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一章
美しい空の色
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目を開けた順は慌てて身体を起こした。全身で呼吸をしながら顔をしかめる。酷く身体がだるい。それにあちこちが妙に痛む。順は自分の身体をそっと抱きしめるように腕を回した。
悪い夢を見ていた気がする。そう思ってから順はため息をついて伏せていた目を上げた。その瞬間、身体中の血が凍るような寒気に襲われる。
「夢……じゃない……?」
見慣れない部屋の様子に絶句して順は慌てて周囲を見回した。モノトーンの部屋には自分の他には誰もいない。順は訝りに眉を寄せて恐る恐る掛け布団をめくった。
順はいつの間にか見覚えのないパジャマを着ていた。試しにズボンをめくってみる。案の定、下着がない。順は疲れたため息をついて力なく肩を落とした。悪夢だったらどんなに良かったか。そう呟きながら頭を振る。
どうやら熱はかなり下がったらしい。全く動けないということはない。順は静かにベッドを降りて乱れた髪を手櫛で梳いた。身体のあちこちが痛むのは初めての性行為のためだろう。しかも不自然な体勢を取らされたために腕や肩まで痛みがある。
よりによって初体験が男とはね。情けない気分に陥りながら順はのろのろとパジャマを脱いだ。和也がどんな目的を持っていたにせよ、もう二度と近付かなければ済むことだ。
パジャマの上衣を脱いだところで順はベッドの隅に何かが乗せられていることに気付いた。見覚えのある服が畳んで置かれている。自分の服を見つけた順は急いでそれを着込んだ。破れたシャツの代わりだろうか。真新しいシャツが一枚、服の下に置いてあった。破いたのは和也だ。遠慮することはないだろう。しばしためらった後、そのシャツを着る事にした。
手早く服を着込んだ順は何気なく壁にかかっていた鏡を覗き込んだ。習慣的に身だしなみを整えようとした順は鏡を見つめたまま硬直した。鏡の中から空色の瞳が順を見つめ返している。
「嘘、だろ……? 何で今さら……」
どれだけ目を凝らしても瞳の色は変わらない。順はしばし自分の目の色を見つめてから力なく笑った。
ヒトではあり得ないモノを手に入れた父親はそれを利用する研究を始めた。だが、それまで事例のない実験を繰り返す中で多くの命が失われた。失われたのは動物の命だけではない。そこには人も含まれていた。中には幼い子供もいたという。
人間が手に入れるにはそれは余りにも強大な力だった。だから実験は次々に失敗し、実験に使われた者たちは悉く死んでいったのだ。
やがて研究は進み、ヒトではあり得ないモノから切り取ったものを、今度は受精卵に直に埋め込む実験が始まった。研究員の中から希望者を募り、卵子と精子を摘出する。当時、希望者が応募に殺到した理由は簡単だ。もし自らの細胞を利用した実験が成功すれば、それなりの地位と生活が約束されていたからだ。
そして01号と呼ばれる実験体が生み出される。その実験に志願したのが当時、研究所に勤めていた順の母親だった。ヒトではあり得ないモノの細胞を組み込んだ受精卵は母親の胎内で育っていく。そして初めて実験は成功した。生み出されたモノは見た目は完全に人と同じ形をしていたのだ。
空を切り取ったような美しい色の髪と瞳を持つそれを、研究者たちは仮に素材と呼んでいた。ヒトではあり得ないモノはその仮称に相応しく、次々に切り刻まれて素材として利用された。だが今では研究者たちはそれをこう呼ぶ。
龍神。
口の中で呟いて順は口許に薄い笑みを浮かべた。彼らはヒトではあり得ないその存在を龍神と呼ぶ。実験の果てに彼らが求めたのは永遠の命であり、強大な力であり、そして類稀なる美貌だったのだ。
だが初めて成功したと思われた実験は結局は失敗に終わる。いや、終わった筈だったのだ。
「何でこんなことになったんだ」
そう言いながら順は鏡に指をあてた。空色の瞳が映ったその部分を強く押さえる。口許にそれまで浮かんでいた笑みは消え、変わりに憎しみのこもった眼差しで順は鏡を睨みつけた。
「何で、今さら!」
「あー、お取り込み中恐縮だが」
間延びした声が背後から聞こえてくる。順はびくりと身体を震わせて恐る恐る振り返った。明るく電灯に照らされた室内にいつの間にか和也が立っている。
「オレはそろそろ大学に行きたいんだがな。木村はどうする?」
まるで何事もなかったかのように和也が話し掛ける。順は絶句して和也を凝視した。シャワーでも浴びていたのだろう。和也の髪は濡れている。
「何で……平然としてるんだ」
苦しさに息を詰まらせながら順は吐くような思いでそう訊ねた。だが和也はそんな順をせせら笑いながら肩を竦める。
「お前を犯ったことか? それなら前から狙ってたし、犯ったからって今さらビビることでもなかろ? それに」
驚愕に息を飲む順を指差して和也は続けた。
「それ、知ってたし」
「え?」
一瞬の間の後、順は瞬きを数回繰り返して思わず和也を凝視した。すると和也が苦笑して肩にかかっていたタオルを濡れた頭に乗せる。髪を拭きながら和也は当り前のように告げた。
「木村がオレらとは毛色が違うのは知ってたっつったんだ」
「あ……ああ」
言われた意味をすぐには理解出来ずに順は何となくそう返事した。知っていたというのはどういうことだろう。そう考えながら横目に和也を見る。軽く俯いた順を和也は面白そうに眺め、人の悪い笑みを浮かべてみせた。どうやら自分から教える気はないらしい。順は仕方なく和也とのやり取りを一つずつ思い起こしていった。
恥ずかしさと情けなさに顔を赤くしながら順は和也との行為を思い出した。だがその中にヒントになりそうなものはないように思えた。正直なところ、感じた快楽が強すぎたためなのか、行為中の記憶が殆どないのだ。
だが一つだけ順にも判ることがあった。飢餓感が薄れているのだ。
順は真実を知ったあの日から、食欲とは全く別のところで妙な飢餓感を覚えていた。それはごく当り前の食事を摂ることでは決して満たされたことがない、半ば永続的なものと自覚していた。時には眠れないほどの空腹感に苛まれる。が、意識してそれを忘れようとすることで何とか日常生活が送れていたのだ。
まさか、と順は内心で呟いた。ちらりと横目に和也を見る。和也は順の視線には気付かなかったのだろう。機嫌よく鼻歌を歌いながら髪を拭いている。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。そう自身に言い聞かせて順は頭を一度、強く振った。知っていた、と和也は言った。何故だろうと再度、考えをめぐらせようとした順の脳裏に一つの答えが閃いた。
ああ、だから。
そう呟いて伏せていた顔を上げる。近づく者を全て疑ってかかれ。そう自身に命じていたことをすっかり忘れていた。順は淡い笑みを浮かべて納得して頷いた。
和也は恐らく監視者だ。そう確信して順は疲れたため息をついた。
「なるほど。それで俺をどうするつもりだ?」
連れ戻されるのだろうか。そんな不安を押し隠して順は素っ気なく訊ねた。髪を拭いていた手を止めて和也が視線だけを返す。返事のないことに苛立ちを覚えつつ、順はもう一度同じ事を訊ねた。
「さぁて。どうしようかな」
にやにやと笑いながら和也が意味ありげに告げる。順は顔をしかめて和也から目を背けた。どのみちろくなことは言われないだろう。そもそも自分は木村の家から逃げ出してきたのだ。ここで今すぐに連れ戻すと言われても不思議はない。
順はそっと目を伏せた。発現した異質な色を木村の家の者や研究者彼らはどう思うだろう。やはり自分と同じように今さらと思うだろうか。それとも漸く少しは役に立ちそうだと言うだろうか。考えながら順は和也の言葉の続きを待った。
「とりあえず……そうだな。妙なアルバイトはやめてもらうか」
「……は?」
言われている意味を理解出来ず、順は訝りをこめて訊き返した。和也が嗤いながらタオルをベッドに放り投げる。つい、タオルの動きを目で追いかけていた順は、急に背後から肩をつかまれて焦って振り返った。
「離せ」
驚きを出来るだけ隠して順は静かに告げた。肩に触れていた和也の手を払う。和也は払われた手と順とを見比べてふむ、と呟いた。
「渡部の言うような妙なアルバイトをしている覚えはない」
「あー? じゃあ菅野女史の話、嘘だってのか?」
即座に切り返されて順は呆れた表情になった。菅野というのは学生会役員の一人だ。アルバイトの斡旋があると耳にした順は学生会を訪ねて菅野文江と知り合った。文絵は容姿が整っているからか、男子学生にはかなり人気があるらしい。が、その辺りの話は正直なところ順にとってはどうでもいいことだった。
「正規の手続きを踏んで紹介してもらったアルバイトだぞ?」
和也の言うような妙なところは何もない。文絵に紹介されたのは、とある美大のモデルのアルバイトだった。接客業と異なり、人と会話をしなくても良いために順にとってはかっこうのアルバイトなのだ。
「アホか。学生会の斡旋だからって全部がマトモって訳じゃねえだろが」
「少なくとも危ない業界の仕事じゃないが?」
本格的に意味が判らなくなって順は思ったままに返した。学生にわざわざ危ない仕事を回して大学の名に傷をつけるほど、学生会は間抜けじゃない。そう順が続けると和也が急に吹き出した。
「木村って面白いよなあ。オレはそういう意味でマトモっつった訳じゃねえよ」
笑い混じりに言った和也から目を背けて順はため息をついた。いつも思うのだが、どうして和也の話は回りくどいのだろう。もっと判り易く言えないものだろうか。
「んで? 週に二回やってるんだっけか」
「あ、ああ。そうだけど」
肯定しながら順は納得出来ないものを感じていた。どうして和也は笑いながら話をしているのだろう。そんなに自分がアルバイトをしているのがおかしいのだろうか。だがそれならどうして他のアルバイトにはけちをつけないのだろう。順はモデルの他にやっている荷物搬入や清掃のアルバイトのことを思い出した。モデル以外のアルバイトの方が明らかに時間を取られている筈だ。なのに和也は一言もそちらのアルバイトについては言わない。
考えを巡らせる順の表情は無意識のうちにかたくなっていった。和也の悪い癖が出たことに遅まきながら気付く。
「何が言いたい。はっきり言え」
不機嫌に言いながら順は和也に目を戻した。着替えながら和也が肩越しに振り返る。逞しい上半身に思わず目を奪われ、順は何度か瞬きをした。
「木村がやってるのってヌードモデルだろ?」
問われて順は押し黙った。何故、和也が具体的な内容を知っているのだろう。疑問を覚えた直後、順は理解した。監視者であればその程度の情報は得ていて当然だろう。
「いくらあったかくなったっつっても、んな、週に二度も脱いでりゃ風邪もひくさ。しかも二時間いっぱい脱ぎっぱなしだろ? よく平気だな」
低い笑い声を聞きつけた順は不快感いっぱいに顔をしかめた。
「……はっきり言えって言っただろう。一体、何をそんなに」
呆れた口調で言いかけた順は顔に向かって唐突に飛んできたものを指で器用に受け止めた。眉間に皺を刻んだままそれを見下ろす。次の瞬間、順は絶句して目を見張った。
一体、いつの間に撮られていたのだろう。指の間に挟んだ写真にはしっかりと順の裸体が写されていた。
「何で……こんなものが」
基本的にアルバイトの間は遮光カーテンが部屋の中を隠し、絵を描く学生以外は部屋の中の様子を窺い知ることは出来ない。モデルのプライバシーの保護のためだ。それ故にモデルの写真が撮られることもあり得ないのだ。
「素人にしちゃマトモに撮れてんだろ?」
喉の奥で笑いながら和也が写真を指差す。順は写真を持つ手を震わせて勢いよく顔を上げた。
「だってこれ、デッサンの授業中だぞ!? 誰がカメラなんて」
「だからー。世の中にはな。マトモじゃねえ思考回路なヤツもいるわけよ。こうしてオレみたいのに写真売って生計立ててるヤツとかな」
そう言いながら和也が順の手から写真を奪い取る。そのまま写真に唇を寄せた和也を目にした順の背中にぞくりとした嫌なものが走った。憤りに任せて写真を奪おうとする。が、順の手は見事に空振りした。直前に和也がするりと順の手を避けたのだ。
「気色の悪いことをするな!」
「あー? まだんなこと言ってるのか。あれだけよがってたくせに」
何ならもう一発やるか? そう続けながら和也が低い笑い声を漏らす。順は発作的に和也に殴りかかろうとした。だが身長差と体格差があるためにかあっさりとこぶしをかわされる。逆に手首をつかまれて順はその場によろけた。
「うわ、ほっせえ! 木村、ホントにメシ食ってるのか?」
よろけた順を片腕に抱えた和也が呆れたような声を上げる。抱きしめられる格好になった順は逃れようと暴れた。
「離せ!」
「あー、やっぱやりたくなってきた。今日は休講かな」
上から降ってきた声に順は蒼白になった。冗談じゃない、と喚いて夢中でもがく。すると意外にもあっさりと拘束が解けた。壁際まで逃げて和也を睨みつける。和也は写真を大事そうにジーンズのポケットに納めながら小さく笑った。
「冗談だよ。さすがに今日はヤバイだろ」
「……今日だけじゃない。いつでもごめんだ。二度と俺に触るな」
怒りを込めて吐き捨ててから順は踵を返した。苛立った感情のままに大股で歩く順の後ろに和也が続く。順はそれを無視して部屋を出た。
悪い夢を見ていた気がする。そう思ってから順はため息をついて伏せていた目を上げた。その瞬間、身体中の血が凍るような寒気に襲われる。
「夢……じゃない……?」
見慣れない部屋の様子に絶句して順は慌てて周囲を見回した。モノトーンの部屋には自分の他には誰もいない。順は訝りに眉を寄せて恐る恐る掛け布団をめくった。
順はいつの間にか見覚えのないパジャマを着ていた。試しにズボンをめくってみる。案の定、下着がない。順は疲れたため息をついて力なく肩を落とした。悪夢だったらどんなに良かったか。そう呟きながら頭を振る。
どうやら熱はかなり下がったらしい。全く動けないということはない。順は静かにベッドを降りて乱れた髪を手櫛で梳いた。身体のあちこちが痛むのは初めての性行為のためだろう。しかも不自然な体勢を取らされたために腕や肩まで痛みがある。
よりによって初体験が男とはね。情けない気分に陥りながら順はのろのろとパジャマを脱いだ。和也がどんな目的を持っていたにせよ、もう二度と近付かなければ済むことだ。
パジャマの上衣を脱いだところで順はベッドの隅に何かが乗せられていることに気付いた。見覚えのある服が畳んで置かれている。自分の服を見つけた順は急いでそれを着込んだ。破れたシャツの代わりだろうか。真新しいシャツが一枚、服の下に置いてあった。破いたのは和也だ。遠慮することはないだろう。しばしためらった後、そのシャツを着る事にした。
手早く服を着込んだ順は何気なく壁にかかっていた鏡を覗き込んだ。習慣的に身だしなみを整えようとした順は鏡を見つめたまま硬直した。鏡の中から空色の瞳が順を見つめ返している。
「嘘、だろ……? 何で今さら……」
どれだけ目を凝らしても瞳の色は変わらない。順はしばし自分の目の色を見つめてから力なく笑った。
ヒトではあり得ないモノを手に入れた父親はそれを利用する研究を始めた。だが、それまで事例のない実験を繰り返す中で多くの命が失われた。失われたのは動物の命だけではない。そこには人も含まれていた。中には幼い子供もいたという。
人間が手に入れるにはそれは余りにも強大な力だった。だから実験は次々に失敗し、実験に使われた者たちは悉く死んでいったのだ。
やがて研究は進み、ヒトではあり得ないモノから切り取ったものを、今度は受精卵に直に埋め込む実験が始まった。研究員の中から希望者を募り、卵子と精子を摘出する。当時、希望者が応募に殺到した理由は簡単だ。もし自らの細胞を利用した実験が成功すれば、それなりの地位と生活が約束されていたからだ。
そして01号と呼ばれる実験体が生み出される。その実験に志願したのが当時、研究所に勤めていた順の母親だった。ヒトではあり得ないモノの細胞を組み込んだ受精卵は母親の胎内で育っていく。そして初めて実験は成功した。生み出されたモノは見た目は完全に人と同じ形をしていたのだ。
空を切り取ったような美しい色の髪と瞳を持つそれを、研究者たちは仮に素材と呼んでいた。ヒトではあり得ないモノはその仮称に相応しく、次々に切り刻まれて素材として利用された。だが今では研究者たちはそれをこう呼ぶ。
龍神。
口の中で呟いて順は口許に薄い笑みを浮かべた。彼らはヒトではあり得ないその存在を龍神と呼ぶ。実験の果てに彼らが求めたのは永遠の命であり、強大な力であり、そして類稀なる美貌だったのだ。
だが初めて成功したと思われた実験は結局は失敗に終わる。いや、終わった筈だったのだ。
「何でこんなことになったんだ」
そう言いながら順は鏡に指をあてた。空色の瞳が映ったその部分を強く押さえる。口許にそれまで浮かんでいた笑みは消え、変わりに憎しみのこもった眼差しで順は鏡を睨みつけた。
「何で、今さら!」
「あー、お取り込み中恐縮だが」
間延びした声が背後から聞こえてくる。順はびくりと身体を震わせて恐る恐る振り返った。明るく電灯に照らされた室内にいつの間にか和也が立っている。
「オレはそろそろ大学に行きたいんだがな。木村はどうする?」
まるで何事もなかったかのように和也が話し掛ける。順は絶句して和也を凝視した。シャワーでも浴びていたのだろう。和也の髪は濡れている。
「何で……平然としてるんだ」
苦しさに息を詰まらせながら順は吐くような思いでそう訊ねた。だが和也はそんな順をせせら笑いながら肩を竦める。
「お前を犯ったことか? それなら前から狙ってたし、犯ったからって今さらビビることでもなかろ? それに」
驚愕に息を飲む順を指差して和也は続けた。
「それ、知ってたし」
「え?」
一瞬の間の後、順は瞬きを数回繰り返して思わず和也を凝視した。すると和也が苦笑して肩にかかっていたタオルを濡れた頭に乗せる。髪を拭きながら和也は当り前のように告げた。
「木村がオレらとは毛色が違うのは知ってたっつったんだ」
「あ……ああ」
言われた意味をすぐには理解出来ずに順は何となくそう返事した。知っていたというのはどういうことだろう。そう考えながら横目に和也を見る。軽く俯いた順を和也は面白そうに眺め、人の悪い笑みを浮かべてみせた。どうやら自分から教える気はないらしい。順は仕方なく和也とのやり取りを一つずつ思い起こしていった。
恥ずかしさと情けなさに顔を赤くしながら順は和也との行為を思い出した。だがその中にヒントになりそうなものはないように思えた。正直なところ、感じた快楽が強すぎたためなのか、行為中の記憶が殆どないのだ。
だが一つだけ順にも判ることがあった。飢餓感が薄れているのだ。
順は真実を知ったあの日から、食欲とは全く別のところで妙な飢餓感を覚えていた。それはごく当り前の食事を摂ることでは決して満たされたことがない、半ば永続的なものと自覚していた。時には眠れないほどの空腹感に苛まれる。が、意識してそれを忘れようとすることで何とか日常生活が送れていたのだ。
まさか、と順は内心で呟いた。ちらりと横目に和也を見る。和也は順の視線には気付かなかったのだろう。機嫌よく鼻歌を歌いながら髪を拭いている。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。そう自身に言い聞かせて順は頭を一度、強く振った。知っていた、と和也は言った。何故だろうと再度、考えをめぐらせようとした順の脳裏に一つの答えが閃いた。
ああ、だから。
そう呟いて伏せていた顔を上げる。近づく者を全て疑ってかかれ。そう自身に命じていたことをすっかり忘れていた。順は淡い笑みを浮かべて納得して頷いた。
和也は恐らく監視者だ。そう確信して順は疲れたため息をついた。
「なるほど。それで俺をどうするつもりだ?」
連れ戻されるのだろうか。そんな不安を押し隠して順は素っ気なく訊ねた。髪を拭いていた手を止めて和也が視線だけを返す。返事のないことに苛立ちを覚えつつ、順はもう一度同じ事を訊ねた。
「さぁて。どうしようかな」
にやにやと笑いながら和也が意味ありげに告げる。順は顔をしかめて和也から目を背けた。どのみちろくなことは言われないだろう。そもそも自分は木村の家から逃げ出してきたのだ。ここで今すぐに連れ戻すと言われても不思議はない。
順はそっと目を伏せた。発現した異質な色を木村の家の者や研究者彼らはどう思うだろう。やはり自分と同じように今さらと思うだろうか。それとも漸く少しは役に立ちそうだと言うだろうか。考えながら順は和也の言葉の続きを待った。
「とりあえず……そうだな。妙なアルバイトはやめてもらうか」
「……は?」
言われている意味を理解出来ず、順は訝りをこめて訊き返した。和也が嗤いながらタオルをベッドに放り投げる。つい、タオルの動きを目で追いかけていた順は、急に背後から肩をつかまれて焦って振り返った。
「離せ」
驚きを出来るだけ隠して順は静かに告げた。肩に触れていた和也の手を払う。和也は払われた手と順とを見比べてふむ、と呟いた。
「渡部の言うような妙なアルバイトをしている覚えはない」
「あー? じゃあ菅野女史の話、嘘だってのか?」
即座に切り返されて順は呆れた表情になった。菅野というのは学生会役員の一人だ。アルバイトの斡旋があると耳にした順は学生会を訪ねて菅野文江と知り合った。文絵は容姿が整っているからか、男子学生にはかなり人気があるらしい。が、その辺りの話は正直なところ順にとってはどうでもいいことだった。
「正規の手続きを踏んで紹介してもらったアルバイトだぞ?」
和也の言うような妙なところは何もない。文絵に紹介されたのは、とある美大のモデルのアルバイトだった。接客業と異なり、人と会話をしなくても良いために順にとってはかっこうのアルバイトなのだ。
「アホか。学生会の斡旋だからって全部がマトモって訳じゃねえだろが」
「少なくとも危ない業界の仕事じゃないが?」
本格的に意味が判らなくなって順は思ったままに返した。学生にわざわざ危ない仕事を回して大学の名に傷をつけるほど、学生会は間抜けじゃない。そう順が続けると和也が急に吹き出した。
「木村って面白いよなあ。オレはそういう意味でマトモっつった訳じゃねえよ」
笑い混じりに言った和也から目を背けて順はため息をついた。いつも思うのだが、どうして和也の話は回りくどいのだろう。もっと判り易く言えないものだろうか。
「んで? 週に二回やってるんだっけか」
「あ、ああ。そうだけど」
肯定しながら順は納得出来ないものを感じていた。どうして和也は笑いながら話をしているのだろう。そんなに自分がアルバイトをしているのがおかしいのだろうか。だがそれならどうして他のアルバイトにはけちをつけないのだろう。順はモデルの他にやっている荷物搬入や清掃のアルバイトのことを思い出した。モデル以外のアルバイトの方が明らかに時間を取られている筈だ。なのに和也は一言もそちらのアルバイトについては言わない。
考えを巡らせる順の表情は無意識のうちにかたくなっていった。和也の悪い癖が出たことに遅まきながら気付く。
「何が言いたい。はっきり言え」
不機嫌に言いながら順は和也に目を戻した。着替えながら和也が肩越しに振り返る。逞しい上半身に思わず目を奪われ、順は何度か瞬きをした。
「木村がやってるのってヌードモデルだろ?」
問われて順は押し黙った。何故、和也が具体的な内容を知っているのだろう。疑問を覚えた直後、順は理解した。監視者であればその程度の情報は得ていて当然だろう。
「いくらあったかくなったっつっても、んな、週に二度も脱いでりゃ風邪もひくさ。しかも二時間いっぱい脱ぎっぱなしだろ? よく平気だな」
低い笑い声を聞きつけた順は不快感いっぱいに顔をしかめた。
「……はっきり言えって言っただろう。一体、何をそんなに」
呆れた口調で言いかけた順は顔に向かって唐突に飛んできたものを指で器用に受け止めた。眉間に皺を刻んだままそれを見下ろす。次の瞬間、順は絶句して目を見張った。
一体、いつの間に撮られていたのだろう。指の間に挟んだ写真にはしっかりと順の裸体が写されていた。
「何で……こんなものが」
基本的にアルバイトの間は遮光カーテンが部屋の中を隠し、絵を描く学生以外は部屋の中の様子を窺い知ることは出来ない。モデルのプライバシーの保護のためだ。それ故にモデルの写真が撮られることもあり得ないのだ。
「素人にしちゃマトモに撮れてんだろ?」
喉の奥で笑いながら和也が写真を指差す。順は写真を持つ手を震わせて勢いよく顔を上げた。
「だってこれ、デッサンの授業中だぞ!? 誰がカメラなんて」
「だからー。世の中にはな。マトモじゃねえ思考回路なヤツもいるわけよ。こうしてオレみたいのに写真売って生計立ててるヤツとかな」
そう言いながら和也が順の手から写真を奪い取る。そのまま写真に唇を寄せた和也を目にした順の背中にぞくりとした嫌なものが走った。憤りに任せて写真を奪おうとする。が、順の手は見事に空振りした。直前に和也がするりと順の手を避けたのだ。
「気色の悪いことをするな!」
「あー? まだんなこと言ってるのか。あれだけよがってたくせに」
何ならもう一発やるか? そう続けながら和也が低い笑い声を漏らす。順は発作的に和也に殴りかかろうとした。だが身長差と体格差があるためにかあっさりとこぶしをかわされる。逆に手首をつかまれて順はその場によろけた。
「うわ、ほっせえ! 木村、ホントにメシ食ってるのか?」
よろけた順を片腕に抱えた和也が呆れたような声を上げる。抱きしめられる格好になった順は逃れようと暴れた。
「離せ!」
「あー、やっぱやりたくなってきた。今日は休講かな」
上から降ってきた声に順は蒼白になった。冗談じゃない、と喚いて夢中でもがく。すると意外にもあっさりと拘束が解けた。壁際まで逃げて和也を睨みつける。和也は写真を大事そうにジーンズのポケットに納めながら小さく笑った。
「冗談だよ。さすがに今日はヤバイだろ」
「……今日だけじゃない。いつでもごめんだ。二度と俺に触るな」
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