冥府への案内人

伊駒辰葉

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三章

真夏の味噌汁

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 朝目覚めると味噌汁の匂いがした。順は寝ぼけた目をこすりながら周囲を見た。何故、自分は和也のベッドにいるのだろう。首を捻りながら身体を起こし、そこで順は一気に目を覚ました。

 何で何も着てないんだ!?

 全裸の自分の姿に愕然として順は一度はめくった布団を慌てて被り直した。恐る恐る自分の身体に触ってみる。だがどれだけ確かめても下着一枚身につけてはいない。

「ええ、と、昨日はどうしたんだっけ」

 朝日を遮られた薄暗い布団の中、順はしかめっ面で必死に記憶をたどった。

 大学から帰ろうとした時に、美恵の講義の後に話し掛けてきた恭子と香苗に呼び止められた。二人の頼みをどうしても断れず、仕方なくコンパに出向いた。そこで待っていたのは数人の見知らぬ学生だった。順は不慣れなこともあって殆ど喋ることが出来なかった。が、何故か一番酒を勧められたのも順だった。

 何でだろう。順は布団を頭から被ったまま膝を抱えてため息をついた。何故、コンパの席にいたみんなはあれだけはしゃいでいたのだろう。それにどうして酒をあんなに人に勧めるのか。そもそもあの量を普通の人間が飲めば酔うだけでは済まないのではないか。様々なことを考えるうちに順の表情は次第に険しくなっていった。

 とにかく着替えよう。そう思いながら布団をめくる。

「……何してんだ?」

 愛らしいひよこのイラストのついたエプロンをかけた和也が不審そうに順を見る。順は慌てて剥き出しになっていた股間に布団をかけた。和也が手にしていたトレイから茶碗を二膳ほどテーブルに並べ、屈めていた腰を伸ばす。順が目を覚ます前に食事の支度をしていたらしい。テーブルにはもう味噌汁椀や漬物の入った密封容器が並んでいる。

 順は無言でベッドを降りると自分の部屋に戻った。手早く身支度を整えて顔を洗いに洗面台に向かう。顔を洗って戻ると和也が丁度、焼き魚をテーブルに置くところだった。

「ベッドに裸のままの俺を引っ張り込む性癖は直せ」

 感情のない声で告げて順はテーブルの脇に腰を下ろした。だが和也からは返事がない。用意された箸を取りながら順はため息をついた。

「記憶がなくなるまで人の身体を弄ぶのは感心しないぞ。寝坊したらどうするつもりだ」

 淡々と告げて順は顔を上げた。そこで眉間にしわを寄せる。和也は手にしていたトレイを掲げて大仰に驚いた演出している。驚くべきか感心するべきかしばし考え、順は無難に無視することにした。味噌汁椀を取り上げて熱い味噌汁に細く息を吹きかける。

「オレの姫はどこに!?」

 反応しないことが不満だったのか、和也がわざとらしく嘆きの声を上げる。順はそれを無視して味噌汁をすすった。

「……下らないことを言っている暇があったらさっさと食べたらどうだ。物理学の講義はお前も受けるんだろう?」

 出来るだけ冷静に言いつつも順は昨日のことを何とか思い出そうとしていた。だがどう記憶を探ってもコンパから帰ってビールを飲んでいたところまでしか思い出せない。和也がギターを抱えていたような気もするのだが、それもはっきりとは覚えていない。まるで記憶そのものに霞でもかかっているようだ。

 トレイを片手に愕然とした表情をしていた和也がやれやれとため息をつく。どうやら驚きの演技に飽きたらしい。大人しくテーブルについた和也を横目に見ながら順は深々とため息をついた。

「代返が効かないからなあ。あの教授」

 苦笑しつつ和也が手を合わせていただきますと言う。こういう時だけ和也は随分と行儀がいい。順はそ知らぬ顔で焼けた鯵をつついた。

「しっかし、木村もぜんっぜん態度違うよな。メシ作ってくれてありがとうとかないのか? ちょっとくらい」

 確かに礼を言いたくなるくらいには和也の料理は上手い。それに礼儀として食事の前に挨拶くらいはした方がいいのだろう。だが順は知らん顔で食事を続けた。

「金が余っていると豪語したのは誰だ。養ってくれるんじゃなかったのか?」
「うわ、可愛くねえ」

 即座に切り返して和也が嫌そうに顔をしかめる。だがその目は何故か笑っているように見えた。

 そういえば幼い頃はいつも誰かと食事をしていた。和也と朝食を食べて大学に向かいながら順はぼんやりと考えた。和也はいつものように賑やかに話し掛けてくる。満員の電車に揺られながらよくそんなに話をしようと思えるものだ。だがそうは思っても順も毎回のことに次第に慣れ始めていた。ああ、うん、それで。適当に返事をしながら考え事を続ける。

 昨日は妙に忙しくて結局、データを覗くことが出来なかった。一日置きにメインフレームからデータを引き出すことが半ば習慣付いていたために気分が落ち着かない。おまけに満員電車は夏特有の熱気に満ちている。順はうんざりしながらしばし電車に揺られていた。

 目的の駅にたどりついてようやく不快感から解放される。だが電車から降りても暑さはそれほど変わらない。順は出来るだけ日陰を選んで大学に向かった。

「……どうでもいいが。いつまでくっついてくるつもりだ」

 機嫌よく鼻歌を歌いながら隣に腰を下ろした和也を横目に睨む。えー、と笑いながら和也は鞄の中身を机に乗せた。ルーズリーフ、テキスト、筆記用具。それらを順番に並べて和也は鞄を机の中棚にしまいこんだ。

「別に隣に座るくらいいいだろ?」
「……邪魔をしなければな」

 一応、そう釘を刺してから順も和也にならって鞄からテキストを取り出した。筆記用具とばらのリフィルを机に乗せる。順はちらりと和也のルーズリーフを見やった。和也のようにバインダー状のルーズリーフのまま書き込むのはどうも苦手だ。真ん中の留め具が書いている時にどうしても邪魔になるのだ。

 順は講義室の一番後ろの席を陣取っていた。左端のこの席は窓から涼しい風が入ってくる。朝から暑い思いをしたくない学生も多いのだろう。徐々に窓際の席が埋まっていく。順はぼんやりと窓の外を眺めながら考えを巡らせた。

 何故かは判らないが先日までの酷い飢餓感が日に日に薄くなっている。おまけに和也に勧められるままに食事までとるようになった。これまでとは人々の姿がまるで違って見える。その話をすると和也は笑って、いい傾向じゃないかと言う。

 でも本当にそれでいいのだろうか。目を細めて雲の流れを追いかけながら順はため息をついた。

 やがてチャイムが鳴り、講義が始まった。物理学の教授は老年の男性だ。声が聞こえにくいという学生からの苦情を考慮してか、この教授の講義は音響施設のある広々とした講義室で行われる。今日もまた、教授は胸元にワイヤレスマイクをつけて講義を始めた。

 低くしわがれた声がスピーカーから響いてくる。順はノートを取りつつ教授の話に耳を傾けた。隣では和也が下を向いて大きな欠伸をしている。最初から聞く気がないんだな。呆れた気分で横目に和也を見てから順は再び前を向いた。

 前期試験を終えたこの時期の学生は、長い休みの前だからだろうか。皆どこかしら浮き足立っている。講義中に私語をする学生は余りいないが、それでも講義室の中にそんな雰囲気が漂っているのだ。いつもは真面目な順も何となく雰囲気につられてぼんやりとしつつ肘杖をついた。だがすぐに思い直してノートに向かう。

 こんなところで緊張感を解いてどうするんだ。そう自分に言い聞かせて順は講義の内容に集中しようとした。本来の目的である情報の収集を怠っていてはここに来た意味がない。周囲の雰囲気に惑わされることなく、自分は真面目に大学に通っていればいいのだ。そうでなければこれまでしてきたことは全て水泡に帰す。

 都子を連れてあの家から逃げる。そのためだけにこれまで過ごしてきたのだ。それ以外のことなどどうでもいい。

 そこまで考えて順はふと目を上げた。
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