冥府への案内人

伊駒辰葉

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三章

日常が消える時

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 身体がだるい。

 ぼんやりとした目をホワイトボードに向けて順は欠伸をかみ殺した。いつもなら熱心に聞ける講義の内容も耳を素通りしていく。ホワイトボードの前に立つ美恵の姿を何となく眺めながら順はそっとため息をついた。

 一番後ろの席には順の他には誰もいない。大学にまでしっかりついてきた和也も今は別の講義に出席中だ。少し離れた席では二人の女子学生が潜めた声で何事かを話している。どうやら彼女たちも最初から講義を聞く気などないようだ。順は机に肘杖をついてその二人組をしばらく観察した。片方は艶やかなストレートのロングヘア。もう片方の女子学生は対照的な癖毛のショートヘアだ。時折見える横顔を比べると若干、ショートヘアの女子学生の方が見劣りするか。だがどちらもそれなりのお洒落は楽しんでいるようだ。

 赤いピアスと金色の細いチェーンのネックレスをぼんやりと眺めてから順ははっと我に返った。一体、自分は何を見ているのだろう。慌てて目を逸らしかけていた順を二人が同時に振り返る。どうやら順が見ていたことには気付いていたようだ。彼女たちは互いに顔を見合わせてからこっそり順に手を振ってみせた。

 しばし躊躇してから順は何となく二人に手を振り返した。すると二人が嬉しそうに顔をほころばせる。

「こら、そこ。聞かないなら出て行ってもらうわよ」

 唐突に声が飛んでくる。順は慌てて机の上に出していた手を引っ込めた。内緒話に興じていた二人も慌てたように前を向く。ホワイトボードの前に立つ美恵はいつの間にか腕組みをして二人を睨んでいた。だが真面目に受講するつもりがあるのだと理解したのだろう。それっきり、美恵は二人のことを叱らなかった。

 俺のせいかな。何となく後味の悪い気分で順は二人の様子をちらりと見た。だが美恵に叱られて懲りたのか、もう二人は大人しく前を向いている。順は二人の様子を後ろから眺めた。

 どうしてだろう。昨日までは気にならなかったのに。内心でそう呟いて順は視線を動かした。これまでと同じ光景の筈なのに全く違って見える。机につく学生たちや講義をする美恵が今までとは別人に見えるのだ。

 もしかして昨日のあれのせいかな。そう思いながら順はぼんやりと昨晩のことを思い起こした。和也に言われるままに自慰を繰り返し、崩れるようにして眠りについた。目を覚ました時、順は和也のベッドに眠っていたことに驚愕し、次いでどうしてそのベッドで眠ったのかを理解した。きっと和也は疲れて眠りについた順を起こさないよう、わざと移動させなかったのだ。

 目が覚めても順は夜のことを今度ははっきりと覚えていた。和也に何を言われ、そして自分がどうなったかを理解していた。妄想の中で順は都子を思うがままに蹂躙した。なのに順は目が覚めた後、不思議と後悔はしなかった。そんな妄想をするきっかけを作った和也を責める気にもならなかった。ただ、酷く淡々と自分の行動を思い返した。

 どれだけ考えても思い出しても、どうしても後悔の念が湧かない。あれだけ可愛いと思っていた都子をどうして妄想の中とはいえ、襲おうと思ったのだろう。触発されて思い描いてしまったとはいっても、その内容は恐らく和也が言ったのとは少し違っていた筈だ。

 泣いている方がいいなんてどうかしてる。そう心の中で呟いて順はこっそりため息をついた。妄想の中の自分は紛れもなく嗤っていた。泣きじゃくり、止めてくれと叫ぶ都子を襲いながら嗤っている自分を思い返す。だがそうしてみても順はどうしても後悔することが出来なかった。

 ただ、奇妙な満足感だけが残っている。いつもの飢餓感がかなり薄れていることも判る。それが昨晩の自慰が原因だということも理解は出来る。

 今朝、目が覚めた順に和也は言った。昨日、順に塗るように命じたジェル状のものは都子の体液で出来ていたらしい。平たく言えば愛液な。笑ってそう言ってのけた和也を順はだが怒らなかった。いつもならきっと聞いた瞬間に和也に飛び掛っていただろう。なのにどうしてもそうする気にならなかった。

 順は無意識に膝に爪を立てていた。ジーンズ越しに爪で膝をつかむ。

 どうして都子の愛液で欲情してしまうのか、今なら何となく判る。きっと自分たちは見えない糸で繋がっているのだ。だから体液が恐らく互いに影響を与えるのだろう。もし、都子の体内に順の精液を注入すれば、都子は昨日の順と同じように欲情するかも知れない。

 たぶん、元が同じだから。

 笑う和也に順はぽつりとそれだけを返した。その答えを和也がどう感じたのかは判らない。が、それっきり、和也は都子のことを口にはしなかった。無言で朝食を準備して出来た料理をテーブルに並べる。順はぼんやりとそんな和也を見守っていた。

 元が同じでもどうしてこれだけ二人には差があるのだろう。拾ったデータを見る限り、都子は今もテストの度に好成績を修めているようだ。対して自分はどうだろう。そう考えた順は憂鬱な気分で小さく頭を振った。

 考えても無意味だ。苦し紛れにそう結論を出したところでチャイムが鳴る。今日はこれまで、という美恵の声と共に学生たちが席を立ち始める。順はまばらに散る学生たちの姿を見つめた。これまで見ようと思わなかった女子学生の身体つきが妙に気になる。

 これじゃ、まるでさかりのついた猫だな。目が自然と女子学生たちの胸元に向いていることに気付き、順は深々と息をついた。昨日の今日だ。きっと昨夜の熱がまだ冷めていないだけに違いない。自分にそう言い聞かせて席を立とうとした時、呼びかける声が聞こえてきた。

「あの、木村くん。ちょっといい?」

 間近から声をかけられて順は慌てて顔を上げた。いつの間に近付いてきたのだろう。講義中に順が観察していた女子学生二人組が傍に立っている。席を立とうとしていた順椅子に座り直し、二人を交互に見た。もしかして自分が見ていたことで叱られた件だろうか。

 いつもは無視するのだがやましい気持ちから、順は返事をした。

「何?」

 出来るだけ動揺を隠して小声で訊ねる。すると二人が顔を見合わせて頷いた。

「あのねっ。実はぁ、ちょっとお願いがあるんだけどぉ」

 少し鼻にかかる甘い声で言いながらショートカットの女子学生が順に顔を近づける。順は無言で相手を見つめ返した。

 あ、まつげ長いな。

 二重でぱっちりと開いた瞼を縁取る睫毛を何気なく見つめ、順はそう思った。淡い色の口紅の塗られた唇は薄く艶やかだ。首にかかるネックレスは動きに合わせて揺れ、薄手のブラウスに包まれた胸元は柔らかな丸みを帯びている。

「ちょっとぉ、どこ見てるの。木村くんってエッチなんだぁ」

 そう言いながら女子学生が胸を隠すように腕を交差させる。そこで漸く順は自分が不躾に相手を観察していたことに気付いた。慌てて視線を上げて頭を下げる。

「ごめん」
「ほら、香苗ちゃん。だいじょぶだったでしょ?」

 詫びた順に微笑みかけてからショートカットの女子学生が言う。すると隣に立っていたロングヘアの女子学生がうん、と頷く。どうやらロングヘアの女子学生は香苗という名前らしい。会話から察するに、ショートカットの女子学生の方は恭子という名前のようだ。

「ちょっと意外かも。木村くんってもっと冷たい感じの人かと思ったのに」
「だよねー。声かけるの怖かったもんね。こないだまで」

 そう言いながら二人がくすくすと笑う。一体、何の話だろう。順は内心で首を捻りながら二人の様子を黙って伺った。
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