカーのファスナーを閉める。一番上までファスナーを持ち上げた拍子によろけそうになる。順は慌てて腕を伸ばしてビニールロッカーを避け、壁に手をついた。不自然な格好で身体を捻ったために肩から壁に突っ込んでしまう。半ばやけくそになりながら順は壁に寄りかかったまま着替え終えた。
六畳一間の狭いアパートを出て自転車で二十分。いつもならそれで大学に到着するのに、この日は倍時間がかかってしまった。普段、大して辛く感じたことのないなだらかな坂道を息を切らして登る。
駐輪場に自転車を止めて急ぎ足で講義室に向かう。順は脱いだ麻のジャケットを小脇に抱え、階段を駆け上がった。何度も咳き込みながら見慣れた扉を開く。講義の真っ最中だった講義室の中はその途端にしんと静まり返った。
「……すみません、遅れました」
教壇に立つ女性に深々と頭を下げ、順はそう詫びた。ホワイトボードに向かっている女性は篠塚美恵だ。順の専攻する環境分子生物学の担当助教授だ。美恵は目を見開いて呆然としていたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「いいから早く席に着きなさい」
そう告げて学生たちの座る方に顎をしゃくる。順はもう一度、頭を下げてから静かに席に向かった。なぜか講義の際はいつも前の席は空いている。手近な一番前の席について、順は手にしていたジャケットを隣の席に置いた。
両親に当り前に愛されたいと望んだのではない。そんな望みはあの日以来、抱いたことはない。彼らにどんなに働きかけようと、彼らは所詮、自分を実験動物以上には見てはくれないだろう。だがもしも自分の正体が判れば都子のことも少しは判るかも知れない。もし、都子が自分と同じように実験動物にされているのなら。
その時は都子と一緒に逃げよう。そのためだけに順は苦しい日々を耐えて過ごした。父親は幼いあの日、順がボールを追いかけて話を聞いていたことを薄々は悟っていたらしい。あの日を境に順に微笑みかけることはなくなった。辛うじて母親はあの日以降も同じように順に接しようとしたが、それは逆に順にとって苦痛になった。何故なら母親は自分を大人しくさせるためだけに優しい顔を見せているのだと、順自身が理解していたからだ。
順は高校生になった。その頃には都子も順を追い掛け回すことはなくなった。少しずつではあるが、順以外の友達を作り始めたからだ。順は以前のように都子と四六時中一緒にいようとはしなかった。本当は都子と離れることはとても辛かった。が、この頃の順は自分が何故これほど都子に執着するのかを薄々理解していたのだ。
実験過程、若しくは実験そのもののために順は無条件に都子を求める。それなら逆に都子に対してはごく当り前の兄妹のように接したほうがいい。幸い、都子には両親も普通に接しているように見える。それなら辛いのは自分だけだ。これまでのように都子に執着せず、ごく当り前の兄妹のように接することにより、両親は順に何らかの異常が発生したと判断するのではないか。そうすれば近いうちに順は検査されるだろうと考えたのだ。
その時に少しは何か判るかも知れない。一縷の望みをかけて、順はあえて都子との距離をとった。
結果、順は思惑通りに検査に回された。だがそこで順が見たものは欲しかった情報ではなかった。検査室と書かれた部屋に入った途端、甘ったるい匂いが順の鼻をついた。怪訝に思いつつも順は何気なく呼吸をし……その後、きっかけも何もないままで欲情した。急に熱を帯びた股間をどうすることも出来ず、順はその場でうろたえるしかなかった。
それまでにも順は何度か検査を受けていた。だがその度に麻酔を打たれていたため、実際に自分が何をされていたのかを全く理解出来てはいなかったのだ。そしてこの時に初めて順は自分に何が起こったのかを知る。
強制的に欲情させられた順は白衣を着た数人の男に服を剥ぎ取られた。必死で暴れて抵抗する順を男たちがベッドに押さえつける。あっという間に順の股間は剥き出しにされ、薄いゴム手袋を嵌めた男たちの手によりペニスに強引に何かをはめ込まれた。
それは乳牛に使用する搾乳機を思わせる太いパイプ状の機械だった。ペニスを覆う形で嵌められたそれは、内部は柔らか素材で出来ていた。リモコン操作で稼動するらしく、一人の男が手に握った小さな機械に触れると同時に動き始めた。
悲鳴を上げて身をよじった順は、次の瞬間に射精した。股間に嵌った機械が内部でペニスを扱いたのだ。快楽など感じる間もなく精液が吸い上げられていく。その感覚に順は声を殺して何度も精を放った。
声を出すことも出来ないほどに疲れ果てた頃、検査は終了した。順の記憶はそこで途切れた。
気付いた時には自分の部屋のベッドに横たわっていた。虚ろな眼差しで天井を見上げた順はようやく気がついた。下手な真似をすれば何度でも同じ目にあわせてやろう。それは無言の脅迫だった。だからその日に限って麻酔なしの検査が行われたのだ。
だから家を出ようと思った。両親の傍にいては調べることすらままならない。だが今すぐに家を出るのは得策ではない。少なくとも大学に入るまでは我慢しよう。
そう決意してから二年。順は無事に目的の大学に合格した。そして合格通知を受け取った直後、順はあの家を黙って出た。連れ戻される可能性はもちろんある。そうなれば前よりもっと酷いことをされるかも知れない。だがそれでももしかしたら。
残された都子がどうなったのかを思うと今でも胸が締め付けられる。だが両親が都子には酷い真似をしないという打算が順にはあった。何故なら両親にとって順は出来損ないでも、都子は違っていたからだ。順が家を出るあの時まで都子は何も知らなかった筈だ。少なくとも知っていればそれまでのように生活は出来なかっただろう。そんな都子にわざわざ両親が何事かを報せるような真似をするとは思えない。
それに、と呟いて順は目を開けた。夢から現実に急速に意識が戻ってくる。
「都子は大丈夫だ」
そう続けて順は額に手を当てた。やけに体が熱い。短く浅い呼吸をしながら順は枕元の時計を取ろうとした。が、滑って取り損ねてしまう。順は転がって床に落ちた時計を何とかつかみ取った。伸ばした腕は意志とは関係なく震えている。時計はいつになく冷たく感じられ、そのことで順は熱が身体全体に及んでいることを知った。どうやら本格的に風邪をひいてしまったらしい。
つかんだ懐中時計を引き寄せる。長く細いチェーンのついた時計の蓋を開いて順は目を細めた。十時五分。受講予定だった講義の真っ最中だ。順は顔をしかめてふらつく身体を何とか起こした。講義そのものを一度くらいさぼるのは何の問題もない。が、助教授の心証が悪くなるのは困る。
大学に入学した直後、順は受講可能な講義は出来るだけ出席することにした。何を調べるにしても、とにかく情報が必要だったからだ。そう決めた順は学費や家賃を稼ぐためにアルバイトを掛け持ちして、入学当初はとても忙しかった。眠る時間が三時間取れればいい方だった。だがその甲斐あって、今ではとある助教授にいたく気に入られるまでになった。そう、それが最初から順の目的だったのだ。
多少のわがままが通る程度に付き合いを保てればいい。その人間関係を維持している間は少なくとも情報が手に入る。順は顔をしかめてこめかみを押さえた。これも熱のせいだろうか。酷い頭痛がする。順は意識して深く呼吸をし、止まっていた手を再び動かし始めた。ジャケットを引っ張り出してからビニールロッカーのファスナーを閉める。一番上までファスナーを持ち上げた拍子によろけそうになる。順は慌てて腕を伸ばしてビニールロッカーを避け、壁に手をついた。不自然な格好で身体を捻ったために肩から壁に突っ込んでしまう。半ばやけくそになりながら順は壁に寄りかかったまま着替え終えた。
六畳一間の狭いアパートを出て自転車で二十分。いつもならそれで大学に到着するのに、この日は倍時間がかかってしまった。普段、大して辛く感じたことのないなだらかな坂道を息を切らして登る。
駐輪場に自転車を止めて急ぎ足で講義室に向かう。順は脱いだ麻のジャケットを小脇に抱え、階段を駆け上がった。何度も咳き込みながら見慣れた扉を開く。講義の真っ最中だった講義室の中はその途端にしんと静まり返った。
「……すみません、遅れました」
教壇に立つ女性に深々と頭を下げ、順はそう詫びた。ホワイトボードに向かっている女性は篠塚美恵だ。順の専攻する環境分子生物学の担当助教授だ。美恵は目を見開いて呆然としていたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「いいから早く席に着きなさい」
そう告げて学生たちの座る方に顎をしゃくる。順はもう一度、頭を下げてから静かに席に向かった。なぜか講義の際はいつも前の席は空いている。手近な一番前の席について、順は手にしていたジャケットを隣の席に置いた。
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