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もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って

それは変化する、揺れ動いた末に

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【1】

 何もない空間に、彼の、トレイドの意識だけがただ存在していた。色も無い、けれど気が遠くなるような謎の空間が彼の周囲に広がっていた。
 トレイドはただ存在する。彼に動揺もなく、ただ眼前に広がり続ける空間をぼんやりとした思考で眺めていた。
 彼は身動きをしない。縛り付けられたかのように微動だにせず、声を出す事は無い。出した処で何の意味も無いのだが。
 言葉を発しないまま数秒が立つ。すると、彼の視界に眩い光が灯る。それは次第に大きくなり、彼をも包み込む。過ぎ去っていくような場面変動を前に、何か思う筈の彼に変化はなく。
 やがて目映さは治まり、淡く霞掛かった空間に変貌する。其処は彼にとっては縁の無い場所となっていた。
 何故か馴染み深い家具が並ぶ部屋、見ているだけで涙腺が緩みそうな光景。仄かな暖かさは不可思議な安堵に包まれようか。
 俯瞰して眺める光景、視線を移していけば白きベッドが映り込む。白き掛け布団の中、誰かが潜っているであろう膨らみが確認出来る。
 浮遊するような感覚の中、微かに懐かしさと既視感を抱く。根拠の無いそれを認識しながら眺め続ける。
 言葉を発したくなる奇妙な光景。夢とは記憶が混在した何かと誰かが言った。しかし、それを知らない彼は不思議に思う間も無く、意識は途切れてしまう。
 またトレイドは目を覚ますように、夢の中で瞼を開く。するとベッドに乗っている事に気付く。先程見掛けたそれの上、掛け布団を足に掛けて上体を起こしたまま止まって。
 変化する状況に追い付けない彼の前、ぼんやりとした空間から色付いた知らぬ誰かが出現する。ゆっくりと、静かに。
 その者の正体は分からず。だが、携える黒い武器や部分的に防具を纏った佇まいから若い男性と思われた。その腰、提げる剣を見れば酷い懐かしさと視界と吐息が震えるほどの衝動に駆られて。
 また、現れた者に対しても激しい感情が胸の内から湧き上がる。それは懐古心も合わせて。強い安心感に、其処に存在するトレイドは僅かな警戒心を解く。霞掛かり、その面は良く見えないとしても。
 ただ眺めるしかなく、観察するように見つめているとその脳内に何かが響き始めた。それは声。
『・・・、俺は此処を、・・・を、出て行く・・・』
 鮮明には聞こえず、ノイズが掛かったように大部分は乱れ、声量は落ちて聞こえず。だが、それは落ち着き払い、寡黙そうな若い男性の声。恐らく、目の前の誰かが発したと推測しよう。
『待ってよ、兄さん!』
 次に聞こえた声は別の誰か、そして、実に鮮明であった。勝手に開いた口は誰かを兄と呼び、呼び止める声は必死さに。淋しさ、追い縋るような必死さが感じられた。
 前に立っていた誰かはゆっくりと振り返り、もう何も語らずにその場から立ち去っていく。色を失うように消えて。
『待って、待ってくれよ!如何して、行くんだよ!なぁ!?如何してだよ、兄さん!!』
 自身の意思では動けないトレイドの身体。その身体が、利き腕であろう右腕を力強く突き出す。精一杯伸ばし、何度も掴むのだが止める事も出来ず。
 何度も、何度も彼は叫ぶ。呼び止めようと、掴み止めようとして何も出来ず。突き刺さるような苦しみに、張り上げる声は痛々しく何処かに響き渡るのみ。
 兄と呼んだ誰かが消えて間も無く、周辺に、そして彼に異変が生じ始める。眼前に広がる光景が徐々に遠ざかり始めたのだ。だが、それは単純に、トレイドと言う意識だけが取り除かれるように、凄まじい勢いで後方に遠ざかっていく。
 何も出来ぬまま、何の思いも果たされぬまま、彼の意識は途絶えてしまった。

【2】

「・・・朝、か」
 静かな朝、遠い窓から零れ落ちるように朝陽が入り込む。暖炉の火は本当にか細く、ただの残り火がちらちらと仄めくのみ。
 朝日で多少だが照らされた部屋の中、小さく零しながら朝が訪れた事を実感するのはトレイド。双眸、目尻から一筋の涙が伝っていた。
 あの日以来、正確に言えば身体から違和感が消え去って以降、トレイドは時より奇妙な夢を見るようになった。それは誰かの体験であった事は確か。だが、トレイドにそれを知る由はない、或いは。
 その夢を見た時に限って彼は魘されずに目を覚ます。代わりに、息が苦しくなる淋しさに包まれ、無意識に涙を流していた。

 共にこの世界に引き摺り込まれ、心の支えにもなっていると言える友人、ガリードが捜索に乗り出した日から十数日が経過していた。それは、デゼェルオーク達の襲来からも数日が経過した事を指して。
 儚くとも優しく降りながら、触れる全てを凍えさせる美しい雪。透き通るほどの脆い白が落下点を埋め尽くす。その地にて、トレイドは目を覚ましていた。
 若干の寒さを感じつつ、ゆっくりと身体を起こした彼は目元を拭う。
 上体を起こした彼は自身に巻き付く包帯に触れる。すっかり慣れてしまった感触を確かめ、内で繰り返して生じる痛みも確かめる。傷を感じる度に、あの日の激闘を思い出していた。
 その身体でベッドから降りた彼は慣れた手付きで準備を始める。拙い修繕跡が目立つ胸甲や腕甲と脚甲を装着し、抜身の純黒の剣を持つ。普段と変わらぬ武装を遂げて部屋を出て行く。その日もその日で、与えられた仕事をこなす為に外へ向かっていった。

 まだ完治せぬ身体で出向く先は村の外、吹雪く場所にて、彼は剣を振るう。襲い掛かる生物を、魔物モンスターを狩る為に。その動きは負傷を感じさず、寧ろ負傷しているとは思えぬ体裁きで魔物モンスターを圧倒していた。
 あの日以降、不随の如き右腕の異常、身体を縛り付け、不快感を伴う倦怠感と不調は消え去り、万能感を抱かせる身軽さを実感していた。
 また、武器を振るう最中、戦闘中の心中は酷く静まり返るようになった。雑念が消え、目の前の状況に視野を狭めたかのよう。身体のみならず、内面も変化が生じている事を実感して。
 それは、『血の代償ディ・ウィワルト』の影響なのか分からなくとも、人族ヒュトゥムでは無くなった事を、混血類ヴィクトリアに成り果てた事も実感する。其処に感慨深くも、惜しい気持ちはなく、悲しい気分が小さく。
 確かな変化を思い返す事無く、静かに見渡す彼の付近、地帯を形成する積雪の一部が盛り上がる。それは予兆、視認される寸前、積雪がかなりの勢いで飛散した。
 出現したのはスノーローフ、積雪に擬態したその魔物モンスターは飛び上がると同時にトレイドに襲い掛かっていく。
 死角から、或いは隙を衝いての奇襲であったのか。それは成功を勝ち取る事はなかった。
 表情、眉一つ動かさないほどの冷静を保った彼、瞬時に動き出す。俊敏に腕を走らせ、大きく開かれた下顎を下方から突き上げた。その手は利き手、先には純黒の刃が鈍い光を放つ。その色は赤く、刀身が上顎ごと縫い止めるように貫いてみせた。
 接近してくる獣の身体を、貫通させた剣を持つ利き腕の力で強引に往なす。後方へ振り払った彼に変化はない、容易く獣の動きを制し、投げられる筋力は確実に向上して。
 そういった事実を確認する様子もなく、黙して周辺の変化に目を配り、聴覚に意識を集中させて探る。その後ろ、小さな痙攣を起こして横たわるスノーローフ。傷口からは血液だけではなく、固形の何かや半透明の何かが零れ、雪を汚す。
 明らかな致命傷を頭部に負ったスノーローフは苦しみもがく中、途切れる声を漏らしていた。懸命に鳴らすそれは何を意味するのか。同族に何かを伝えようとしていたのか、ゆっくりと息は絶えた。
 命を削って呻き声を零した獣は白い地に埋もれる。白を静かに赤く染め、一つの命が潰えた事を克明と残されて。
 直後、トレイドはある方向に腕を突き出した。強烈に突き出された腕の先、黒の刀身の先、突進してきた物体を突き刺していた。働く慣性を腕力だけで抑え込み、異物を呑み込んだ獣をそのまま地面へ叩き付けた。手、腕に伝わる温もりと共に。
 赤黒い血を吐くスノーローフ。雪に叩き付けられた一体は小さくもがくだけで如何する事も出来ず、そうして動かなくなった。
 静かとなった白き獣達の姿を一瞥したトレイド、白い吐息を零しながら周囲を警戒する。胸に抱く僅かばかりの罪悪感を抑えて。
 溜息を吐き、若干白く霞む視界、ただ暴風雪が荒れる光景を静かに睨む。気配を探るには困難を極める状況、探るのは同族、そして群れの長。姿を現さない長に対し、静かに待ち構える。
 時間が経過し、状況は変わる事はなかった。他の生物の気配を感じない五月蠅い空間。戦闘で僅かに暖まった身は凍え、吐息が小さく震えて始めても一向に。
 繰り返す呼吸と共に警戒心、敵愾心を薄めて姿勢を戻す。大きく溜息を吐き捨てて、静かに剣に付着した血を処理する。
 刀身を清めた後、仕留めた獲物を再度見た彼は僅かに表情を曇らせる。それでも処理を始める。黙々と仕留めた二体を集め、傷口を塞ぎ、ウェストバッグから取り出した縄で担げるように括る。そうして、肩に担ぎ、歩き出していく。荒れ狂う暴風雪を、残った血の跡から立ち去って行った。
 帰り道、スノーローフの群れと遭遇する事も、長に強襲される事も無かった。気配は感じられなくとも、監視しているかと推察して進み、何事もなく村に到着していた。

【3】

 戻ってきた彼の視界はあの激戦の傷跡を、荒らされた光景を捉えた。
 ただでさえ隙間を大きく開けるほど少ない件数、その多くが破壊の憂き目に晒されていた。破壊され、生活の火に撒かれて多くが使い物にならなくなり、その後がまだ多く残されて悲惨に。
 だが、壊れたまま放置する事は無い。住む建物を失えば、作るのは当然の流れ。幸い、道具は全焼には至らず、材木も周辺に生えている為に困らず。そして、負傷者は多数だが人手はある。そう、一ヶ所ずつだが新たに建てられつつあった。
 その哀れな光景の中、まさに異色を放つのは深々と叩き込まれた巨大な斧。デゼェルオークが使っていた、戦歴を刻み込んだ巨斧。鮮烈な戦いを思い出させるそれであり、悲しい過去を思い出させるそれだが、今は放置されたまま。それの処理よりもまずは住居を優先して。
 建造する作業音を耳に、風景を横目にしながらトレイドはある建物に向かう。
 破壊から逃れていながらもボロボロな外見の其処のやや大きめの扉をノックする。行って数秒、中から強面の男性が顔を覗かせた。
 じろりと来訪者を確認する。顔を確認し、肩にする荷物を確認して来た理由を察して外へと出てくる。その図体はやや大柄で筋肉質。
「今日も狩って来てくれたのか、悪いな」
 寡黙そうであり、不愛想な初老の男性はそう言ってトレイドに近寄り、狩猟したスノーローフ二体を受け取る。岩肌のような腕は軽々と二体を持ち上げて。
 狩猟したスノーローフはこの男性に引き渡すようになり、既に数日が経過した。受け渡すトレイドは毎回、男性の強面を気に留めながら当たり障りのない会話を行い、後にしていた。それは今日も同じ。
「それが仕事だからな」
 功績に鼻を掛ける事無く、事実を率直に告げて立ち去っていく。その背を横目で見送った男性は黙してスノーローフの解体に取り掛かるのであった。

 襲撃から数日経ち、魔族ヴァレスの村に多少の変化が訪れていた。正確にはトレイドに対する認識の改善である。
 死線を潜り、負った傷がある程度癒えた彼は自分から役割を欲し、それを行っていた。自分に置かれた立場柵など関係なく、動いて居なければ彼自身が気が済まなかったのだ。
 何かをするには魔族ヴァレスと接しなければならない。その時、多数は警戒した。命を救われた、恩を着せたりと、偉ぶり始めるのではないかと、或いは本性を表すのかと。けれど、当人は態度を変える事は無かった。
 また、彼を多少なりとも弁護する者が現れたのだ。先ずはクルーエ、最初に関わりを持った人であり、トレイドに対する恩を抱いている。次にセシア、そしてその妹であるティナが庇ってくれた。他にも複数居り、決め手になったのは村長たるサイザが取り持ってくれた事。複数からの信頼、そして長からの発言は強く響いた。
 行いと信頼が変化を変化を齎した。劇的に、そしてあからさまなそれではない。唐突に英雄的に待遇になる事も。だが、今迄の侮蔑の視線や貶す言葉は無くなっていた。
 その証と言うように、先の男性も同じく、不愛想ながらも或いは素っ気ないながらも会話を行ってくれるようになっていた。或いは、軽い会釈や小さな反応を示してくれるように。
 些細、けれど確かな変化に何処となく嬉し気に歩くトレイドは一直線に村長サイザの自宅へ向かっていた。

「村長、居るか?」
 戻った彼はサイザの自宅に入って開口一番に尋ねる。しかし、室内には彼の姿は無い。暗く静まり返り、今は人気を感じ取れない。別の部屋からも感じ取れず、溜息は自然と零れて。
「何処かに行ったのか・・・」
 そう思い、振り返った時であった。視界に何かが過ぎった。
「うおっ!?」
「っと」
 危うくぶつかりそうになったのは探していたサイザである。丁度戻ってきたのか、入って行く姿を見たのか。ともあれ、擦れ違う事無く出会え、仰け反った彼の腕を掴んで転倒を防いでいた。
「驚かせた、悪い」
「いや、こっちも迷惑を掛けた」
 互いに謝りながら姿勢を正す。
「戻っていたようだな、何時もの事ながら御苦労様だ」
「それぐらいしか出来ないからな」
 謙遜ではなく、本気でそう思っている彼は静かな表情で答える。それにサイザは苦笑して流す。
「そうだ、丁度良い。もうじき昼時だ、昼食としよう」
「もう、そんな時間か。配膳を手伝おう」
 この偶然を利用して二人は昼食に取り掛かる。事前に作っていた料理を温め、木皿に盛って食事に取り掛かる。
 料理は数少ない野菜とスノーローフの肉を煮込んだだけの単純なもの。それでもこの場では有り難い食事、それを文字通り噛み締めて味わっていった。

 食事も半時間も掛けないまま終わり、食事を片す音が消える。事前に溜めていた水を用い、洗うトレイドの後ろで一休憩挟んだサイザは立ち上がる。
「そう言えば・・・」
 用事を行う為に立ち去ろうとした彼は立ち止まり、何かを思い出したかのように語り始める。丁度洗い終えたトレイドはその声に耳を傾ける。
「クルーエの容態は大分回復した。もう動けるほどにな。会いに行くと良い」
「っ!そうか、分かった!」
 トレイドも助けられた恩を感じており、彼女の容態が快方に向かっていると知れば嬉しいもの。声が自然と明るくなり、食器を片す手も早くされる。
 その姿を一瞥し、少しだけ表情を綻ばせてサイザは後にする。立ち去る際、別の仕事を言い渡さなかったのは気遣っての事か。
 知ったトレイドは後片付けを早々に住ませ、療養する彼女の自宅へ急ぐのであった。

【4】

 村の外れに建てられたクルーエの自宅に向かう途中、複数の住民と出会う。中には子供も混じっており、小さいながらも反応を示された。子供は怯えた様子を見せ、距離が詰められる事は無かった。
 しかし、子供が外に出ているという点は進歩と言える。少なからず危険視は薄らぎ、多少の信用を得たと考えられた。
 その事を頭の片隅に留めて進めば到着する。其処も襲撃から免れており、ひっそりと建つ。
 近付いてノックを行う。すると、室内から返事と共に物音が聞こえ出す。部屋の奥から聞こえる音は近付き、扉が引き開かれた。
「はい、何方様?って、あんたかい」
 中から出てきたのは福与かでまさに包容力のある中年女性が現れた。
「クルーエに会いに来た、大分容態が回復したと聞いてな」
 この女性はクルーエの親ではなく、親族でもない。魔族ヴァレスではあるものの、丸々とした体格と何もかもを弾き返すような顔、第一に頭髪の色と雰囲気が異なる為に。
 彼女もまた住む場所を失った者の一人であり、住居が出来るまで同居を余儀なくされた。多少狭くとも我慢するしかなく。
「おや、そうかい。あれだね、弱っている処を付け込みに来たんだね。厭らしい考えだ事!」
 彼女は下種な想像を膨らませ、動揺を誘う言葉を投げ掛ける。揶揄う気持ちである事は確実、それを察してなのか、トレイドの表情は変わらず。
「回復している者を追い込むような真似をして如何する?そんな馬鹿な事はしない」
 如何やらその手の冗談は通じない様子、そのまま捉えて真面目に返答する。それに女性は異なる反応をされたと詰まらなそうに、しかし直ぐに何かが思い付いたのか、良からぬ事を思い付いた厭らしい表情を浮かべた。
「ちょっと待ってね、クルーエさんに貴方が来た事を伝えに行くから」
「分かった」
 了承した後、彼女は奥へと引き返す。すると、奥から会話が聞こえ始めた。遣り取りは数えられるほど。クルーエであろう声が聞こえるのだが、全てが驚きと恥じらいで声が上擦っていたのが多少気になって。
 会話が終え、奥から再び女性が現れる。着替えており、作業に差し支えず、汗等で汚れても問題ない衣服に。
「それじゃ、私は仕事に出て行くわね、お邪魔になるだけだし。確り、寛いでいってね。いや、楽しんでいってね!」
 そう口元に手を当て、実に楽しそうに笑いながら出て行く。その姿を見送りながら言葉の意味を分かりかねて眉を落として。
 見送った後、入るぞ、と一言断りを入れて奥へと向かう。
 部屋に付き、真っ先に視界に入ったのは、明らかに同居人の荷物による圧迫感。無事だった家具や衣服を積み、狭い部屋をより狭くさせて。その中で二人寝るのは窮屈で仕方ないだろう。
 この狭い空間の中、以前にも見た事のある衣服で身を包んだクルーエが座っていた。特徴的な頭髪を下ろして俯き、顔を逸らして小さく震える。何故か恥じらって。
「如何した?もしかして、調子が悪いのか?出直した方が良いか?それとも・・・」
「だだ、大丈夫です。気にしないで下さい・・・」
「・・・君が、そう言うなら・・・」
 心配し、数歩近寄ったトレイドに、何故か羞恥心を抱くクルーエはそう告げる。案ずるものの、よくよく見て体調が優れていないようには見えず、彼女を信用して息を零す。
 様子は治まった彼女は小さく微笑み掛ける。その余裕、見舞いに来てくれたトレイドを気遣っての笑みではなく、純粋な嬉しさからのそれにトレイドは本当に安心して傍へと寄って腰を下ろす。
「サイザから聞いて見舞いに来たが、大分良くなったんだな。安心した」
「心配かけてすみません」
「何で君が謝るんだ?」
「え、えっと、思わず・・・」 
「ははっ」
 謝り癖のような台詞は小さな笑いを誘う。それにクルーエも誘われて笑いを零していた。
 笑う二人の心の内は互いが生きている事に、こうして笑える事を喜ぶ。まだ不安が続く、村の復旧も早急に行わなければならない。食料も改善するとも限らず、今後の状況の幸先もまた分からない。
 とは言え、今は命がある事を喜ぶ。隣人が生きている事、手を取り合って生きている事を実感出来る事を喜びに感じて。
「本当に、安心した。だが、病み上がりなんだ、無理はするな。何か用事があるなら手伝うぞ。力仕事なら尚更・・・」
「そこまで気を遣わなくても・・・マーサさんが身の回りの事をして下さるので、不便はありません」
 気を遣う彼にクルーエは楽しげに笑う。その笑みを受け、本当に困っていないと理解して表情を和らげる。因みにマーサとは先程の福与かな女性の名前である。
「それなら良いんだ。だが、困ったら遠慮なく言ってくれ。とは言っても、力仕事程度しか出来ないと思うがな」
「はい、その時はお願いします」
 気遣いに彼女は小さく礼を行う。些細な遣り取りでも、快調になった姿にトレイドの表情は小さく微笑む。
「あ、直ぐに何かを・・・」
「座っていてくれ、そんな事には気にしなくて良いから」
 持て成そうとして立ち上がろうとした彼女を止める。来客を持て成せない事にやや不満そうにしながら、立ち上がろうとした身体を降ろして再度座り直す。
「さて、様子も確認出来た。俺は・・・」
 彼女の容態が快方に向かっている事を確認して用件を済ませたトレイドは立ち去ろうと考える。長居は彼女を不快にさせると考え、その旨を伝えようとした時、ふと何かを思い出した。
「如何しました?」
 話し掛けて止まった様子にクルーエが尋ねる。対し、トレイドはその事を尋ねる事を憚っていた。今の彼女の体調を気遣い、第一傷を抉りかねない質問を投げる事自体が気が引けていた。しかし、疑問を解決する為に口を開いた。
「・・・聞きたい事があるが、良いか?」
「はい、なんでしょう?」
「・・・あの日、俺達が初めて会ったあの日。如何して、君は魔族ヴァレスと気付かれたんだ?」
「そ、それは・・・」
 問われた彼女は俯いて口篭もる。危険な目に遭ったのだ、思い出したくないのは当然。分かっていて尋ねたのだが、明らかな態度を前にトレイドは後悔の念に囚われる。
「・・・悪い。話したくないなら、良いんだ。気を付けていた筈なのにと、少し疑問に思っただけなんだ」
「い、いえ、大丈夫です。あの日、私が、余計な事をしてしまったから・・・」
 そう俯きながら彼女は話し出した。だが、聞けば彼女に落ち度はないと理解出来るものであった。
 あの日、道中で新たな村を発見した。復旧する様を遠目で確認し、休憩がてら立ち寄る事に決めた。休憩も程々に出発しようとした時、クルーエは何気なく作業を行っていた一つの建物を見た。屋根の上で危なげに修理をする人を見付け、落ちてしまわないかと思い、その矢先であった。
 その者が足を滑らせて落ちたのだ。滑落を目撃した彼女は咄嗟に操魔術ヴァーテアスを使用した。上昇気流の如き風を起こし、落下の速度を緩めて衝撃を削いだのだ。その為、軽傷程度で済み、ほっと胸を撫で下ろした。
 だが、その行為は偶然にもあの青年に見られてしまったのだ。不可解な行動と雨具にしては異様な恰好、それから魔族ヴァレスと気付かれ、その後はトレイドの知る内容となる。
 故に、敢えて言うならば不用意に村に近付いた事が問題にする点であろうか。だが、今更言った所で栓の無い事。
「そうか。人を助ける為に、咄嗟に使ったのか」
「・・・そうなんです。注意されていたのに・・・」
 操魔術ヴァーテアスは目立つ。使用すれば瞬く間に存在を知られる事となる。以前から口酸っぱく言われていただろう。
「何で落ち込む?寧ろ、俺は尊敬するが?」
「ど、如何してですか!?」
 率直に言われ、彼女は頬を染めて照れながら問う。
「自分よりも人命を優先した。普段から人の為にと思ってもなかなか出来る事じゃない。それを損得なく行ったんだ。賞賛されるべき行為だ」
「そ、そうですか?」
「ああ、好意を抱くな」
 断言され、気恥ずかしさに真っ赤な顔を押さえて蹲るクルーエ。
「だからだろうな、あの時、俺を庇ってくれたのは」
 命の危機、まさにその状況下だった。それでも彼女は逃げずに立ちはだかった。その強さを納得したトレイドは小さく零す。面は口惜しく。
「今更だが・・・」
 先とは変わり、落ち込んだ声に照れが治まったクルーエが見上げる。真剣な面持ちに相応の表情となって。
「・・・あんな、危険な事はしないでくれ。もし、そうなったら、君を知っている人間は、悲しくて、辛くなる」
 思い出し、率直な思いを吐露する。自身の経験を重ね、残される寂しさを少しでも知って欲しくて。あの時は無我夢中だったとしても、それでも。
 その言葉を受け止めた彼女は深刻な面となり、口を硬く閉ざして視線を落とす。もう既に何人かに言われたのか、思い詰める表情は実に暗く。
「・・・分かり、ました。トレイド、さんも、その・・・無茶、だけは・・・」
 意趣返しの積もりは無かった。けれど、当のトレイドもクルーエ以上の犠牲精神を以って動いていた。それに対して彼女も胸を苦しめた。その旨を知って欲しくて。
 指摘されたトレイドは言葉を失った。自身の命と引き換えで全てを行っていた事は自覚していた。それこそが罪滅ぼしだと言うように。しかし、指摘されてごく当たり前な事に気付いた。こんな自分でも居なくなれば、悲しむ人が居ると。
 それでも葛藤が胸に巣食った。自身が居た為に失った命があると、死に巻き込むのではないかと言う、見当違いで、それでも自分を追い詰めるには十分な感情に再び見合って。
「・・・それも、そうだな」
 返す言葉は強くはないが肯定の言葉であった。反省の色もまた見えた。自分だけが苦しいのではない、そんな当たり前の事を再認識し、自身の行為の愚かさを再認識して。
 しんみりとした空気が少し流れた。互いの危うさを指摘し合い、それを自覚して自己嫌悪を少し抱く。それを掻き消したのは、小さな溜息。
「・・・悪いな、嫌な空気にさせてしまった」
「そんな事は・・・」
 小さく謝意を示す。彼女は否定するのだが、きっぱりと切り捨てる事は出来ず。
「全快に近付いている事を知りたかっただけだ。満足したし、そろそろ行くよ」
「あ、ありがとうございます。なら・・・」
「見送りはいい、座っていてくれ」
 立ち上がろうとした最初に釘が刺され、彼女は不満そうに見上げる。
「身体の具合は良くなったかも知れないが、まだまだ休むべきだ。此処で見送ってくれるだけで十分だ」
「そう、ですか・・・トレイドさんも気を付けてくださいね?」
「・・・ああ、そうだった。分かった、極力気を付ける」
 心配され、自身も大よそ怪我が治ってきている身と言う事を思い出す。人の事は言えないなと小さく笑いを零し、立ち去って行った。
 残される彼女は暖かい部屋の中、トレイドの表情が少しだけ明るみを取り戻している事を小さく喜んでいた。

 雪が降るように、深々と降り続けるように思いは募る。直向な思い、純粋な善意を示せば誰かはそれに答えよう。例え、僅かでもほんの少しでも、それでも変化は訪れるのだ。それが人を変えていくのだろう。
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