冥府への案内人

伊駒辰葉

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二章

赤く燃える視界

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 アパートの駐輪場に自転車を停めて錆びた階段を昇る。とりあえず体調を回復するために寝よう。その後のことはそれから考えればいい。そう思いながら順は鍵を鍵穴に差し込んで回そうとした。

 何故か鍵があいている。順は警戒しながらそっとドアを開けた。音を立てないように注意しながら玄関に入る。後ろ手にドアを閉めた順は足元に目を落として眉を寄せた。見覚えのある靴が一組、放り出されている。

「人の部屋に勝手に上がりこむなんてどういうつもりだ!」

 そう怒鳴りながら順は部屋に入った。玄関から見えないように掛けてあるカーテンをくぐると、思った通り、和也が部屋にいた。

「おー、おかえりー」

 ビール缶を握った手を軽く上げて和也が挨拶する。順は憤りに任せて肩にかけていた鞄を投げつけた。片腕でそれを受け止めた和也が何が楽しいのかにやにやと笑う。

「鍵をどうした! 渡部に合鍵を作った覚えはないぞ!?」
「オレが何で持ってないとかって思うんだよ。頭、大丈夫か?」

 こめかみを指でつつきながら和也が口許をにやりと歪める。そこでやっと和也が監視者だということを思い出し、順は歯噛みした。監視者なら鍵を持っていても何ら不思議はない。

「帰れ!」

 和也の手からビールを奪い取り、ついでに背中を蹴飛ばす。畳に胡座をかいていた和也は大仰に声をあげてその場に寝そべった。四肢を伸ばして順を見上げる。

「何で?」
「ここは俺の部屋だろう!」
「だから待ってたんだが?」

 即座に切り返されて順は怒りに手を震わせた。そもそも和也は今日の講義を全てさぼっている。そのことはもう確認済みだ。なのにどうしてこんなところにのうのうと横たわっているのだろう。順は鋭く和也を睨みつけて顎をしゃくった。出て行け、という意味をこめた順の動きに和也が不服の声を上げる。

「大体な。何でオレが木村に命令されにゃならんのよ。逆だろ、立場が」

 ぼやくように言いながら和也が反動をつけて身体を起こす。ついでとばかりに和也は素早く順の手からビール缶をさらった。缶を再び奪うでもなく順はぼんやりと和也を見た。何を言われたのかがよく判らない。

 監視者には監視以外の役目はない。順の行動をただ見張って上に報告するというのが監視者の仕事の筈だ。少なくとも今まではそうだった。

 考え込む順に和也が人の悪い笑みを向ける。それを見止めた順の胸のうちに奇妙なものがこみ上げてきた。いつも忘れようとしている飢餓感が急に強くなったのだ。

 気持ち悪い。そう内心で呟いて順は和也から目を背けた。

「調教するっつったろ」
「……ばかばかしい。何で俺がそんな真似をされなきゃならないんだ」

 相手にするのもばからしくなり、順は和也に背を向けた。あくまでも出て行かないならこちらが外に出ればいいのだ。そう決めて順は歩き出そうとした。

「なあ。都子ちゃんって響野女学園だっけ?」

 全身が凍りついたように動けなくなる。順は目を見張ってその場に立ち止まった。和也はのんびりと畳に胡座をかいてビールの缶を傾けている。そんな和也を順はぎこちない動きで振り返った。

 力一杯床を蹴る。激しい音が鳴った直後、順は和也の胸倉を捕まえていた。片手で和也のシャツを掴んだまま壁際に向かって更に踏み込む。片腕で壁に和也を押さえつけ、順は無言でもう片方の手で和也の首を締めようとした。

 不意に冷たいものが顔にかかる。

「ったく、こういう時だけ速いな」

 苦笑して言いながら和也が更に缶を傾ける。顔にビールをかけられているのだと気付いた順は慌てて和也から飛び離れた。濡れた顔を片手で拭って息を整える。再び飛び掛ろうとした瞬間、不意に目の前から和也の姿が消えた。

「え」
「ちょっとさっきのは油断してただけだ」

 背後で声が聞こえた直後、順はその場に倒れた。後ろから和也に組み伏せられたのだ。膝で順の背中を踏みつけながら和也が不敵に笑う。畳に押さえつけられた順は無理やりに首を起こして和也を睨みつけた。

「都子のことはお前に関係ないだろう!」
「殺す気で来るとは思ったが詰めが甘かったな」

 にやにやと嗤いながら和也が身を屈める。体重を背中に乗せられて順は苦しさに呻いた。腕を後ろに振ってはみるが順の肘は和也に悉く避けられてしまった。

「ここでオレを殺したらどうなるか判ってんのか? 自分の部屋で殺しなんざしちまったら犯人確定間違いなしだ。しかももしオレがそうなったら、オレの代わりに都子ちゃんにあんなことやこんなことしといてくれって仲間に頼んでるしな」

 そう言ってから和也は楽しそうに笑い声を上げた。順は歯を食いしばって息を殺し、全身の力をこめて畳を殴りつけた。背中に乗っていた和也を振り落として立ち上がる。

「都子には手を出すな!」
「……あー、びっくりした。舌噛むかと思ったぜ」

 畳に転がった和也が大仰にため息をつく。順は和也に指を突きつけて叫んだ。

「手を出したら誰であろうが殺す!」

 自分が憤りに我を忘れていることすらこの時の順は判っていなかった。都子によからぬことを働く誰かが居たらと考えると全身の血が沸騰しそうに思えた。都子さえ守れるなら犯罪に手を染めるくらいは何でもない。本気でそう思った。だから和也にためらいなく飛び掛ったのだ。

 再び畳に胡座をかいた和也がおざなりな拍手をする。怒りに我を忘れていた順はそこで漸く少しだけ冷静になった。

「その度胸と瞬発力は認めてやるよ。とりあえずはな」

 それまで殆ど聞こえなかった和也の声が急に耳に入ってくる。急速に身体の熱が冷めていく。順は半ば呆然と和也を見下ろした。何故、自分は怒りを持続出来ないのだろう。今なら和也は完全に無防備だ。飛び掛れば殺すことも可能だろう。なのにどうしてか身体が動かない。

 殺す、と順は口の中で呟いてみた。冷めた頭で考えるとそれが酷く困難に思えてくる。もしも都子に手を出したら。わざとそう考えてみるが先ほどのような怒りは何故か込み上げてこない。

「そう。木村は結局のところ世間知らずのお坊ちゃまって訳だ。威勢よく殺すなんて言ってみたとこで、これまで自分の手なんざ汚したこたあねえだろう」

 まるで考えていることを見抜いたかのように和也が告げる。絶句した順を指差して和也は唇だけを歪めて嗤ってみせた。

「やっぱり世間知らずには調教が必要だと思うだろ?」
「なっ、何でそうなる!」

 反射的に叫んでから順はしまったと口を押さえた。都子の件を問い質すどころか完全に和也のペースに乗せられてしまっている。そのことに気付いた順は気持ちを切り替えるために咳払いをした。

「とにかく、都子には手を出すな。それにどう考えても都子は渡部が手を出せる環境にいない筈だが?」

 そもそも都子には順と同様に監視者が複数つけられている。もしも和也が都子に手でも出そうものなら即刻、消されてしまう可能性だってあるのだ。何しろ都子は順とは違い、とても大切にされている。同じ実験体とは思えないほどに二人の扱いには雲泥の差があるのだ。

 都子の耳には未だ実験の話は入っていない筈だ。研究者たちは都子には何も教えるつもりはないだろう。必要のない情報を与えて逃げ出しでもしたらそれこそ元も子もないからだ。

 自分はいい。逃げても大した執着はされずに済む。だが都子は違う。そうでなければ都子は二度と日の目を見られない場所に閉じ込められてしまうだろう。研究者たちは貴重な成功例である都子を逃がすつもりはないはずだ。だから逃げるなら絶対に捕まらないように逃げ続けなければならない。

 順がメインフレームから引き出した実験データは悲しいほどに二人の差を示していた。順は実験結果を見て、嫌になるくらいに自分の能力の低さを思い知ったのだ。もちろん、人ではあり得ない力が欲しいと望んだ訳ではない。が、都子との圧倒的な差を見た時、順は複雑な気分になったのだ。
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