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もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って

思考を縛り、だがそれが全てではなく 前編

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【1】

 狭く、暗く、息が詰まりそうな閉所。硬質の岩石、様々な形状の岩石が取り囲む。其処は遠方から見れば早大に聳え立ち、雄々しさを天に示す。その表面、荒々しさは何人も拒絶する気性を顕著に現す。
 そうした内部は光などほぼ届かない。響いた音は反響し、切なく消えてしまう。不安と恐怖が立ち込め、立ち入る事を躊躇わせる。第一、踏み込む事はまず許されない。
 深部から聞こえてくるのはそう言った感情を掻き消す、掘削音。凄まじき年数を経て圧縮された硬き岩の壁、それよりも硬く鋭き物体が掘り崩す。接触音は角までも劈き、崩れ落ちる騒音は身の芯を震え上がらせる。それは閉所ならではの恐怖。
 血脈のように伸びる坑道、主脈たる道には線路が敷かれ、大量の土砂や岩石が蓄積されたトロッコが進む。金属が軋む音が響く。それを動かすのは無論、人間。血色悪く、痩せて貧相に映る者が運ぶ。
 そう言った者は他にも居り、総じて作業の過酷さを表すように衣服はボロボロに。色合いや元々の材質は異なっても囚人服と見て相違なく。けれど、全て者が着ている訳ではない。鶴嘴やスコップを手にして作業する者を監視する、とあるギルドの証を宿した青き制服を着込む者達が見られる。
 度々、進捗を問い、早くしろと罵倒が響き、それに反抗する怒号が響き渡る声が響く。坑内は陰湿な空気に包まれていた。
 其処は単なる作業場ではない。誰が如何見ても牢獄である。作業者は罪を犯し、服役する者。方や、監視する者は法と秩序ルガー・デ・メギルの者。其処は採掘場であり、巨大な懲罰房であった。
 肉体労働、過酷なそれを課せられた罪人達は日々に不満を呟きながらもこなすしかない。疲労困憊になり、倒れそうになっても、罪の重さを僅かに感じながらも腕を、足を動かさなければならない。
 その中に、最近、此処に投獄された者が幾人か居る。その内の一人、彼の名はトレイド。罪科と言われれば、そうに言い難い接触の後、此処に連行されていた。それ自体が弱みと成り、渋々と従い、不当な罪科を贖っていた。そんな彼の周りに居る者は誰一人として居らず、近付かず。
 険しき顔で鶴嘴を振るう彼は他の囚人と必要以上の関わりを避けていた。不可侵を貫くように、常時不機嫌に日々を過ごす。そもそも、犯罪者を嫌悪している為。その態度は他の囚人は不快感を抱かせ、直ぐにも溝は作られてしまった。
 それでも彼は改善する意思はなく、早く此処から出る事を望み、腕を振るい続けていた。既に居る者達にも憤怒を向け、表情を歪ませて。

 重ねる疲労に、痛みに身体の随所に痛みが走る。疲労は余計な思考を出来なくする。それは誰しも。日々の労働は既に飽きてしまった。それでも囚人達は宛がわれた部屋に着いた途端に騒ぎ出す。一日を終えたと、達成感と開放感がそうさせた。
 その騒ぎは最早宴、早く眠るように宛がわれた酒が助長していた。設けられた細やかな自由時間、就寝するまでの談笑する時間。薄められている為であろう、気分が浮付くだけで何時もどんちゃん騒ぎに近付くほどに五月蠅くなっていた。時折、看守が飛んできて怒鳴り散らされる事も屡。
 その日も囚人達は程良く酔っ払う。狭い空間で各々は自慢話、誰かの武勇伝、最近の失敗談と言った話題で騒ぐ。それから離れた位置にトレイドは静かに佇む。気配を悟られまいとするように、関わりたくないと言う気持ちを態度で包み隠さずに表して。酒、尤も嫌悪するそれに近付きたくないから。
「なぁ!そろそろ仲良くしようぜ?此処に連れてこられた理由とか、名前ぐらい教えてくれても良いよな?」
 そんな彼に馴れ馴れしく話し掛ける者が一人。馴れ馴れしく、肩を腕を掛けて親睦を深めようとする。けれど、トレイドに払われていた。
 歯切れの良いハキハキとした口調、好青年に映る青年。やや彫りの深く、引き締まった身体を見せ付けるように半裸。不精に生え伸ばし、乱れ切った黒髪、薄汚れている。特徴の多くは環境故に。
 そんな青年が酒気を帯びた息を零して笑い掛ける。彼はレイザー。此処で一番歳が近いと言う事で親睦を深める役を買って出ていた。
 トレイドが此処に来て数日が経過した。初日から他人を寄せ付けなかった為、もう積極的に話し掛けるのはレイザーしか居なかった。他の者は最初に示した態度から最低限の接触しか行わなくなっていた。
「・・・俺に、話し掛けるな。近付くな」
 不機嫌に口を開き、睨み付けて明確に拒絶した。それだけで反感を買う。レイザーもまた小さく怯む。怒りに眉を動かす。善意で話し掛けて無礼を働かれると誰しもが苛立ちを抱こう。
「最初から言っているが、お前等と仲良くする積もりはない。自分の事しか、自分の欲しか満たそうとしないお前等とは・・・!」
 最早嫌悪ではなく、存在否定する言動と態度を示す。敵愾心を隠さずに吐き捨てた。それは耳にした者全てを敵に回そう。例え、それが彼の忌まわしき記憶から来る激しい憎悪、騒動的なものでも納得などさせられない。第一、彼等には全く関係ない。
 撤回など出来ないそれを直接吐き捨てられたレイザーは当然怒りを抱く。しかし、当人は諍いに発展させなかった。酒気に任せるように笑いを零した。それが視線を向けていた者の敵意を紛らわせた。
「そんなに喧々すんなよ。こんなクソッタレな環境に来て苛々すんのは分かるけどよ、もう少し肩の力を抜けって」
 落ち着いた声量で気持ちを緩和させようとして言い聞かせる。それは先輩としての責務か、人としての思い遣りなのか。この楽し気な雰囲気を崩さぬようにしてなのか。
「・・・」
 そんな思い遣りをトレイドは無視する。徹底的に不可侵を、必要最低限の関わりを持ちたくない思いを態度で表す。再び行われた無礼な態度にレイザーの顔は少々引き攣った。苛立ちは抑え切れず。
「ま、まぁ、あんまり話したくねぇんなら、いいや。また、明日頑張ろうや」
 ぐっと語らえた彼は労いの言葉を掛け、引き攣った笑顔を浮かべて離れていく。彼の我慢によってその日の宴に争いは無く、時間は経過していった。
 トレイドは黙し、騒がしさから目を背けたまま眠りに就く。ハンモックの数が足りず、硬く冷たい無機質な地面に敷かれた布の上が彼の寝床。横となり、目を閉じる。その日もまた他者、他の囚人と相容れようとせずに拒絶を押し通す。溝ではなく壁、分厚きそれを作る彼は嫌気を混じった溜息を零していた。
 その数分後、看守の怒号が響き渡り、宴は強制的に終了する。途端に静かになる部屋。明日の労働に対する嫌気や怒りが浮かぶ。一人だけは思考は異なり、硬く閉じた瞼に滲む。込み上げてくる怒りと憎しみが瞼の裏を染めていく。
 記憶、如何しても家族の未来を奪ったあの男とダブって仕方なかった。関係ないと分かっていても、如何しようも無かった。

【2】

 翌日、早朝は何時も騒がしい。戦時下、緊迫した場所ではいつ何時なんどき、不測の事態が起きてもおかしくはない。それを指し示すように、騒音がけたたましく響き渡った。
 金属音、両耳を突き破るかのような劈く高音。一瞬にして飛び起き、耳を押さえなければならないほどの音量が唐突に部屋の静寂を破った。
 当然、寝静まった皆は叩き起こされ、顔を歪ませて耳を押さえ、塞ぐ。浸透してくる音に苦しみ、悶えるしかなかった。それはトレイドも同様、戸惑い、顔を歪めながら音が止むのを待った。
「さっさと起きろ!!早急に飯を食え!そして、今日の責務をこなすんだっ!!」
 激しい耳鳴りに襲われる囚人達に看守の怒号が響き渡る。追い立てる痛みに顔は歪むばかり。
 皆が居る事を確認したであろう看守は顔を顰めたまま、足早にその場から立ち去っていった。その足音がまともに聞こえ出した頃、囚人達は身嗜みを整え、その片手間にまだ眠る誰かを起こす。連帯責任を課されないように。
 何時も通りの起床の合図に苦しむ囚人達に紛れ、険しき表情のトレイドが起きる。感じる痛みや苦しみよりも、まだ此処に事に因る苦痛で顔は険しい。
 強く歯噛み、連日に酷使して痛む手を強く握り締め、すごすごと部屋から出て行く囚人達の最後尾に続いていく。溜息を零した処で、何かに八つ当たりにした処で何も変わらず。再三に零れる溜息を零して部屋と言い難い共同空間を後にした。
 向かう先は食堂。此処では一番に綺麗にされているのだが安息出来る環境とは言えない場所。それでも利用しなければならず、既に人で犇めいていた。誰もが囚人、三十人は下らないだろうか。
 その数が密集すれば息苦しく、暑苦しく感じよう。その窒息感は入り混じった不快な臭いと胸焼けするような匂いに因って阻害される。一刻も早く逃れたい思いが生じる。だが、腹を満たさなければその日の重労働を乗り越えられない。背に腹は代えられなかった。
 とは言え、振る舞われる料理はとても上等の品とは見えなかった。セルフサービス式、並べられた机に続けて料理が盛られる。その有様は酷く、盛り付けはぐちゃぐちゃ、色彩は統一感などなく、調理状態すらも手抜きを感じ、食欲を減退させるものばかり。中には、吐き気を催すほどに酷いものまでも。辛うじて香りだけは多少良かった。
 近付く事すら憚れるそれをトレイドは黙々とよそい、一人空いた席に座る。淡々と、周囲と無接触を貫き、手早く料理を口に運んでいく。
 彼とて、此処の食事に不満を感じていない訳ではない。寧ろ、はっきり不味いと感じている。だが、それよりも一刻も早く他の囚人達と離れる事を優先し、急いで飲み下していた。
 周囲の会話を耳に傾けずに料理を胃に収めると器を乗せた盆を持ち、早足に返却する。その際、やや乱雑になってしまったのは苛立ち故に。その様を見掛けた者は不愉快な思いをさせ、料理人にも不快感を与えていた。

 枝分かれを起こす炭鉱窟は迷いかねないように見え、主道から分かれた道の全ては行き止まり。不規則に曲がり、歪な補強が施された道の先端が囚人達の持ち場。一人が漸く通れそうな先端に行けば、か細い蝋燭に照らされて鶴嘴を振り上げる姿が映る。その一人であるトレイドは一心不乱に振るう。
 表には届かずとも喧しく響き渡る掘削音は止む事ほぼない。金属と岩壁が接触する音は不快でしかない。音は刃のように作業者に当たる。掘削の際の飛び散った破片、土埃もまた。肌に汗が伝っていれば泥のように張り付き、衣服は汚れるばかり。それでもするしかなく。
 不意にトレイドは振るう手を止め、地面に降ろして身体を休める。頬や顎に伝わる汗を拭う。少しの休息を入れた瞬間、忘れていた手の平の痛み、血を滲ませる激痛に顔が小さく歪む。連日の酷使の結果、大部分が向けた手の平は実に痛々しく。痛みに、我慢の力みが滲む溜息を零す。
 休息を挟んだにも関わらず、汗を多く滲ませるほどの疲労感に襲われる。それが紛れる間も無く、苦き表情の彼は鶴嘴を握り、再び振るい始める。激痛に、歯を食い縛り、我慢して岩壁を叩く。痛みは麻痺して次第に遠退き、叩く音は強まっていった。
 重苦を味わう彼だが、この一人作業している時だけ緊張が解けていた。誰かを見れば忽ち記憶が甦り、怨嗟と憎悪の念に蝕まれる。気分損ね、喉元が焼け付くような感情に思考が囚われる。それを感じないだけでも随分と気が楽になっていた。故に、一人になれる掘削に積極的に取り組んでいた。
 早く此処から出る日を待ち侘びながら掘り進めていれば必然と土砂は溜まる。その中には鉱石、又は宝石の原石、或いは未知の物質が眠る可能性がある。選別の場は外にあり、運び出す為には運搬具が必要となる。他の囚人に反感を買うトレイドは便利な物、使い易い物は回されず、背負い籠しか使えなかった。
 籠に土砂を詰め込めば相当の重さとなる。持ち上げる事すらも困難な重さを、背負って何とか立ち上がる。疲労が溜まる身体では倒れぬようにするだけでも相当の労力を使う。やや震える足でゆっくりと歩き出す。
 看守達の鋭き視線に晒されながら何とか外まで歩き、選別所に辿り着く。その場所での作業は至極簡単、崩した土砂を傷だらけの篩で選別する。出来てきた鉱物等は看守に渡し、単なる土砂は指定された場所へ運んで埋めるのみ。
 その作業は身体を休められるものだが単調であり、目を酷使する時もあって中々に骨が折れてしまう。又、篩に掛ける時など土砂や道具の感触で激痛が走り抜ける。そして単純な力作業の延長。様々な理由で囚人達に嫌われていた。顰めるトレイドもまた内心では嫌っていたのだが、仕方ないと黙々と使用する。
「よぉ、これってかなり面倒だよな。任せられるなら他の奴に任せてぇな」
 険しき表情で篩に掛ける彼に話し掛けるのは先客のレイザー。苦笑交じり、それでも楽しそうに。その様子に見合うように、選別する作業な手馴れているもの。
 陽気な様子、言葉をトレイドは一瞥だけ。黙ったまま篩を振るのみ。話し掛けるなと態度で示し、その失礼な態度にレイザーは苦笑した。
「相槌ぐらいしてくれよ。少しは仲良くなろうだとか、上辺だけでも、って言う気持ちはねぇのか?」
 言わば同僚と言える者に忠告交じりに語り掛けるのだがトレイドは沈黙を貫く。それにレイザーは表情を一瞬強張らせるのだが、溜息を吐いて苛立ちを吐き捨てた。
「・・・はいはい、話し掛けんなって事だろ?俺が悪かった、悪かった」
 呆れ、嫌気を滲ませた溜息を吐いて自身の作業に集中する。それ以降は話し掛けず。
 それから一度だけトレイドはレイザーを一瞥した。その目は明らかな拒絶の意を篭めた睥睨。再び手元に視線を戻せばもう関心を失い、作業に没頭していた。
 時間を掛けて選別は終わり、何の成果は得られなかった。だが、気落ちする合間も無く、土砂を用いた籠に詰め直し、指定の場所に捨てる。処理した後、採掘場へ吸い込まれるように引き返す。そして、戻れば岩壁を採掘を再開する。日々、反復するだけであった。

 少々長い、若干の坂道を下って外へ辿り着けば爽やかな快晴の下に行ける。目に刺すほどの眩しき陽射しは暖かく、目を潤す木々が彩る芳醇な緑。吹き抜ける肌が疲れた身体を癒す。一歩出れば自由が広がっている。
 だが、其処は懲罰房。期間を終えるまで出る事は出来ず、近くても遠い自由に焦がれながらも囚人達は課せられた掘削を行うしかなかった。
 苦行でしかない日々、それこそが罰。課せられる囚人達は心底嫌悪しているだろう。それでもしなければならない。その中で黙々と行うトレイドは少々異質と言えた。ただ嫌な事から目を背けたい一心、その心境を知っていたとしても眉を顰める姿であった。

【3】

 遠く、遠雷を彷彿させる音が響き渡る。枝分かれする坑道の隅まで行き届くそれは合図。警告音に類似したそれは昼食の時間の知らせであった。
 その音に囚人達は脱力し、鶴嘴を傍らに置く。労働から一時的にも逃れると表情明るく、食堂へ向かう足取りも早く。だが、トレイドだけは異なり、最初に溜息を吐き捨てていた。他の囚人と会わなければならない、ひたすらに億劫であったから。それでも空腹を満たさなければ作業は忽ち滞る。溜息混じりに諦め、暗く落ちる道を引き返していった。
 食堂へ向かう足音に続くトレイドは息苦しさ、気分の悪さに表情を険しくする。同じ人と言えど、其処まで不快を抱くのは相当なもの。ただ毛嫌いしているでは済まない。目の敵にし、根付いた憎悪の念に思考が囚われつつあった。それでこそ、拳を振るい、排除しなければならない気分で胸が騒ぎ、如何しようもなかったのだ。
 それを何とか堪え、理不尽な暴力を振るわないようにする。その危険意識を纏いつつある彼に近付く影が一つ。
「よう、漸く昼だな。待ち侘びたぜ、もう腹ペコだ。なぁ?」
 幾ら邪見に、敵意を向けられようがレイザーは陽気に接する。同意を求める言動は親睦を深めようとする気遣い。輪を乱す真似を振る舞うトレイドにそこまで気遣うのは彼の性格から来るものか。だが、執拗とも言えてしまうそれは今のトレイドには逆効果、神経を逆撫でする結果に終わるだけ。
「俺に、話し掛けるな」
 透かさず睨み上げて冷たく吐き捨てる。再三に渡る拒絶を示し、厚き壁を築き上げる。歩み寄りの意志が全くない態度を前に流石のレイザーも表情を険しくした。
「・・・お前にどんな事情があるのか知らねぇが、その態度をし続けるのは、止めた方が良いぞ?」 
 忠告する声は少し重くなる。繰り返される突き放す態度を受けてもなお、努めて冷静に語り掛ける。一概に我慢強いのではなく、トレイドの事を多少案じての善意であろうか。
 だが、当人は変わらず、見た目すらも改めない。
「・・・お前達と仲良くなりたい訳じゃない。だから、これ以上話し掛けるな。関わるな」
 抱えた感情、己が思いを包み隠さずに示す、理不尽な憎悪を篭めた忌避の台詞を吐き捨てる。様々な思いがあろうと尊重するにも限りがある。憤慨して当然の台詞を受け、レイザーは早急に詰め寄った。
 トレイドの肩を引き、強引に振り返らせる。煩わしい表情に怒りの形相は濃くなる。相手の存在そのものを否定するような態度に拳が硬く握られる。
「お前、なぁ・・・!」
 怒りが篭った言葉を滲ませる。力強く、眉間に皺を刻んで睨み付けたところで当人は侮蔑の表情を崩さない。
 尚も関わりを拒む姿を示され、レイザーは舌打ちし、力任せに手を放す。濁る溜息を零し、足早に過ぎ去っていった。
 先に行く彼の姿を見て、苛立ちを示すトレイドは溜息を吐き捨てて気持ちを抑える。少しだけ時間を置き、同じ行き先へ足を運んでいく。
 その日の食堂はほんの僅かに空気が悪かった。普段通りに騒ぐように食事が摂られる中、気分を害した二人が居る事は二人しか知らない。騒がしさの外、早々に食事を済ませ、掘削に取り掛かるのであった。

【4】

 罪にもよれど、贖うにはあまりにも軽い、持続する手の平の焼け付くような痛み。全身にこびり付くような筋肉痛や関節痛、縛り付けられるような疲労。それらが癒える事無く、身体を酷使し続けて行けば時間はあっと言う間に過ぎる。
 重労働の後、囚人達は複数の看守の管理下の下、外へと案内される。付近に存在する小さな湖へと連れていかれ、汗まみれ、泥まみれの身体を洗うように指示される。少ない休息の時、水の感触、洗い流される感覚は得も言われぬ多幸感と言えた。けれどその時間は短く、到底洗い流せない痛みと疲れを抱えたまま、炭鉱場へ戻されてしまう。
 宛がわれた部屋に戻れば其処から就寝時間と言う、半ば自由時間となる。本来なら寝床に着き、泥のように眠るのだろう。だが、僅かな時間を楽しもうと、酒の力を借りて囚人達は雑談を始め、談笑する。押し込められた部屋の中で幾つで愉快な笑い声は行き交い出すのだ。
 そのとある一室、例に洩れず笑いの只中である。それから外れ、何時も通りの態度でトレイドは佇む。疲れていても直ぐには眠る気にはなれず、騒がしい囚人達を睨む様に沈黙する。
 普段以上の険しい顔、壁を作る雰囲気の為か、近付こうとする者は皆無。元より少ないと言うのにその日は見向きすらもされない。ただ一人を除いて。
 異なる年齢の囚人達から外れて近付くのはレイザー。酒を程々に飲み、酒気で仄かに顔を赤くした彼はトレイドの隣に座る。昼間の事は許したのか、笑みを浮かべて。
「お前は、何時も離れたがるな。ちょっとは皆と仲良くしろって。最低でも会話をするぐらいはよぉ?」
 改善を求めながら気さくに話し掛ける。空気が僅かに重くなるのだが彼は気付かずに話を続ける。
「・・・どんな理由があるのかは聞かねぇがな、せめて名前ぐらいは教えろよ。呼び難くて仕方がねぇ」
「五月蝿い」
 伸ばす手を振り払うように遮断される。決定打になりかねない言動にレイザーの蟀谷に血管が浮かぶ。だが、それを堪え、事前に持っていたコップの一つを差し出す。それは満たされて。
「まぁ、嫌な事があったんだろうけどよ、これを飲んで吐き出しちまえよ。此処に居る奴は大概・・・」
 そう酒を勧める。鬱憤を吐き出させて気持ちを落ち着かせようとするその気遣い、せめて少しでも気が楽になる様にと言った配慮であった。だが、それが決定打となってしまう。
 何に置いても酒を嫌悪するトレイド。初日から断り、理由を話していないとは言え、必ず勧められた事で溜まりに溜まった不快な思いは留まる場を失った。
「いい加減にしろ!!俺はお前等と、犯罪者と慣れ合う積もりはない!!見るだけで吐き気がするんだッ!!」
 溢れた気持ちがそのまま言葉となって吐き出された。大声は部屋の外まで響いた筈。
 唐突の大声は無論部屋の中に響き渡り、全ての者の反応を止めた。押し寄せた沈黙中、二人に視線が注がれる。そして、意味を理解して怒りが沸々と浮かびつつあった。
「いい加減にしろよ、お前!気取っているのか知らねぇが、此処にぶち込まれたお前は何だよ!?ふざけた事言ってんじゃねぇ!!」
 レイザーもまた限界であった。見返りなどを求めていない。けれども、善意に非礼で返され続ければ誰でも堪忍の尾は切れよう。
 トレイドの胸倉を彼は掴み掛かり、強引に持ち上げるようとする。その動作は立ち上がらせる事になり、反射的にレイザーも胸倉を掴み返され、同様に立たされていく。
「お前等と一緒にするな!!他人を平気で傷付けるような、お前等のような屑と!!」
 怒りで我を失い、口にしてはいけない罵倒を叫んでいた。その脳裏、忌々しい、あの殺人者が鮮明に浮かび上がっていた。両親を喪い、絶望に叩き落した元凶と同じ犯罪者、視界に入れたくないほどに嫌悪に支配されて。
 それでも、関係の無い他者を否定する理由には成り得ない。絶望的なほどの失言は周囲の者を敵に回した事は言うまでもない。それ以前に、直接吐き掛けられたレイザーは黙っていられなかった。
「ふざけてんじゃねぇぞ!!屑だぁ!?手前テメェの事を棚に上げて、何好き勝手抜かしてんだ!俺達を人間じゃねぇみたいな事をよぉ!!おんなじだろうが!馬鹿言ってんじゃねぇぞ、手前テメェッ!!」
 怒りに任せて作った拳がトレイドの頬を殴り付ける。肉を、骨を殴る小さな不快な音は部屋に響く。
 抵抗する間もなく、地面へ倒れ込んだトレイド。唇に僅かな血が流れるも直ぐにも立ち上がり、再び掴み掛かって睨み付けた。
「違う!!俺は貴様等のような奴と一緒ではないッ!!人らしからぬ行いをするような、屑とはッ!!」
 言い分は私情でしかなかった、私怨でしかなった。記憶だけで他者を罵り、否定する。それは嘗て、彼自身が疑問に思い、理解に苦しんだ事であると言うのに。血が上った頭では気付く事など出来ず。
 周囲の反応が追い付く前にトレイドの反撃が、殴打がレイザーの頬に叩き込まれる。振り抜かれる暴力を受け彼は転倒する。周囲の物を散らし、誰かに被害を齎して。
 言い争いは即座に大喧嘩に発展してしまう。暴力に対し、同様に暴力が返されると、それから先は簡単には収まらない。互いが感情のまま殴る。寝床のハンモックが千切れようと、洗顔用の机、物置を派手に倒そうと止まず。
 周囲に立たされた囚人達の多くは末を見守る様に傍観する。今迄のトレイドに対する鬱憤があり、連帯責任を負わされる面倒さよりも叩きのめされる姿を見る事を優先していた。
「お前等、何をしているんだ!!」
 騒動を聞き付けたのだろう、看守の怒号が部屋に響き渡る。観戦する囚人達が反応すれど、二人の耳には届いていない。
「止めろ!!今すぐに止めないと特別房行きだぞ!!」
 部屋に来た看守は直ぐにも喧嘩である事を察する。囚人達を押し退けて警告する。だが、止まる気配はなかった。
 最早警告は意味を為さないと理解した看守達は直後に動く。看守に気付かぬ二人に接近し、肩を押さえ付け、腕を背へ捩じり上げる。反応を待たずに地面へ叩き付けて取り押さえる。瞬く間に二人は拘束された。
 数人に押え付けられて身動きが出来なくなる二人。伝わる痛みと圧迫を受けてもなお、二人の気は治まらなかった。
「いい気になってんじゃねぇぞ、ゴラァ!!俺達の存在そのものがわりィのか!?気に食わねぇってのか!?調子に乗ってんじゃねェッ!」
「黙れッ!!俺を、貴様等と一緒にするな!!貴様等、なんかとォ!!」
 憤慨し、怒鳴り付ける声が部屋に響く。看守の拘束を押し退けかねない勢いを放ち、動かなくとも引き剥がそうと暴れる。
 血を流す顔のトレイドの目は私怨が宿る。対するレイザーではなく、心的外傷トラウマの元凶、血塗れた姿が映り込む。既に相手は彼ではなく、其処に居ない誰かであった。
 昂ぶり続ける感情、怒鳴り声が響き合う。眺める他の囚人達は僅かに圧倒した。
「ッグ!」
「ガッ・・・!」
 膨れ上がる怒りは突如制される。治まる様子もなく、耳も貸さないと言うのなら手段は一つ、暴力を以て黙らせるしかない。常時携帯する警棒の如きそれで叩きのめす。容赦なく、袋叩きにした。
 後には敢え無く気を失って地面に伏した二人の姿。それはある種の見せしめとなっていた。
 二人の様子の変化に気付いた看守達は一旦離れる。確かに気絶している姿を確認すると何処からか縄を取り出して捕縛していく。その光景を包む空気は身震いしかねないほど凍て付き、そして静かであった。
 早々に終えると数人が二人を外へ連れ出していく。二人はそのまま懲罰房へと送られる。それを囚人達は静かに見送る。 
「お前等もさっさと寝るんだッ!」
 最後に立ち去ろうとした看守はその怒号を言い渡して後にする。足音が遠退き、聞こえなくなった時、騒動が去った部屋は途端に静かとなる。先の騒動が嘘のように感じるほど。
 残された囚人達は少しの間呆気に取られていた。少しずつ足が動き出すと喧嘩の後片付けが始まる。自分達が起こした事ではなくとも、仕方なく配置を元の場所へ戻していく。流血が所に見える其処は直ぐにも整理される。元々の設置物が少なく、早く済んでいた。
 そうして、仕方なく眠りに就いていく。先程の騒動が嘘のような静かな時間、囚人達の胸の内には言い様の無い気落ちが渦巻く。トレイドに対する怒り、あそこまで毛嫌いする疑問が。
 だが、思えども、押し寄せる疲れには勝てなかった。
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