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霧は晴れ、やがてその実態は明かされゆく

裏側の真実、欲で澱む空間 後編

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【4】

 蝋燭の火が音もなく揺らめく。拘束した青年が使っていたそれが、監禁されて弱った息遣いが小さく響く空間の中で灯る。澱んだ色を染め上げるように。
「アイゼン・・・」
 暗闇に多くを隠す部屋の中、音もなく出現した彼を最大限警戒して睨む。
 疑惑と否定を望む眼差しが冷静なる表情を捉える。静かになった元腹心を見下ろした彼はただ静かに顔を合わせていた。
 先の騒動、倒れた音や事切れる寸前の声から誰かが死んだ事を察したのだろう、囚われた者達は口々に怯えの声を出す。押し殺している為、耳障りにはならないが静かな空間では騒然とするほどに聞こえた。
 心臓を貫き、付着した血液を拭い取る所作を見せてアイゼンは静かに剣を納める。その音が更なる緊張を招き、囚われた者達の恐怖を煽る。その思いが漏れてやや騒がしくなった空間で、彼は静かに瞼を閉じた。何を思うのか、後悔を微かに感じる眉間の皺は直ぐにも双眸が開くと共に緩んだ。
 心がざわつき、澱むようなシャトーの声が消えて数分程度、アイゼンが剣を納めて一分を漸く数える頃。その間、奇妙な静けさに包まれていた。誰もが押し黙り、息を吸えば張り詰めた空気で息苦しくも感じる。その切迫した空気を裂くように口を開いたのはトレイドであった。
「・・・此処に来たと言う事は・・・この事を、知っていたのか?アイゼン!」
 闇の中で佇む彼に向け、怒りを篭めて追及する。それを受けても無反応と言う程、静かに立ち尽くす。
法と秩序メギルが、この事を、人を攫い、監禁し、拷問に掛ける・・・この外道を、許しての良いのかッ!!答えろ、アイゼンッ!!」
 蓄積し続けていた義憤をそのまま吐き出す。今にも剣を構え、飛び掛かりそうな勢いを前に、アイゼンは再び眉間に皺を寄せた。
「・・・前々から、調査を行わせていた」
 ゆっくりと口が開かれ、言葉が発せられた。その声に謝罪や後悔の念は感じ取れなかった。
「シャトー、優秀な部下だった。若輩の私を支えてくれた、有能な者だった。だが、その内心を、下種な欲望を上手く隠されているとは思わなかった。まさか、このような事をしているとは・・・これは、私の不手際だな」
 見せるのは悔いだろうか。それとも、付け入る隙を見せてしまったと不甲斐なく思う感情か。それも抑えて、彼は続ける。
「・・・この男の発言は、概ね事実だ。私が魔族ヴァレスを捕縛するように命じ、管理に持て余した為に、この男に任せた。それ以降の仔細報告を受けていたが、虚偽を伝えられるとはな。全てを鵜呑みにしては居らず、少しずつ疑念が出て来た為に、調査をさせてはいたが、全てが遅かったな」
 彼等の言い分を全て信用出来る訳ではないが、似通った供述ならば信じてもいいだろう。詰まり、アイゼンに魔族ヴァレスを殺める気はなかったと。
「アイゼン。この事を公表するしかない。法と秩序メギルにとって汚点でしかないが、事実だ。一部の者の暴走でしかない。確かに、法と秩序メギルは過激な部分もあったが、それ以上にこの世界の規範でもある。直ぐにも、立て直せる」
「・・・確かにな。人を取り締まるギルドが、よもや不当に捕らえ、拷問に掛けていたなどと、到底許される事ではない」
 一部の者の犯罪を見付け出し、事件は終結する。そう安心を浮かべた時であった。ふと、疑問が過ぎった。彼の異常なまでに冷静な様を。魔族ヴァレスに執着を見せる。それは他にも該当しよう。定めた仕事には厳格とも言える。そんな人間が、この状況を知って、腹心の異常性を知ってもなお取り乱さない事を。
 話が止み、一瞬反応に遅れた。会話の後に訪れた疑問に意識が集まっていた為、反応に遅れてしまったのだ。それは一瞬の事、見落としていたかも知れない行動。アイゼンが不意を衝く様に動き出したのだ。
 辛うじて反応、無意識のそれに近い。剣を手にする腕を即座に振り上げる。それが軌道を妨害し、乗り上げた刀身に強烈な衝撃が加わった。胸部を狙ったそれは阻まれ、空間に強烈な光と音を齎す。それに悲鳴が小さく渡る。
 咄嗟のそれは奇襲を防ぎ、刀身同士は音を立てて拮抗する。不意の攻撃で手首に鋭い痛みを覚えたトレイドは眉を小さく歪める。その目が、冷静な面持ちで接近したアイゼンを捉える。その彼が剣を引き抜き、攻撃してきたのだ。
「何故、攻撃してくる?こんな事をしても・・・」
「シャトーが仕出かした事、それは法と秩序メギルの根幹を揺るがしかねない事。その切欠を齎し、それを放置した責任は私だ。責任を果たすべき役割に、私が居る。なら、行うべきは、一つしかない」
「ッ!・・・ふざけるなッ!!」
 不意を衝かれた動揺を掻き消すように怒鳴って力任せに剣を振り抜く。その圧に圧し負けたアイゼンは軽やかに後退して距離を置く。
「口封じか!俺を殺して、それで何になる!?事実は変わらない、何時か明るみに出る!隠蔽出来る訳が無い!!貴様も、分かっている筈だッ!!」
「いや、君を闇に葬った後、此処も潰せば全ては消える。簡単な事だ」
「一人の人間が突然姿を消す、それが如何言う影響を及ぼすか、分からない貴様ではない筈だ!!俺が消えれば、人と人を繋ぐ架け橋ラファーが不審と勘付く!そもそも、魔族ヴァレスの行方不明である事を知らされて、俺が動いたんだ!!当然、魔族ヴァレスが案ずる!其処から綻ぶぞ!どの道、事実は晒されるだけだ!!」
「ならば、工作すればいい。幸い、地震が起きてそう時間が立っていない。此処に居る魔族ヴァレスを使えば、極地的な地震も引き起こせるだろう。それに巻き込まれ、死んだ。そう言った筋書きも、強引だが作れない事はない」
「この期に及んで、本気で隠蔽する気かッ!!貴様も見た筈だ、シャトーの悍ましい所業を!!それすらも目を瞑る気かッ!?魔族ヴァレスを、人を、何だと思っているッ!!」
 義憤で、身を裂くような感情で身体が戦慄く。とても人とは思えぬ所業に激怒し、声を震わせて訴える。それをアイゼンは黙って聞き止める。
「同じ人、人間だッ!!人族ヒュトゥムであろうと、魔族ヴァレスであろうと、同じ人間だ!何故、それから目を背ける、否定し続ける!?同じ場所で生きてきた、人だ!!その事すらも、否定するのか!?貴様は、正気か?」
「・・・正気、か」
 一瞬、寂しさを感じる表情を浮かべる。その思わぬ反応に一瞬困惑する。その間に彼は動き出していた。
 俊敏な動きで腕を、剣を真っ直ぐ突き出して突進。それは突き殺さんと言った勢いを見せた。それを寸でで黒き刃が阻んでトレイドの身に及ばなかった。
「疾うに問答など無駄だ。こうするしか、手はないのだからな」
 話す余地はない、そう示すアイゼンに対し、トレイドは諦め切れなかった。食い縛り、それでも余計な戦いを回避する為に口を開く。
「投降しろ、アイゼン・・・貴様は法と秩序メギルのリアだ。責を感じるなら、それを貫き通せ。逃げるような真似は止せ」
 思い直すように語り掛ける。だが、もう無駄でしかなかった。彼の心は定まっており、説得に応じないまま剣が構えられる。両手で柄を持って額ほどの高さで固定し、鋒をトレイドに向けて静止する。その剣の刀身、蝋燭の火を僅かに反射、刀身が燃え上がるが如き光を放つ。
 冷徹な眼光で敵を捕捉し、明確な敵意が篭る。もう其処に、余地は無かった。全ては敵を倒すと言う覚悟が定まった表情に映る。寂しげに映るのは、彼の癖か。
 身が震える様な圧、背筋が凍るような殺気から実力を察知する。もう、説得は無駄だと悟り、トレイドも決死の覚悟で剣を構えた。
 出方を窺う為に待機し、反撃に徹するトレイド。その彼に向け、アイゼンは踏み込んで距離を詰める。足音が木霊するほどに踏み込むと同意に下段からの一撃を下す。風切り音を置き去りにするようなそれは首への軌道を描いだ。
 対面するトレイドは視界が悪い中でも視認し、その軌道を妨害するように剣を振り下ろす。力が込められた二つが衝突すれば当然、音を齎し、僅かでも強烈な閃光が生じた。
 開始とも言えるその音に悲鳴が空間に木霊し、巻き起こった風が蝋燭の火を揺らして激しく明暗を揺さぶる。少しの間、極端に明かりが弱まり、二人が暗闇に包まれる。その折りに二人は互いの表情を見合っていた。互いに、その思考は読めないまま明るさは戻っていた。
 自ずと鍔迫り合いのような拮抗した状態となり、刀身同士は激しく擦れ合う。アイゼンの力はトレイドの力に匹敵しており、片手では抑え切れないと左腕を刀身に添えて体勢を保った。
「・・・本気、か。アイゼン・・・ッ!」
 問い、本心を探る。当人は答えず、刀身を擦らせながら前進して接近する。余計な会話など無くとも行動が示す。アイゼンの敵意しか感じない面、手加減など感じない攻撃が証明でしかなかった。
 防御に移した利き腕の手首に生ずる痛みに耐え凌ぐ中、残っていた多少の迷いも捨てて漸く彼と対峙していた。
 反発し合う力を押さえ込むように拮抗する。それを崩したのは、気合のまま吐き出した声と共に強引に振るわれた一撃。下方からの力を無理矢理に弾き流す。けれど、それは相手のみならず、振り上げた方すらも体勢を崩す結果となる。だが、弾いた方、トレイドの方が立て直しが早く、今に体勢を戻そうとしたアイゼンに向けて蹴りを繰り出した。
 突き出されたそれは咄嗟に防御として構えた剣に防がれる。けれど、崩れた体勢のままでは受け切れず、多少だが退かせる結果となる。それでも、大したダメージには至れない。
 図らずとも距離を取った形となり、出方を窺いながらトレイドは手首の状態を確認する。痛みが少々走るものの、支障をきたすほどではないと判断する。そうする間にアイゼンは動き出していた。
 踏み出し、半身を前へ出して剣を突き出す。再度の刺突は精確に眉間を狙っていた。
 鋭い金属の先端、目前まで迫る恐怖に晒されながらも反応したトレイドの身は対処に奔走する。次の瞬間には赤い飛沫が散った。傷が開かれた。けれど、小さなもの。身体を逸らす事で間一髪で躱して頬を掠めるに済ませていた。
 右頬に走る鋭い痛み、伝う血の感触を理解しながら素早く制止した刀身を弾く。同時に、左脇に痛みが生じた。
「ッ!」
 間髪入れずに次なる攻撃を、右足に拠る中段の蹴撃を加えられたのだ。それに怯み、堪える間も無く、剣を弾かれたアイゼンは急旋回を行う。弾かれた反動を利用して回転、その遠心力と筋力を乗せて更なる一撃を繰り出した。
 横に薙ぐそれは闇の中に僅かな風を吹かせるほどの威力が篭められていた。けれど、其処に確かな手ごたえは無かった。鋒に血液が付着していたが、致命傷に至るにはあまりにも微量であった。
 辛くも飛び退き、仰け反った事でトレイドは回避していた。呼吸を止め、最大限の集中で回避に努めた。それによって命を繋げていた。
 だが、途端に息を切らす。全身に汗を少々滲ませてアイゼンを睨む。その首には薄く傷が刻まれており、回避が間に合わなければどうなっていたのかは言うまでもない。それを理解し、血も凍て付くような感覚に襲われ、確かな死への恐怖で心拍数は上がる。益々に緊張を高めていた。
 剣を縦に構え、アイゼンへの集中を散らさぬように距離を置く為に後退する。網膜にも響くような痛みに片目を細める。その僅かな隙を合わせるが如く、暗闇に紛れて彼は片手を振るった。
 その傍には寂れた机が存在し、その机上に置いていたあらゆる何かを投げ捨てていたのだ。粗雑な動きによるそれは散弾のようにトレイドに注がれた。暗闇からの小さな奇襲を受け、様々な衝撃で種類多い痛みに僅かに怯む。直ぐに立て直したその目が、互いの間合いまで詰めてくる姿を捕捉した。その腕が剣を振り上げんとする挙動も捉えて。
 その道筋は分からなくとも予測を立てながら防御に移る。両手で握り込み、その腕に強烈な衝撃が貫いた。接触部は互いの鋒付近、閃光が散る。
「っぐ!」
 同時にトレイドは横腹付近に痛みを負う。その付近に膝蹴りが繰り出され、それをまともに受けて小さくよろける。しかし、即座に反撃を行っていた。
 反射的に軸足に蹴りを繰り出し、少し姿勢を崩した直後に再度剣を振り抜いていた。押し負けた形となったアイゼンは後退を余儀なくされていた。
 蝋燭の火の状態が戻り、明暗が落ち着くまでの間、トレイドは息を整えながら様子を見る。しかし、息を整える間も無く、アイゼンは距離を詰める為に踏み出した。
 剣が床に接触して小さな線を作る。それは真っ直ぐにトレイドに向け、警戒していた彼でさえも意表を突かれたような速さを示した。それを辛くも防ぎ、再び距離を取らせていた。互いに表情は険しくさせ、武器を唸らせた。

 呼吸の音が空間に木霊する。剣戟が続いていた。トレイドはひたすらにアイゼンの攻撃を防ぎ、反撃を行っては回避か防御を繰り返していた。終始、受け身の為、防具、身体にも傷を刻み込まれる。そのどれもが大したものではないが、伝う血と走る痛みは実際以上に感じていた。
 対するアイゼンはただ攻撃を繰り出す。彼もまた終始様子を変えず、黙々と目的を遂行するように。それは隠蔽する為であろうか。それならば、取るべき行動は他にもあると言うのに。それなのに、彼はトレイドに固執するように武器を振るった。
 交わす攻撃の合間、瞬く閃光が二人の顔を映した。怒りに強張る顔とただただ冷静に対処する表情。
「何時まで、守り続ける。時間稼ぎの積もりか?」
 戦い始めてから初めてアイゼンが口を開く。その問いはトレイドの思考を読むものでなく、ただの言葉。けれど、トレイドの内心は少し冷えた。図星ではないが、応援を読んでいる事は事実である為に。
 それを隠すように繰り出される攻撃を受け続ける。力溜めからの僅かに斜めの薙ぎ、防がれたなら切り返して下段からの脇へ、避けられたならば蹴りを繰り出して喉へ突く。容赦なく命は狙われ続けていた。
 首筋に伝わる鮮明な痛みに耐えつつ、じりじりと後退って距離を取る。重ねられる痛みの中、続けていた思考の中で構築した戦略を展開させた。
 明かりがあろうと暗闇が多くを占める。その中での感覚、動きは恐ろしく制限される。神経が緊張状態に高調する事で辛うじて動きを見たとしても、動きの全体を把握する事は難しい。目の前の人物が実力者であれば尚更に。
 次の動向を注意深く凝視しながら相手の出方を窺う。アイゼンは斜に構えている為、上段、中段、下段、何処を狙ってくるかを悟らせない。視線から大よそを把握出来る事もあるが、暗闇に紛れてしまえば予測も出来ず。
 けれど、命を奪う事を目的とするなら致命傷を、首か心臓を狙うのは定石。そうでなくとも、足や腕を落とせば形勢は崩れ、それで勝利する事も可能。詰まり、手段は幾らでもある。相手の出方が分からぬ以上、誘い出すしか方法は考えられなかった。
 狭き空間で後退し、距離を開けようとする。明かりから遠退く事は命取りでもある。それを指し示すように、アイゼンは追撃を行うように攻撃を繰り出す。距離を詰め、上段からのやや大振りの攻撃。視認し難い速さではあるが、トレイドは見逃さなかった。
 明かりを背に、影は大よその形を作り出していた。それからも攻撃の動き、その軌道を読む。空間に音を振るわせる凶刃、それに向けて全力を振り上げた。
 攻撃の要でもある右腕を、或いは剣を狙っていたかも知れない。その刃に対抗した剣、その刀身は闇に同化したままに振り抜けられた。途中で強烈な閃光と音が響けども、耳を劈くものではなかった。直後、何処かで別の物音が鳴り渡った。

【5】

 何処かに落下した何か、それが奏でた音が悲鳴を上げさせた。明確な変化、それを示す音は捕えられた者を追い詰めるほどに痛く響いた。
 同時に一つの区切りである。戦っていた二人は息を切らす。猛攻と防御、命の遣り取りが一旦区切られ、押し寄せる疲労感に呼吸は乱れる。一時の停戦が身体を重くさせた。
 息を切らしながらアイゼンは己が剣を見詰める。視線の先には砕けて半分以上を失った刀身。そう飛ばされたのは刀身であり、戦いで急激に消耗し、トレイドの一撃で砕かれてしまったのだ。
 まだ納得がいかず、けれど何処か諦めを感じる姿を睨むトレイド。だが、堰を切ったかのように蓄積した疲労感に身体は脱力を起こす。警戒は解かずとも武器は下ろされる。その胸、殺める結果にならなかった事を小さく喜ぶ。
「・・・もう、止めろ。これ以上戦っても、意味がない。罪は、等しく裁かれるべきだ。法と秩序ルガー・デ・メギル、あんたが作ったギルドで布いた、法でだ!・・・アイゼン、責任を感じるなら、逃げようとするな!」
 争い自体が意味がない、そう告げて説得する。警戒する目に、応じて欲しいと言う望みが滲んで。
 漠然と眺めるように武器を確認するアイゼン、その手の甲には液体が落ちる。刀身を砕かれた時、その破片で傷付いてしまったのだろう。それらも見て、止むを得ないと言った様子で息を吐く。
「・・・まだ、そんな事を言うか。今し方、殺され掛けたと言うのに、相手に慈悲を掛けている積もりか?」
「そもそも、恨みはない。怒りはあるが、そんな事は関係ない。従うべき事には、従う。当然の事だ。アイゼン、お前もそうするべきだ」
「勝利を確信したのか?悠長に話す・・・」
 説得に耳を貸す気はないと示すように姿勢を正した彼は睥睨する。面、眼差しに強い感情が入り混じっている事は読めても、その詳細は分からず。
「俺を消しても、何時かは明るみに出る。何故、それに拘る。全部があんたの責任じゃない。なのに、如何してだ?」
「如何して、か・・・それを問うなら、私もある。トレイド、君は何故、魔族ヴァレスに拘る?情を抱いたのだろう。だが、それでも記憶が示す。魔族ヴァレスは悪だと。それなのに・・・」
「関係ない。言った筈だ、同じ人間だと・・・」
「容認出来るかっ!!」
 途端にアイゼンが吼える。抱えていた不満が弾けていた。その怒号に遮られ、言葉を止めてしまう。驚くトレイドの様子に気に留めず、彼は次々と口を走らせた。
「・・・忘れられない、忘れられる筈も無い!あの時、あの時の所業を!決して、決して・・・ッ!」
 心を蝕んでいたであろう憤怒を吐き出して彼は語り始めていた。魔族ヴァレスを排斥、敵と見るようになった切欠を。

 それは、彼がこの世界に来て、人々を想って世界の規範を作ってから暫くの事であった。
 彼も最初から魔族ヴァレスを憎んでいた訳ではない。知らない記憶に左右されず、人と人を繋ぐ架け橋ライラ・フィーダーと共に秩序を守っていた。世界の仕組みも知ろうとして、自らも方々に足を運んでいた。その折りに悲劇は訪れた。
 部下は信頼の置ける者達、自分を慕ってくれる者ばかりであった。彼もまたその部下を信用して共に生きていた。この時も最も信頼を寄せていた者達、友人とも言える者と共に。
 その彼等の前に、不条理を突き付けたのは旅人風の恰好を為した奇妙な人物であった。顔は隠れ、異様な雰囲気を醸すその者を見て、誰もが警戒した。怖気、死すらも悟る圧力に息を呑んだ。次の瞬間には惨劇の場と成り果てた。
 謎の存在は行使した、操魔術ヴァーテアスを。或いは、それに酷似した力かも知れない。それがアイゼンも巻き込み、人を蹴散らした。道端の木の葉を払う、いやただ通り掛かりにいた虫を踏み潰したかのように。
 唐突の力の奔流に晒されたアイゼンは生死を彷徨った。助かったのは奇跡と言えるほどの重傷を受け、その中で目を抉じ開けた。その目に映ったのは埋め尽くす赤であった。
 彼以外の者は全て命を奪われた。切り刻まれ、無数の欠片となって地面を赤く汚した。見るに耐えない、酷い光景と成り果てていた。其処に、自身と部下の血に塗れて、彼は横たわっていた。
 何が起きたのか、理解が追い付かなかった。分かるのは、あの謎の存在が操魔術ヴァーテアスを行使し、皆殺しにした事だけ。
 彼は激痛に、意識を失う程のそれに苛まれながらも足掻き、立ち上がろうとする。その途中で捉える、元凶である謎の存在。それは興覚めと言った態度を示し、その場から立ち去り始める。
 身勝手過ぎる後姿にアイゼンは煮え繰り返った。ただ踏み躙り、何も得られないと知れば立ち去る様に向け、身を引き裂く思いで声を上げる。呪詛を撒き散らす、痛みを忘れるほどに、感情を吐き出し続けた。それでも、足を止められず、行方は知れなくなった。
 それから意識を失うまでの間、吐血と共に呪いを吐き続けた。そして、解釈していた。尤も良い反応を示してくれた褒美として、見逃されたのだと。それが、更なる恨みを募らせていった。
 この一件が彼の内に魔族ヴァレスへの憎しみを植え付け、魔族ヴァレス排斥に拍車を掛けてしまった。操魔術ヴァーテアスを使える存在は魔族ヴァレスだけであり、諸悪の根源と憎むようになり、その感情のままに法を定め、捕えさせるに至ってしまった。

「・・・憎悪は人を忘れさせる。ある時、捕えた魔族ヴァレスを前にした。あの時の記憶が甦った。全く関係が無かったと言うのに、気付けば、死なせていた。自身の手を汚し、惨たらしく、殺してしまった・・・」
 刻々と静かに語り続けたアイゼンは深い後悔と悲哀を示す。手を掛けた事を悔やむ様子を示す。暗闇に紛れているものの、その感情は隠し切れない。始めて見せた感情にトレイドは警戒を緩めた。
「・・・だからこそ、シャトーに魔族ヴァレスの管理を任せていた。捕えさせる事も止められずに、結果、このような事になるとはな・・・」
 嘗ての腹心を睨み、表情を荒める。彼の本質を見抜けなかった事を悔やむように、顔に怒りを滲ませていた。
「・・・だが、最早、関係ない!」
 会話は唐突に打ち切られ、抑えていた戦意は急激に膨れ上がった。それを放ちながらアイゼンが再び動き出した。
 刀身が砕けた剣を投げ捨て、腰元から短剣を引き抜く。護身ではなく、れっきとした武器を以って再び襲い掛からんと駆ける。
 意表を衝く行動にトレイドは間一髪で反応し、胸元を狙った一撃を受け止めて切り払う。攻撃を払われたアイゼンは再び距離を取り、その姿を前にして複雑に表情を歪められた。
「もう止めろッ!意味が無い事は理解している筈だ!!」
 諭す為に声を荒げて呼び掛ける。だが、再三の攻撃からもう話す余地すらなく、抵抗の姿勢を崩さぬまま短剣を構え直し、再び距離を詰めていく。
「事情を知って絆されたか、トレイドッ!!」
 説得の言葉を拒絶し、尚も考えを改めずに命を狙う。その意思にトレイドは酷く狼狽する。それでも耐え、抗う。
 それ以降、アイゼンは口を開く事は無かった。硬く閉じ、先以上の圧力を放ち、無心で短剣を振るう。それは切羽詰まったかのように、それとも手段をかなぐり捨てて実直に専心するように。
 一層攻撃が苛烈になり、押され気味のトレイド。間合いが狭まったにも関わらず、洗練された技術に命を狭められる。紙一重でそれを受け止め、往なす。攻めにあぐね、防戦一方であった。
「アイゼンッ!!本気かッ!!それで、良いのかッ!?」
 僅かな空間を見計らって叫び問う。迷いを捨て去る為に、最後通告を言い渡す。対する答えは既に示されていた。返事も無く、それで心は定まった。それも覚悟で、武器を振るい始める。
 熾烈な金属音が響き渡る。唐突に強烈になった音が囚われた者を更に怯えさせる。隅に追い遣られ、もしかすればと震え立つ。思わず悲鳴を上げる事はないが、今にも窒息しそうなほどに緊張下に追い詰められていた。
 その者達の怯えを感じてか、トレイドは次第に攻勢に移り始める。力尽く捻じ伏せる、容赦、手加減などする余裕すらも無かった。それほどにアイゼンは本気であり、その実力があった。
 トレイドが繰り出す一撃を、短い刀身で上手く受け流し、作り出した隙に手早い突きを繰り出す。辛く避けつつ、反撃に往なされた腕を切り返す。柄頭で側面を撃たんとし、その出だしで手の平で受け止められてしまう。それを予測しており、同時期にローキックを繰り出す。それが一瞬体勢を崩すものの、耐え切り、更に踏み出して首を掻き切らんと振るう。到達寸前で腕を掴んで受け止めた。
 度々に膠着状態に陥る。視認し辛い状態、やや狭い空間、実力は拮抗していると言えよう。互いが全力を出す為、状況はそう崩れる事はない。そう、簡単には。
 力む声を漏らして拮抗状態を解き、距離を開かせる為に強引に押し退ける。押し切られたとしても瞬時に切り返し、短剣を握る腕を突き出した。俊敏な動き、容赦の一切無い攻撃は度重なる悪寒を抱かせた。
 即座に剣を振り上げる。防御、反射的に行われたそれは防げるかどうかは微妙なところ。だからこそ、攻撃も兼ねて全力で行っていた。それが彼の狙いでも、あった。
「なっ!?」
 直前で気付いた。互いの武器は接触する事は無かった。最後の最後に、アイゼンは手を緩め、勢いを止めないままに距離を詰めていた。その胸、何の防具で包まない身体に全力の一撃が叩き込まれてしまった。
 その一閃、あらゆる物を斬り裂き、闇に真紅な流血を撒き散らした。致命傷である事は斬った感触を抱いたトレイドが一番分かっていた。
「な、何故だ!?アイゼンッ!!」
 倒れ行く彼を受け止めながら叫ぶ。その中でも察していた、これが密かに画策していた事だと。本気を出すように誘導し、迷いの無く、疑いようのない一撃が繰り出された時、それを受ける事を。
「これで、これで良い・・・」
 受け止められ、床に寝かされるアイゼンはまるで憑き物が落ちたような表情を浮かべる。頭を持ち上げられ、流血夥しい様子はもう助からない事を意味した。
「まさか、これを、望んでいたのか・・・」
「そう、だ。初めから、こうするしかなかった。こうするしか、考えられなかった。法と秩序ルガー・デ・メギルを、生かす、為には・・・」
 そもそも、彼は捕えた人間を人質にするような真似をしなかった。人を、魔族ヴァレスの命を最優先する者を仕留めるには、それが最善手である事は言うまでもない。なのに、それを行わなかった。それが密かに引っ掛かっており、漸く得心した時には遅かった。
 そう、アイゼンはトレイドを殺す気はなかった。手加減をせず、殺す気はないが本気で立ち向かう事で、殺める事を余儀なくさせた。それが事故であろうと、それで構わなかったのだ。
「・・・私に、あの男の罪も被せるがいい。何の罪もなく、関わっていない者を救うには、それしかない・・・」
 命を喪う瀬戸際だと言うのに、彼はそれを受け止めて語る。トレイドが塗り薬を試そうとするのだが、それを止めて。
「この、失態を晒す訳にはいかない。何時かは知られる事だろう。だが、今は駄目だ。腐蝕に関わっていない者も居る。清廉潔白の者も・・・彼等を、路頭に迷わせる訳には、行かない。罪は、腐敗の全てを、私が負う」
 息が少しずつ掠れ、流血に連れて腕に掛かる重みが増し、顔色が少しずつ損なわれていく。その彼の最期をトレイドは黙って眺める。
「・・・最早、私の身は血で汚れている。元より、被害者の遺族が、知人が、同胞が許す筈が無い。確かに、私が広めた法に、死罪は無い。だが、どの道、死ぬしかない。それだけの事を、私は誘導し、黙認した・・・」
 話の合間で血を吐き、トレイドの顔を汚す。それを黙って受け止める。
「分からなく、なった。あの時から、魔族ヴァレスがセントガルドに来た時から、変わっていく町の様子を、二つの種族が取り合う姿から、迷いが生まれた。そして、ステインから聞かされた謎の存在。それが、私が遭遇した者と、合致する・・・私が、下した決定が、間違っていた事は分かり切っていた。だが、もう、戻れない事は、悟るしか、なかった・・・」
 懺悔を零し、涙を伝わせる。既に遅く、取り返しのつかない後悔に贖罪を滲ませる。
「ステインに、伝えてくれ。後は頼む、と。それは、君にもだ」
 己が罪を思い知り、関係ない者達の後を頼むと願う。その姿に、根ではやはり悪人ではない事を知り、トレイドは哀惜を示す。
「別の形で、知り合いたかった・・・」
 抱いた本心を誇張なく伝える。その脳裏には殺める負い目か、ありもしない仮定を考えてしまって。
 その言葉を受け、次第に息がか細く小さく中で笑いが零された。
「誰だって、そう、さ・・・」
 そして、力は失われた。静かに呼吸は止まった。地下の暗闇、人影で隠れても眠った表情は良く映る。後悔が滲めども、安らかに見えた。
 元は正義感の厚き人間であったのだろう。それが、謎の存在に拠って狂わされた。以後の行為は看過は出来ないが、抱いた苦悩に同情を、そして、謎の存在に対して義憤が込み上げていた。
 だが今は、彼の死を弔う。右手に残る感触と彼の言葉を反芻させ、硬く目を瞑り、悔み続けていた。

【6】

 深まっていく夜の中、深い地下で喜びの声が漏れていた。狭く汚れ、恐怖と死の隣り合わせであった束縛から解放された喜びなど望外であろう。
 地下室は余す事無く明かりに照らされる。赤い光は蝋燭のそれであり、酷き扱いを受けた者達の姿を映し出される。その者達を、此処とは関係の無い者達が介抱する。護衛も兼ねて、細心の注意を払って。
 まだ不安が抜けない者、過酷な拷問を聞かされて気が触れた者を懸命に宥める傍、あの残虐非道を克明に刻み込んだ、筆舌し難い拷問部屋に誰もが絶句して顔を青くした。想像したくないそれに吐き気を催した者も居て。
 此処で戦闘が行われ、発生した二つの遺体。それらは死体袋に詰められて運び出されていく。それらの光景を、一通りの説明と指示を行ったトレイドは眺めながら立ち尽くす。その胸に、戦いの昂揚が冷め、冷静となった思考で受け止める事実と向き合っていた。抱くは叫びたくなる後悔が多くを占めて。
「トレイドさん!」
「クルーエ・・・」
 その彼に大いに心配した女性の声が掛けられた。反応する通り、最初に助け、応援を読んでくるように頼んだ彼女である。彼女は期待通りに仲間を連れ、此処に戻ってきていた。
 向き合ってトレイドは安心を抱く。無事である事は今の状況が指し示すのだが、やはり本人を見る事が一番である。すぐにも近付こうとするのだが、躊躇って足を止めた。今、その身は血で汚れており、何より人を殺めた後。その自分が、誰かを心配する、想う資格があるのかと考えて。
 その思考を否定するように駆け寄ってきたクルーエが飛び込む。そのまま強く抱き締め、胸に顔を埋める。血で汚れようが構わず。
「良かった・・・トレイドさんが、無事で・・・!」
 彼女はずっと案じていたのだろう。自分の所為で余計に心配を掛ける事になったと。そして、もしもの事も考えていた筈。それが覆り、今は彼が其処に居てくれる事だけで嬉しく、その思いのままに抱き締めていた。
 抱き締められた事に激しく困惑したが、小さな泣き声と腕の感触に気持ちは落ち着く。そして、優しく抱き締め返した。それだけで、気持ちは随分と楽になった。
「君も・・・無事で良かった。ありがとう、助けられた」
 仲間達を呼んできてくれた事、そして、今に崩れそうな自分を案じてくれた事が溜まらなく嬉しく、支えにもなってくれた事に感謝を零した。
「・・・話は、事情は、顛末は概ね聞かされている。だが、改めて、尋ねさせてもらう」
 落ち着いた事を見計らって話し掛けてきたのはステイン。その身は完全武装しており、戦闘時以上の緊張と心配するほどの悲しみを示して其処に居た。
 その言葉に応じ、トレイドは答える。一件の全てを。此処が発覚した経緯からシャトーの残虐な非道を、アイゼンの願いと遺言を。
 終始、難しき表情を浮かべて彼は聞き受けていた。一言一句聞き逃さず、アイゼンが倒れた跡を睨み、時折、瞼を閉ざして。
「・・・トレイド、嫌な、損な、面倒な役割を押し付けてしまった。そして、止めてくれて感謝する」
「感謝、される事じゃない」
 賞賛ではない。それはアイゼンを止めてくれた事への感謝であった。だからこそ、受け止められずに表情に影を落とした。
「・・・本当に、苦労をさせてしまった」
「・・・大丈夫だ」
 仕方なかったとは言え、手を掛けさせてしまった事を憂う。だが、本人はそう口にして溜息を吐いていた。
 あれほど殺傷に執着を見せていた彼。当然、その内心はその行為に対して並々ならぬ感情が入り混じっていた。ともすれば、発狂しかねないほどの悔いも込み上げていた。その中で冷静を保てるのはクルーエやステインの気遣い、そしてアイゼンの意思であった。
 確かに、アイゼンを殺めた事は一生の傷となろう。喪った事以上の罪悪感となろう。けれど、そうされる事がアイゼンの望みであった。それすらも否定し、逃げるのは彼への侮辱になると考え、それが辛くも正気を保たせていた。けれど、近日に様々な経験をしてしまった身、そろそろ限界であった。
「トレイド。此処は他の者に、皆に、仲間に任せて休むと言い。ローレルの件も立ち会ったと聞いている、関わり過ぎだ」
「だが・・・」
「良いから、休め。身体を洗い、十分に休め。今は身体も、心も疲弊している。その中で物事を考えようとすると余計な事を思い浮かべてしまう。一度体調を整えるんだ。良いな?」
「しかし・・・」
 トレイドは頑なに了承しない。この一件を引き起こした責任を感じ、任せられないと。その様子にステインは遣れやれと首を振る。
「クルーエ、トレイドを連れて行ってくれ。そして、強引に、無理矢理に、問答無用に休ませてやれ」
「・・・はい、分かりました」
 首を縦に振らず、了承しないと判断するとクルーエに命ずる。切ない表情でのそれを受けた彼女はトレイドの身も案じて多少強引に連れて行こうとする。抵抗すれど、押し負けて階段へと向かっていく。
「追って連絡する」
 そう言い残して彼は現場の指揮を執る。その背を一瞥し、階段を、地上へと上がっていった。その際に聞こえた、彼の呟き。
「・・・如何して、相談してくれなかったんだ」
 悔しさが滲む声は気の所為ではなかった。それもまた小さくトレイドの心に小さく傷を付けていた。

 外は更に暗闇に落ちていた。夜は更け、建物から漏れる明かりも疎らとなり、月や星明かりが目立ち始めている。
 今のトレイドには人目に掛からないこの時間帯は好都合であった。血で汚れた姿を晒し、住民に不快な思いをさせず、事件性を匂わせて関係の無い法と秩序ルガー・デ・メギルに気取らせる原因になってしまう為に。
 重く苦しい空気の中、二人は黙して進む。その行く先は魔族ヴァレスが暮らす区画。その小さな通りに井戸が設置させられ、其処へ向かう。その理由は汚れを落とす以外は無い。
「服を、取ってきますね」
「・・・ああ、頼む」
 クルーエが気を使い、寝静まった家屋へ音を潜めて向かっていく。それを横目にしながら水を汲み、桶を一旦置き、上の服と防具を取り外して傍に置く。
 返り血は肌も汚しており、それも落とす為に水を使い、素手で擦る。その色はそう簡単には落ちる事はなった。いや、正しくは大方は落ちており、そう感じるのは精神面から来る錯覚であった。
 暫く洗っても落ちず、水を滴らせて利き手を眺める。剣も洗い、その刀身も眺めていた。胸に渦巻く感情の中、気持ちの整理を懸命に行って。
「トレイドさん」
 戻って来た彼女が声を掛ける。それに振り返ると代えであるやや傷付いた服が持たれていた。
「・・・すまない。君に、不快な思いをさせて」
 受け取りながら迷惑を掛けた事を謝る。それに彼女は暗い表情のまま首を横に振った。
 大雑把に洗い、水気を払い除けた後、衣服と共に渡された手拭いで拭く。際にまだ、血が残っている様に映り、こびり付いている様にも錯覚する。それ以上にその手にはあの感覚が染みついていた。それが、人を殺した、罪悪感であると言うのか。
 時間を追う毎に増加する感覚、悪夢に魘される以上の苦しみに囚われて顔色は損なわれていく。身体を拭き、衣服に袖を通す動きすらも滞るほどに苦しむ。
 気付けば己に対する嫌悪感が押し寄せていた。それは、忌々しい、あの男と同様の事をしたのだと。経緯は如何であれ、結果が同じなのだ。それは自死してしまいそうなほどにも。
「トレイドさん?」
 精神の崩壊、その淵に立ちそうな彼を呼び戻したのはクルーエ。彼女もまた、それを感じ取ったのかも知れない。酷く心配し、顔を覗き込んで揺さぶろうとする寸前でもあった。
「クルーエ・・・」
「トレイドさんは、私を、皆を、助けてくれました。助けてくれたんです!」
 涙を溜め、自責の念に囚われる彼に必死に呼び掛ける。説得しようと懸命に言葉を選ぶ。
「トレイドさんが、居なかったら、助けてくれなかったら私は、此処に、居なかったかも、知れません・・・」
 その言葉を受け、トレイドも気付く。今回の一件でこれ以上の犠牲者は出なくなった。苦しむ人間は居なくなったのだと。
「でも、トレイドさんが居たから、私は助かりました!皆、助かりました!ですから、これ以上、自分を、責めないで下さい・・・お願いですから・・・」
 とうとう涙が溢れ、自分を責める彼の胸に崩れる。何度も自分を、魔族ヴァレスを救ってくれた人が苦しむ姿を見ていられなかった。何とか踏み止まらせたくて、感情は溢れて止まなくなった。
「・・・そう、だな。助け、られたんだな・・・」
 噛み締める彼の面に僅かだが力が取り戻されていた。凶行を阻止した。そして、手に掛けた者の意思を叶える事が、課せられた責務だと思い当たる。思えば、再び立ち上がる程に力は取り戻された。
「本当に、君には助けられた・・・ありがとう、もう大丈夫だ」
 少しだけ気持ちが軽くなった彼は手を差し出す。それに安心したクルーエは涙を拭きながら手を掛け、支えられながら立ち上がる。
「明日からは忙しくなるな・・・言われた通り、もう休む。今日は、本当にありがとう」
「私こそ、ありがとうございます」
 僅かでも二人は気持ちを和らげ、忙しくなる明日に向けて眠る事を選択する。罪悪感は消えず、簡単には眠られないだろう。それでも明日を望んで眠るのであった。
 意識が消える間際、抱いた。元凶を、ステインを復讐心に抱かせた謎の存在に対する、深く強い憎悪を。眠る事を阻害されるほどの強烈に。
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