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新章
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目の前の電話が鳴っている。
「はい、浅川物産北海道支社、秘書課藤木でございます。本社管理課の橋本様でいらっしゃいますね?かしこまりました、ただいま支社長におつなぎいたします」
私、藤木光花(みか)は、元北海道支社長・藤木利光の長女だ。
ちなみに「光花」という一見キラキラした名前は、字画が十三画で大吉、親孝行で幸福な結婚をするそうだ。
父「利光」と母「由梨花」から一字ずつ取った安易な命名かと思ったら、意外と深い意味があったので驚いた。
父は東京本社の顧問弁護士を務めていたが、六十歳になった年、社長であった舅つまり私の祖父の強い要望により北海道支社長に就任した。
父はずっと本社内で業務を行っており、人望が厚かった。加えて、元々札幌市内で事務所を構えていたので道内にも太いパイプを持っている。ある意味適材適所の人事だった。
父と母は、娘から見ても恥ずかしくなるよう仲の良さだった。おまけに父は人並外れたイクメンだったらしい。
「よくワンオペ育児で喧嘩したわよ」
母が笑って言ったが、他の家庭とは違う意味だった。
父は家にいる時は片時も私を手放さなかったらしい。
「お父さん一人でやってしまって、私は育児の楽しみを奪われてしまったの」
私は中学に入る年、生まれ育った東京のマンションを離れ、札幌の円山公園の近くにある一軒家に引っ越した。東京を離れるのはちょっと寂しかったけれど、住んでいた部屋はハウスキーパーさんがきちんと管理していた。月に一回位は仕事で上京する父にくっついて、時々遊びに来ていた。
初めての戸建て暮らしに最初は戸惑ったが、すぐ近所に円山公園もあり、緑豊かな環境は新鮮だった。夏も湿気が少なく過ごしやすい。空気が澄んでいて美味しかった。
不思議なことに両親は、このあたりのことにとても詳しかった。花屋さんとか洋菓子店とか、おしゃれなカフェだとか。まるでここで暮らしたことがあるようだった。今から思えば、父に前妻がいて、近所に住んでいたなど思春期の娘には話しにくかったことは理解できる。
父と母は東京にいる頃から、時々小樽に出かけていた。しかし私にはその理由は話さなかった。
円山の家には小さな庭があって、どこから来るのかウサギが顔を出した。こちらを見て鼻をヒクヒクさせている。
「円山公園に棲んでるのかな?でも、なんで来るんだろう……」
「さあ、どうかな」
母は穏やかに笑った。
「光花に会いたいんじゃない?」
引っ越してから一年ほどたった頃、夕暮れ時に男に呼び止められた。住宅街の中だが、人通りが途絶えていた。近くには男のものらしい車が止まっている。
「道を教えてくれない?」
ぐっと体を寄せ、車に押し付けようとする。
本能的に危険を感じて、思わず体を固くした。
「ミカちゃん」
背後から澄んだ声が聞こえた。
振り返ると真っ白なワンピースを着た女性が立っていた。柔らかな雰囲気で胸のラインが見事な、美しい女性だった。でも、誰だか記憶にない。
「ちっ」
男は車に飛び乗ると、猛スピードで走り去っていった。
突き飛ばされた私は、地面に倒れ込みそうになったが、その人が抱きとめてくれた。ふわりと柔らかく、それでいて力強い支え。私は一瞬気を失ったらしい。
ふっ、と気が付くと、その女性は消えていた。
(えっ)
それまで感じなかった恐怖が一気に押し寄せて来た。必死に家まで走る。着いたと思った時、玄関が開き、母が取り乱した様子で飛び出して来た。
「お母さんっ」
「み、光花」
「どうしたの?」
「花瓶が、花瓶が倒れたのよ」
家の中には母が大切にしている花瓶があって、花を絶やすことはなかった。でもどうして、そんなに焦っているの?
「なにか、胸騒ぎがして」
同じ時に、私が危ない目に遭っていたのは偶然なのだろうか?
「あのね……」
先程のことを母に話す。
「女の人が助けてくれたの?」
「うん」
「ミユキさん……」
母はヘナヘナと玄関に座り込んだ。
(だれ?)
やがて帰宅した父に母がこの話をすると、絶句したまま顔を見合わせている。
「光花」
「はい」
「明日、学校休めるか?」
「小テストも終わったし、先生に連絡すれば大丈夫」
「じゃ、出かけるぞ」
翌朝、父の車で小樽に向かった。
小樽に何が待っているのだろう?
立派な旅館の玄関で、女将さんが迎えてくれた。この人には東京で会ったことがある。両親や祖父の知り合いのはずだ。
「突然、済みません」
「いえいえ、よくいらっしゃいました。美雪も喜ぶでしょう」
よく磨かれた廊下を歩き、奥の間に案内された。蝋燭の炎が揺れている。
「あ……」
遺影を見て、息が止まった。
「光花を助けてくれたのは、この人だね?」
「うん」
「やっぱり」
間違いなくこの女の人だ。
「よくやったね、美雪」
話を聞いた女将さんは、静かに微笑んだ。
「でもどうして、助けてくれたの?」
母に尋ねる。
「それは、光花が、愛する人の娘だからよ」
「どういうこと?」
私は激しく混乱した。
父と母と美雪さんのことを初めて知った。
父に前妻がいたということは、やはりショックだった。でも母がその事実を受け入れて結婚し、今でもその縁を大切にしていることは何となく理解できた。
「せっかくいらしたんですから、お昼を召し上がってください。あちらに用意しましたので」
「はい、浅川物産北海道支社、秘書課藤木でございます。本社管理課の橋本様でいらっしゃいますね?かしこまりました、ただいま支社長におつなぎいたします」
私、藤木光花(みか)は、元北海道支社長・藤木利光の長女だ。
ちなみに「光花」という一見キラキラした名前は、字画が十三画で大吉、親孝行で幸福な結婚をするそうだ。
父「利光」と母「由梨花」から一字ずつ取った安易な命名かと思ったら、意外と深い意味があったので驚いた。
父は東京本社の顧問弁護士を務めていたが、六十歳になった年、社長であった舅つまり私の祖父の強い要望により北海道支社長に就任した。
父はずっと本社内で業務を行っており、人望が厚かった。加えて、元々札幌市内で事務所を構えていたので道内にも太いパイプを持っている。ある意味適材適所の人事だった。
父と母は、娘から見ても恥ずかしくなるよう仲の良さだった。おまけに父は人並外れたイクメンだったらしい。
「よくワンオペ育児で喧嘩したわよ」
母が笑って言ったが、他の家庭とは違う意味だった。
父は家にいる時は片時も私を手放さなかったらしい。
「お父さん一人でやってしまって、私は育児の楽しみを奪われてしまったの」
私は中学に入る年、生まれ育った東京のマンションを離れ、札幌の円山公園の近くにある一軒家に引っ越した。東京を離れるのはちょっと寂しかったけれど、住んでいた部屋はハウスキーパーさんがきちんと管理していた。月に一回位は仕事で上京する父にくっついて、時々遊びに来ていた。
初めての戸建て暮らしに最初は戸惑ったが、すぐ近所に円山公園もあり、緑豊かな環境は新鮮だった。夏も湿気が少なく過ごしやすい。空気が澄んでいて美味しかった。
不思議なことに両親は、このあたりのことにとても詳しかった。花屋さんとか洋菓子店とか、おしゃれなカフェだとか。まるでここで暮らしたことがあるようだった。今から思えば、父に前妻がいて、近所に住んでいたなど思春期の娘には話しにくかったことは理解できる。
父と母は東京にいる頃から、時々小樽に出かけていた。しかし私にはその理由は話さなかった。
円山の家には小さな庭があって、どこから来るのかウサギが顔を出した。こちらを見て鼻をヒクヒクさせている。
「円山公園に棲んでるのかな?でも、なんで来るんだろう……」
「さあ、どうかな」
母は穏やかに笑った。
「光花に会いたいんじゃない?」
引っ越してから一年ほどたった頃、夕暮れ時に男に呼び止められた。住宅街の中だが、人通りが途絶えていた。近くには男のものらしい車が止まっている。
「道を教えてくれない?」
ぐっと体を寄せ、車に押し付けようとする。
本能的に危険を感じて、思わず体を固くした。
「ミカちゃん」
背後から澄んだ声が聞こえた。
振り返ると真っ白なワンピースを着た女性が立っていた。柔らかな雰囲気で胸のラインが見事な、美しい女性だった。でも、誰だか記憶にない。
「ちっ」
男は車に飛び乗ると、猛スピードで走り去っていった。
突き飛ばされた私は、地面に倒れ込みそうになったが、その人が抱きとめてくれた。ふわりと柔らかく、それでいて力強い支え。私は一瞬気を失ったらしい。
ふっ、と気が付くと、その女性は消えていた。
(えっ)
それまで感じなかった恐怖が一気に押し寄せて来た。必死に家まで走る。着いたと思った時、玄関が開き、母が取り乱した様子で飛び出して来た。
「お母さんっ」
「み、光花」
「どうしたの?」
「花瓶が、花瓶が倒れたのよ」
家の中には母が大切にしている花瓶があって、花を絶やすことはなかった。でもどうして、そんなに焦っているの?
「なにか、胸騒ぎがして」
同じ時に、私が危ない目に遭っていたのは偶然なのだろうか?
「あのね……」
先程のことを母に話す。
「女の人が助けてくれたの?」
「うん」
「ミユキさん……」
母はヘナヘナと玄関に座り込んだ。
(だれ?)
やがて帰宅した父に母がこの話をすると、絶句したまま顔を見合わせている。
「光花」
「はい」
「明日、学校休めるか?」
「小テストも終わったし、先生に連絡すれば大丈夫」
「じゃ、出かけるぞ」
翌朝、父の車で小樽に向かった。
小樽に何が待っているのだろう?
立派な旅館の玄関で、女将さんが迎えてくれた。この人には東京で会ったことがある。両親や祖父の知り合いのはずだ。
「突然、済みません」
「いえいえ、よくいらっしゃいました。美雪も喜ぶでしょう」
よく磨かれた廊下を歩き、奥の間に案内された。蝋燭の炎が揺れている。
「あ……」
遺影を見て、息が止まった。
「光花を助けてくれたのは、この人だね?」
「うん」
「やっぱり」
間違いなくこの女の人だ。
「よくやったね、美雪」
話を聞いた女将さんは、静かに微笑んだ。
「でもどうして、助けてくれたの?」
母に尋ねる。
「それは、光花が、愛する人の娘だからよ」
「どういうこと?」
私は激しく混乱した。
父と母と美雪さんのことを初めて知った。
父に前妻がいたということは、やはりショックだった。でも母がその事実を受け入れて結婚し、今でもその縁を大切にしていることは何となく理解できた。
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