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霧は晴れ、やがてその実態は明かされゆく
霧雨に消えゆき、けれど託されたもの 前編
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【1】
ザァァァァ・・・
直ぐ傍で、彼にも雨は降り注ぐ。それなのに、彼には遠くで響いている様に聞こえていた。受ける感覚もすらも遠くに。
『身体を濡らす、雨に濡れる感触は気に入ってんだ。はっきり言って、好きだ。雨音は聞いてると、落ち着く、んだよな。だから、気に入ってんだ』
如何でも良さそうに思いを巡らせる。けれど、その日は重みを、身体に纏わり付くような粘り気のような、嫌な感触に心はざわついていた。雨音も耳鳴りを起こすほどに耳障りで鬱陶しく感じて。
『不快、って奴で良いのか?・・・もう、ぐちゃぐちゃだ。訳が、分からねぇ・・・如何したら良い?何をしたら良いんだよ。堪えられねぇよ、こんなの・・・』
抉るような痛みが全身に伝う。実際のそれを忘れてしまう程の激痛に顔を歪ませる。それは後悔、悔恨の念で自身を責め立てていた。身に伝う液体、着色されるそれは果たして何だろうか。
『・・・あいつは雨を嫌ってた、な。何時聞いたか忘れちまったけどよ・・・初めて、俺も雨を嫌いになった気がする・・・もう、如何して良いのか、分かんねぇよ。誰か、教えてくれよ。俺は・・・如何すりゃあ、良いんだ?俺は・・・』
嘆く、叫喚が彼の心中で響く。今にも暴れ出したい気持ちを抱え、それ以上に空虚な感情に囚われて立ち尽くす。周囲に惨たらしき光景が広がる。足元から伝わる忌々しい感触を薄く感じながら、ただ雨を齎す曇天を見上げて放心していた。
広がり、色も変えない空からの雨は絶え間なく、雨音も同じに。霧雨のようで、豪雨に打ち付けられているような感覚に囚われる彼の耳孔の奥にはまだ響いていた。掻き消す事も出来ず、焼き付けられた阿鼻叫喚、覚えのある声での悲鳴と絶叫。それを思い出しては苛まれ、けれど何も出来ずに立ち尽くす。
悲しみに塗れた青年の慟哭、音を響かせないそれは雨音にさえ消されず、何処かへ流されていく。誰にも止められず、ずっと流されていった。
セントガルド城下町が未明の地震に襲われていた頃、トレイドは森林地帯で仕事に取り組んでいた。その内容はこの世界の究明の為の情報集めである。
けれど、それも不振に終わり、その憂さを晴らすように偶々住民から寄せられていた頼みを解消したところであった。
因みにそれは、村の近くに見慣れない魔物を見掛け、不安だから如何にかして欲しいとの事であった。頼まれ、目撃現場へ赴くと確かに、森林地帯では見られないグレディルの亜成体が数体うろついていた。その群れはトレイドを視認するなり襲い掛かり、彼は正当防衛同然に討伐し、村の食料として運んできた次第であった。
運搬し、人と人を繋ぐ架け橋の方へ報告を送った後、唯一の宿屋へ足を運んでいた。
一旦、セントガルドに戻るか、それとも調査や此処での手伝いのような支援を続けようか思案している時、その足が不意に止められた。
「・・・何だ?揺れたのか、今」
そう、微かに足元から感じ取った揺れ。だが、連日の疲労が出たのかと思う程に微小であり、気の所為とも取れた。なので、気にせず歩み出そうとした彼の足が再度止められた。先の違和感で見渡していた目が別の何かを捉えた為に
「あれは・・・子供、か?それも大勢居るな・・・」
微かな騒がしさにも引き寄せられた先には矮躯の集団を発見する。遠目だが幼さを感じ、子供達と判断する。そして、気に留めるに相応しい理由があった。
子供達が一点で集まると言う事は此処、フェリスでは珍しいよりも異変であったのだ。それは、単純に此処で暮らす子供が少数であり、片手で足りるほど。だと言うのに、現在捉えた子供達は明らかに両手では足りない人数であったのだ。
加えて、様子がおかしく、日常と異なる点も加えられて異常事態と察し、すぐさまトレイドは駆け出す。その彼にまた別の展開が訪れ、急遽足を止めた。
「ノラ?」
子供達が居る方向から駆けてきていた人物が道を塞ぐように止まり、その理由と子供達の事情を知っているか尋ねようとした時に正体に気付く。ローレルに居る筈の彼女が目の前に居る事に疑問が抱かれた。
雨具で身を隠し、全身に液体が伝う。それは雨水であり、まだ乾き切っていない。やや乱れたそれの内部の衣服は一見だけでも濡れそぼっている事が分かる。
何時もは耳のように立った茶色い頭髪、顔の多くを隠すように備えられたフードを被る。俯いて立つ様子から緊急事態が起きている事は明白であった。
「如何して此処に居る?何かあったのか?ガリードは居ない様だが・・・」
加えて見慣れない子供達の集団、駆け寄っていく大人達の様子からも洞察して問い掛ける。受けた彼女はフードで半分隠れた顔を上げる。普段から見られない辛気臭い表情を浮かべていた。
「・・・来て。他の人には、もう伝えているから・・・」
冷めて震えた声、悲しみに囚われた彼女の声にトレイドは言葉を噤んだ。緊急事態、それは疑う余地は無いと判断して頷く。すると彼女は案内すると言うように駆け出す。続いたその先はレイホースの賃貸屋。
定員に対し、余分な話はせず、料金を払って早急にレイホースを借り受ける。そのまま、余計な会話を挟まないまま乗り込む。
「ローレルに、行って」
「分かった」
行先を告げられると、酷だがレイホースに無茶を強いて全力で走らせた。村の外れを沿うように駆け出させたトレイドは横目で子供達を確認した。集まり、案じる大人達とは別の者数人が駆け寄っていく光景を捉える。
彼女が先に言ったように、人と人を繋ぐ架け橋の者か。確認し辛かったが、子供達の多くが混乱を示し、涙を伝わせていた。ただの悲しみではなく、一心不乱に泣き喚く様は尋常ではない。そこからも想像以上の状況だと判断、手綱を強く握り、深刻な面で前方に挑んだ。
様々な植物に囲まれた道を、跨ったレイホースに無茶をさせて疾駆させる。それで身体に枝葉が接触し、傷を作ろうとも構わず。
険しき表情で前方を睨み、後方で腰に腕を回すノラに一言すらも話し掛けず、一切の会話を、呼び出した理由すらも問わなかった。出発する時に見た、何時に無く悲しい瞳と濡れそぼった姿から深い悲しみを感じ、それ以上の詮索が憚れていた。
それでも、予測は立てられていた。立ってしまっていた。人が黙する理由を、大勢の子供の理由を、涙の理由を。胸騒ぎ処か、確信すらも抱き、けれどそれを否定し、変えようとするようにローレルへとレイホースに全力を出させる。響く疾駆の音、激しく切れる呼吸の音が聞こえ続けるのだが、それでも懸念は紛れてくれなかった。
やがて、トレイド達の視界が、木々の海から泥濘に淀む沼に移行する。森林地帯から飛び出した彼等を歓迎する鬱々とする小雨。雨具など所持しないトレイドは直ぐにも顔を始めとする素肌は濡れ、衣服や防具も冷たさを纏う。それを振り切るように、目印へ、沼地の村に続く道標を目指して走らせ続ける。
風と雨に体温が微々と奪われゆく中、トレイドは思った。この時の雨が何時も以上に強く感じた。走らせている訳ではない。誰かの感情が混じったかのように、強く纏わり付くようだと。
それは強ち間違いではないだろう。彼の後ろ、雨に紛れて涙が伝っていた。その事に気付けず、彼は振動と揺れが大きくなるレイホースの手綱を繰っていた。
【2】
細やかな雨に隠れるように、ローレルの村は密やかに並ぶ。巨大になりつつあると言うのに、この日は泥濘に呑み込まれるようにひっそりと建ち並んでいた。
村の輪郭が見え出した頃からレイホースの速度は落とされた。それはレイホース自体が何かを気取り、素振りを以って接近を嫌がったから。同時にトレイドも違和感に気付く。村から漂う気配。そして、雨に紛れそうな微かに漂ってきた異臭と地面に伝っている僅かな赤。
確かな異変、息を呑むような異常を前に彼は覚悟を決め、難しき顔でレイホースを急がせた。嫌がろうともさせる事を悪く思いながらも、動揺で微かに息を切らし、高い目線を保ったまま村を凝視し続けた。
遠くから望める其処を進むにつれ、異変は明確にされていく。漂う空気、伝い広がる色の正体、雨音が耳に残るほどの異様な静けさも。
踏み込む前から訪れる、絶句、いや吐き気を催す惨景が広がっていた。赤と異臭の塊で包み込まれた村の中は立ち入るに躊躇しかしない。降り立てば怖気立つ感触を感じ、尚更に顔は強張った。
「・・・彼は、子供達を・・・皆を助けようと、しただけ・・・だから、悪くないの。誰も、悪い筈が、ないの・・・」
暫く縫い付けていたほどに静かだった彼女が発した声は雨に消えそうなほどに辛く響いた。絞り出した声に酷き悲嘆を感じる。降り立ったトレイドはまだレイホースに跨る彼女を見る。
何時も無表情に映る顔が今にも涙を流しそうなほどの陰気が纏われる。ゆっくりと座る位置を変え、弱々しく手綱を握る。遠く、村の中央を眺める彼女の横顔、雨で濡れて号泣している様に映って。
「・・・一度、戻る。子供達が、心配だから・・・」
返答を待たず、彼女はレイホースを繰って道を引き返していく。目の前に広がっていた現実に逃げるように、けれど向き合う為に彼女は立ち去る。その後ろ姿を見送ったトレイドは村の中央を望んだ。
閑寂とする建物達が道を囲み、埋もれた道の上を進む彼は顔を険しくさせたまま進む。其処に居るであろう友人を探して。その道中、見慣れない者達を見掛けた。其処に彼は居らず、居ない事を願った。
数分も掛けずに村の中心付近に辿り着く。中心だけあって広場として機能していたようだ。そんな場所に多少見掛けた者が数人。以前迷惑を掛けてしまった者の一人、ナルナッドも居て。
「・・・お前は・・・」
絶望に彩られた顔、惨たらしい色と防具と武器を染め、疲労感と苦痛で歪む。それ以上に喪失感を示す。
その彼に小さく反応した後、彼等が視線の先へ向かう。中心に向かえば向かう程に、烈度は増していた。
先に言ってしまえば、此処にあの時の地震の影響はない。あれはセントガルド城下町を標的とした極地的、限定的に引き起こされたもの。けれど、それの余波を浴びたかのように酷い有様であった。
この村の中、細かなしとしととした降雨に妨げられても、強烈な異臭、咽るほどの臭気は薄れなかった。その悪臭、血の匂いでしかなく。
今や、並べた石畳が見えない道、雨音とは別の落下する音が響く。至る所から心音を揺るがすような音が木霊するように。雨音に包まれた静寂の中、冷静に見えても動悸が聞こえるほどに、早鐘がトレイドの胸中で鳴らされる。それも、唐突に消えていく雨音と共に聞こえなくなった。
彼を見て、全ての音が鎮静したかのように無音に近くなり、視野も更に狭まった。無論、弱々しい雨は降り続き、彼等の周囲に広がる現実は変わる事はない。
彼は、その中心部で目立つような高所で立ち尽くしていた。青の頭髪、褐色の肌を有した武装した青年。彼を象徴する随分と太き刀身の剣を右手に提げ、虚空を見上げて無言で佇む。その身は赤、雨で濡れそぼる上に粘り気を持った液体で汚す。滑らかでどす黒い光沢を放つその液体が彼を苦しめるように。
小雨が降る中、強烈な感情を漂わせて立ち尽くす彼。濡れ、霞むような程の悲愴感を放つ彼の正体、トレイドは良く知っていた。飽き飽きするほどに。
後方から彼に近寄り、距離を置いて立ち止まる。沈黙して立ち尽くす彼に話し掛けず、ただ黙って眺めるのみ。聞こえてこない雨音と細やかな雨に包まれながら、彼から視線を逸らさないトレイドの耳に声が届く。哀傷と寂寥の混じった姿で佇む彼が発したのだろう。雨に同化する悲しみに満ちる声が、震えながら。
「やっと・・・」
それが、沈黙の堰を切った。ザァァァァ・・・と、心に痛みを伴って染み入るように、全ての音が届いた。
二人の間、足元だけではない。町の外に至るまでに広がるのは、死。横たわり、無造作に、原形を保っていれば、無残に散らかされた、まさに死屍累々たる惨状がローレルに山積していた。それは町の形を変えてしまう程に、戦闘の跡を周囲の建物にも刻み込むほどに。
夥しき量、統一しない様々な魔物の死海が村を埋没させる。固い体毛に覆われている獣、赤や茶色の身体をした物体が横たわる。鱗が表皮包んだ身体の欠片が霧散している。下顎から飛び出て肥大化した二本の牙を持ち、寸胴な身体、細い四肢の生き物の亡骸。背景に同化するような灰色の羽毛をした大きな鳥が落とされていた。
其処には魔物だけでなく、人も飲み込まれていた。空を見上げ、助けを求めて腕を伸ばす。亡骸に埋もれた、男や女。苦しみや痛みに耐え切れず、引っ掻き、全ての爪は剥がれてしまって。
祈りを捧げ縮こまった赤い老体。小さな我が子を抱き庇い、共に息絶えてしまった母の無残な姿。傷だらけの武器を下敷きに、無残な姿と成り果てた戦士達の亡骸は散らばる。無機質な石や鉄、透明なガラスに付着した色が、陰惨さを物語る。
その全ての下に、真紅たる海が広がる。石畳の隙間に滲み入っても溢れては流れ続け、小さな川を描いて地面を滑る。雨が表面を波打たせ、尽きる事も無く。
そして、遺体には欠損している部分が、鋭い歯型や引き裂かれている跡が見られた。原因など考えたくないだろう。
其処に生きている人間は数人しかいない。生き残った人間は数えられるほどしかいない。死の海の上、同一の感情を示して立ち尽くしていた。
どのような言葉も漏れないだろう。其処に呑み込まれた者の苦しみを考えるよりも先に、気分の悪さを優先してしまう惨たらしい光景、残酷絵図。その中央にて、死海に更なる亡骸が積み上げ、その上で彼は居た。
自ずと、その顔は忌憚なき感情を刻んでしまう。此処に訪れた時から理解してしまう光景。現実に起きているのか、夢なのかを疑わしくなる悲惨な結果に、何も言えなくなってしまう。
「・・・やっと、お前の気持ちが、分かった気が、する。目の前で誰かが死んでしまうって、こんなにも、こんなにも・・・ッ!」
雨に流し切れない返り血と内臓の色で汚れた彼、ガリード。それすらも血涙を思わせる姿で立ち尽くし、震える声で語る。抱え込んだ感情をひしひしと感じ取れるそれに、トレイドは顔を歪ませて鈍い痛みを抱く。
声を零した後、ゆっくりと彼は振り返る。顔もまた真っ赤に血塗られ、恰も人間性を失ったかのように映った。頭髪、主に前髪付近は返り血で濡らされ、赤い雫を落とす。それを拭おうとはせず、けれど目元から頬に掛けて色が薄れる。その一筋は涙である筈だ。
長時間雨に晒されている筈が、褪せず、薄れない色を纏った彼に、トレイドは再び歩み寄る。人の遺体を踏まないように、重い足取りで。
傍に寄るまで何も語らず、着いても口は開かれない。視線が合わされないまま、力の限りに食い縛り、悔いに身を震わせる姿を眺める。何かを語ろうとし、それでも喉から出ずに飲み込むばかり。
「・・・此処に住んでた奴、お前もちょっとは知ってるよな?」
「ああ」
絞り出す声、今にも崩れ散りそうな彼と対面して返答する。刺激しないように、静かに。
「俺も、全員知ってる訳じゃ、ねぇけどよ・・・それでもよ・・・」
声は更に震え、憤りと憎しみが滲み出す。絶叫しそうな後悔に顔は歪み行く。想いは、弾けた。
唐突にガリードが動く。トレイドの胸倉に掴み掛かり、嗚咽を繰り返して感情を震わせる。昂り、それでも表現し辛い激情に口は何度も開閉を繰り返した。
「此処の奴は、皆、皆良い人だったんだよッ!!口悪い奴も居た!俺を馬鹿にする奴だって、それでも助けてくれたりした!!何時も俺に無茶な要求を振って、でも頼り甲斐のある奴も居た!!人懐っこいおっさんだって、説教好きな小母ちゃんだって居た!!面倒臭い時もあったけどよ、大変だったけどよ・・・皆、優しかったんだよ・・・ッ!!」
感情のままに叫ぶ。酷き空間の中、先が見えなくなった思い出に対する気持ちを述べる。その大声に生き残った者達は涙腺を緩ませた。
「俺は、馬鹿だからよ、大した事も出来ねぇ!出来る事を、するしかなかった俺を、仲間とか友達として見てくれたんだよ!!頼ってくれたんだよ!!案外、楽しかったんだよ・・・なのに、皆・・・皆、死んじまった!!俺の目の前で!俺の、目の、前で・・・ッ!!」
膨れ上がった悔いに大量の涙を流し、崩れ落ちる。トレイドの胸倉を力強く握ったまま、膝を負って嘆き続ける。悲嘆に暮れる友人に手を伸ばすが、それよりも先に姿勢を戻して叫び出した事に圧倒されて触れられず。
「なぁ、トレイドッ!!俺に、俺に何が出来たと思うッ!?俺が此処に居て、こんな、剣を持って、一体・・・一体、何が出来たと思うッ!?こんな、馬鹿、野郎が、何が、出来て・・・ッ!」
声を張り上げながらも悲しみに殺された声は周囲に響く。彼は一心に慟哭していた。涙する彼の表情は、思い詰め、悲歎に満ちた。全てを嘆き、全てを呪う、顔であった。暮れる彼に話し掛ける事自体が辛い。だが、それが彼が、親友が望む事。双眸を瞑るトレイドは詰りそうになる喉から言葉を捻り出す。慰めの言葉になる事を承知に上で。
「・・・子供達を、助けた、そうノラから聞いた。それに、お前が此処に居るのは、助けようとした。それは見れば・・・」
「違ぇ!!、違ぇんだよッ!!」
首を振り、必死に否定していた。言葉が詰まり、嗚咽が漏れ出す。顔は自身への恨みと悲しみで歪む。
「あんだけ、あんだけ強くなろうとしたのによ!俺は、誰も守れてねぇんだ!何にも出来てねぇ、役立たずだ!!クソ、クソッ!!」
己の無力を嘆き、己を罵倒する彼は話し出す。その時、起きた事を。自身の不甲斐なさを。
【3】
本当に、本当に何でもない一日が始まっていた。前兆など無い、何時も通りの日常が流れていたのだ。
例えば、誰かが笑い、そして怒る。汗を流して頑張っていれば、今日はゆっくりしようと家族と笑っていたり。全員が全員、そうではなかったかも知れない。それでも、続いていくであろう幸せを、心の何処かで感じていた筈なのだ。
それだと言うのに、有り触れた幸せは壊されてしまう。前触れもなく、ただただ残酷に。
元凶はローレルにふらりと現れた。拡張する其処へ漂着するように辿り着いたそれは人であった。警邏していた者が見掛け、一言二言声を掛けた事からそれは間違いなく。
その者は隠していた、己の欲望を。ある日を境に肥大していくそれはもう抑え切れない領域に達していた。それを解き放ち、楽しむには十分の場所に辿り着いていた。そう、都合良く、様々な人が暮らす其処へと。
「如何か、為さったのですか?」
誰かが、様子がおかしいその者に話し掛けた。具合が悪いのかと案じた、善意から。だが、それが最後の弁を切ってしまったのか。
様子がおかしいその者は歪な笑みを浮かべた後、周囲の意識を集める絶叫を響かせた。欲望を体現させ、喜ぶ為の前工程。一瞬で誰かを怖気立たせる声を全力で。
堪らず、恐怖する住民。武器を持ち、警邏する者は警戒して近付いて。そうした意識は次の瞬間、押し寄せる騒動に混乱に巻き込まれてしまった。
絶叫に引き寄せられたと考えるべきか。だが、大よそ、それに帰結させるには得心出来ない異常が押し寄せる。その量、とても生物が織り成したとは思えなかった。動く壁の如く、村を取り囲み、押し潰すように。気付いた者は混乱するしかなかった。
突如、ローレルに魔物の大群が押し寄せてきたのだ。今の今迄存在を悟らせず、且つ有り得ないほどの量と種類が、争わずに一直線に村を目指していたのだ。まるで全ての魔物が徒党を組み、共通意識を持つように。正に異様、それが現実のものかも疑う程に、自身の正気を疑う程の状況が突然に突き付けられたのだ。
目の当たりにした者は混乱に見舞われ、それは瞬く間に村中へ伝播、混沌に落とされてしまった。誰もが逃げ場を求め、逃げきれないと悟れば憤りを、嘆きを、泣き喚いて。けれど、立ち向かう者は、力を持つ者は居る。
混乱の中に光明を、逃げる道を作らんと、非戦闘員に集まり、護衛をすると、退避するように促し、武器を振るって迎撃に努めた。全霊で、しかし数が多過ぎて対処切れない事は見て明らかであった。逃げたい、逃げられないのが現状の為に死力を尽くすしかなかった。
絶体絶命、それでも命を掴もうと足掻く者達の中で閃く。事の発端と思われる、謎の者。それを如何にかすればと。その考えに至れば、手段を選べなかった。死が迫っている中、切迫する状況下では命を奪う事が最も早かった。
武器を振るう。気絶を狙う余裕もなく、真剣を以って斬り裂いた。無防備に、苦しむ姿を見て狂喜する愚者の首を。それが、決め手でもあった。この状況を打開する為の望みだったと言うのに。
ここから先が、ガリードが知る現実。気付けば、更なる混乱に巻き込まれていた。奇妙な統率が取れていた魔物の群れ、それが突然、正気を失った。それは何かの反動のように、人のみならず、友に来襲した他の魔物、同族すらも襲い掛かり、何かを癒さんとしていた。
無論、生物のみならず、視界に入らずとも接触すれば建物を壊す。所かまわず咆哮を上げ、威嚇と怒りの声を上げ、騒然とする。それが新たに魔物を呼び寄せる悪循環を生み、もう地獄と見て間違いない状況下となってしまった。
そうなれば落ち着いて事に挑むなど難しいもの。加え、子供達の泣き声、誰かの悲鳴、避難誘導や戦う声が行き交う。戦える者は戦え、逃げてくれ、生きてくれ、来るな、助けてくれ、悲鳴や泣き声が反響するように四方から身体を叩く、阿鼻叫喚の渦中。ガリードはパニック状態に陥ってしまった。次々と起こる異変を前に、思考が停止してしまった。如何動いて良いのか、考えが追い付かなくなっていたのだ。
だが、彼を責められない。幾ら、戦闘に関する記憶や覚えのない戦い方を体得し、ある程度の戦闘経験を積んだとしても、少し前までは何処にでも居た高校生。差し迫った状況など数えられてしまう程に少ない。ましてや、目の前で誰かが亡くなる事が当たり前な状況など。一概に彼を責められなかった。
とは言え、銀龍の来襲を経て、立ち向かった彼。このままでは拙い、何も考えずに戦うべきだと考えが至ろうとした時であった。
「ガリード!生きていたか!丁度良い、ノラと一緒に子供達を逃がせ!!」
混乱が残る彼に追い打ちを掛けるように、返り血で汚れたイルイットが命令を下す。
「えっ!?いや、俺も・・・」
命令されたとしても戦える身、此処に残って戦うべきだと主張しようとした思いが止まる。その目に、集められた恐怖と不安一杯の子供達が映った。涙で塗れ、離れる事を嫌がる幼子達。傍には数人の親と思しき大人と数人の老人達。
大人達は同じ思いを口にした。せめて子供達だけでも生きて欲しい、その為に護り、逃がして欲しいと。それは、自分達の命を諦め、それでも大切な子供達に生きて欲しい切実な願いであった。
それを受け、彼は声にならない声を響かせ、苦悶した。激しく懊悩した。返す言葉は決まっていても、それでも受け入れたくないと激しく、苦しみ、葛藤した。だが、選ぶしかなかった。
「・・・ノラッ!!」
「分かっている」
思いのままに彼女を呼ぶ。その彼女は言いたい事は全て承知していると、混乱の最中で何とか用意した馬車を繋いだレイホースに跨る。
「俺が進行方向の奴を全部殺す!!だから、着いてこい!!絶対、絶対近付けさせるなよ!!」
「・・・うん」
顔を歪ませ、涙を滲ませて指示し、破裂しそうな感情を乗せて剣を引き抜き、接近してきた魔物を両断する。もう、覚悟は決まった、その裂帛、守るべき子供も怯えさせて。
「頼むぞ、ガリード」
「・・・頼みます」
イルイット、親達が別れを惜しむ間もなく子供達を馬車に押し込むとレイホースは走り出された。その先、ガリードの猛烈な一撃が魔物一体一体を確殺、休む間もなく、次を返り討ちにして進路を開く。慟哭を滲ませながら、村の外を直向に目指す。全ての現実から逃げるように。
彼が迸らせる気迫と攻撃力が為したのか、他の誰かが注意を惹いたのか、子供達は辛くも村の外へ連れ出す事に成功する。村から少し離れれば、魔物に襲われなくなり、追撃も無かった。まるで、その村だけに注意が向かれたかのように。
返り血で身を汚し、欠損部を周辺へ捨てるガリード。村の方角を何度も振り返り、周囲を警戒していた彼は少しだけ気を緩めた。安全ではないが周囲に脅威はない。このままフェリスに送れば子供達だけは助けられる、そんな確信が持てた時、気持ちが揺らいだ。
「・・・如何したの?」
尋ねられても彼の耳に届いていなかった。その頭にはもうローレルに対する気持ちしかなかった。逃亡当然、そう考えた彼はあの瞬間から負い目があった。助けられると判断した今、戻らなければならない、そんな気持ちに支配された。そうなれば、もう足は引き返していた。
「・・・悪い、ノラ。ガキ共を、頼む」
「え?ちょっと・・・」
呼び止める間も無く、ガリードは蹴り出してローレルに引き返していた。その背、子供達の呼び止める、不安に塗れた声が届いていたにも関わず。この後、彼女が無事にフェリスへ届けられたのは、後のトレイドや他の者が確認して。
急遽戻ったローレルに戻ったガリードは踏み入って即座に吼えた。魔物にも勝る、憤怒を交え、慙愧を掻き消さんとする声を。その思いのままに剣を振るい、命を一つずつ奪っていった。
彼が戻ってから村を包んでいた戦闘は熾烈を極めた。誰もが死力を尽くして未曽有の危機に立ち向かい、一人、また一人と命を落とした。その断末魔、絶叫を耳に、ガリードは更に剣に威力を篭めた。何時しか、浴びた返り血が双眸の下を、血涙を描くようになり、それを払うように渾身を発揮し続けた。
そうして、事件は急激に収束していく。それは一時間にも満たない、あっと言う間の惨事。涙に塗れる暇もない、途轍もなく残酷な出来事であった。命が奪われるにはあまりにも酷薄な出来事であった。その中で、立っていたのは彼を含めて数人、戦えた者ばかり。それも、ガリードの参戦が無ければ生存者は居なかったかも知れない。それほどまでに過酷で酷き状況であり、助けようとした者は、住民は残らず、食われたか、引き裂かれたか、潰されたかであった。
そして、今に至るのであった。
【4】
「・・・あいつが居なければ、俺達も生きて、居なかったかも知れない・・・」
「そう、だったのか・・・」
生き残った者に補足説明をされ、悲痛な表情でトレイドは答える。対するガリードは嘆き、己の無力さに悔いて涙を流し続ける。
「もう、もう・・・あいつらは、あのガキ共は親と会えねぇんだ!もう、話す事も出来ねぇし、笑い合う事も出来ねぇ!もう、お互いの笑顔を見せ合う事も出来ねぇんだよ・・・ッ!!そんな思いなんて、させたくなかったのに・・・」
喪わせたくなかった、その思いを吐露する。その苦悩を吐き出す。何もかもが自分の所為だと悩み、涙する。それに否定も肯定も出来る訳がなく。
「なぁ、トレイド。分かっちまうよな?俺も、お前も、もう親に会えねぇ・・・その辛さが、寂しさが、悲しさがッ!!俺以上に、お前も・・・それを、俺が、俺が失わせちまったんだ、奪っちまったんだよッ!!肝心な時に役に立てない、俺が、俺がッ!!間に、合わなったんだ!俺が、弱かったから・・・ッ!!」
慟哭が雨の中に滲む。それにトレイドは胸を痛める。この身が引き裂かれそうな強烈な痛みに顔は歪む。悔しさ、辛さ、悲しみが込み上がる。気持ちは同調しても、それが彼自身の体験した思いと同じとは限らない。そして、それを和らげさせる方法を知らない。悲しむ彼を慰める事が出来ない。黙して受け止め、眺めるしか出来ない。掛ける言葉が浮かばなかった。
「ッ!トレイドッ!!俺に何が出来たと思うッ!?俺がこの村に居て、こんなデカい剣を持って、鍛えて、それなのに、俺に、何が出来たんだ・・・ッ!!」
折っていた膝に力を込めて立ち上がる。焼ける様な罪悪感に突き動かされ、トレイドに食って掛かる様に問い掛ける。己が価値を、守れなかったと嘆く彼は求める。
慰めを欲するような悲痛な顔を前に、トレイドは辛い表情で合わせていた目を僅かの間閉ざした。その瞼の裏に、過去の自分が過ぎっていた。
彼もまたこうなっていた。自暴自棄の手前、悪戯に自分を蔑ろにし続ける空虚な感情に。それを救ってくれたのは、他ならない、今目の前で悲しむ彼である。だからこそ、今嘆き、苦しむ彼に掛けるべき言葉を探す。懸命に、今を乗り越えられる気持ちを呼び覚ます、些細でも確かな台詞を。
「・・・ガリード。少し、移動するぞ」
力の限りに掴まれながらも受け止め、優しく肩を叩いて促す。優しい声にガリードは反応は無いのだが、黙って連れ出されていく。悍ましき死体の山から降り立ち、そのまま遺体が見当たらない場所を目指す。折の、意気消沈した彼は担ぐ剣を引き摺る様に歩む。遺体を傷付けて退かし、僅かに石畳に一筋の線を描きながら惨劇の場から逃げていった。
程無く、比較的被害が少なく、赤に染まっていない場所へ行き着いた二人。浮かない心が作用するのだろう、雨は強まった感覚を味わいながらも。互いに顔を合わせられないまま、トレイドが口を開く。
「・・・ガリード。今は、後悔するな。一旦、忘れろ」
「忘れろって・・・そんな、無理な事を・・・」
「忘れるんだ!そして、思い出せ。お前は何を頼まれた、何を託された?今のお前は、するべき事がある筈だ・・・!」
喪った重みで悲嘆に暮れ、生きる気力さえも失いかねない彼に言い聞かせる。そればかりに囚われないように、嘆く彼の言葉を遮って思い返そうと。
「するべき事・・・そんなの・・・」
正常に判断が下せず、考える事が出来ない彼は困窮するばかり。その顔、生気が見られない。完全に気力を失い、考えを放棄しているように映る。精悍な顔は今は、泣く子供のように。
「ガリード!」
強い口調で否定的な考えしか浮かばない彼を遮る。それに顔が上げられ、トレイドも顔を合わせた。
「お前には、するべき事がある。俺にも、他の誰でもない、お前だけが、出来る事だ。良いか?お前しか出来ないんだ。それを絶対に忘れるな・・・託されたお前なら、出来る筈だ」
「そんなの、ある訳が・・・」
「ガリード、否定するな!悔やむのは後だ!お前が託された事、それを完遂するんだ!!出来ていない事は、お前自身、分かっているだろ!!」
「託された、事・・・」
再三に教えられ、彼は再び向き合う気力を蘇らせようとしていた。雨に紛れ、気付き難いが確かに。
その様を見て、トレイドは踵を返す。この惨状を収束させる為に、まだ絶望の淵に居る彼を置いて立ち去っていった。
彼は、ガリードは決して弱くはない。強さは一概に戦いやそれに繋がる技術や腕力の事を指さない。今は悔いで萎えていたとしても、元々は世話を焼くほどに誰かの為に動ける者。直ぐにも、向き合い、立ち直り、進み出すだろう。
それを信じて立ち去る。その後ろ、確かに彼は逃げ出した同然の託された命に向き合おうとしていた。
【5】
失意の淵を迷うガリードの身は降雨に濡れそぼつ。赤黒きその身は幾分か色合いが落ち、血の臭いも程良く落ちた頃、身を刺すように感じた感触が薄れている事に彼は気付く。
穏やかな雨音の中、既にトレイドが立ち去った事にも気付き、周囲を見渡した。その目が彼女の視線と合った。
「ノラ・・・戻って、いたのか・・・」
傍にはノラが立っていた。無言のまま見守るその顔は少しだけ喜んでいる様に映った。向き合おうとする意思を感じたのだろうか。
「・・・ガキ、共は?」
「大丈夫。フェリスに届けて、人と人を繋ぐ架け橋に任せてきた」
「・・・そうか、悪ぃ・・・」
一方的に任せた事を、重要な役目を一人で任せた事を詫びる。それに彼女は言葉を返さず、ただ黙っていた。
その二人の耳に、数人の、石畳を濡らした雨水を歩む音が入る。その音がした方向を見れば、武装した数人が駆け寄ってきていた。
「君は・・・話は聞いている、後は任せてくれ。君は、十分に、動いた・・・休むんだ」
駆け付けたのは、人と人を繋ぐ架け橋や法と秩序の者達。少ない生き残りの誰かが応援を呼び、事の顛末を伝えていたのだ。把握した彼等はガリードの悲惨で戦慄する姿を見て顔を顰めるが、今にも崩れ落ちそうな顔に心境を察し、そう語り掛けていた。他の者も同じ、手伝え、状況を説明をしろと言った要請を行わなかった。
「他の者から聞く。君の事は大方聞いている。今は、自分の為にも、休め。良いな?」
二の次を言わせず、ガリードを案じて言い聞かせる。確かに、状況確認、検証の為に当事者は多い方が良い。けれど、これ以上追い詰めたくない思いが優先されていた。
「・・・はい」
肩を掴まれて優しく告げられ、応じる、応じるしかなかった。内心では残酷な記憶に塗り潰された場所に居られない、そんな後悔が大きく、それに突き動かされたのかも知れない。
様々な重みで棒のようになった両足で歩こうとする彼を、気遣って弱い手でその背中を押す。少しでも早く、此処から遠ざけさせるように。
遠退く中、ガリードは振り返って遠ざかる村を切なく眺めた。傷心し、思考が一つとして纏まらない彼はまだ崩れそうな表情で。その胸に責任感が、この惨状の処理を、皆を弔わなければならないと義務感に苛まれる。だが、足は動く、押されて進む。少しずつ遠ざかっていく村を三度と振り返り、後悔だけを残して立ち去っていった。
その背、事件を知って訪れた者達はローレルの村に踏み入り、中央区に広がった惨状を目の当たりにして誰もが目を疑っていた。顰め、口を押さえ、目を瞑り、表情は陰り、嗚咽が漏らされた。想像にはしていなかった悲惨な現状に、言葉を失っていた。気を取り直す仕草をしていても言葉は一言たりとも出せなかった。
即座に采配が下される。数人を先導していた者が半数に出直すように手で促した。それを理解し、直ちにレイホースに跨り乗って即急に走り去る。残った数人は哀悼を抱き、この惨状に涙し、ゆっくりと弔う為に同胞の亡骸に手を掛けていった。
ノラに背を押され、雨の中を進んでいく内に彼は自然と自分で歩き出せるようになっていた。生気の無い表情で前方を眺め、ノラに拠って背中に戻された大剣の重みに苦しみながら進む。
その彼にノラは言葉を掛ける事はしない。これ以上気落ちさせないように、自死すらもしかねない彼を止まらせるように。それでも、何かを伝えたくて無気力な彼女は顔に悲しみを描き、沈黙してしまいながら続いていた。
歩み続けていたその先にはレイホースが待たされていた。フェリスとローレルの往来を散々に行わされ、疲労が溜まりに溜まっているが、戻って来たノラを、ガリードを見て姿勢を正した。まるで、後は任せろと言わんばかりに。
そのレイホースの傍に立ったガリードは暫く制止した。雨で更に赤が落ちた彼の面が上げられ、閑散と降り続く雨天を眺める。入り混じり、混沌とした感情を押さえ付けようとし、どうにもならないと息を吐き捨てた。
「・・・なぁ、何で、何も、言わねぇんだ?」
声は村の隅に消えるように呟かれた。雨音すらにも消えそうなほど小さく。その嘆きをノラははっきりと聞き受け、重く暗い表情のままに俯く。
「別に・・・」
彼女に責める気など無かった。だからと言って慰める言葉も今は虚しさを抱かせる。掛ける言葉が見当たらない。故に、何も言えなかった。いや、告げる言葉はあっても、今の彼は更に追い詰めるだけだと噤んでしまっていた。
投げ遣りにも聞こえた声にガリードは振り返る。落胆し過ぎて感情が宿らぬ顔、双眸に液体が伝う。涙か雨か、最早判別が不可能なほど濡れた顔で彼女を見る。遣る瀬無い思いが、瞳から見て取れた。
「・・・俺を、蔑まねぇのか?罵らねぇ、のか?俺は、何も出来なかった・・・助けようと、皆を、助けようとして、誰も・・・救えなかった俺を・・・役立たずな俺を、如何して、何も・・・」
態度こそ冷静なものだが、半ば自暴自棄となって言葉を発する。自己嫌悪に蝕まれ、どうしようもない感情に思考が埋め尽くされてしまう。
「・・・悪ぃ」
抱えた感情を吐き出した事で気持ちは落ち着き、八つ当たりした自身の嫌悪に顔を歪ませ、彼女に当たってしまった事を謝罪する。先以上に気持ちは入り混じって。
「気に、してない・・・」
彼女は小さくそう呟き、表情は暗いまま変化は見られない。だが、そう映っても天候に紛れなくとも、やはり傷付いている事は小さな顎の動きから見えた。
気持ちが少し落ち着き、再びレイホースに向き合ったガリードはこれから如何するべきかを考える。今は休め、そう告げられても休められる訳がない。今の、喪わせてしまった自分にも出来る事を模索するように思考を巡らせる。けれど、まともな答えは導き出せずに、立ち尽くすばかりであった。
食い縛って後悔を浮かべて嘆く彼は再び深い沈黙が流す。雨音が鮮明に聞こえ始め、耳の奥と身体に纏わり付く気持ち悪さが再燃していく。その折りであった、彼女が助けを示した。
「あの子達に・・・会わないの?」
出された彼女の一言にガリードは顕著なほどに反応を示す。動きこそ小さいものだが心臓を掴まれたように、強烈な痛みが胸部に駆け巡った。即座に振り返るのだが、咄嗟に視線を合わせられずに背いてしまう。
「・・・ガキ共に会って、それで俺は、如何すりゃ良いんだ?・・・謝って済む話じゃない。助けられなかった事を告げて、それで、如何なる?」
済んだ事、済んでしまった事、もう終わってしまった事。それを伝える事は双方にとってまさに身を削る思いを抱くのは確実。両方が傷付き、途方に暮れてしまうのは言うまでも無かった。
「・・・伝えるべきなのは、分かっている。伝えなきゃならねぇのも、分かってる。でも、俺は・・・俺は・・・っ!」
悔恨のままを口に出す。自責、守ろうとして守れなかった後悔に自我は揺れ動く。向き合わなければならない現実に苦しみ、涙を伝わせる。何より、もう、家族と合わせられない悔いに苦しんで。
その姿を切なく見つめるノラは空白の後、息を小さく吐いて思いを押し切った。
「・・・頼まれた、皆から。私と貴方は、皆から」
その言葉達はガリードの胸に突き刺さった。告げられた残酷なそれは今の気持ちを揺さぶるには十分であり、反応して彼女の顔を見た。
雨で身体全身を濡らし、濡れて皺だらけとなる衣服で佇む彼女。揺ぎ無く、見つめてくる彼女を見て、錯綜とする感情が滲む声を、声ではない音を滲み出す。
「・・・ああ・・・ああ、そうだ!!頼まれたんだよ、俺は、俺は・・・ッ!!」
親達の、あの村で住んでいた者達の遺言、最後の願い。自分達が残せる唯一の繋がり、それを託されていたのだ。それを思い出し、決壊するように涙が溢れ出した。逃げるように彼女に任せたその願いを思い出し、遺言も子供達の安否すらも忘れていた事を恥じ、放棄しようとしていた事を悔いて感情が溢れ出していた。
全ての思考を中断させる衝動は直ぐにも治まる、いや強引に治めていた。目元を拭い、強引にも止めていたのだ。感情を吐き出した彼の面は幾分か落ち着き、その内心も揺らぎが治まっていた。
「・・・ノラ、今、ガキ達は、何処に居るんだ?」
「・・・フェリスに居ると思う。でも、人と人を繋ぐ架け橋に任せたから、それ以降は、分からない」
「分かった・・・フェリス、だな」
しなければならない事と向き合った彼はそれだけを考えるようにし、レイホースに跨る。その後ろに乗る様にノラに指示し、彼女の手を引いて乗せる。その後にレイホースの操作を始めた。
尚も叫喚したい思いを抱く。己の不甲斐なさは絶えず胸に宿る。その思いを手綱を握る手に篭め、雨煙る沼地を駆け抜けていく。蹄鉄の跡、それを刻み行く。それは彼の慙愧の全てを残すようで、振り続く雨が、泥が隠したとしても消えないだろう。それを示すように、彼の顔は以前として後悔に満ち、後ろのノラも心配が尽きなかった。
ザァァァァ・・・
直ぐ傍で、彼にも雨は降り注ぐ。それなのに、彼には遠くで響いている様に聞こえていた。受ける感覚もすらも遠くに。
『身体を濡らす、雨に濡れる感触は気に入ってんだ。はっきり言って、好きだ。雨音は聞いてると、落ち着く、んだよな。だから、気に入ってんだ』
如何でも良さそうに思いを巡らせる。けれど、その日は重みを、身体に纏わり付くような粘り気のような、嫌な感触に心はざわついていた。雨音も耳鳴りを起こすほどに耳障りで鬱陶しく感じて。
『不快、って奴で良いのか?・・・もう、ぐちゃぐちゃだ。訳が、分からねぇ・・・如何したら良い?何をしたら良いんだよ。堪えられねぇよ、こんなの・・・』
抉るような痛みが全身に伝う。実際のそれを忘れてしまう程の激痛に顔を歪ませる。それは後悔、悔恨の念で自身を責め立てていた。身に伝う液体、着色されるそれは果たして何だろうか。
『・・・あいつは雨を嫌ってた、な。何時聞いたか忘れちまったけどよ・・・初めて、俺も雨を嫌いになった気がする・・・もう、如何して良いのか、分かんねぇよ。誰か、教えてくれよ。俺は・・・如何すりゃあ、良いんだ?俺は・・・』
嘆く、叫喚が彼の心中で響く。今にも暴れ出したい気持ちを抱え、それ以上に空虚な感情に囚われて立ち尽くす。周囲に惨たらしき光景が広がる。足元から伝わる忌々しい感触を薄く感じながら、ただ雨を齎す曇天を見上げて放心していた。
広がり、色も変えない空からの雨は絶え間なく、雨音も同じに。霧雨のようで、豪雨に打ち付けられているような感覚に囚われる彼の耳孔の奥にはまだ響いていた。掻き消す事も出来ず、焼き付けられた阿鼻叫喚、覚えのある声での悲鳴と絶叫。それを思い出しては苛まれ、けれど何も出来ずに立ち尽くす。
悲しみに塗れた青年の慟哭、音を響かせないそれは雨音にさえ消されず、何処かへ流されていく。誰にも止められず、ずっと流されていった。
セントガルド城下町が未明の地震に襲われていた頃、トレイドは森林地帯で仕事に取り組んでいた。その内容はこの世界の究明の為の情報集めである。
けれど、それも不振に終わり、その憂さを晴らすように偶々住民から寄せられていた頼みを解消したところであった。
因みにそれは、村の近くに見慣れない魔物を見掛け、不安だから如何にかして欲しいとの事であった。頼まれ、目撃現場へ赴くと確かに、森林地帯では見られないグレディルの亜成体が数体うろついていた。その群れはトレイドを視認するなり襲い掛かり、彼は正当防衛同然に討伐し、村の食料として運んできた次第であった。
運搬し、人と人を繋ぐ架け橋の方へ報告を送った後、唯一の宿屋へ足を運んでいた。
一旦、セントガルドに戻るか、それとも調査や此処での手伝いのような支援を続けようか思案している時、その足が不意に止められた。
「・・・何だ?揺れたのか、今」
そう、微かに足元から感じ取った揺れ。だが、連日の疲労が出たのかと思う程に微小であり、気の所為とも取れた。なので、気にせず歩み出そうとした彼の足が再度止められた。先の違和感で見渡していた目が別の何かを捉えた為に
「あれは・・・子供、か?それも大勢居るな・・・」
微かな騒がしさにも引き寄せられた先には矮躯の集団を発見する。遠目だが幼さを感じ、子供達と判断する。そして、気に留めるに相応しい理由があった。
子供達が一点で集まると言う事は此処、フェリスでは珍しいよりも異変であったのだ。それは、単純に此処で暮らす子供が少数であり、片手で足りるほど。だと言うのに、現在捉えた子供達は明らかに両手では足りない人数であったのだ。
加えて、様子がおかしく、日常と異なる点も加えられて異常事態と察し、すぐさまトレイドは駆け出す。その彼にまた別の展開が訪れ、急遽足を止めた。
「ノラ?」
子供達が居る方向から駆けてきていた人物が道を塞ぐように止まり、その理由と子供達の事情を知っているか尋ねようとした時に正体に気付く。ローレルに居る筈の彼女が目の前に居る事に疑問が抱かれた。
雨具で身を隠し、全身に液体が伝う。それは雨水であり、まだ乾き切っていない。やや乱れたそれの内部の衣服は一見だけでも濡れそぼっている事が分かる。
何時もは耳のように立った茶色い頭髪、顔の多くを隠すように備えられたフードを被る。俯いて立つ様子から緊急事態が起きている事は明白であった。
「如何して此処に居る?何かあったのか?ガリードは居ない様だが・・・」
加えて見慣れない子供達の集団、駆け寄っていく大人達の様子からも洞察して問い掛ける。受けた彼女はフードで半分隠れた顔を上げる。普段から見られない辛気臭い表情を浮かべていた。
「・・・来て。他の人には、もう伝えているから・・・」
冷めて震えた声、悲しみに囚われた彼女の声にトレイドは言葉を噤んだ。緊急事態、それは疑う余地は無いと判断して頷く。すると彼女は案内すると言うように駆け出す。続いたその先はレイホースの賃貸屋。
定員に対し、余分な話はせず、料金を払って早急にレイホースを借り受ける。そのまま、余計な会話を挟まないまま乗り込む。
「ローレルに、行って」
「分かった」
行先を告げられると、酷だがレイホースに無茶を強いて全力で走らせた。村の外れを沿うように駆け出させたトレイドは横目で子供達を確認した。集まり、案じる大人達とは別の者数人が駆け寄っていく光景を捉える。
彼女が先に言ったように、人と人を繋ぐ架け橋の者か。確認し辛かったが、子供達の多くが混乱を示し、涙を伝わせていた。ただの悲しみではなく、一心不乱に泣き喚く様は尋常ではない。そこからも想像以上の状況だと判断、手綱を強く握り、深刻な面で前方に挑んだ。
様々な植物に囲まれた道を、跨ったレイホースに無茶をさせて疾駆させる。それで身体に枝葉が接触し、傷を作ろうとも構わず。
険しき表情で前方を睨み、後方で腰に腕を回すノラに一言すらも話し掛けず、一切の会話を、呼び出した理由すらも問わなかった。出発する時に見た、何時に無く悲しい瞳と濡れそぼった姿から深い悲しみを感じ、それ以上の詮索が憚れていた。
それでも、予測は立てられていた。立ってしまっていた。人が黙する理由を、大勢の子供の理由を、涙の理由を。胸騒ぎ処か、確信すらも抱き、けれどそれを否定し、変えようとするようにローレルへとレイホースに全力を出させる。響く疾駆の音、激しく切れる呼吸の音が聞こえ続けるのだが、それでも懸念は紛れてくれなかった。
やがて、トレイド達の視界が、木々の海から泥濘に淀む沼に移行する。森林地帯から飛び出した彼等を歓迎する鬱々とする小雨。雨具など所持しないトレイドは直ぐにも顔を始めとする素肌は濡れ、衣服や防具も冷たさを纏う。それを振り切るように、目印へ、沼地の村に続く道標を目指して走らせ続ける。
風と雨に体温が微々と奪われゆく中、トレイドは思った。この時の雨が何時も以上に強く感じた。走らせている訳ではない。誰かの感情が混じったかのように、強く纏わり付くようだと。
それは強ち間違いではないだろう。彼の後ろ、雨に紛れて涙が伝っていた。その事に気付けず、彼は振動と揺れが大きくなるレイホースの手綱を繰っていた。
【2】
細やかな雨に隠れるように、ローレルの村は密やかに並ぶ。巨大になりつつあると言うのに、この日は泥濘に呑み込まれるようにひっそりと建ち並んでいた。
村の輪郭が見え出した頃からレイホースの速度は落とされた。それはレイホース自体が何かを気取り、素振りを以って接近を嫌がったから。同時にトレイドも違和感に気付く。村から漂う気配。そして、雨に紛れそうな微かに漂ってきた異臭と地面に伝っている僅かな赤。
確かな異変、息を呑むような異常を前に彼は覚悟を決め、難しき顔でレイホースを急がせた。嫌がろうともさせる事を悪く思いながらも、動揺で微かに息を切らし、高い目線を保ったまま村を凝視し続けた。
遠くから望める其処を進むにつれ、異変は明確にされていく。漂う空気、伝い広がる色の正体、雨音が耳に残るほどの異様な静けさも。
踏み込む前から訪れる、絶句、いや吐き気を催す惨景が広がっていた。赤と異臭の塊で包み込まれた村の中は立ち入るに躊躇しかしない。降り立てば怖気立つ感触を感じ、尚更に顔は強張った。
「・・・彼は、子供達を・・・皆を助けようと、しただけ・・・だから、悪くないの。誰も、悪い筈が、ないの・・・」
暫く縫い付けていたほどに静かだった彼女が発した声は雨に消えそうなほどに辛く響いた。絞り出した声に酷き悲嘆を感じる。降り立ったトレイドはまだレイホースに跨る彼女を見る。
何時も無表情に映る顔が今にも涙を流しそうなほどの陰気が纏われる。ゆっくりと座る位置を変え、弱々しく手綱を握る。遠く、村の中央を眺める彼女の横顔、雨で濡れて号泣している様に映って。
「・・・一度、戻る。子供達が、心配だから・・・」
返答を待たず、彼女はレイホースを繰って道を引き返していく。目の前に広がっていた現実に逃げるように、けれど向き合う為に彼女は立ち去る。その後ろ姿を見送ったトレイドは村の中央を望んだ。
閑寂とする建物達が道を囲み、埋もれた道の上を進む彼は顔を険しくさせたまま進む。其処に居るであろう友人を探して。その道中、見慣れない者達を見掛けた。其処に彼は居らず、居ない事を願った。
数分も掛けずに村の中心付近に辿り着く。中心だけあって広場として機能していたようだ。そんな場所に多少見掛けた者が数人。以前迷惑を掛けてしまった者の一人、ナルナッドも居て。
「・・・お前は・・・」
絶望に彩られた顔、惨たらしい色と防具と武器を染め、疲労感と苦痛で歪む。それ以上に喪失感を示す。
その彼に小さく反応した後、彼等が視線の先へ向かう。中心に向かえば向かう程に、烈度は増していた。
先に言ってしまえば、此処にあの時の地震の影響はない。あれはセントガルド城下町を標的とした極地的、限定的に引き起こされたもの。けれど、それの余波を浴びたかのように酷い有様であった。
この村の中、細かなしとしととした降雨に妨げられても、強烈な異臭、咽るほどの臭気は薄れなかった。その悪臭、血の匂いでしかなく。
今や、並べた石畳が見えない道、雨音とは別の落下する音が響く。至る所から心音を揺るがすような音が木霊するように。雨音に包まれた静寂の中、冷静に見えても動悸が聞こえるほどに、早鐘がトレイドの胸中で鳴らされる。それも、唐突に消えていく雨音と共に聞こえなくなった。
彼を見て、全ての音が鎮静したかのように無音に近くなり、視野も更に狭まった。無論、弱々しい雨は降り続き、彼等の周囲に広がる現実は変わる事はない。
彼は、その中心部で目立つような高所で立ち尽くしていた。青の頭髪、褐色の肌を有した武装した青年。彼を象徴する随分と太き刀身の剣を右手に提げ、虚空を見上げて無言で佇む。その身は赤、雨で濡れそぼる上に粘り気を持った液体で汚す。滑らかでどす黒い光沢を放つその液体が彼を苦しめるように。
小雨が降る中、強烈な感情を漂わせて立ち尽くす彼。濡れ、霞むような程の悲愴感を放つ彼の正体、トレイドは良く知っていた。飽き飽きするほどに。
後方から彼に近寄り、距離を置いて立ち止まる。沈黙して立ち尽くす彼に話し掛けず、ただ黙って眺めるのみ。聞こえてこない雨音と細やかな雨に包まれながら、彼から視線を逸らさないトレイドの耳に声が届く。哀傷と寂寥の混じった姿で佇む彼が発したのだろう。雨に同化する悲しみに満ちる声が、震えながら。
「やっと・・・」
それが、沈黙の堰を切った。ザァァァァ・・・と、心に痛みを伴って染み入るように、全ての音が届いた。
二人の間、足元だけではない。町の外に至るまでに広がるのは、死。横たわり、無造作に、原形を保っていれば、無残に散らかされた、まさに死屍累々たる惨状がローレルに山積していた。それは町の形を変えてしまう程に、戦闘の跡を周囲の建物にも刻み込むほどに。
夥しき量、統一しない様々な魔物の死海が村を埋没させる。固い体毛に覆われている獣、赤や茶色の身体をした物体が横たわる。鱗が表皮包んだ身体の欠片が霧散している。下顎から飛び出て肥大化した二本の牙を持ち、寸胴な身体、細い四肢の生き物の亡骸。背景に同化するような灰色の羽毛をした大きな鳥が落とされていた。
其処には魔物だけでなく、人も飲み込まれていた。空を見上げ、助けを求めて腕を伸ばす。亡骸に埋もれた、男や女。苦しみや痛みに耐え切れず、引っ掻き、全ての爪は剥がれてしまって。
祈りを捧げ縮こまった赤い老体。小さな我が子を抱き庇い、共に息絶えてしまった母の無残な姿。傷だらけの武器を下敷きに、無残な姿と成り果てた戦士達の亡骸は散らばる。無機質な石や鉄、透明なガラスに付着した色が、陰惨さを物語る。
その全ての下に、真紅たる海が広がる。石畳の隙間に滲み入っても溢れては流れ続け、小さな川を描いて地面を滑る。雨が表面を波打たせ、尽きる事も無く。
そして、遺体には欠損している部分が、鋭い歯型や引き裂かれている跡が見られた。原因など考えたくないだろう。
其処に生きている人間は数人しかいない。生き残った人間は数えられるほどしかいない。死の海の上、同一の感情を示して立ち尽くしていた。
どのような言葉も漏れないだろう。其処に呑み込まれた者の苦しみを考えるよりも先に、気分の悪さを優先してしまう惨たらしい光景、残酷絵図。その中央にて、死海に更なる亡骸が積み上げ、その上で彼は居た。
自ずと、その顔は忌憚なき感情を刻んでしまう。此処に訪れた時から理解してしまう光景。現実に起きているのか、夢なのかを疑わしくなる悲惨な結果に、何も言えなくなってしまう。
「・・・やっと、お前の気持ちが、分かった気が、する。目の前で誰かが死んでしまうって、こんなにも、こんなにも・・・ッ!」
雨に流し切れない返り血と内臓の色で汚れた彼、ガリード。それすらも血涙を思わせる姿で立ち尽くし、震える声で語る。抱え込んだ感情をひしひしと感じ取れるそれに、トレイドは顔を歪ませて鈍い痛みを抱く。
声を零した後、ゆっくりと彼は振り返る。顔もまた真っ赤に血塗られ、恰も人間性を失ったかのように映った。頭髪、主に前髪付近は返り血で濡らされ、赤い雫を落とす。それを拭おうとはせず、けれど目元から頬に掛けて色が薄れる。その一筋は涙である筈だ。
長時間雨に晒されている筈が、褪せず、薄れない色を纏った彼に、トレイドは再び歩み寄る。人の遺体を踏まないように、重い足取りで。
傍に寄るまで何も語らず、着いても口は開かれない。視線が合わされないまま、力の限りに食い縛り、悔いに身を震わせる姿を眺める。何かを語ろうとし、それでも喉から出ずに飲み込むばかり。
「・・・此処に住んでた奴、お前もちょっとは知ってるよな?」
「ああ」
絞り出す声、今にも崩れ散りそうな彼と対面して返答する。刺激しないように、静かに。
「俺も、全員知ってる訳じゃ、ねぇけどよ・・・それでもよ・・・」
声は更に震え、憤りと憎しみが滲み出す。絶叫しそうな後悔に顔は歪み行く。想いは、弾けた。
唐突にガリードが動く。トレイドの胸倉に掴み掛かり、嗚咽を繰り返して感情を震わせる。昂り、それでも表現し辛い激情に口は何度も開閉を繰り返した。
「此処の奴は、皆、皆良い人だったんだよッ!!口悪い奴も居た!俺を馬鹿にする奴だって、それでも助けてくれたりした!!何時も俺に無茶な要求を振って、でも頼り甲斐のある奴も居た!!人懐っこいおっさんだって、説教好きな小母ちゃんだって居た!!面倒臭い時もあったけどよ、大変だったけどよ・・・皆、優しかったんだよ・・・ッ!!」
感情のままに叫ぶ。酷き空間の中、先が見えなくなった思い出に対する気持ちを述べる。その大声に生き残った者達は涙腺を緩ませた。
「俺は、馬鹿だからよ、大した事も出来ねぇ!出来る事を、するしかなかった俺を、仲間とか友達として見てくれたんだよ!!頼ってくれたんだよ!!案外、楽しかったんだよ・・・なのに、皆・・・皆、死んじまった!!俺の目の前で!俺の、目の、前で・・・ッ!!」
膨れ上がった悔いに大量の涙を流し、崩れ落ちる。トレイドの胸倉を力強く握ったまま、膝を負って嘆き続ける。悲嘆に暮れる友人に手を伸ばすが、それよりも先に姿勢を戻して叫び出した事に圧倒されて触れられず。
「なぁ、トレイドッ!!俺に、俺に何が出来たと思うッ!?俺が此処に居て、こんな、剣を持って、一体・・・一体、何が出来たと思うッ!?こんな、馬鹿、野郎が、何が、出来て・・・ッ!」
声を張り上げながらも悲しみに殺された声は周囲に響く。彼は一心に慟哭していた。涙する彼の表情は、思い詰め、悲歎に満ちた。全てを嘆き、全てを呪う、顔であった。暮れる彼に話し掛ける事自体が辛い。だが、それが彼が、親友が望む事。双眸を瞑るトレイドは詰りそうになる喉から言葉を捻り出す。慰めの言葉になる事を承知に上で。
「・・・子供達を、助けた、そうノラから聞いた。それに、お前が此処に居るのは、助けようとした。それは見れば・・・」
「違ぇ!!、違ぇんだよッ!!」
首を振り、必死に否定していた。言葉が詰まり、嗚咽が漏れ出す。顔は自身への恨みと悲しみで歪む。
「あんだけ、あんだけ強くなろうとしたのによ!俺は、誰も守れてねぇんだ!何にも出来てねぇ、役立たずだ!!クソ、クソッ!!」
己の無力を嘆き、己を罵倒する彼は話し出す。その時、起きた事を。自身の不甲斐なさを。
【3】
本当に、本当に何でもない一日が始まっていた。前兆など無い、何時も通りの日常が流れていたのだ。
例えば、誰かが笑い、そして怒る。汗を流して頑張っていれば、今日はゆっくりしようと家族と笑っていたり。全員が全員、そうではなかったかも知れない。それでも、続いていくであろう幸せを、心の何処かで感じていた筈なのだ。
それだと言うのに、有り触れた幸せは壊されてしまう。前触れもなく、ただただ残酷に。
元凶はローレルにふらりと現れた。拡張する其処へ漂着するように辿り着いたそれは人であった。警邏していた者が見掛け、一言二言声を掛けた事からそれは間違いなく。
その者は隠していた、己の欲望を。ある日を境に肥大していくそれはもう抑え切れない領域に達していた。それを解き放ち、楽しむには十分の場所に辿り着いていた。そう、都合良く、様々な人が暮らす其処へと。
「如何か、為さったのですか?」
誰かが、様子がおかしいその者に話し掛けた。具合が悪いのかと案じた、善意から。だが、それが最後の弁を切ってしまったのか。
様子がおかしいその者は歪な笑みを浮かべた後、周囲の意識を集める絶叫を響かせた。欲望を体現させ、喜ぶ為の前工程。一瞬で誰かを怖気立たせる声を全力で。
堪らず、恐怖する住民。武器を持ち、警邏する者は警戒して近付いて。そうした意識は次の瞬間、押し寄せる騒動に混乱に巻き込まれてしまった。
絶叫に引き寄せられたと考えるべきか。だが、大よそ、それに帰結させるには得心出来ない異常が押し寄せる。その量、とても生物が織り成したとは思えなかった。動く壁の如く、村を取り囲み、押し潰すように。気付いた者は混乱するしかなかった。
突如、ローレルに魔物の大群が押し寄せてきたのだ。今の今迄存在を悟らせず、且つ有り得ないほどの量と種類が、争わずに一直線に村を目指していたのだ。まるで全ての魔物が徒党を組み、共通意識を持つように。正に異様、それが現実のものかも疑う程に、自身の正気を疑う程の状況が突然に突き付けられたのだ。
目の当たりにした者は混乱に見舞われ、それは瞬く間に村中へ伝播、混沌に落とされてしまった。誰もが逃げ場を求め、逃げきれないと悟れば憤りを、嘆きを、泣き喚いて。けれど、立ち向かう者は、力を持つ者は居る。
混乱の中に光明を、逃げる道を作らんと、非戦闘員に集まり、護衛をすると、退避するように促し、武器を振るって迎撃に努めた。全霊で、しかし数が多過ぎて対処切れない事は見て明らかであった。逃げたい、逃げられないのが現状の為に死力を尽くすしかなかった。
絶体絶命、それでも命を掴もうと足掻く者達の中で閃く。事の発端と思われる、謎の者。それを如何にかすればと。その考えに至れば、手段を選べなかった。死が迫っている中、切迫する状況下では命を奪う事が最も早かった。
武器を振るう。気絶を狙う余裕もなく、真剣を以って斬り裂いた。無防備に、苦しむ姿を見て狂喜する愚者の首を。それが、決め手でもあった。この状況を打開する為の望みだったと言うのに。
ここから先が、ガリードが知る現実。気付けば、更なる混乱に巻き込まれていた。奇妙な統率が取れていた魔物の群れ、それが突然、正気を失った。それは何かの反動のように、人のみならず、友に来襲した他の魔物、同族すらも襲い掛かり、何かを癒さんとしていた。
無論、生物のみならず、視界に入らずとも接触すれば建物を壊す。所かまわず咆哮を上げ、威嚇と怒りの声を上げ、騒然とする。それが新たに魔物を呼び寄せる悪循環を生み、もう地獄と見て間違いない状況下となってしまった。
そうなれば落ち着いて事に挑むなど難しいもの。加え、子供達の泣き声、誰かの悲鳴、避難誘導や戦う声が行き交う。戦える者は戦え、逃げてくれ、生きてくれ、来るな、助けてくれ、悲鳴や泣き声が反響するように四方から身体を叩く、阿鼻叫喚の渦中。ガリードはパニック状態に陥ってしまった。次々と起こる異変を前に、思考が停止してしまった。如何動いて良いのか、考えが追い付かなくなっていたのだ。
だが、彼を責められない。幾ら、戦闘に関する記憶や覚えのない戦い方を体得し、ある程度の戦闘経験を積んだとしても、少し前までは何処にでも居た高校生。差し迫った状況など数えられてしまう程に少ない。ましてや、目の前で誰かが亡くなる事が当たり前な状況など。一概に彼を責められなかった。
とは言え、銀龍の来襲を経て、立ち向かった彼。このままでは拙い、何も考えずに戦うべきだと考えが至ろうとした時であった。
「ガリード!生きていたか!丁度良い、ノラと一緒に子供達を逃がせ!!」
混乱が残る彼に追い打ちを掛けるように、返り血で汚れたイルイットが命令を下す。
「えっ!?いや、俺も・・・」
命令されたとしても戦える身、此処に残って戦うべきだと主張しようとした思いが止まる。その目に、集められた恐怖と不安一杯の子供達が映った。涙で塗れ、離れる事を嫌がる幼子達。傍には数人の親と思しき大人と数人の老人達。
大人達は同じ思いを口にした。せめて子供達だけでも生きて欲しい、その為に護り、逃がして欲しいと。それは、自分達の命を諦め、それでも大切な子供達に生きて欲しい切実な願いであった。
それを受け、彼は声にならない声を響かせ、苦悶した。激しく懊悩した。返す言葉は決まっていても、それでも受け入れたくないと激しく、苦しみ、葛藤した。だが、選ぶしかなかった。
「・・・ノラッ!!」
「分かっている」
思いのままに彼女を呼ぶ。その彼女は言いたい事は全て承知していると、混乱の最中で何とか用意した馬車を繋いだレイホースに跨る。
「俺が進行方向の奴を全部殺す!!だから、着いてこい!!絶対、絶対近付けさせるなよ!!」
「・・・うん」
顔を歪ませ、涙を滲ませて指示し、破裂しそうな感情を乗せて剣を引き抜き、接近してきた魔物を両断する。もう、覚悟は決まった、その裂帛、守るべき子供も怯えさせて。
「頼むぞ、ガリード」
「・・・頼みます」
イルイット、親達が別れを惜しむ間もなく子供達を馬車に押し込むとレイホースは走り出された。その先、ガリードの猛烈な一撃が魔物一体一体を確殺、休む間もなく、次を返り討ちにして進路を開く。慟哭を滲ませながら、村の外を直向に目指す。全ての現実から逃げるように。
彼が迸らせる気迫と攻撃力が為したのか、他の誰かが注意を惹いたのか、子供達は辛くも村の外へ連れ出す事に成功する。村から少し離れれば、魔物に襲われなくなり、追撃も無かった。まるで、その村だけに注意が向かれたかのように。
返り血で身を汚し、欠損部を周辺へ捨てるガリード。村の方角を何度も振り返り、周囲を警戒していた彼は少しだけ気を緩めた。安全ではないが周囲に脅威はない。このままフェリスに送れば子供達だけは助けられる、そんな確信が持てた時、気持ちが揺らいだ。
「・・・如何したの?」
尋ねられても彼の耳に届いていなかった。その頭にはもうローレルに対する気持ちしかなかった。逃亡当然、そう考えた彼はあの瞬間から負い目があった。助けられると判断した今、戻らなければならない、そんな気持ちに支配された。そうなれば、もう足は引き返していた。
「・・・悪い、ノラ。ガキ共を、頼む」
「え?ちょっと・・・」
呼び止める間も無く、ガリードは蹴り出してローレルに引き返していた。その背、子供達の呼び止める、不安に塗れた声が届いていたにも関わず。この後、彼女が無事にフェリスへ届けられたのは、後のトレイドや他の者が確認して。
急遽戻ったローレルに戻ったガリードは踏み入って即座に吼えた。魔物にも勝る、憤怒を交え、慙愧を掻き消さんとする声を。その思いのままに剣を振るい、命を一つずつ奪っていった。
彼が戻ってから村を包んでいた戦闘は熾烈を極めた。誰もが死力を尽くして未曽有の危機に立ち向かい、一人、また一人と命を落とした。その断末魔、絶叫を耳に、ガリードは更に剣に威力を篭めた。何時しか、浴びた返り血が双眸の下を、血涙を描くようになり、それを払うように渾身を発揮し続けた。
そうして、事件は急激に収束していく。それは一時間にも満たない、あっと言う間の惨事。涙に塗れる暇もない、途轍もなく残酷な出来事であった。命が奪われるにはあまりにも酷薄な出来事であった。その中で、立っていたのは彼を含めて数人、戦えた者ばかり。それも、ガリードの参戦が無ければ生存者は居なかったかも知れない。それほどまでに過酷で酷き状況であり、助けようとした者は、住民は残らず、食われたか、引き裂かれたか、潰されたかであった。
そして、今に至るのであった。
【4】
「・・・あいつが居なければ、俺達も生きて、居なかったかも知れない・・・」
「そう、だったのか・・・」
生き残った者に補足説明をされ、悲痛な表情でトレイドは答える。対するガリードは嘆き、己の無力さに悔いて涙を流し続ける。
「もう、もう・・・あいつらは、あのガキ共は親と会えねぇんだ!もう、話す事も出来ねぇし、笑い合う事も出来ねぇ!もう、お互いの笑顔を見せ合う事も出来ねぇんだよ・・・ッ!!そんな思いなんて、させたくなかったのに・・・」
喪わせたくなかった、その思いを吐露する。その苦悩を吐き出す。何もかもが自分の所為だと悩み、涙する。それに否定も肯定も出来る訳がなく。
「なぁ、トレイド。分かっちまうよな?俺も、お前も、もう親に会えねぇ・・・その辛さが、寂しさが、悲しさがッ!!俺以上に、お前も・・・それを、俺が、俺が失わせちまったんだ、奪っちまったんだよッ!!肝心な時に役に立てない、俺が、俺がッ!!間に、合わなったんだ!俺が、弱かったから・・・ッ!!」
慟哭が雨の中に滲む。それにトレイドは胸を痛める。この身が引き裂かれそうな強烈な痛みに顔は歪む。悔しさ、辛さ、悲しみが込み上がる。気持ちは同調しても、それが彼自身の体験した思いと同じとは限らない。そして、それを和らげさせる方法を知らない。悲しむ彼を慰める事が出来ない。黙して受け止め、眺めるしか出来ない。掛ける言葉が浮かばなかった。
「ッ!トレイドッ!!俺に何が出来たと思うッ!?俺がこの村に居て、こんなデカい剣を持って、鍛えて、それなのに、俺に、何が出来たんだ・・・ッ!!」
折っていた膝に力を込めて立ち上がる。焼ける様な罪悪感に突き動かされ、トレイドに食って掛かる様に問い掛ける。己が価値を、守れなかったと嘆く彼は求める。
慰めを欲するような悲痛な顔を前に、トレイドは辛い表情で合わせていた目を僅かの間閉ざした。その瞼の裏に、過去の自分が過ぎっていた。
彼もまたこうなっていた。自暴自棄の手前、悪戯に自分を蔑ろにし続ける空虚な感情に。それを救ってくれたのは、他ならない、今目の前で悲しむ彼である。だからこそ、今嘆き、苦しむ彼に掛けるべき言葉を探す。懸命に、今を乗り越えられる気持ちを呼び覚ます、些細でも確かな台詞を。
「・・・ガリード。少し、移動するぞ」
力の限りに掴まれながらも受け止め、優しく肩を叩いて促す。優しい声にガリードは反応は無いのだが、黙って連れ出されていく。悍ましき死体の山から降り立ち、そのまま遺体が見当たらない場所を目指す。折の、意気消沈した彼は担ぐ剣を引き摺る様に歩む。遺体を傷付けて退かし、僅かに石畳に一筋の線を描きながら惨劇の場から逃げていった。
程無く、比較的被害が少なく、赤に染まっていない場所へ行き着いた二人。浮かない心が作用するのだろう、雨は強まった感覚を味わいながらも。互いに顔を合わせられないまま、トレイドが口を開く。
「・・・ガリード。今は、後悔するな。一旦、忘れろ」
「忘れろって・・・そんな、無理な事を・・・」
「忘れるんだ!そして、思い出せ。お前は何を頼まれた、何を託された?今のお前は、するべき事がある筈だ・・・!」
喪った重みで悲嘆に暮れ、生きる気力さえも失いかねない彼に言い聞かせる。そればかりに囚われないように、嘆く彼の言葉を遮って思い返そうと。
「するべき事・・・そんなの・・・」
正常に判断が下せず、考える事が出来ない彼は困窮するばかり。その顔、生気が見られない。完全に気力を失い、考えを放棄しているように映る。精悍な顔は今は、泣く子供のように。
「ガリード!」
強い口調で否定的な考えしか浮かばない彼を遮る。それに顔が上げられ、トレイドも顔を合わせた。
「お前には、するべき事がある。俺にも、他の誰でもない、お前だけが、出来る事だ。良いか?お前しか出来ないんだ。それを絶対に忘れるな・・・託されたお前なら、出来る筈だ」
「そんなの、ある訳が・・・」
「ガリード、否定するな!悔やむのは後だ!お前が託された事、それを完遂するんだ!!出来ていない事は、お前自身、分かっているだろ!!」
「託された、事・・・」
再三に教えられ、彼は再び向き合う気力を蘇らせようとしていた。雨に紛れ、気付き難いが確かに。
その様を見て、トレイドは踵を返す。この惨状を収束させる為に、まだ絶望の淵に居る彼を置いて立ち去っていった。
彼は、ガリードは決して弱くはない。強さは一概に戦いやそれに繋がる技術や腕力の事を指さない。今は悔いで萎えていたとしても、元々は世話を焼くほどに誰かの為に動ける者。直ぐにも、向き合い、立ち直り、進み出すだろう。
それを信じて立ち去る。その後ろ、確かに彼は逃げ出した同然の託された命に向き合おうとしていた。
【5】
失意の淵を迷うガリードの身は降雨に濡れそぼつ。赤黒きその身は幾分か色合いが落ち、血の臭いも程良く落ちた頃、身を刺すように感じた感触が薄れている事に彼は気付く。
穏やかな雨音の中、既にトレイドが立ち去った事にも気付き、周囲を見渡した。その目が彼女の視線と合った。
「ノラ・・・戻って、いたのか・・・」
傍にはノラが立っていた。無言のまま見守るその顔は少しだけ喜んでいる様に映った。向き合おうとする意思を感じたのだろうか。
「・・・ガキ、共は?」
「大丈夫。フェリスに届けて、人と人を繋ぐ架け橋に任せてきた」
「・・・そうか、悪ぃ・・・」
一方的に任せた事を、重要な役目を一人で任せた事を詫びる。それに彼女は言葉を返さず、ただ黙っていた。
その二人の耳に、数人の、石畳を濡らした雨水を歩む音が入る。その音がした方向を見れば、武装した数人が駆け寄ってきていた。
「君は・・・話は聞いている、後は任せてくれ。君は、十分に、動いた・・・休むんだ」
駆け付けたのは、人と人を繋ぐ架け橋や法と秩序の者達。少ない生き残りの誰かが応援を呼び、事の顛末を伝えていたのだ。把握した彼等はガリードの悲惨で戦慄する姿を見て顔を顰めるが、今にも崩れ落ちそうな顔に心境を察し、そう語り掛けていた。他の者も同じ、手伝え、状況を説明をしろと言った要請を行わなかった。
「他の者から聞く。君の事は大方聞いている。今は、自分の為にも、休め。良いな?」
二の次を言わせず、ガリードを案じて言い聞かせる。確かに、状況確認、検証の為に当事者は多い方が良い。けれど、これ以上追い詰めたくない思いが優先されていた。
「・・・はい」
肩を掴まれて優しく告げられ、応じる、応じるしかなかった。内心では残酷な記憶に塗り潰された場所に居られない、そんな後悔が大きく、それに突き動かされたのかも知れない。
様々な重みで棒のようになった両足で歩こうとする彼を、気遣って弱い手でその背中を押す。少しでも早く、此処から遠ざけさせるように。
遠退く中、ガリードは振り返って遠ざかる村を切なく眺めた。傷心し、思考が一つとして纏まらない彼はまだ崩れそうな表情で。その胸に責任感が、この惨状の処理を、皆を弔わなければならないと義務感に苛まれる。だが、足は動く、押されて進む。少しずつ遠ざかっていく村を三度と振り返り、後悔だけを残して立ち去っていった。
その背、事件を知って訪れた者達はローレルの村に踏み入り、中央区に広がった惨状を目の当たりにして誰もが目を疑っていた。顰め、口を押さえ、目を瞑り、表情は陰り、嗚咽が漏らされた。想像にはしていなかった悲惨な現状に、言葉を失っていた。気を取り直す仕草をしていても言葉は一言たりとも出せなかった。
即座に采配が下される。数人を先導していた者が半数に出直すように手で促した。それを理解し、直ちにレイホースに跨り乗って即急に走り去る。残った数人は哀悼を抱き、この惨状に涙し、ゆっくりと弔う為に同胞の亡骸に手を掛けていった。
ノラに背を押され、雨の中を進んでいく内に彼は自然と自分で歩き出せるようになっていた。生気の無い表情で前方を眺め、ノラに拠って背中に戻された大剣の重みに苦しみながら進む。
その彼にノラは言葉を掛ける事はしない。これ以上気落ちさせないように、自死すらもしかねない彼を止まらせるように。それでも、何かを伝えたくて無気力な彼女は顔に悲しみを描き、沈黙してしまいながら続いていた。
歩み続けていたその先にはレイホースが待たされていた。フェリスとローレルの往来を散々に行わされ、疲労が溜まりに溜まっているが、戻って来たノラを、ガリードを見て姿勢を正した。まるで、後は任せろと言わんばかりに。
そのレイホースの傍に立ったガリードは暫く制止した。雨で更に赤が落ちた彼の面が上げられ、閑散と降り続く雨天を眺める。入り混じり、混沌とした感情を押さえ付けようとし、どうにもならないと息を吐き捨てた。
「・・・なぁ、何で、何も、言わねぇんだ?」
声は村の隅に消えるように呟かれた。雨音すらにも消えそうなほど小さく。その嘆きをノラははっきりと聞き受け、重く暗い表情のままに俯く。
「別に・・・」
彼女に責める気など無かった。だからと言って慰める言葉も今は虚しさを抱かせる。掛ける言葉が見当たらない。故に、何も言えなかった。いや、告げる言葉はあっても、今の彼は更に追い詰めるだけだと噤んでしまっていた。
投げ遣りにも聞こえた声にガリードは振り返る。落胆し過ぎて感情が宿らぬ顔、双眸に液体が伝う。涙か雨か、最早判別が不可能なほど濡れた顔で彼女を見る。遣る瀬無い思いが、瞳から見て取れた。
「・・・俺を、蔑まねぇのか?罵らねぇ、のか?俺は、何も出来なかった・・・助けようと、皆を、助けようとして、誰も・・・救えなかった俺を・・・役立たずな俺を、如何して、何も・・・」
態度こそ冷静なものだが、半ば自暴自棄となって言葉を発する。自己嫌悪に蝕まれ、どうしようもない感情に思考が埋め尽くされてしまう。
「・・・悪ぃ」
抱えた感情を吐き出した事で気持ちは落ち着き、八つ当たりした自身の嫌悪に顔を歪ませ、彼女に当たってしまった事を謝罪する。先以上に気持ちは入り混じって。
「気に、してない・・・」
彼女は小さくそう呟き、表情は暗いまま変化は見られない。だが、そう映っても天候に紛れなくとも、やはり傷付いている事は小さな顎の動きから見えた。
気持ちが少し落ち着き、再びレイホースに向き合ったガリードはこれから如何するべきかを考える。今は休め、そう告げられても休められる訳がない。今の、喪わせてしまった自分にも出来る事を模索するように思考を巡らせる。けれど、まともな答えは導き出せずに、立ち尽くすばかりであった。
食い縛って後悔を浮かべて嘆く彼は再び深い沈黙が流す。雨音が鮮明に聞こえ始め、耳の奥と身体に纏わり付く気持ち悪さが再燃していく。その折りであった、彼女が助けを示した。
「あの子達に・・・会わないの?」
出された彼女の一言にガリードは顕著なほどに反応を示す。動きこそ小さいものだが心臓を掴まれたように、強烈な痛みが胸部に駆け巡った。即座に振り返るのだが、咄嗟に視線を合わせられずに背いてしまう。
「・・・ガキ共に会って、それで俺は、如何すりゃ良いんだ?・・・謝って済む話じゃない。助けられなかった事を告げて、それで、如何なる?」
済んだ事、済んでしまった事、もう終わってしまった事。それを伝える事は双方にとってまさに身を削る思いを抱くのは確実。両方が傷付き、途方に暮れてしまうのは言うまでも無かった。
「・・・伝えるべきなのは、分かっている。伝えなきゃならねぇのも、分かってる。でも、俺は・・・俺は・・・っ!」
悔恨のままを口に出す。自責、守ろうとして守れなかった後悔に自我は揺れ動く。向き合わなければならない現実に苦しみ、涙を伝わせる。何より、もう、家族と合わせられない悔いに苦しんで。
その姿を切なく見つめるノラは空白の後、息を小さく吐いて思いを押し切った。
「・・・頼まれた、皆から。私と貴方は、皆から」
その言葉達はガリードの胸に突き刺さった。告げられた残酷なそれは今の気持ちを揺さぶるには十分であり、反応して彼女の顔を見た。
雨で身体全身を濡らし、濡れて皺だらけとなる衣服で佇む彼女。揺ぎ無く、見つめてくる彼女を見て、錯綜とする感情が滲む声を、声ではない音を滲み出す。
「・・・ああ・・・ああ、そうだ!!頼まれたんだよ、俺は、俺は・・・ッ!!」
親達の、あの村で住んでいた者達の遺言、最後の願い。自分達が残せる唯一の繋がり、それを託されていたのだ。それを思い出し、決壊するように涙が溢れ出した。逃げるように彼女に任せたその願いを思い出し、遺言も子供達の安否すらも忘れていた事を恥じ、放棄しようとしていた事を悔いて感情が溢れ出していた。
全ての思考を中断させる衝動は直ぐにも治まる、いや強引に治めていた。目元を拭い、強引にも止めていたのだ。感情を吐き出した彼の面は幾分か落ち着き、その内心も揺らぎが治まっていた。
「・・・ノラ、今、ガキ達は、何処に居るんだ?」
「・・・フェリスに居ると思う。でも、人と人を繋ぐ架け橋に任せたから、それ以降は、分からない」
「分かった・・・フェリス、だな」
しなければならない事と向き合った彼はそれだけを考えるようにし、レイホースに跨る。その後ろに乗る様にノラに指示し、彼女の手を引いて乗せる。その後にレイホースの操作を始めた。
尚も叫喚したい思いを抱く。己の不甲斐なさは絶えず胸に宿る。その思いを手綱を握る手に篭め、雨煙る沼地を駆け抜けていく。蹄鉄の跡、それを刻み行く。それは彼の慙愧の全てを残すようで、振り続く雨が、泥が隠したとしても消えないだろう。それを示すように、彼の顔は以前として後悔に満ち、後ろのノラも心配が尽きなかった。
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