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結婚
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あの事件から三カ月が過ぎた。利光さんは法律事務所の代表を辞任し、山路弁護士に執務室を明け渡した。
「今のままでいいんじゃない?」
山路先生は言ってくれたけれど、利光さんは考えを変えなかった。
「けじめを付けなければクライアントに説明できない」
それでいて、いままでの案件もあり札幌から撤退するわけにもいかない。
「大変だな、藤木先生」
「山路先生の負担を増やすことになって申し訳ない」
「いやいや、そちらがその気になれば、いつでもこの部屋は返すから」
窓辺の観葉植物を見ながら利光さんが言った。
「それはもうないだろう」
「奥さん、藤木先生は東京でもこんな感じですか?」
「そうですね、ここにいる時の方がリラックスしている感じかな」
「ほう」
「きっと怖いんじゃないですか、妻が」
利光さんが微笑んでいる。私たちは正確にはまだ入籍していない。だけど私はすっかり奥さんのつもりだし、周囲もそう見ている。もちろん利光さんも。
「お二人は今夜時間あるかな?」
「うん、特に予定はないけど。由梨花は?」
「じゃあ、小野寺先生の家に遊びに行こう。前から誘われていたんだ」
利光さんと顔を見合わせる。
「ぜひ、お二人を招待したいそうだ」
その家は、利光さんが住んでいた家。新婚さんに譲った家だ。それは複雑な心境だろう。でも小野寺先生は利光さんに悪意を抱くような人じゃない。
「わかった、招待を受けよう。いいよな、由梨花」
「はい、もちろん」
受けてはみたものの、なんとなく緊張してきた。新婚さんの家だから、きっと幸せが溢れているのだろう。それが楽しみな反面、全く変わってしまっていたら……。
(美雪さんが、ちょっと可哀想かも)
午後七時に行く約束で、それまで円山や宮の森を散策することにした。
「おみやげにあれを買っていこう」
ここに住んでいた頃、よく行った洋菓子店。この店の白いティラミスは不思議な美味しさだ。
「なんか、なつかしいね」
私でさえ、そんな気持ちになるのだから利光さんは胸に迫るものがあるだろう。
「ここらへんは洋菓子店が多いよね」
「うん。一人暮らししてた頃は、食べ歩きしてた」
「へえ」
ティラミスを買い、暮れて行く道をあの家に向かって歩く。よく知っている道だ。
(あ…)
ここに来るたびに必ず行った生花店が見えた。そして、いよいよ……
「いらっしゃい、待ってましたよ」
ドアが開いて小野寺先生が迎えてくれた。
「どうぞ、山路先生はもう来てますよ」
「お邪魔します。わあ」
玄関にはとても素敵な花が飾られていた。
「きれい……」
「うちの奥さんが生けたんですよ」
「お上手ですね」
「美雪先輩に教わったと言ってました」
そうか、小野寺先生は美雪さんと仕事をしたことがあるんだ。
部屋に入ってみると、懐かしいソファーや冷蔵庫がそのままになっていた。
「うちの奥さん、料理が得意ですから楽しんで行ってください」
ワインの栓が抜かれた。
「ん、もう一人誰か来るのか?」
「いいえ、もうここにいますよ。今日は僕たちが結婚して半年の記念日なんです。だから美雪先輩にも祝って欲しくて。僕たちにとっても大切な人なんですよ、先輩は」
奥さんが懐かしそうに微笑んだ。
「美雪さんはとても優しくて、生け花やお料理を教えてくれました。いまでもよく覚えています」
「ほんとにお世話になったよな」
「うん」
感動で胸が熱くなった。ここにも美雪さんを覚えている人がいる。心の中に生き続けている。
「このラビオリは美雪さんの味ですよ」
一口味わった利光さんは、そのまま目を閉じた。感極まっているのだろう。泣きたいのだろう。
それを見ないふりして、六脚のグラスにワインが注がれた。
奥さんの料理は本当に美味しくて、思わず作り方を聞いてしまった。
いろいろな思い出話が出た。私が知らなかった利光さんの話。そして……
最後に白いティラミスを食べて、宴は終わった。
「ごちそうさまでした」
「ぜひ、また来てくださいね」
円山公園駅に向かって歩く。
「楽しかったね」
「ああ、小野寺先生には感謝している」
「でも……」
「ん?」
「ちょっとモヤモヤする」
「なにが?」
「嫉妬です」
利光さんからふいっと目を逸らす。
「私も美雪さんから料理を習いたかった」
「そりゃあ無理だろう」
「わかってますって」
その時、背後から抱きしめられた。甘い甘い拘束。でも決して逃げられない。
「東京に帰ったら結婚しよう」
「うん」
「すぐに届けを出そう」
「うん」
「みんな喜んでくれるさ」
「だよね」
その夜、利光さんの腕の中で、なぜか眠れなかった。
「今のままでいいんじゃない?」
山路先生は言ってくれたけれど、利光さんは考えを変えなかった。
「けじめを付けなければクライアントに説明できない」
それでいて、いままでの案件もあり札幌から撤退するわけにもいかない。
「大変だな、藤木先生」
「山路先生の負担を増やすことになって申し訳ない」
「いやいや、そちらがその気になれば、いつでもこの部屋は返すから」
窓辺の観葉植物を見ながら利光さんが言った。
「それはもうないだろう」
「奥さん、藤木先生は東京でもこんな感じですか?」
「そうですね、ここにいる時の方がリラックスしている感じかな」
「ほう」
「きっと怖いんじゃないですか、妻が」
利光さんが微笑んでいる。私たちは正確にはまだ入籍していない。だけど私はすっかり奥さんのつもりだし、周囲もそう見ている。もちろん利光さんも。
「お二人は今夜時間あるかな?」
「うん、特に予定はないけど。由梨花は?」
「じゃあ、小野寺先生の家に遊びに行こう。前から誘われていたんだ」
利光さんと顔を見合わせる。
「ぜひ、お二人を招待したいそうだ」
その家は、利光さんが住んでいた家。新婚さんに譲った家だ。それは複雑な心境だろう。でも小野寺先生は利光さんに悪意を抱くような人じゃない。
「わかった、招待を受けよう。いいよな、由梨花」
「はい、もちろん」
受けてはみたものの、なんとなく緊張してきた。新婚さんの家だから、きっと幸せが溢れているのだろう。それが楽しみな反面、全く変わってしまっていたら……。
(美雪さんが、ちょっと可哀想かも)
午後七時に行く約束で、それまで円山や宮の森を散策することにした。
「おみやげにあれを買っていこう」
ここに住んでいた頃、よく行った洋菓子店。この店の白いティラミスは不思議な美味しさだ。
「なんか、なつかしいね」
私でさえ、そんな気持ちになるのだから利光さんは胸に迫るものがあるだろう。
「ここらへんは洋菓子店が多いよね」
「うん。一人暮らししてた頃は、食べ歩きしてた」
「へえ」
ティラミスを買い、暮れて行く道をあの家に向かって歩く。よく知っている道だ。
(あ…)
ここに来るたびに必ず行った生花店が見えた。そして、いよいよ……
「いらっしゃい、待ってましたよ」
ドアが開いて小野寺先生が迎えてくれた。
「どうぞ、山路先生はもう来てますよ」
「お邪魔します。わあ」
玄関にはとても素敵な花が飾られていた。
「きれい……」
「うちの奥さんが生けたんですよ」
「お上手ですね」
「美雪先輩に教わったと言ってました」
そうか、小野寺先生は美雪さんと仕事をしたことがあるんだ。
部屋に入ってみると、懐かしいソファーや冷蔵庫がそのままになっていた。
「うちの奥さん、料理が得意ですから楽しんで行ってください」
ワインの栓が抜かれた。
「ん、もう一人誰か来るのか?」
「いいえ、もうここにいますよ。今日は僕たちが結婚して半年の記念日なんです。だから美雪先輩にも祝って欲しくて。僕たちにとっても大切な人なんですよ、先輩は」
奥さんが懐かしそうに微笑んだ。
「美雪さんはとても優しくて、生け花やお料理を教えてくれました。いまでもよく覚えています」
「ほんとにお世話になったよな」
「うん」
感動で胸が熱くなった。ここにも美雪さんを覚えている人がいる。心の中に生き続けている。
「このラビオリは美雪さんの味ですよ」
一口味わった利光さんは、そのまま目を閉じた。感極まっているのだろう。泣きたいのだろう。
それを見ないふりして、六脚のグラスにワインが注がれた。
奥さんの料理は本当に美味しくて、思わず作り方を聞いてしまった。
いろいろな思い出話が出た。私が知らなかった利光さんの話。そして……
最後に白いティラミスを食べて、宴は終わった。
「ごちそうさまでした」
「ぜひ、また来てくださいね」
円山公園駅に向かって歩く。
「楽しかったね」
「ああ、小野寺先生には感謝している」
「でも……」
「ん?」
「ちょっとモヤモヤする」
「なにが?」
「嫉妬です」
利光さんからふいっと目を逸らす。
「私も美雪さんから料理を習いたかった」
「そりゃあ無理だろう」
「わかってますって」
その時、背後から抱きしめられた。甘い甘い拘束。でも決して逃げられない。
「東京に帰ったら結婚しよう」
「うん」
「すぐに届けを出そう」
「うん」
「みんな喜んでくれるさ」
「だよね」
その夜、利光さんの腕の中で、なぜか眠れなかった。
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