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三章

睦月の決意

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 ホテルを出る時に睦月は俺にカードを使ってもいいと言った。カードで支払いを済ませた俺たちは早速、地下鉄の駅に戻った。地上を逃げ回るよりは電車を使った方が効果的だと睦月が言ったからだ。

 今日中にけりがつく、というのが睦月の出した結論だった。俺は睦月と手を繋いで逃げている間中、自分の行動を振り返っては後悔した。あの時、ちゃんと答えていれば睦月は別の選択肢を呈示してくれたのかも知れない。だが俺は逃げてる間、睦月にあの質問を蒸し返すことは出来なかった。

 真っ白なワンピースを翻らせて睦月が走る。買ってやったサンダルは逃げてる間に壊れちまった。壊れた留め金の替わりにハンカチで足首とサンダルとを結わえて睦月が再び走り出す。俺はそんな睦月に黙ってついて走り続けた。

 ここなら大丈夫ですと言われ、俺は睦月と一緒にビルとビルの狭間に身を潜めた。流れた汗を拭いながら睦月が屈み込む。

「五分は休めます。水分補給をしておいてください」

 日は西に傾き始めている。西日の差し込むビルの狭間で俺は睦月に言われた通り、ボトル入りの茶に口をつけた。一気に飲むなと念を押されてるんだっけか。俺は注意深く少しずつぬるい茶を喉に流した。

 一転して俺たちが走り続けなければならなくなった理由は単純だ。時雨が本社でとっ捕まっちまったのだ。だが時雨がへまをした訳じゃない。管理サーバーが復旧して捜索する人の手が増えたことは時雨にとってみれば大した変化ではなかった。時雨はその気になれば人間の放つ体温を正確に読み取ることが可能なのだという。

 今日日、一枚もカードを持たない人間はいない。しかも時雨を捜索する者たちはほぼ百パーセントの確率でインターフェイスを装着していたのだ。そのどちらかがあれば時雨には誰がどこでどんな動きをしているか手に取るように判るのだという。そしてそんな時雨の性能を正しく把握している人間はごく限られる。そう、開発に直接関わった者だけだ。

 管理サーバーを混乱させたソフトは復旧と同時に時雨が外部から痕跡も残さず破壊したのだと言う。だがそれでも開発の人間、しかも管理用のサーバーであるシステマに近い位置にいる人間が疑われるのは必然だろう。勝亦の身柄は一応、開発部に抑えられているらしいが特にこれといった害は加えられていないようだ。ただし、時雨のログ解析に使われていることは間違いない。睦月曰く、あの会社で時雨に一番詳しいのは勝亦なのだという。

 俺だけではない。俺を逃がすために力を添えた人間を出来得る限り守る。その条件を満たす為に時雨はわざと捕らえられたのだ。混乱に陥っていた各部署は管理サーバーの復旧により通常業務に戻ったようだ。これまでに二度ほど長根所長からメールが着たがその後の様子は判らない。所長も呑気に俺にメール打ってる状況じゃないようだ。

 あんなでも所長は食えないところがあるから大丈夫だろう。伊達に営業所を統括している訳じゃない。中條先輩については心配無用だ。あの人はどこに放り出されたところで自分で何とかしてしまう。だが勝亦は真っ先に疑われる位置にいるのだ。勝亦もばかじゃない。社内外を問わず、頼れる人間は多くいるだろう。だが俺の友達だということで疑いの目を避けることが出来ないのだ。

 そう判断した時雨は間違ってはいなかったのだろう。だが今度は逆に俺たちの行動が追っ手側にばれてしまっているのだ。睦月と時雨は二人で一人というシステムで動いている。時雨が捕らえられれば睦月の居場所も割り出すのは簡単なのだ。もちろん勝亦も出来るだけ粘ったようだ。だがそれだっていつまでもという訳にはいかない。時雨は本社内をかく乱する際に用いたプロテクトを外されてしまった。それが外れてしまえば時雨は勝亦でなくとも入出力が可能になるってことだ。

 ああ? やけにシリアスだってか。あったりまえだ。俺だってたまには真面目に考える時くらいある。それに今は事を茶化せる気分じゃねえんだよ。走りっぱなしってわけじゃないが、身体のあちこちが悲鳴を上げてる状態だ。俺はただの営業だっての。営業は足で稼ぐもの、だなんて誰が決めたよ? ああ? 本当の営業ってのは走って幾らの仕事じゃねえんだよ、くそ。畜生、こんなことなら鍛えとくんだった。

 屈んでいた睦月が立ち上がり、俺が差し出した茶を礼を言って受け取る。やっぱり睦月も生身なんだよな。俺と同じように汗もかくし喉も渇くってわけだ。俺は慎重にボトルを傾けて少しずつ茶を飲んでいる睦月の足元をこっそりと見た。解けかけていたのだろう。ハンカチはしっかりと結び直されている。傷一つなかった綺麗な睦月の足先は今は汚れている。激しい運動なんぞ初めてだろうしな。つまづいたりぶつけたりといった目に見える衝撃がなくても、いつの間にか汚れちまったんだろう。素足だしな。

 ボトルの蓋を閉めながら睦月が唇を引き結ぶ。俺は薄汚れたコンクリートの壁に寄りかかって息を整えた。俺にいま出来ることは一つきりだ。なるべく早く回復すること。それだけだ。

「行きます」

 そう言った睦月に頷き、俺はボトルの茶を手早く鞄に納めた。二人でビルとビルの間から駆け出すと、タイミングよく右手から追っ手の数人が現れた。幾らなんでもタイミングが良すぎると思うよな。そう。相手に睦月の動きが丸見えなのと同じで、睦月にもあっちの動きは筒抜けなんだよ。要するにいたちごっこってわけ。

 睦月と時雨の情報のやり取りは常時されている訳ではない。正確に五分おきに互いの位置を確かめているのだという。その五分の間にこちらは逃げ、向こうは追う訳だ。だからある程度はこっちが有利なんだが、それでも逃げ続けるのは体力がいる。人ごみの中を駆け抜ける睦月について走りながら、俺は何やってるんだろうと自分に訊ねてみた。

 このまま睦月をかっさらって遠い所に逃げるってのはどうだろう。なんてことも考えてはみた。だが俺の考えることは非現実的。それも自分で判ってる。そんな真似をしたところで睦月の居場所は向こうには筒抜けなんだよ。受信機のないところに行けばいいって考えは、それこそ非現実的だ。

 走る睦月を人々が振り返る。だが俺たちは視線を無視して走り続けた。会社帰りのサラリーマンたちをかき分けて地下鉄の駅に滑り込む。待てとか言われても止まれるかっての。俺は肩越しに追っかけてくる奴らを振り返って急いで睦月の後を追った。

 だがそんな追いかけっこももうすぐ終了だ。睦月のシナリオによれば、あと一時間弱ってところか。

 そう。全て睦月の用意したシナリオ通りに事は動いてる。俺も最初は勘違いをしていたんだが、睦月と時雨ってどんなに離れていても同じなんだよ。つまりだな。睦月と時雨って二人に分かれて見えるが、あいつらは二人で一人なんだよ。だから時雨があの時、本社に残るって言ったのも、睦月がやったことだったんだ。勝亦を助けようとして時雨が捕まったのもある意味では睦月のシナリオ通りって訳だ。

 洒落た格子模様の描かれた舗道を全力で走りながら俺はぼんやりと考えた。前を走る睦月の白いスカートがやたらと目に付く。

 なあ、勝亦。俺、今ならお前の言ったことがちょっとだけ判る気がする。システマが世界を変えるって意味が。

 システマは人よりよっぽど賢く出来てて、すげえ演算能力を持ってて、でも道具なんだよな。道具が世界を変えるなんて、ばかばかしいと俺は思ってた。だから意地になってシステマは道具以外の何物でもないと思っていたんだ。

 確かにシステマは道具だ。俺の考えは間違っていた訳じゃない。だが道具だから、人が生み出したモノだからシステマが人を超えるはずがないってとこまで考えが飛躍しちまったのは、俺の頭が硬かったからなんだろう。

 睦月が短い悲鳴を上げて転ぶ。俺は慌てて睦月に駆け寄って腕を取って引き起こした。転んだ拍子に擦ったのだろう。睦月の膝は擦りむけて血が流れている。周囲の人間が驚いたように立ち止まる。大丈夫です、と肩で息をしながら言って睦月が立ち上がる。測ったように……大きなビルの前で。

 ビル一階の硝子張りのショーケースに並んでいるのはシステマを模した飾り物だ。立ち止まった俺たちを追っ手が取り囲む。俺はしっかりと睦月の手を握りしめて追っ手の男たちを睨みつけた。睦月が縋るような目で俺を見る。

 分厚い雲から雨が落ち始める。雨の降り出す時間まで当てちまうなんて、本当に睦月は凄いな。緊張しきった俺はそんな馬鹿みたいなことを考えていた。

「嫌です!」

 透き通った睦月の声が周囲に響く。俺ははっとして慌てて睦月を見た。

 睦月はインターフェイスをかなぐり捨てて周囲を取り囲んだ男たちを睨んでいた。怒りの表情を見止めた男たちが唖然とした目で睦月を見る。追っ手の中には開発部長の姿はない。が、ここにいたらあのおっさんも間違いなく同じ目で睦月を見ただろう。

「いいから来るんだ。手間を取らせるな」

 中でもいち早く正気に戻ったのだろう。中年の男が睦月に手を伸ばす。だが睦月はその手を勢いよく払った。俺は睦月を背中に庇ってその男を睨みつけた。

「私はシステマじゃありません! 能戸さんと同じ、人なんです!」

 俺の背中に庇われた睦月が叫ぶ。その瞬間、周囲に立っていた男たちは凍りついたように動きを止めた。俺はただ、自分に何も考えるなとだけ命令した。慌てたように男たちが動き出し、睦月を捕らえようと迫ってくる。俺は必死で睦月を庇おうとした。だが走り続けて疲れきった身体ではろくな力は出ない。

 腕に抱いていた睦月が男たちに奪われる。俺はしこたま殴られてその場に転がった。止めて下さい、と睦月が必死に叫ぶ。

「能戸さん! 能戸さん! しっかりして!」

 あー、泣いてるなあって思いながら俺は身を起こした。涙声で俺を呼ぶ睦月は数人の男に捕らえられていた。

「睦月を離せ!」

 残った力を振り絞って俺はがむしゃらに男たちに突っ込んだ。だが所詮、相手は十人以上いるのだ。しかも俺は喧嘩なんざしたことがねえ。あっけなくあしらわれて俺はまた地面に転がった。

 お前正気か、と誰かが俺を鼻で笑った。はは。残念だったな。俺はこれでも正気なんだよ。

「うるせえ! 俺は睦月が好きなんだよ! てめえら睦月に触るんじゃねえ!」

 一瞬だけ睦月が目を見張った気がした。だがすぐに誰かにインターフェイスを無理やり着けられ、そのまま脱力する。くそったれ。外部から強制終了させやがったな。

 衝撃が襲ってくる。俺は息も出来なくなるほどの勢いで殴られ、再び地面に転がった。睦月を連れた男たちがその場から去っていく。俺は一人、地面に転がったままで雨に打たれていた。見物客と化していた通行人たちが俺を遠巻きにしている。追っ手の奴らが完全にその場から消えてから俺は笑い出した。不気味なものを見るような目で見物人が俺を横目に見ては去っていく。

 雨脚が強くなる。俺は強い雨に打たれながらしばらくの間、笑い続けていた。
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