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「ちー、もう、今日はおしまい。帰らないと、母はお仕事ですよ」

「もう、ちょっと。もういっぽんだけ」

 電車の見える公園のフェンスから動かない千晶にため息をついた。三歳を前に千晶は立派な鉄っちゃんになった。

 あれから姿をくらませて二年が過ぎた。実家は噂じゃ倒産して夜逃げしたと聞いた。もうかかわることもないが、千晶の事はあきらめてくれたと信じたい。一方花菱商事は順調なようで、修平も経済雑誌に話題の御曹司として取り上げられていた。久しぶりに見た彼はやっぱりカッコよくて、思わず同じ雑誌を二冊も買ってしまった。

ガー、ゴー、

電車が目の前を過ぎる。小さな手をフェンスに食い込ませて、千晶がそれを逃すまいと見ていた。

「ちー、お願い」

 千晶の電車好きは有名な電車の絵本から始まった。今では朝昼晩電車の見える公園で電車の絵本を数冊抱えながら何時間でも過ごせるほどである。彼が特に好きなのは新幹線だが、ここは田舎でローカル電車しか通らない。二十分おきにしか来ないような電車を見るためにずっと公園にいるのだ。

「帰ったらドクターイエローの動画見せてあげるから」

 セットのおまけで付いて来る電車が欲しくて、ファーストフードに通わされ、家には玩具の電車の線路が蔓延っている。

「ごくたーいえろー。しんかんせんでんききどうそうごうしけんしゃというめいしょうで、ななひゃくけいをべえすにしたせんようしゃりょう「きゅうひゃくにじゅうさんがた」がつかわれています。しゃたいはあるみにうむごうきんでさいこうじそくは、にひゃくななじゅっきろ……」

「うんうん、千晶のすきなやつね……。さあ、帰ろう」

 もういっそのこと線路近くに引っ越ししようかと思うくらいである。男の子はおしゃべりが遅いと言われがちなようけれど、千晶はとにかくしゃべる。しゃべる……しゃべりまくる。ビデオやネットを暇さえあればずっと見て、そのナレーションや説明などを覚えてずっとしゃべるのだ。公園で仲良くなったママさんは『電車好きの男の子は賢くなるって聞くよ』と勇気づけてくれた。

 ……来年の春からは幼稚園か。

 千晶の手を引いて歩く。このまま平穏に。千晶を幼稚園に入れたらもう少し仕事を増やそうと考えていた。



「はは、ちーがもちたい」

「周りの人にぶつかっちゃダメだよ。ああ、ほら、前をみて」

 帰りにスーパーに寄ると千晶がカートを押したがる。できればカートに乗ってほしいのだけれど、彼はあれこれ商品を選びたいらしい。家から公園に行って、帰りにスーパーに寄って帰るのがほぼ毎日のルーティンである。

「これは、ははがすきなやつ」

 前に美味しいと言ったのを覚えていたのか千晶が一リットルパックのジュースをかごに入れる。

「ちー、重くなるから、今日は母はいらないよ?」

「ちーがもつからいいの」

「ああ、だから、ほら……すみません」

 うろうろする千晶のカートが隣を横切った女の人に当たる。『いえいえだいじょうぶですよ』と言ってもらえるうちに早く買い物を済ませたい。

「これも、いるでしょ」

「ホットケーキミックスはまだあるからいいよ」

 千晶が棚から出したものを私がしまう、を繰り返してスーパーを進む。最後に千晶が好きなお菓子を入れてやっとレジに向かった。

「ちー、ピッするのにじゃまだから、こっちで待ってて。母のエコバッグをそっちの台で広げてくれたら助かるなぁ」

 千晶がレジのお姉さんに商品を一つずつ渡そうとする。あれこれ世話を焼くのが好きなようだが、余計時間がかかるし、迷惑なのでエコバックを広げてもらう役目に任命した。頼まれるのは好きなようですぐに請け負ってくれるが、気まぐれなので速攻飽きてしまうことも多い。

「ちーがもつから!」

 一リットルパックのジュースにシールを貼ってもらって、千晶が抱えて持つ。家まで頑張れるのかなぁ、と思いながら歩くと店の外三メートルでギブアップした千晶からそれを受け取り、鞄に入れた。

「どくたーいえろーはななりょうへんせいで、かくしゃりょうにけいそくようのききがとうさいされて……」

 ちょろちょろあるく千晶と手を繋いでアパートへ帰る。大人だと数百メートルの距離が毎日冒険である。ふと、千晶がじっと前を歩く親子をみていることに気づいた。お父さんに子供が肩車をしてもらっていた。……もしかして千晶も肩車をして欲しいのだろうか。そう思っていたら千晶は別の事を私に聞いて来た。

「はは、ちーのパパは?」

「え?」

「えまちゃんのおねえちゃんが、ちーのパパはどこって」

「ああ、えーと。ちーのパパ、父はね、遠いところにいるの」

「にんむ?」

「う、うん、まあ、任務かな……」

 千晶がもう少し大きくなったらマシな嘘をつかなければ。しかし、これから幼稚園に通うとなれば、いろいろ疑問に思ってくるに違いない。賢い千晶のことだ、先にちゃんと考えておく必要がある。

 そんな風に思いながらアパートに着いてドアにカギを差し込んだ時、後ろから声をかけられた。

「千沙さん、もう逃がしませんよ」

 思わず千晶を体の後ろに隠すと、そこには二年ぶりに会う修平が立っていた。


 ***


「ちーのでんしゃ、みる? しんかんせんだよ、しってる?」

『だあれ?』と聞かれて、『母のお友達』と答えると千晶は簡単に修平を家の中に招き入れてしまった。幼児の『お友達』の認識は恐ろしい。

「ええと、こんなものしかありませんが」

「ありがとうございます」

 千晶が買った一リットルジュースをコップに入れて出すと、受け取る修平の態度は冷たいものだった。それもそうだ。二回も逃げたのだもの。さぞかし怒っているだろう。その間も玩具の電車がシャーシャーとレールの上を走っている。シュールすぎる。

「ちー、お客様と大事な話をしないといけないから新幹線を止めてくれないかな?」

「えすじゅうよん、いーろっけい、こまちがくるとこなの」

「……じゃあ、こまちが来たら、止めてね」

 しかし、こまちとドクターイエローが二週目に入っても千晶は止めてくれない。

「ちー、やくそく」

「もういっかいだけ」

「千沙さん、いいですよ。後ろで新幹線が走ってても」

「ええ……」

「ちーは電車が好きなんだね。知らなかったよ。もっとちーのこと知りたかったのに千沙さんが意地悪していなくなるからなぁ……」

「おともだち、でんしゃすき? ちーのたからものもっとみる?」

「うん、もっと見る。今日はお泊りしちゃおうかな~」

「え、とまる? ちーのおうち?」

「ちーは覚えていないかもしれないけど、僕はちーとお風呂に何度も入ったことがあるんだよ?」

「おふろ! はいる! はいる!」

「ちょっと、修平……それはいくらなんでも」

「僕は許してませんよ、千沙さん。泊めてくれますね?」

「……」。
 鋭い目で言われると自分が悪いのにシュンとしてしまった。どのみち千晶が眠らないと修平と話なんて出来っこなかった。夕飯の用意をしている間、以ものように修平は千晶の相手をずっとしてくれていた。千晶の可愛さにほだされたのか、ご飯を食べる時には修平の機嫌がよくなっているように思えた。
 当然のように千晶とお風呂に入り、自分で用意したのかスエットを着て修平がお風呂から出てきた。ちょっと濡れた髪がセクシーだなんて思ってしまう。千晶はずっと興奮しっぱなしで、そのうち、行倒れのように寝てしまった。

「さて、僕を喜ばせるだけ喜ばしていなくなるなんて鬼の所業をした千沙さん」

「ご、ごめんなさい。ちょっと事情があって、どうしても千晶を手放したくなくて……修平にも迷惑をかけたくなかったし」

「そんなに僕は頼りないですか?」

「そうじゃなくて……」

「はあ。事情は調べましたし、直接聞きました」

「えっ! まさか、私の実家に行ったの?」

「ええ」

「結婚するなら、融資して欲しいといわれました。子供も諦めると」

「ダメだよ!」

「千沙さん……」

「経営が危ないって噂で聞いてから地元の友達に電話して詳しく調べたの。あんなざる経営のワンマン会社なんてろくでもない。なんだかんだお金を出させたいだけなのよ! 一回でも援助したら、ずっと集られるのが目に見えてた」

「千晶と千沙さんが守れるなら利用されてもよかったんです。でも、ご家族に会って、千沙さんがご実家で不当な扱いをうけていたことを知ったら、腹が立って仲良くできませんでした」

「仲良くなんてしなくて正解だよ……長男教っていうのかな。当時はそれが普通だったけど、今は異常だって分かる。さすがに千晶を兄に渡せって言われてからは、縁を切ったつもりだよ」

「本当に縁を切るつもりですか? それで、いいと思ってます?」

「ええ」

「じゃあ、今度こそ僕と結婚して下さい」

修平の二度目のプロポーズに、私は息をするのを忘れた。
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