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二章
学校の廊下にて
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さすがに二日も預かってたのはまずいかな。
胸中でそう呟きながら順は美恵の個室の前に佇んだ。手の中に握っていた鍵にちらりと目を落としてから覚悟を決める。
大学に到着してから順は真っ先にカフェテリアに向かった今日は。和也は珍しく付きまとって来なかった。順はそのことに心底ほっとしながら急いで一つのテーブルを陣取った。
手遅れだとは思ったが、地質学のレポートを書こうとしたのだ。だが順は鞄からレポート用紙を出して仰天した。いつの間にかレポート用紙は字で埋め尽くされていたのだ。
恐らく和也の仕業だろうとは思った。和也は熱で倒れた順の代わりに地質学のレポートを書き上げたのだ。
レポートは順の目から見ても良い出来だった。和也の好意は正直に言えばとてもありがたい。だがこのまま提出してもいいものだろうか。癖がさほど感じられないとは言え、和也と順では明らかに字が違う。それに和也自身、地質学のレポートは提出している筈なのだ。教授が見れば同一人物が作成したと勘付かれるだろう。やはり自分で書こう。そう思い至った順はレポートに取り掛かった後、頭を抱えた。
どんなに考えても最初の一行すら出てこない。しかも和也の書いたものを見た後なのだ。考えても考えても内容が和也のものに似てきてしまう。
結局、順は半ばやけくそで和也の書いたそれを提出することにした。地質学の教授の個室を訪ね、ホッチキスで留めたレポートを提出する。年老いた教授はレポートを受け取ったが、そこで順を呼び止めた。
しばしの間、教授は無言でレポートを読んでいた。その間、順は不安と緊張で全身を緊張させていた。そもそも人の書いたものを提出しようというのが間違いなのだ。そうは思ったが既にレポートは教授の手の中だ。
やっぱり正直に言って謝ろう。そう、順が心の中で決めたその時。
「昨日の私の講義を君が欠席したのは風邪のためだと聞いたが本当かね」
教授に淡々と訊かれて順は慌てて頷いた。それまでレポート用紙を見つめていた教授が目だけを順に向ける。眼鏡の向こうの教授の目は不思議と優しく見えた。
結局、順はレポートを受理された。恐らく教授はそれが順ではなく、別の人間が書いたものだと気付いていたのだろう。だが追求はされなかった。順は教授に礼を言って個室を出た。
その後、順は二つの講義を受けた。どうやら今日は和也とは一つも講義が重ならなかったようだ。礼を言おうと思っていた順は休憩時間に和也を探した。が、校舎のどこを探しても和也の姿は見当たらない。
もしかして帰ったのかな。そう呟いて順は頭をかいた。いや、今は和也のことを考えている場合ではない。問題の鍵をさっさと返さなければ美恵の機嫌が悪くなるかも知れない。順はよし、と頷いて美恵の個室のドアをノックした。
だが返事がない。怪訝に思いながら順はもう一度、今度は強めにドアを叩いてみた。が、やはり返事がない。
「変だな」
午後からは美恵の講義が予定されている。なのにいないというのはどういうことだろうか。順は首を捻ってしばし考えた。もしかしたら昼食をとるために出かけているのかも知れない。そう思い、順が諦めかけた時、聞き覚えのある声が飛んできた。
「木村……くん?」
どこか怯えたような声に順は振り返った。いつの間に近づいてきたのだろう。
「菅野さん、でしたよね。何ですか?」
菅野文江というこの女子学生は学生会の役員をしている。文江は順にアルバイトの斡旋をしてくれた女性でもある。呼び止めたということは何か用があるのだろう。普段なら殆ど返事しない順も出来るだけ穏やかに文江に返した。
「あの、そこで何をしているの?」
小柄な文江が身体を縮こまらせているためにさらに小さく見える。どうしたのだろう、と思いつつも順はドアを指差してみせた。
「篠塚先生に用があったので」
「あ、あの、篠塚先生は今日はお休みって伺ったけど……」
彼女はこんなにおどおどとした物言いをする女性だっただろうか。そう考えながら順は少しだけ眉を寄せた。文江はちらちらと順を上目遣いで見ては目をそらしている。
「そうですか。それじゃあ」
休みなら仕方がない。また明日にでも返せばいいだろう。そう思いながら順は文江の脇を通り過ぎようとした。が、頭の中をふとあることが過ぎって足を止める。文江に紹介されたモデルのアルバイトのことを思い出したのだ。
和也に言われた通りにするのは腹が立つが、写真などばらまかれてはたまったものではない。
「すみません、菅野さん。以前紹介していただいたアルバイトの件なんですが」
そう言って振り返った順は驚きに絶句した。何故か文江が自分を見て真っ赤になっているのだ。
「……あの? もしかして俺、何かおかしいところでも?」
服装が乱れているとかそういうことだろうか。だから文江は恥ずかしそうにしていたのか。そう考えながら順は自分の格好を見下ろしてみた。が、特にどこかが変わっているということもない。
「あっ、えっ、いえ、違いますっ」
「そうですか」
自分がおかしいのでなければ、きっと文江は何か事情があって紅潮しているのだろう。だが順は文江に個人的な感情は一切抱いていなかった。特に文江の事情も訊く気はない。とりあえず用事を済ませてしまおう。
「例の美大のアルバイトなんですが、打ち切って頂けませんか」
理由は一切口にせず、順は用件だけを言った。すると文江が目を見張って驚いた顔になる。
「どっ、どうして? あ、昨日のお休みについては先方に風邪だと話してありますけど」
だからくびになった訳ではないのだ。そう続けてから文江は再び俯いてしまった。ひょっとして余計なことをしたとでも勘違いしているのだろうか。順はしばし考えてから文江に頭を下げた。
「すみません、無断で休んでしまって。お手数おかけしました」
「だ、だから、あの」
「ですが、申し訳ありません。これ以上は続けられません」
ですから誰か他の人を探してください。そう言ってから順は踵を返した。後ろから控え目な文江の声が呼び止めていたが、順の耳にそれは入らなかった。
アルバイトはまた一から探しなおさなければならない。モデルの件はこちらから断ったが、他の二つのアルバイトは無断欠勤した時点で即刻くびにされているのだ。どちらの雇用主も無断欠勤したアルバイトを雇い続ける気はなかったらしい。電話で問い合わせた順に対して雇用主たちはぞんざいな返答しかしてはくれなかった。やれやれと肩を竦めて順は講義室に向かった。
美恵の講義予定が入っていた講義室のボードには休講の文字が書かれている。そのことを確認してから順は帰途についた。とにかくまずは風邪を完全に治してしまわなければならない。そうでなければ新しいアルバイトを始めてもまたいつ倒れるか判らない。
まあ、風邪だけが理由じゃないんだろうな。自転車をこぎながら順はぼんやりと考えを巡らせた。
体力が落ちていたのは間違いない。何しろごく普通の人々が感じる食欲がないのだ。時折は無理に食べていたが、成人男性が摂取しなければならない量を考えるとかなり少なかった。だがどうしても食べる気にならないのだ。
なのに異常なほどの飢餓感だけがある。何故か昨日を境にその感覚は少しだけ薄れてはいるが、完全になくなった訳ではない。気を抜くと絶望感にも似た感覚に囚われそうになる。
もし囚われてしまったらどうなるのだろう。
「……考えるだけ無駄か」
両親に逆らって家を出た時点からそんなことは決まっている。絶対に諦めない。必ず実験体じゃない人生を見つける。そのために木村財閥の所有する情報を調べているのだから。何度も自分に言い聞かせたことを胸の内で繰り返しながら順は急いで帰った。
胸中でそう呟きながら順は美恵の個室の前に佇んだ。手の中に握っていた鍵にちらりと目を落としてから覚悟を決める。
大学に到着してから順は真っ先にカフェテリアに向かった今日は。和也は珍しく付きまとって来なかった。順はそのことに心底ほっとしながら急いで一つのテーブルを陣取った。
手遅れだとは思ったが、地質学のレポートを書こうとしたのだ。だが順は鞄からレポート用紙を出して仰天した。いつの間にかレポート用紙は字で埋め尽くされていたのだ。
恐らく和也の仕業だろうとは思った。和也は熱で倒れた順の代わりに地質学のレポートを書き上げたのだ。
レポートは順の目から見ても良い出来だった。和也の好意は正直に言えばとてもありがたい。だがこのまま提出してもいいものだろうか。癖がさほど感じられないとは言え、和也と順では明らかに字が違う。それに和也自身、地質学のレポートは提出している筈なのだ。教授が見れば同一人物が作成したと勘付かれるだろう。やはり自分で書こう。そう思い至った順はレポートに取り掛かった後、頭を抱えた。
どんなに考えても最初の一行すら出てこない。しかも和也の書いたものを見た後なのだ。考えても考えても内容が和也のものに似てきてしまう。
結局、順は半ばやけくそで和也の書いたそれを提出することにした。地質学の教授の個室を訪ね、ホッチキスで留めたレポートを提出する。年老いた教授はレポートを受け取ったが、そこで順を呼び止めた。
しばしの間、教授は無言でレポートを読んでいた。その間、順は不安と緊張で全身を緊張させていた。そもそも人の書いたものを提出しようというのが間違いなのだ。そうは思ったが既にレポートは教授の手の中だ。
やっぱり正直に言って謝ろう。そう、順が心の中で決めたその時。
「昨日の私の講義を君が欠席したのは風邪のためだと聞いたが本当かね」
教授に淡々と訊かれて順は慌てて頷いた。それまでレポート用紙を見つめていた教授が目だけを順に向ける。眼鏡の向こうの教授の目は不思議と優しく見えた。
結局、順はレポートを受理された。恐らく教授はそれが順ではなく、別の人間が書いたものだと気付いていたのだろう。だが追求はされなかった。順は教授に礼を言って個室を出た。
その後、順は二つの講義を受けた。どうやら今日は和也とは一つも講義が重ならなかったようだ。礼を言おうと思っていた順は休憩時間に和也を探した。が、校舎のどこを探しても和也の姿は見当たらない。
もしかして帰ったのかな。そう呟いて順は頭をかいた。いや、今は和也のことを考えている場合ではない。問題の鍵をさっさと返さなければ美恵の機嫌が悪くなるかも知れない。順はよし、と頷いて美恵の個室のドアをノックした。
だが返事がない。怪訝に思いながら順はもう一度、今度は強めにドアを叩いてみた。が、やはり返事がない。
「変だな」
午後からは美恵の講義が予定されている。なのにいないというのはどういうことだろうか。順は首を捻ってしばし考えた。もしかしたら昼食をとるために出かけているのかも知れない。そう思い、順が諦めかけた時、聞き覚えのある声が飛んできた。
「木村……くん?」
どこか怯えたような声に順は振り返った。いつの間に近づいてきたのだろう。
「菅野さん、でしたよね。何ですか?」
菅野文江というこの女子学生は学生会の役員をしている。文江は順にアルバイトの斡旋をしてくれた女性でもある。呼び止めたということは何か用があるのだろう。普段なら殆ど返事しない順も出来るだけ穏やかに文江に返した。
「あの、そこで何をしているの?」
小柄な文江が身体を縮こまらせているためにさらに小さく見える。どうしたのだろう、と思いつつも順はドアを指差してみせた。
「篠塚先生に用があったので」
「あ、あの、篠塚先生は今日はお休みって伺ったけど……」
彼女はこんなにおどおどとした物言いをする女性だっただろうか。そう考えながら順は少しだけ眉を寄せた。文江はちらちらと順を上目遣いで見ては目をそらしている。
「そうですか。それじゃあ」
休みなら仕方がない。また明日にでも返せばいいだろう。そう思いながら順は文江の脇を通り過ぎようとした。が、頭の中をふとあることが過ぎって足を止める。文江に紹介されたモデルのアルバイトのことを思い出したのだ。
和也に言われた通りにするのは腹が立つが、写真などばらまかれてはたまったものではない。
「すみません、菅野さん。以前紹介していただいたアルバイトの件なんですが」
そう言って振り返った順は驚きに絶句した。何故か文江が自分を見て真っ赤になっているのだ。
「……あの? もしかして俺、何かおかしいところでも?」
服装が乱れているとかそういうことだろうか。だから文江は恥ずかしそうにしていたのか。そう考えながら順は自分の格好を見下ろしてみた。が、特にどこかが変わっているということもない。
「あっ、えっ、いえ、違いますっ」
「そうですか」
自分がおかしいのでなければ、きっと文江は何か事情があって紅潮しているのだろう。だが順は文江に個人的な感情は一切抱いていなかった。特に文江の事情も訊く気はない。とりあえず用事を済ませてしまおう。
「例の美大のアルバイトなんですが、打ち切って頂けませんか」
理由は一切口にせず、順は用件だけを言った。すると文江が目を見張って驚いた顔になる。
「どっ、どうして? あ、昨日のお休みについては先方に風邪だと話してありますけど」
だからくびになった訳ではないのだ。そう続けてから文江は再び俯いてしまった。ひょっとして余計なことをしたとでも勘違いしているのだろうか。順はしばし考えてから文江に頭を下げた。
「すみません、無断で休んでしまって。お手数おかけしました」
「だ、だから、あの」
「ですが、申し訳ありません。これ以上は続けられません」
ですから誰か他の人を探してください。そう言ってから順は踵を返した。後ろから控え目な文江の声が呼び止めていたが、順の耳にそれは入らなかった。
アルバイトはまた一から探しなおさなければならない。モデルの件はこちらから断ったが、他の二つのアルバイトは無断欠勤した時点で即刻くびにされているのだ。どちらの雇用主も無断欠勤したアルバイトを雇い続ける気はなかったらしい。電話で問い合わせた順に対して雇用主たちはぞんざいな返答しかしてはくれなかった。やれやれと肩を竦めて順は講義室に向かった。
美恵の講義予定が入っていた講義室のボードには休講の文字が書かれている。そのことを確認してから順は帰途についた。とにかくまずは風邪を完全に治してしまわなければならない。そうでなければ新しいアルバイトを始めてもまたいつ倒れるか判らない。
まあ、風邪だけが理由じゃないんだろうな。自転車をこぎながら順はぼんやりと考えを巡らせた。
体力が落ちていたのは間違いない。何しろごく普通の人々が感じる食欲がないのだ。時折は無理に食べていたが、成人男性が摂取しなければならない量を考えるとかなり少なかった。だがどうしても食べる気にならないのだ。
なのに異常なほどの飢餓感だけがある。何故か昨日を境にその感覚は少しだけ薄れてはいるが、完全になくなった訳ではない。気を抜くと絶望感にも似た感覚に囚われそうになる。
もし囚われてしまったらどうなるのだろう。
「……考えるだけ無駄か」
両親に逆らって家を出た時点からそんなことは決まっている。絶対に諦めない。必ず実験体じゃない人生を見つける。そのために木村財閥の所有する情報を調べているのだから。何度も自分に言い聞かせたことを胸の内で繰り返しながら順は急いで帰った。
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