上 下
24 / 113
もう会えないと嘆き、それでも誰かと出会って

過ぎた記憶、隔てる蟠り

しおりを挟む
【1】

 喪う時、何時も雨が降っていた。居ても居なくても、小雨でも大雨でなく、静かに降り続く雨の日に、俺の傍から誰かが居なくなった。だから、苦手なのに。
 それでも、浴びれば不思議と心が落ち着く。冷たくて、身体を刺すように感じるのに、蔑んで責めてくるように感じるのに、空が俺の代わりに泣いてくれるように、思う為、かも知れない・・・

 父の名は秀二しゅうじ、大手の会社に勤めていた。重役を担っていたらしい。近所からは揶揄い半分に、エリートやお偉いさんと呼ばれていた。そんな父は仕事面ではかなり優秀で様々な人に尊敬されていた。プライベートでも近隣住民を始めとして好かれていた。本当に人柄が良くて、人望が厚い事を幼心に理解した。日々関係なく、見掛けると度々呼び止められては和やかに対応していた、話題豊富で、飽きさせる事無く。
 そんな父は躾や礼儀作法に関しては厳しかった。少しでも反すると怒られた。怒鳴ったり、気性を荒げない人で、冷静に、それでも深刻な面持ちになり、理詰めしないようにゆっくりと諭された。理不尽な要素が全くなく、だからこそ好きだった、大好きだった。
 家庭にも思い遣りを持ち、優しい人だったと俺は断言出来る。仕事を終えて帰ってきた父は必ず遊びに付き合ってくれた、疲れている筈なのに。遊びだけじゃなく、様々な事を教え、勉強にも付き合ってくれて、家族団欒で色んな場所にも連れていってくれた。
 ちょっと恐かったけど、それでも好きだった。博識で人柄が良くて、気配りが出来る上、俺の事を良く見て、育ててくれる父が、好きだった。何時かは、同じ風に成りたかった。頼られる人に、そんな大人に、親に。

 母は真央まお、専業主婦で幼い時間の大半を一緒に居てくれた。昔、食料関係の仕事に就いていたと小耳に挟んだ。近所の人を招いて教室じみた事もしていた気がする。嬉しそうに、楽しそうに料理をしている姿が印象深く残っている。声を掛けると微笑み掛けてくれる、そんな母の料理は全て美味かった。
 おっとりとしていて、常に穏やかにしていた。日向の居間、外の景色を静かに眺める姿が絵になるような人だった。それでも日々の家事はテキパキとこなし、怒る時はちゃんと怒ってくれる人だった。
 悪戯をして俺を怒った後でも直ぐにも遊びに付き合ってくれる人だった。毎日欠かさず、ずっと。一時も嫌な顔をせずに何時も優しく笑ってくれる母が好きだった、大好きだった。何時までも一緒に居たいと思っていた。
 家庭に人を招ける母は近所とは当然かなりの友好関係を築いていた。御人好しでもあったと思う。ある日に迷子になり、怪我をした子供を甲斐甲斐しく面倒を見、優しく、根気強く話し掛けて家まで送り届けた事もあった。
 それぐらいに優しくて、優しく抱き締めてくれる母が好きだった。何時までも傍には居られない事は子供ながらに理解していた。それでも、ずっと一緒に、笑いながら暮らして生きたかった。

 そんな両親の元に俺は産まれ、二人に育てられて充実して快適な毎日を過ごしていた。俺はそう思っていたが、父と母に関しては少々違った感想を抱いていたかも知れない。もしかしたら、俺の悪戯に頭を悩まされ、困っていたかも知れない。時々、友達と喧嘩し、それがちょっとした騒動になった時は慌てただろう、心配しただろう。その後は、俺に代わって謝り、後で懇々と問題を突き詰めて諭されて怒られたな。悪いと本当に思い、反省したよ。
 手が焼いた筈のこんな俺でも、父と母は和気藹々と俺に接してくれた。愛情を注いでくれた事は、頭ではなく、本能で理解していた。あの日々の心地良さが、暖かさがそれを物語っていたと思う。でも、そんなものは関係なく、好きになる一方だった、益々に好きになっていった。何時も、一緒に居たいと駄々を捏ねた事もあるぐらいに。
 その頃は特撮テレビドラマのヒーローものにのめり込んでいた、夢中だった。決まった時間に放送され、テレビに齧り付くように見て騒いでいた事を覚えている。そして、見ている最中、見終わった時は感情が昂り、感化されて、必ず両親を守る、悪い奴を寄せ付けない、そう豪語していた。
 それに父と母は嬉しそうな顔で、『期待しているよ』と言って頭を撫でてくれた。本心で言っていたので、何だか馬鹿にされている感じがして、ムッとして怒っていた気がする。それが後々で自分自身を苦しめるなんて、微塵にも思わなかった。
 今になって思い出せば、言わなければと再三に悔いてしまう。それでも、その時までは幸せだった。これ以上に無く、幸せに暮らしていた筈なんだ。

 あの日、雨が降っていた。その日を含めた三日間は梅雨前線が停滞し、自分が住んでいた地区、県全体は雨雲に覆われていた。豪雨とも小雨とも言い得ない、ごく平凡な降雨だったと思う。どんな雨でも、俺にとっては邪魔な雨にしか思っていなかったと思う。
 自宅には庭があり、その一部には花壇があった。母は花が好きで、その世話も好きだった。庭の一部を花壇に変え、種類様々な花を植えて楽しんでいた。日々見ても色鮮やかに咲き乱れていて、時折傍で見つめていたのを覚えている。
 花の世話は降雨でも関係なかった。傘を差してまで欠かさずに、丹念に行っていた。数少ない趣味の内とは言え、その真剣さに何時も不思議に思っていた。今思えば、それもまた母の性格と言える。几帳面であり、一つの事に没頭する人だと。
 それでも、雨が降ってしまえば水遣りの手間が無くなる。他にも外掃除等も。その分の時間を遊びに費やしてくれた。だから、寧ろ雨の日になれば嬉しく思った事が多かった、と思う。
 雨の日は何時も友達の家に行く事を止められていた。当然、不服に感じていたのだが母が遊んでくれるのでそれほど不満は抱えなかった。一緒に遊んだり、花を鑑賞したり、一緒に料理を行ったりと楽しかった。
 あの日は休日の為、大抵の家庭には家族の全員が揃っていたと思う。俺の家も例に洩れず、父の会社は休日で家に居た。休んでもいいのに遊んでくれたので、とても楽しい、充実した一日だった事は、今でも覚えている。二人とも笑って遊んでくれて、至福の一時、そう思える。思って、仕方ない・・・

 時間が経って夜になった。夕食時、母の手料理は、何時も美味しかった。父と母と共に食卓を囲み、一家団欒の一時だったんだ。父が話す面白い話や勉強になる話を母と一緒に笑って聞いて、俺は学校での面白い話や武勇伝で両親を笑わせて、母が作った料理を絶賛して、とても楽しかったんだ。笑顔が絶えず、心が躍り続ける最高の時間だったんだ。
 だが、幸せな時間は、楽しい時間は崩れる。それも思いがけない事で、不測の、考えたくもない事で。人生なんて、現実なんて、そんなものなんだろうな。理不尽、それは突然に訪れる。
 騒音が鳴った。ガシャン、と何かが割れる音が、俺達が居る部屋に鳴り響いたんだ。俺は何が起きたのか、分からなかった。それでも、音がしたのはリビングの引き窓、俺の後ろだと言う事は分かった。だから振り返った。すると、全く見覚えの無い人間が立っていた。窓を叩き割り、室内に侵入して。
 明らかに様子がおかしかった、記憶が摩耗してもそれだけは覚え続けるだろう。腫れ上がったように真っ赤な顔、身体はふら付いて、正気でない事は一瞬で分かった。スーツを着ているが乱れ、所々濡れていたのは雨の所為だろう。頻繁にしゃっくりを繰り返し、その手に有り得ない何かを持っていた。あの時は気付けなかった。でも、分かる。あれは、包丁、だった。それ以外の事は分からない。とても、落ち着いて居られなかったから。
 侵入した男に俺は怯えた。すぐさま母が静かに抱き寄せた。優しい声で宥められた気がする。でも、それよりも、落ち着かせようと近付いていく父の姿を見つめていた。ただひたすら、怖かった。何に置いても怖くて、何も考えられなかった。
 様子からして酔っ払っていたと、泥酔、だと思う。呂律が回らず、訳の分からない言葉を口走っていた。その男に父は優しく話し掛けていた。そうしながら、背中に回した手を忙しなく動かしていた。今なら分かる、あれは母に逃げろと指示していたんだ。
 母に連れられて、俺はゆっくりと部屋を出て行った。刺激しないようにゆっくりと、父が男の視界に入れないように遮ってくれたから気付かれなかった。そうして、俺と母は廊下に出たんだ。
 怖くて仕方がない俺を、母は震える手で覆いながら玄関前に、其処に設置した机に移動した。卓上電話を置いていたから、通報する為に。繋がると母は震える声を殺し、状況を簡潔に伝えていた。その時の俺は怖いと言う思いしかなかった。安心したくて、母に必死にしがみ付いていた。だから、この時の記憶は曖昧だ。
 通報し終え、受話器を戻した時、怒号が響いた。叫び声、悲鳴も聞こえたんだ。激痛で耐え切れず漏れたそれ。その声に驚いて、母と同時に振り返った。俺は叫んでしまった、父の名前を。それが場所を教える事になった。咄嗟に母が口を塞いだけど、遅かった。
 部屋から、あの人間が出てきた。のっそりと、その姿が人ではないように見えて、俺は口から声のような何かを出していた。曖昧になっているが、スーツは、あの顔は、あの手には赤い液体で汚れていた、濡れて滴っていた。それだけで答えは明確だった。理解、出来なかった。いや、本当は気付いていたと思う。だから、俺は、叫んでいたんだ。
『・・・逃げなさい』
 怯えて竦んだ俺に母は逃げるように促していた。その声は遠くから聞こえてくるサイレンよりも強く聞こえ、俺は首を強く振った。絶対に嫌だって、必至に。子供なりに、この後どうなるのかが分かっていたんだ。多分、だからこそ、自分が守りたいって思いもあった筈だ。
 だが、近付いてくる姿と母の緊迫した様子に、従うしかなかった。正義感よりも恐怖が勝り、言われた通りに逃げ出した。覚束ない足で全力で玄関に。靴も履かず、扉を開けようとした。でも躊躇ってしまった。母を置いて逃げて良いのかと。
 振り返ると、腕を広げて立ち塞がる母の姿が映った。その母に、汚れた姿で近付く姿も映った。その光景に俺は叫んだ。多分、近付くな、倒してやる、と言ったと思う。そして、無謀にも立ち向かおうとしたんだ。
『和也!駄目!!逃げなさい!!』
 そんな俺を制する母の声が叫ばれた。普段から全く声を荒げない母のその声は、良く覚えている。最期の言葉だったから鮮明に。時折、夢で繰り返されるから。
 その声で俺は何も出来なくなった。従うしかなかった。固まった俺の目の前で無慈悲な光景が広がった。抵抗しようとして間に合わず、凶器が母を襲った。
 もう、その行為は人が行うそれとは思えなかった。何度も、何度も、恨みなんかなかった筈なのに、全くの他人だった筈なのに。愉悦に塗れた顔は、何時まで経っても記憶から剥がれない。
 直後に広がるのは赤くなった母の姿、赤い血液が玄関を汚す光景。もう、声すらも出なかった。ただ、現実が信じられなくて、涙が溢れていた気がする。
 そんな俺は、苦しむ声すらも出せない姿を見下ろし、その後に俺を見た顔に震え上がった。薄ら笑み、狂い喜ぶような顔に。
 何もかもが悪夢の中に居るような気がした。気の所為だ、夢なんだって。気を狂わせて叫び、全部を否定したくなる、残酷な光景だった。あの光景を、あの出来事を忘れる事が出来たら、俺は、幸せに暮らせるか?俺は・・・

 それからは良く覚えていない。気付けばびしょ濡れになっていた。警察官に抱き締められて、動けなくされて保護されていた。
 警察の到着は早かった。もう既に通報されていたのだろう。だが、そんな事は今となっては如何でも良い。
 あの人間は捕まっていた。言葉とは思えない声を絞り出し、暴れ続けていた。複数の警察官に取り囲まれ、羽交い絞めにされて連行されていった姿は、うろ覚えに記憶にある。
 野次馬の声で騒がしい中、正気を取り戻した俺は走り出した。気が緩んだ警察官の腕を振り解いて、大人達の間を擦り抜けて、無理矢理に家に入った。一刻も早く、両親の安否を知りたくて、それしか考えられなかった。その一心で、俺は玄関の戸を開いたんだ。それが、俺を、どれだけ追い込むか知らないで。
 玄関に入り、目の前には歪な何かが置かれていた。見慣れた色合いの布か何かで隠されたもの。その時、一瞬で理解してしまった。それが、人の形に膨らんでいたから。
 詳細などで如何でも良かった。それを見ただけで簡単に悟ってしまった。本能が、そうさせるのだろう。説明されなくても、両親が横にされている事を。もう、死んでいる、名前を呼んで、笑い掛けてくれないと。知りたくも、なかったのに。
 俺はただただ、泣くしかなかった。こんな事実を信じられなくて、涙が涸れるほど泣き、声が嗄れるほど叫んでいたと思う。覚えているのは、自分の声と、知らない女性の同情する涙声だけ。
 受け入れる事なんて、出来る筈もない。両親の死なんて、認めたくもなかった。認めてしまうと、あの時の俺は、俺で居られなかっただろう。
 後日、しめやかに、静々と行われた葬式に形だけ出席していた筈だ。遠くで経を読む声がしていた気がする。それが本当に決定的だった。認めるしかなかったんだ。けど、俺は現実をまだ受け止め切れず、個室で一人篭っていた。
 火葬され、骨となった両親を骨壷に納めるのも嫌で、涙で頬を濡らしながら嫌がった。それでも、無理矢理させられた。もう、その時の記憶なんてほぼ残っていない。自分の声と、知らない声しか。

 両親を喪った、そんな俺でも辛うじて元気に保って、居られたんだ。それは幼馴染の親友と母方の老夫婦の存在だった。親友は、あいつは親を喪った俺に変わらず接してくれて、祖父ちゃんと祖母ちゃんは懸命に慰めてくれて、親代わりになってくれた。そのお蔭である程度苦しみと悲しみは安らいだ。何とか元気で居られたんだ。だが、現実は、常に非情だった、憎む程に。何で、俺は生き続けているのか、分からなかった。

 時間は流れて俺は成長して、事件の前と同じぐらい明るい一般的な高校生になっていたと思う。俺は親友と、あいつと同じ高校へ何とか進学して、一緒に通っていた。学生生活を充実し、満喫していた筈だ。親友と楽しい日々を過ごしていた。支えてくれたあいつに感謝し、二度と来ない日々を大切に過ごしていたんだ。そう、このまま続いてくれたら、それで良かった。痛みが消える事は無くても、それ以上苦しみたくなかった。
 その日も雨が降っていた。多少強い雨だった。地面に叩き付けるようなものじゃなくても、傘を差すと衝撃が感じ取れるぐらいの強さがあった。そんな雨の中を親友と面白おかしい話を広げて、似たような色の傘を差して下校していたんだ。
 分かれ道に差し掛かった。何時もはそれで別れるのだが、その日だけは違って執拗に家に泊まるように誘った。その日、親代わりの祖父ちゃんと祖母ちゃんが結婚四十年の記念として旅行に出かけていたんだ。だから、家に帰っても一人、淋しくて一人で居る事が耐えられなかったんだ。暇なんだと、その気持ちを誤魔化して必死に、必死に誘ったんだ。
 あまりのしつこさにあいつは折れてくれて、泊まってくれる事を約束してくれた。当然、嬉しかった。一人で居られなくなった事は元より、あいつと居れる純粋に嬉しかったんだ。恩を少しでも返したかったから。そうして、一緒に自宅に向かったんだ。
 もし、誘わなければ、後悔し続けても意味が無いのは分かっている。でも、もう遅い。その時の俺の気持ちを抑える事なんて、あの時の俺を責める事なんて出来ない。でも、悔いるしかないんだ。
 数分があっと言う間に経ち、俺達は自宅付近の交差点に差し掛かった。学校を出てから続く話を広げながら、青色の信号機に変わった事を確認して横断歩道を渡った。渡り切った時、あいつが横断歩道に何かを落とした事に気付いた。それが何かは覚えていない。
 信号を見るとまだ青色、渡っても良い状態。急いで拾いに行く姿を俺は嘲て笑っていた。それに言い返すあいつの顔、笑いを零していた。あの時までは楽しかった、本当に楽しかったんだ。
 近付いてくるのに気付かなかった。車が走る音や激しい雨音に紛れて、まったく気付かなかった。気付いていれば、何度も、何度も繰り返して思った。あの日を過ぎてから思わなかった日は無かった。何時も、何時も俺は後悔するしかない。
 落とした何かを拾い、掲げて誇らしげにするあいつはとても楽しそうにしていた。それを見る俺は笑って待っていた。
 信号を一瞥し、青である事を確認して戻ってくるあいつの横から何かが通過した、俺の目の前を通過した。巨大で長方形のもので、軽く俺の長身の倍以上はあった。それもそうだ。それは生物ではなく、大型自動車なのだから。
 それが雨音と轟音と共に通過した後、あいつの姿は横断歩道に、居る筈の場所に居なかった。その時、辺りの空間がやけに静り返ったのを覚えている。何が起きたのか分からなかった。呆気に取られていると静寂を割くように落下音が鳴り響いた。俺の耳はそれを的確に聞き取った。方向は向かって右、交差点の中央辺り。
 直ぐにも確認した。すると、黒く長い物体を発見した。辺りに目立つ赤に囲まれるように倒れていた。その赤は雨に流れ、薄まりながらも黒い物体から溢れ、尽きる事は無かった。それは如何見てもあいつが、親友が横たわっている姿にしか見えなかった。どんなに目を凝らしても、擦って確認してもその事実が揺らぐ事は無かった。揺らいで欲しかった、のに。
 それを見た俺は何もかもを投げ出した、肩から提げていた学校指定の鞄、持っていた荷物、何もかもを。気付けば道路に飛び出していた。慌てて跨いだガードレールに足を引っ掛けて顔から倒れた。痛かった、痛かったけど、そんなのを気にしている場合じゃなかった。雨で服がびしょ濡れになっても、傷だらけになったとしても、関係なかった。一心不乱にあいつの傍に駆け寄って行った。夢の中に居るような感覚に襲われ続けて。
 交差点の中央付近で倒れるあいつは力なく横たわるだけ。抱き上げたその身体はすっかりと濡れ、重かった。顔が反り、全身に力が入っていなかった。微動だにせず、ぐったりと四肢は垂れるのみ。
 生きていて欲しかった。なのに、来ている気がしなかった。だから、彼の口に手を近付けた。雨に邪魔されて良く分からなった。必死に確認しても全くに感じられなかった。慌てて次は心臓部分に手を当てて確認した。それが決定的だった。服越しでも分かってしまった、鼓動が無いと。
『嘘だろ・・・なぁ!?』
 そう言った、叫んだと思う。声も震えていたと思う。信じられない、信じたくなかったんだ。あいつが死んだ、なんて。まだ、礼を言っていなかった。あの時、支えてくれた事の礼をちゃんと言っていなかったんだ。言いたくても、認める事が怖くて言えなくて。だから、お前のお蔭で助かったんだって、面に向かって言っていなかったんだ!なのに、あんなのってないだろ。何で、あんな事になるんだよ。
 車に乗っていた人達が降り、歩行者達が集まってきた。皆、事故が起こった事を知り、集まってきた。でも、誰も救急車を呼ぶ素振りをしなかった。野次馬達、だった。いや、もしかしたら見えていない場所で呼んでくれていたのかも知れない。その時の俺の視界にはその動きは全く見えなかった。それが恨めしくて、腹立たしくて・・・
『早く、救急車を呼んでくれ!!誰でもいいから、早くッ!!早く、してくれよ・・・』
 そう言った、叫んだ。俺の叫びは虚しくも響き渡らなかった。降雨に掻き消された。そして、ただ息絶えたあいつの身体を力強く抱き締める、しかなかった。血を止めたいと望んでも、意味がないと分かっていたから。良く、覚えていないが、言葉を掛けていた筈なんだ。でも、反応が無く、項垂れる姿と直面するしかなかった。

 十数分後、救急車が現場に着き、あいつは病院に搬送された。俺はどうしてもと同乗し、最寄の病院に向かっていった。最寄でも着くまでが長く感じた。一秒でも早く、応急処置を行っている光景を見ながらずっと思い続けていた。
 病院に着き、救急隊員の人達が集中治療室に搬送する。それを見送り、願うしかなかった。案内され、その病室前のソファに座って、待った。灯った緊急治療のランプを凝視して。必死に願った、祈った、あいつが生きている事を。助けられた事を、重傷でも笑顔を見せてくれる事を祈り続けていた。
 途中であいつの両親への連絡すべき事を思い出した。受話器の向こうで二人は凄く、動揺していた。無理もない、息子が事故に遭っただなんて。何とか伝え、二人が着いたのはそれから数分後。その直後に、結果を言い渡された。
 ずっと、俺は祈り続けていた。だけど、そんなのは、気休め、自分の慰めでしかない。その数分後、死亡が確認され、告げられた。あいつの両親は辛かった筈だ。でも、俺はそれを考えるよりも悲しみに暮れた、ずっと泣き叫んでいた。こんな現実を、否定し続けて。でも、これだけで不幸は終わらなかった、終わって欲しかったのに・・・

 旅行に行っていた祖父ちゃんと祖母ちゃんが亡くなったとの連絡が、その日の夜に届いた。有名な寺を巡る途中に乗ったタクシーが事故に遭ったと。搬送されたが、敢え無く死亡した、と。詳しく言われたのは、信号待ちしていた処に、後方から暴走車が突っ込んだそうだ。結果、前の車と挟まる形になったと。タクシーの運転手と暴走車の後部座席の若者は辛くも助かり、祖父ちゃんと祖母ちゃん、暴走車の運転手は重傷だった。
 暴走車の運転手の方は若かった所為か一命を取り留めた。でも、老人には厳し過ぎた。もう身体は比べて脆くなり、重症に耐える体力もない。苦しそうに息を引き取ったのだと、連絡してくれた病院関係の人の声に力が無かったのを覚えている。

 これで俺はまた喪った、自分を支えてくれた大切な人達を。大事な人を目の前に居たにも関わらず、守れなかった。最期を看取る事も出来ずに、喪った。胸の奥で芽生え始めていた決意を嘲笑い、虐げるように。運命は残酷なものだ、常に残酷で非情で儚くて・・・
 自分でも分かる、心を閉ざしていったと。そして、何時しか死ぬ事を考え始めていた。そうすれば忘れられると。だが、それすらも出来ず、自分の勇気の無さにも恨みを募らせていった。そうすることで自分を慰めても居た。
 俺は、喪った悲しさにその地を離れた。悲しさしか残らない場所から逃げたくて。色んな手続きは覚えていない。俺の次の保護者に切願して。その人の事はよく覚えていない、俺に残された遺産が目当てだったかも知れないから。やけに、それに気に留めていた印象があった。
 そうして別の地に渡り、別の高校に転校して、日々を過ごそうとした。その矢先に、俺は、あの阿呆に会ったんだ・・・

 それは晃、現ガリードと出会う以前の簡単な経緯。出会うまで、彼の内に降り続けていた雨は止む事がなかった。だが、出会ってもその胸に燻り続ける後悔と懺悔を打つ雨は途切れなかった。
 だから今も、これからも雨は続くだろう。地を抉るようにか、それともしとしととただ揺らすようにか。どちらにしても、降り続けていくだろう。彼が、彼自身を許すまでは、ずっと・・・

【2】

 暖かい。身体を包む、仄かな暖かさ。全身を包む柔らかなものも感じる。それがとても心地良く。似たような感覚は、身をジワリと温めてくれる暖かさは久方振りだと、ぼんやりと思う。そう、魘される彼にとっては、何時以来か。
 パチパチと何かが弾けている音で山崎は目覚める。堰き止められていた息を吐き、漸く解放されたかのように呼吸を繰り返して。
 ややぼやける目を擦って視界を鮮明にする。その視界が木造の天井を捉えた。
 薄暗いその天井は赤茶色、綺麗に切り揃えられた木材は木目の向きを揃えられる。温かみのあるそれは記憶にない。凝視などしないそれだが材質からして見覚えがなかった。詰まり、今が居る場所は知らないと言う事。
 まだ状況に追い付けず、不思議に思いながら身体を起こそうとする。一先ず、今居る場所を確認する為に。そうして腕を動かした瞬間だった。
「ッ!!」
 途端に激痛に襲われた。右腕に強烈な痛みが駆け抜けた。それだけでなく、横腹にも引き千切れそうなほどの痛みが発した。その為、右腕、脇腹を押さえ、唸りながら悶え苦しむ。動けば更に痛みが発し、苦しみが続く。けれども、泣き喚くほどの耐え切れないものではなかった。
 全身に力を篭めて気張り、息を漏らしながら上体を起こす。無駄に腹筋等を力ませた為、起こした直後は呼吸が乱れていた。身に走る激痛に歯を食い縛って我慢する。一々の動作で痛みは発し、動作は都度に滞る。重なる痛みに、彼の面には既に汗が滲み出ていた。
 呼吸を繰り返し、自身の調子を整えようとする。その時、自身の違和感に気付く。上体がやや寒く、身体に何かが巻かれていると。確認すれば一目瞭然であった。
 上体は裸にされ、腹部に包帯が巻かれていた。何時の間にかややきつく巻かれており、右脇部分が赤色が滲む。その箇所は貫かれた場所と一致する。それを見て、自身に起きた事を思い出し、表情が険しくなった。それは怒りではなく、焦り。
 一度思い出せば焦りが募り、今の状況よりも優先する事に思考が埋められる。それを確認しようと寝かされていたベッドから出ようとした矢先、その動きが止められた。見渡して発見した、部屋を隔てる扉が開けられたからだ。それに気を取られ、踏み入ってくる誰かを睨むように眺めた。
「うん?ほう、起きておったか」
 入室し、声を出した者は老人。険しき面持ち、声から敵意が感じられる彼の外見に見覚えを抱く。ローブ、薄茶色一色のそれは怪しさを醸し、同時に不穏な印象も抱いてしまう。それは魔女のよう、そう見えて。
 浅く被ったフードから見える顔は歳相応の皺を刻み、かなりの拒絶感が見える。その顔、口元と顎には立派に蓄えられた髭。まさに、長老や村長と言った貫禄が窺えた。
 やや腰が曲がっているもののしかと立ち、部外者である山崎に見せる敵意や立ち振る舞いから長か、それに順ずる者だと想像出来る。
「・・・この家の、者か?」
 今、自分が居る場所が単なる小屋ではない事は確か。数々の家具が置かれ、小さいながら暖炉が設置されている。ならば、行き着くのは住居だと。
「いかにも、そして儂はこの村を治めている者だ」
 それは外見通りの人物であり、明かした事で放つ敵意は強まった気がした。
「村・・・いや、それよりも!ッ!!」
「いきなり何をしておる。逃げる気か?」
 会話よりも状況把握よりも優先すべき事柄を思い出して立ち上がろうとする。その意思を、彼の身体が邪魔するように激痛を感じさせた。
「女性が居た筈だ!年齢は分からないが、居た筈だ!あんたと、同じ格好をしていた!彼女は、今何処に居る!?」
「・・・それを知っていかにする積もりだ?」
「彼女は怪我をしていた!襲われていたんだ!助けようとしたが、途中で気を失ったんだ。それ以降の事が分からない!如何なっている!?知っているなら教えてくれ!!」
 そう、優先すべき事柄は女性の安否。あれ以降、またあの二人組が戻ってきた恐れもあり、今目の前に居ない事が不安で仕方なかった。それを知ろうと自身の状態など度外視した。
「何を慌てておる。お主は今、如何なっているか分かっておるだろう。そもそも、それを知って如何する・・・」
「俺の事は如何でも良い!!知っているなら教えてくれ!!」
 距離を置きつつも制止しようとする老人を、山崎は切迫した面持ちで詰め寄る。その姿勢に老人はやや圧倒されて少し後退る。
「先ずは落ち着け。それで気が済むなら、教えてやろう」
 身体を引き摺ってでも確かめんとする姿に、老人は訝しみながらも応じる。その面に偽りが感じられないと判断しての事だろう。
 告げられ、漸く落ち着きを取り戻した山崎は再度ベッドに身体を預ける。其処で重なった痛みに苦悶する。その姿を眺めながら小さく唸りながら老人の口は開かれる。
「・・・お主の言う女は此処の村の者、若者の一人。命に別状はない。多少血を流しておったが、此処に居る。手当もしておる、お主が気を逸らせる必要などない」
「・・・そうか。そう、なんだな」
 漸く、助けられた者の安否を知った山崎は脱力する。痛みも悲しみも何もかもを忘れ、ただ無事に対して安堵する。それだけが心の拠り所と言うように、安心し切った表情となる。
 その山崎の姿に老人は黙して見つめる。皺を寄せた眉間、鼻筋を吊り上げ、睨むような表情。敵意を感じる面が、険しくする皺が少しだけ緩んでいた。
「それと、手当てをしてくれて、感謝する」
「ふん、あの娘がどうしてもと言ったから、仕方なくした事だ。でなければ、お主は今頃野垂れ死んでいただろうな」
 あくまで老人は山崎を部外者以上に、敵と見做して会話を行う。そうされる覚えがない山崎は気に留めるのだが、それには触れずに周囲を見渡す。
「此処は、何処になるんだ?」
「知って如何する?・・・まぁ、良い。此処は、魔族ヴァレスの村になる」
魔族ヴァレス・・・」
 最近聞いた言葉に甦るのは沼地地帯の村での一件。思い出し、表情に憎しみが過ぎる。
「何だ?忌むべき魔族ヴァレスと知って嫌悪感を抱くか?それとも何かしらの思惑が叶ったと思っているのか?」
 その発言は山崎、ではなく、彼の種族を指す人族ヒュトゥム自体に敵意を抱いてのように思えた。そう、不信感のままに。
「思惑?」
 人を見下して嫌味を言う老人の言動が気に触った。少し腹が立ち、声に怒気が混じり始める。
「それを問うか?そもそも、人族ヒュトゥム魔族ヴァレスを救うなど、酔狂とも思えぬ。何かしらの思惑があったとしかな」
「何でそうなる?思惑?何でそんなに俺を疑う?俺が何を企んでいると言うんだ?」
 意味が分からないと顔を顰める山崎。その反応に老人もまた怪訝な表情で睨む。
「・・・奇妙な反応を示すのう・・・お主、儂等とお主等、人族ヒュトゥム魔族ヴァレスとの関係を知らぬ訳では在るまい?」
 それを問われ、頭の中に浮かんだのは沼地地帯の村での一件。メギルの人間が魔族を迫害しても良い存在と見做し、傷付けていた事を。それから少しだけ察していた。
「・・・確かに、助けた時、そんな事を言われた。だが、それが如何したんだ!何の関係がある!?人族ヒュトゥムだの、魔族ヴァレスだの、それが何だと言うんだ!する事自体がおかしいだろ!!」
 憤り、その考えなど一切持っていない事を叫ぶ。それどころか、種族、或いは名称だけで迫害する事に嫌悪感を示す。それに老人は小さく唸る。
「・・・ともあれ、お前を此処から出す訳にはいかん」
「・・・何でだ?」
「先も話したであろう。人族ヒュトゥム魔族ヴァレス間の関係は最悪、ただでさえ、儂等は迫害される身。お主一人でも出してしまえば漏洩してしまう恐れがある。その時、如何なるか、分かったものではない。それだけは避けたいのでな」
「俺はそんな事は・・・」
「お主がそう言っても、儂等はどうやって信じると言うのだ?案ずるな、命までは奪わん」
 其処に交渉の余地など見られなかった。はっきりとした溝、いや深き崖のような隔たりを感じた。
「・・・な、なら、せめて、俺が生きている事だけは報せてくれ!」
「何を馬鹿な事を。そんな事を、させる訳が・・・」
「頼む!」
 自身の状態を無視し、切願して頭を下げる。万全の状態なら肩に掴み掛かって揺さぶるほどの必死さ。それに敵意を示す老人も流石に少したじろぐ。
「・・・何故、それに執着する?」
「・・・最近に、俺は恩人を、喪わせて、しまったんだ」
「!・・・」
 途端に表情に陰を落とし、呟かれた返答に老人は言葉を詰まらせる。その点について疑わず、憂う面に追い打ちを掛けるように、冷たい事は言えなかった。
「あいつは・・・俺の知り合いも同じ時に救われた。だから、同じように悲しんでいる。なのに、更に俺まで居なくなったら、行方が知れなくなったら・・・これ以上余計な気持ちは抱えさせたくない。手紙だけでも、俺が無事だと言う事だけは、伝えさせてくれ。頼む!」
「・・・必ずとは言えんが、考えて置こう」
「ありがとう」
「礼など、要らん」
 山崎の必死な思いに折れ、善処する意思を示される。それに山崎が深々と頭を下げていた。断られても深々と。
「どの道、お主は此処から出られない。それだけは忘れるな」
「・・・なら、俺が出来る事はあるのか?」
「何?」
「こうして助けられた身だ、恩返しをしたい・・・俺なんかで、出来る事があれば良いがな」
 少し自嘲的な態度を取るのはレインを守れなかった後悔が強く。その発言、表情に老人は怪訝な表情で睨む。疑うような視線は下ろされ、硬く握り締める右手を、右腕へと移された。変色し、今にも崩れ落ちそうなそれを。
「・・・そのような、腕で、か」
「っ!・・・」
人族ヒュトゥムの身で、愚かにも魔具トゥヴァーセを扱いおって。何処でそれを拾ったかは知らぬが、浅はかな・・・」
 老人の目が山崎付近を、彼が今使うベッド付近の壁に立て掛けられた剣を捕える。黒を主とし、禍々しい形状をしたそれを見て、少しばかり懐かしむような顔をして。
「・・・まぁ、良い。其処まで言うならば雑用をこなして貰おう。儂等とて、人族ヒュトゥムを置くにしても穀潰しは邪魔なだけだからな」
 溜息が零される。ささやかでも此処での役割を得た山崎は肩から力を抜く。今の望みも叶いそうであり、救えた女性の安否も知れ、憂いが無くなって漸く本当に安堵する事が出来ていた。
 安心すれば顕著に存在を示すのは痛み。今迄の遣り取りで忘れていたそれが一気に込み上げた。途端に声にならない呻き声を絞り出して蹲る。襲い掛かるそれに耐え、根本的な原因を解決する為に山崎は頭を動かす。
「お主の荷物なら其処にある。一度、中身は改めさせて貰ったがな」
 山崎の動きに察したのだろう、そう教えてきた老人の視線を追い、傍の小棚に置かれたウェストバッグを発見する。直ぐにもそれに手を伸ばし、フェレストレの塗り薬を取り出した。
 鼻腔を刺すような爽快感を伴った独特の匂いを放つそれを、包帯をずらして晒した傷口に塗り込む。当然痛覚は鮮烈に伝える。まさに異物を塗り込んでいるのだ、涙が溢れずには居られず。
 脇腹の表裏に塗った後、ぜーぜーと息を切らしながら包帯を巻き直す。その様子に、やや顔を顰める老人は口を重く閉ざす。流石に痛がる姿は見るに耐えないだろう。
「ともあれ・・・今日はもう、遅い。寝て、少しでも身体を休めておけ・・・そう言えば、お主の名を聞いていなかったな。名は?」
「・・・俺、は・・・」
 名前を問われ、繰り返していた呼吸が一時的に止むほどに葛藤に囚われた。無力な自分自身を心底嫌悪する。和也、その名前は両親が自分を想って付けてくれたもの、自分が自分である証。それを名乗る事が烏滸がましく感じてしまう。そして、その名前自体が負い目になっていた。
「・・・トレイド、だ」
 僅か数秒だが、悩み抜いた彼は二つ目の名前を名乗った。隠したいのではない、それは逃避。過去の自分から、記憶から少しでも逃れようと、目を逸らそうとしての、自分自身に吐いた嘘であった。
「そうか。なら、トレイド。明日の事はまた明日に話す。もう寝るのだな」
 彼の葛藤には気に留めず、顔を険しくさせたまま立ち上がる。種族の象徴とも、或いは特徴とも言えるローブの裾を引き摺りながら部屋を立ち去っていく。部屋の戸が閉じられた後、静けさがその部屋を包み込んだ。
 その後を見つめ続けていた山崎和也と言う名から逃げた彼は物思う。憂いを帯び、硬く口を閉ざして。その耳に届くのは薪が燃え、含まれた僅かな水分が弾ける音のみ。
 部屋を暖める暖炉には小さく燃え盛る火が揺らめく。その温かみのある、穏やかな日常に寄り添う音が部屋に響く。それだけが、今の彼に平穏を齎していた。今置かれた状況を、少しの間だけ忘れさせていた。
 半身が裸の為、寒気を覚えた彼はベッドに、掛けられた毛布に潜り込んでいく。温もりを求めるように。
 暗さが濃くなっていく部屋の中、溜息を一つ、弱々しく吐かれる。その彼は急激に眠気に襲われていた。それは塗り薬の副作用でもあり、変化する環境に心的疲労が蓄積しての事だろう。
 身体をベッドに預けて双眸が閉ざされる。直ぐにも訪れる闇に意識を預け、溶け込んでいく。その面に険しさはない。苦しき状況に置かれている事は彼自身理解している。そうなるのは不思議な温もりを感じての事。少しばかりの懐かしさがそうさせ、瞬く間に微睡に落としていった。

 人は誰かと出会う。出会いは様々に、抱く印象もまた千万に。交わすのは言葉だけではない、互いの思想を探り合う事もあるだろう。因縁があれば、或いは偏見があれば敵意を以て接し、壁を隔てて警戒する。
 その隔たりは簡単に変えられるものではない。それは子孫にも続きかねない怨恨。それは今居る彼等には関係ないと言うのに。
 それを前にして、知らぬ彼は、拘らない彼は小さく憤った。その思いは如何繋がるのか。それは誰にも分からない。ただ、それが光明になる事を信じて。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

病弱が転生 ~やっぱり体力は無いけれど知識だけは豊富です~

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:482pt お気に入り:2,159

【完結】私たち白い結婚だったので、離婚してください

恋愛 / 完結 24h.ポイント:13,461pt お気に入り:321

とりあえず離婚してもらっていいですか?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:26,638pt お気に入り:295

転生王子はダラけたい

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:9,577pt お気に入り:29,405

さらば、愛しき夫よ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,030pt お気に入り:15

あなたの愛はいつだって真実

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:154,408pt お気に入り:2,603

魔法道具はじめました

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:428

私の人生は私のものです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:107,193pt お気に入り:4,159

処理中です...