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一章

夏のある日

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 笑顔がタダだなんてどこの誰が言い始めたことかは知らないが、営業スマイルが無料だなんて考え方はいいかげんになくなって欲しい。こうして営業に回ってる俺だって人間な訳で、気分のいい時もありゃ悪い時だってある。なのに接客する時だけはにっこり笑顔。俺ら営業ってのは気分の善し悪しに関わらず、笑顔を作れる訓練してるんだよ。つまり、俺を含めてうちの社の営業連中の愛想の良さは本社研修の賜物って訳だ。

 なのに客はちょっとでもこっちの愛想が悪いとすぐにケチをつけてくれる。やっぱ客の考え方って昔っから変わってねえのな。売ってるものが野菜だろうが酒だろうがシステマだろうが、やっぱり客は営業の愛想の振りまき方をしっかりチェックしてる。じゃあ、客は客らしく対価を支払えよ。営業スマイルはタダじゃねえ。俺らはそれを身に着けるために金も時間も使ってんだ。

 俺はシステマの営業の端くれだ。俺の売り歩いてる商品、システマが非人道的だと騒がれまくったのが数年ほど前か。なのに今じゃ、システマはごく普通に社会に浸透してる。企業だけじゃない。一般家庭にだってシステマが入っちまうご時世だ。だから道端で座り込んでシステマ反対なんざ叫んだとこで無意味だよ、おばちゃん方。

 商店街の入り口でシステマ反対と書かれた看板掲げてる連中の傍に俺は車を停めた。非難の目で見られても困るな。何なら営業許可書と駐車許可書でも見せましょうか? そんなことを思いながら反対運動に勤しんでる連中を眺め、俺は悠々と車を降りて商店街に向かった。営業車にはしっかり社名が入ってるしな。連中に親の仇でも見つけたみたいな顔で見られるのも、まあ、当然か。

 この辺りだと俺の担当区域は五番町商店街。ちょっと前までならこんなとこにシステマの営業が来るなんて考えられなかったことだ。何しろシステマって言えば、置かれてるのは大企業とか物好きな大学限定だったからな。つまるところ、そんなばかげた大容量の端末なんて必要がなかったってことだ。今でも勿論、一般のご家庭にそんなもんは必要ないと俺個人は思う。幾ら壊れる心配が少ないって言っても、まだまだシステマは高価だ。ま、金の価値なんて人それぞれだから、高いって思ってるのは薄給の俺くらいかも知れんけどな。

 営業先に向かう前にまずは身だしなみチェック。ファンシーショップなる店先に出てるでかい鏡の前で、俺はきっちりネクタイを締め直した。学生の頃はそれほど気にしなくても済んだ髭もばっちり剃り済み。ちょっと緑の入ったグレーのスーツは新調したばっかりの代物。この梅雨のうっとうしい季節をものともしない爽やかな見てくれは、友達連中のお墨付き。自慢じゃないがスポーツはしないしこれと言った趣味もない俺が、どれだけ酒をかっくらってもこの体型維持出来てるのってかなり奇跡的だと思う。

 格好は良し。忘れ物なし。鞄の中身をざっと思い浮かべてから、俺はスーツの内ポケットに入ってる名刺入れを出して中身を改めた。能戸浩隆のとひろたかって俺の名前が入った名刺がばっちり三十枚。白い紙にシンプルに黒い文字で印刷された名刺をケースに戻し、ポケットに入れる。これだけシステマが普及してるってのに、未だに紙で出来た名刺を持って歩かなきゃならないってのも不思議な話だ。俺は最後に自分の顔色を確かめてから鏡の前を離れた。

 ふと、涼しげな音色が聞こえてくる。どこの遺物ですかってくらい古びた荷車が俺の傍を行過ぎる。荷車には風鈴が文字通りの鈴なりになっていた。爽やかな心地のいい音色に誘われ、俺は風鈴屋が過ぎるのを見送った。今時あんなの買うやつがいるのかね。俺がそんなこと考えてる間に、荷車を引いた背中の曲がった老人が商店街の向こうに消える。

 さてと。俺は心の底で気合を入れて歩き出した。ここが正念場だ。成功すれば昇給間違いなし。が、下手をすると取引先の客が離れかねない。こんな度胸があったってのも正直、俺自身意外に思ってるが仕方ない。何しろシステマ販売は他企業との競争なのだ。多少の無茶は承知の上、これは早い者勝ちの生き残り競争だ。

「こんにちは。IISの能戸と申します。いつもお世話になってます」

 俺はとびきりの愛想の良さを発揮しつつ、店頭に立ってた販売員の女性に話し掛けた。俺と同じくらいの年かな。大学卒業したばっかですって感じの女の子がお世話になります、と微笑んでみせる。なかなかいい子じゃないですか。俺好みの可愛い顔にめりはりの利いたスタイルの女の子が店の奥に案内してくれる。接客中の販売員の邪魔にならないよう、俺は出来るだけ通路の隅に寄って女の子について歩いた。この店はシステマの委託販売店って割に、店頭にはシステマそのものは置かれていない。そりゃ当然だ。何しろさっき見たおばちゃん連中みたいのがごろごろしてる世の中、貴重な商品をかっぱらわれてもたまらない。どこの店だって店頭にわざわざシステマを飾るようなばかな真似はしない。

 色んなカタログの置かれた明るいフロアを通り過ぎる。硝子の壁で仕切られた店の奥では一人の男が机についていた。こいつがここの店長兼、技術屋だ。女の子が開けてくれたドアのとこで俺は店長に一礼した。お世話になります、と声をかけると店長が笑顔で立ち上がる。しかし暑苦しいな。空調がばっちり利いてるってのにその汗はどうよ。

「いやあ、暑いですなあ。これからもっと暑くなるんでしょうが」

 流れる汗をハンカチで拭きながら店長が言う。小太りの店長は重そうに身体を動かして机から離れると応接用のソファを俺に勧めた。嫌な季節ですね、と適当に答えながら俺は店長の勧めに従ってソファに腰掛けた。

 工具が散らばった机の真ん中に置かれている、一見するとヘッドホンみたいのがシステマのインターフェイスに使われる機器だ。この店長はインターフェイスの調整とか修理を受け持ってたりもする。俺はさっきまで店長が張り付いてた机を見てから目を戻した。

 たった一台のシステマが地球を救ってから十年足らず。当時の騒ぎは今でもはっきり覚えている。小惑星が地球に衝突するって大騒ぎになって、人々はパニックに陥った。各国の偉いやつらが束になって小惑星を撃ち落すだの何だのって計画した。でも余りにも急にこの小惑星ってのが沸いたらしく、計画を建てようにも、あらゆる計算が間に合わなかったらしい。

 そこで登場したのが、当時極秘に開発されていたシステマだった。世界中から集められたコンピュータの能力でも足りなかった部分をシステマはものの見事に補った訳だ。

 それまでひた隠しにされていたシステマが認知されることになったのはその事件がきっかけだった。で、あれよあれよと言う間にシステマは市民権を得た。この国だと真っ先にシステマを導入したのがフリーのプログラマだってんだから笑える話だ。企業や大学は尻込みして最初は手を出さなかったってわけ。そりゃまあ、びびるよな。何しろ宗教団体だの環境団体だの、わけわかんねえ連中がこぞって反対してたんだもんよ。

 最新の技術を用いて開発されたシステマには正式名称ってのがある。小難しい話をすると右に出る者はないってくらいやかましい、うちの開発部の勝亦かつまたの言葉を借りればシステマってのは都合よく略された愛称なんだと。横文字のずらっと長い名前がシステマの本来の名称らしいんだが、それについて説明を求めた時の勝亦のやかましいこと。その名前があんまり長くて覚えられなかった俺は、正式名称なんざどうだっていいんだよ。客にはシステマって愛称のが馴染んでんだから。って、勝亦に言い返しちまった。わざわざ営業先で、その正式名称とやらを舌噛みそうな思いしてまで連呼しろってのか。っと、これは俺が勝亦に言い返す時の決まり文句な。大体、考えてもみろ。開発の連中がどれだけ偉いっても、売れなきゃお話にならんだろ。

 ああ、判ってる。俺だってたかが一介の営業だ。しかも二年目のペーペーだってのは自覚してる。俺が喋くってるシステマについての意見ってのは、はっきり言えば上司の受け売りだ。確固たる信念なんぞねえ。

 営業所に今年入った連中の中にはシステマに拒絶反応示して辞めてった奴もいる。俺と同期で入った奴なんて半分残ってるかどうかってとこじゃないか? そんな中で俺はこうして残ってるんだから、少なくとも辞めた奴らよりは営業については理解してるつもりだ。受け売りだろうが何だろうが、上司の言ってることは正しいと思うんだから仕方ない。それが正しいと思えない奴らが辞めてったってことだ。

 汗を拭き拭き、店長が商品の売れ行きについて語る。あー、もううっとうしい。うちの商品が売れてるのは百も承知だ。おべんちゃらの混ざった店長のせりふなんて聞かなくても判ってる。何しろうちの社がこの国では一番最初にシステマに手を出した企業なんだ。知名度もあるし、商品開発だって余所よりはるかに進んでいる。何てなことを思いつつも俺はぐっと堪えて笑顔のままで合鎚を打つ。無駄話を笑顔で聞くのも営業の仕事だ。

 店長の無駄話は十分ほど続いた。一区切りついたところでさっきの女の子が冷たい麦茶を運んできてくれる。そこで買ったものですけど、というせりふをおまけにつけて茶と一緒に出されたのは苺の乗ったショートケーキだった。甘いものは駄目なんだけどな。とは思っても俺は笑顔で女の子に礼を言った。まあ、営業先でケーキなんて出されることは滅多にないし、ありがたく貰っとくのが礼儀ってもんだよな。

「あの、実は折り入ってお願いがあるんですが」

 添えられた小さなフォークを手にしたところで店長に話し掛けられる。ああ、何か変だと思った。こっちが営業開始する前にくっちゃべってくれてたもんな。いつもは俺の言うことにも、はあ、とか曖昧に返事してるだけの癖に。

「何ですか?」

 ちょっとだけ身を乗り出して俺は訊ねた。店長が言いにくそうに視線をあちこちに彷徨わせる。出来ればさっさと用件言ってくんないかな。俺もここの営業片付けたら次の店に行かなきゃならないし。俺はちらっと腕時計見て舌打ちしたい気分になった。

「いえ、IISさんのところで新商品を開発してるって噂をちょっと耳にしたもので」

 是非、うちに入荷して欲しいんですけど。熱心に言った店長の顔を俺はつい、まじまじと見てしまった。何だってあんたがそんなこと知ってるんだ。そう思ってから俺は上司の憎たらしい訳知り顔を思い浮かべた。あのやろう……。

「そのことなんですが」

 思ってることは一切、顔に出さずに営業スマイルを維持して俺は鞄からカタログを取り出した。覚えてろよ、くそったれ。最初っから情報流してるんじゃねえかよ。上司に心の中でだけ悪態を吐きながら俺は新商品の解説を始めた。
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