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第二部「回顧」第1話
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応仁二年。
西暦にして一四六八年。
京の都を中心として、世の中が大きく動いていた。
それは後に〝応仁の乱〟と呼ばれることになり、やがて戦国の世へと繋がっていく。
そんな戦乱がいくつもの地で続いていた。
もはや何が事の起こりだったのかなど、誰も覚えてはいない。
血生臭い時。
日々聞こえてくる話には、その先の平穏を願う意識すらも薄れていた。
そんな時代の波の中。
とある地方。
小さな神社があった。
御陵院神社。
歴史は長い。
元は京に近い地の神社の巫女が作った社だったという。
〝力〟の強い巫女だったと伝えられていた。
〝憑き物〟或いは〝祓い事〟のみを行う社。
何故にその巫女がそんな神社を求めたのかは伝えられてはいなかった。
森の中に佇む小さな社。
人里離れ、知らぬ者が殆ど。
この頃まで時が流れ、すでに代は十一。
当主は御陵院蓮世。
三姉妹の長女だった。
御陵院家に産まれるのは女のみ。必ず三姉妹。その代の一番の〝力〟の持ち主が当主を継ぐ。残る二人が神社に残ることもあれば、他所へ嫁ぐこともあった。
蓮世の二人の妹は嫁いで長い。
蓮世もすでに五十に近付く齢。
娘はやはり三人。
長女、麻紀世────齢、二二。
次女、亥蘇世────齢、二一。
三女、御簾世────齢、二十。
すでに誰の頭の中でも次の代選びの事が渦巻いていた。
しかし、誰もが当主の座を欲しがっていると思っているのは長女の麻紀世だけ。長女ということも関係しているのか、麻紀世が一番政治願望が強かった。幼い頃から続く荒業にも一番積極的に参加してきたのは事実。自覚も早い。そして自分が一番の能力者だという自負があったものの、それを最終的に見極めるのは母の蓮世。
そんな中、そんな麻紀世の興味を刺激する噂が、京の都を中心に広がっていた。
京の都の、ではない。しかし世の中の中心地であるということは情報の中心地でもあるということ。
それは、ある人物と〝組織〟の噂。
最初に広まった名前。
〝清国会〟────。
戦乱の世を憂い、帝を奉って新しい日の本を作ろうとする組織。
中心になっていたのは地方の小さな社────〝雄滝神社〟。その小さな神社が全国的な神社組織を束ねていた。
麻紀世が興味を持ったのも無理はない。どうしてそれまではさほど知られてもいなかった小さな神社がそれほど大きな事を成し遂げる事が出来たのか。御陵院神社と何が違うのか。
やがて麻紀世は、その理由を知る。
〝金櫻鈴京〟────。
清国会の中心人物。
そして────〝天照大神様の血を引き継ぐ唯一の人物〟。
帝は真に天照大神の末裔ではない────それが清国会の真の教義そのもの。
もちろん反発する声はあった。帝だけでなく幕府への反発であると。だからこそひっそりと清国会は広まった。多くの神社が、幕府に擦り寄りながらも清国会────強いては金櫻鈴京に惹かれていった。
麻紀世もその一人。
金櫻鈴京に会ってみたかった。
天照大神の真の末裔────。
日の本の中心たる人物────。
「その……金櫻…………」
母の蓮世のその言葉を、向かい合わせで膝を降ろしていた麻紀世が拾う。
「────鈴京様です。天照大神様の真の末裔と言われている御方…………」
「それを真とする確証は────?」
「では母上は────」
間を置かずに応える麻紀世は自信に満ち溢れた口調で続けた。
「話を偽とした場合…………多くの社が騙されていると?」
麻紀世の口角が小さく上がる。
その口元から目を離せないまま、蓮世は膝の上で重ねた両手に汗が浮かぶのを感じていた。
──……麻紀世は何を……求めている…………
「麻紀世…………清国会の真の目的とは────」
「日の本に真の〝神〟を降臨させる事…………」
自信を伴った麻紀世の応えは早い。
「……危険な思想です…………」
蓮世もすぐにそう返していた。
麻紀世は御陵院神社も清国会に属するべきだと考えていたが、蓮世にとってそれは狂信的な感情にしか見えない。
「貴女は長女として社を護っていく立場…………それにも関わらず……帝を…………よもや偽者と申すか」
蓮世は続けて声を荒げる。
対する麻紀世は冷静な口調のまま。
「母上……私は日の本の神たる天照大神様を奉っているのみにございますよ」
「詭弁を────!」
蓮世が立ち上がる。
その巫女服の揺れが空気を揺らし、祭壇の蝋燭の炎を揺らした。
風の無い夜。
真夏の蒸し暑さも過ぎた頃。板戸を開け放した本殿の空気が、僅かだけゆっくりと動き始めた。昼間の霧雨のせいか、辺りを満たすのは草木と土の香り。その小さい筈の匂いすら、巫女服が作り出す風に紛れていく。
麻紀世が開く口が空気を漂った。
「……日の本は変わりますよ母上…………かような戦乱の世のままでは民は疲弊していくばかり……終わらせなければ…………然るに、我等には〝真の神〟が必要です」
その言葉に、蓮世の体は僅かに震え始める。その僅かな衣擦れに続くのは、白い足袋が床を小さく擦る音。
口を開いたのは、その片足に力を込めた蓮世だった。
「……そのような……まるで密教ではないか!」
「否……清国会が新たな幕府となりし時…………御陵院もその中におらずば────」
「その思想そのものが一神教だということが────何故に分からぬか!」
蓮世の声が響く。
麻紀世はその目を見上げた。
僅かに震える蓮世のその両目から、麻紀世はその心を掠め取る。
──……〝恐れ〟か…………相変わらず保守的な御人だ…………
以前より、確かに蓮世と麻紀世の間には意見の乖離が見られていた。それは日々の些細な事の積み重ねではあったが、麻紀世自身が母である蓮世に疑念を積み重ねてきたのも事実。
時代は大きく変化していた。
長く続く日々の戦乱の中で、日の本そのものが疲弊し、人々の求めるものも変化していく。
変化に未来を見る者もいれば、その変化を受け入れられない者もいる。
それまでの時代に縋るようなそんな考え方を、麻紀世は嫌った。自らが継承するつもりの御陵院神社の未来しか見えていない。
蓮世との隔たりは大きい。簡単に埋められる溝ではなかった。
清国会を理由としたこの夜のような二人の言い合いは、今回が初めてではない。
しかし、次女の亥蘇世が祭壇の影で二人の会話を聞いていた事には誰も気が付いていなかった。本来ならば幼い頃から荒業を続けて能力を高めてきた二人が気が付かない筈がない。仮にも〝祓い事〟を専門に行う神社の当主とその娘。
しかし、それを惑わすことが出来るのが亥蘇世の〝力〟────〝幻惑〟。自らの存在を消す事に長けていた。
そして母である蓮世と同じく、悩んでいた。
亥蘇世も例に漏れず清国会の話は伝え聞いていたが、もちろん実際に金櫻鈴京に会ったことがあるわけでもない。何をもって信じるか。もはや姉である麻紀世を信じるしかなかった。
しかし信じるに足る材料が少ない。麻紀世の話だけでは蓮世の言う通りに過激なだけの詭弁。
翌日、亥蘇世は三女の御簾世の部屋にいた。
本殿の建物とは別邸の、小さな部屋だ。
家具と言える物は小さな箪笥の他は机が一つあるだけ。夜に布団を敷けば歩く所も無い。
亥蘇世の部屋も御簾世と同じ別邸にあったが、ここよりは広い。
しかし幼い頃から御簾世に不満は無かった。元々御簾世は物欲という概念が欠落したようなところがある。必要最低限の物しか身の回りに置こうとはしなかった。御簾世に言わせると、巫女として生きていくのに必要な物は自分だけだからということらしい。
それに繋がるのか、御簾世は権力というものにも興味が無かった。神社を継ぐ気などそもそも無い。自分よりも能力の高い姉達のどちらかが継ぐべきだと考えていた。常々自分は三女のままでいいというのが御簾世の想い。
当然のように世間の噂話等に興味を持った事も無かった。
何より、自分に関係の無い事には関心が無い。周囲の人間が自分をどう評価しているのかなど、御簾世自身にはどうでもいい事。
そんな御簾世でも伝え聞いている程に、確かに清国会の名前は知れ渡っていた。しかしその実態を真に知る者は少ない。真実を知る者は口を紡ぎ続ける。その教義も中心となる雄滝神社の名前も麻紀世が調べてやっと辿り着いた。
もしも真実が公になれば、帝に弓を引く組織として幕府からの戦の対象と成り得る。もはや戦乱はその大義が揺らいでいた。もはや誰が起こしたものなのか、誰の為の何の為の戦なのか、誰も思い出すことが出来なくなっていた程。
だからこそ、清国会は密かに広がっていく。
麻紀世の言う事が真実ならば、確かに御陵院家としてもどちらに〝着く〟か考える必要があるだろう。
〝帝〟か────〝金櫻鈴京〟か────。
「貴女はどう思いますか?」
亥蘇世のその質問に、御簾世は予想通りに顔色を変える事は無かった。興味が無いだろうとの亥蘇世の想像通り。
「そうですね…………」
御簾世が淡々と応え始めた。
「それは、どちらを選択するのか、という事でしょうか…………もしくは麻紀世姉様の御調べになった情報をどう捉えるか、という事でしょうか?」
相変わらず無駄を嫌う御簾世らしい言葉。
的を得ている。亥蘇世の問いは麻紀世の話を信じようとするところから始まっていた。
亥蘇世は言葉を詰まらせる。
「そうですね…………」
それだけ言うと、向かいに座る御簾世から目線を外し、膝の先に見える畳に目を落とした。
畳が僅かに赤みを帯びている。
障子からの夕陽の色。
ゆっくりと部屋に入り込む空気の温度も僅かに下がり始めている事を感じた。
そして亥蘇世は、思考を巡らせる。
「麻紀世姉様の御言葉に嘘があるとも思えません……私は常に姉様を信じておりますので…………」
嘘では無かった。だからこそ信じた。それはすでに心酔の域でもある。だいぶ以前から姉妹の関係の枠を超えていた。
そしてその事は、他人に興味の無い御簾世でも気が付いていた事。それでも知ってしまったからとて、御簾世がそれにどうこうと言うつもりは無い。
その二人の関係がありながら、亥蘇世がどうして自分に問いを向けるのか、という事のほうが気になった。
そんな亥蘇世の言葉を受け、御簾世が言葉を繋ぐ。
「亥蘇世姉様……姉様も清国会に与すべきだと御考えですね?」
その言葉に、亥蘇世が顔を上げた。
視界に再び入る御簾世の目は、何かを見透かした〝目〟────。
亥蘇世が知っている、御簾世の〝目〟。
──……我を……〝操る〟気か────
「この話は……また後程に…………」
亥蘇世はそれだけ言うと立ち上がる。
目線を外す理由には丁度いい。
しかし、そこに僅かながら〝恐れ〟があった事も事実。
亥蘇世はそれを隠した事実を悔いた。
その夜、遅く。
麻紀世は自室に亥蘇世を呼ぶ。
御簾世の別邸の部屋とは違い、本殿の建物内にある部屋。
広く、神社の後継者としては申し分無い。
時々、遅い時間、亥蘇世はこうして麻紀世に呼ばれる。今夜もいつもと同じ白い浴衣姿。それは麻紀世の指示。
その姿のまま、亥蘇世は部屋の中心に敷かれた布団の上に膝を降ろしていた。
部屋の中の灯りは一本の蝋燭の炎だけ。
その炎が頼り無げな燭台の上から淡く亥蘇世を照らしている。
空気の揺らめきに合わせて瞬く灯火が、やがて麻紀世の影を大きく亥蘇世の前へ。
膝の着く距離で麻紀世が腰を降ろした。
二人の間の空気を震わせたのは、麻紀世の声。
「……それで……御簾世は……どうでした…………」
僅かに腰を浮かせ、亥蘇世に顔を近付け、麻紀世が囁く。
亥蘇世は麻紀世とは目を合わせない。それもいつもの事。視界に見えるのは浴衣の開けた麻紀世の胸元だけ。
鼓動が高鳴るのを感じながら、亥蘇世がゆっくりと口を開いた。
「…………操られそうに…………なりました…………」
「ほう…………」
すぐに帰ってきた麻紀世の声は、すでに亥蘇世の耳の側。
「それは、我等に与する気持ちは無いということですか…………」
「かもしれません……」
「でも…………」
麻紀世の声が艶を帯びた。
「……御簾世が与したら…………貴女は嫌がるのでしょう…………?」
「そんなことは…………清国会の……金櫻様と……御陵院の為────」
その言葉は、麻紀世の両手が亥蘇世の両肩を掴む事で遮られる。そのまま麻紀世は亥蘇世の背中を布団に押し付けていた。
亥蘇世の浴衣を大きく開き、怯えたようなその目を見つめながら、麻紀世の声が亥蘇世に降り注ぐ。
「……御簾世を……外へ…………我等がここを継ぎ…………清国会へ…………」
「しかし、母上は────」
「継いでしまえば良いのです…………隠居さえしてもらえれば…………先も長くはないでしょう…………」
麻紀世の吐息が、亥蘇世を高揚させた。
左の乳房を包む麻紀世の手の暖かさを感じながら、亥蘇世が感じるのは麻紀世の存在だけ。
──…………姉様と私で…………一緒に…………
体の中で、何かが波打つ。
いつも亥蘇世は、それが何なのか分からないまま。
触れそうな唇の距離。
麻紀世のその唇が小さく開いた。
「……御簾世には……夫婦相手でも見付けてあげましょう…………」
触れた唇に感情を揺り動かされながら、亥蘇世の中で膨らむ不安。
──……姉様もいつかは夫を…………
その心を見透かした麻紀世がすかさず返した。
「心配はいりませんよ……夫など…………子種に必要なだけです」
しかし、亥蘇世の不安は大きくなるばかり。
──……我等を邪魔する者など…………
その気持ちを麻紀世が見透かしたかどうかを判断するよりも早く、亥蘇世は麻紀世の指に落ちていった。
それから、一月も掛からなかった。
本殿の建物。
祭壇のある広い板間を除けば、その他の部屋は総て小振りな部屋ばかり。小振りとは言っても当主である蓮世と麻紀世の部屋くらいの所が数カ所。板場に隣接した食事用の畳部屋も決して広くはない。
女だけで回される神社。
蓮世にももちろん夫はいるが、基本的に共に生活することは無い。
麻紀世の言うように〝子種〟以外に必要の無いものとされ、男用の小さな別邸で生活することを求められる。そこには数名の使用人も暮らしていた。その別邸に入れる女子は蓮世の夫の為の妾だけ。娘が三人産まれると、夫は妾を充てがわれる仕来たりとなっていた。
女子の使用人は亥蘇世や御簾世と同じ別邸。
御陵院神社は小さき社なれど、厳格な仕来たりの下に回されていた。
朝の神事後の食事の場で交わさせる言葉はいつも少ない。
その朝も、いつもと同じはずだった。
しかし麻紀世の作った話題が空気を変える。
「母上」
箸を置いた麻紀世に合わせ、蓮世は顔を向ける前に箸を膳の上に揃えた。
その小さな巫女服の袖の衣擦れの音すら空気を振るわせるような、そんな静かな朝。
そしてそれを見届けるようにして、麻紀世が続ける。
「……これからの事ですが、御簾世の事で少し…………」
その言葉に、御簾世は手にしていた小鉢を膳に戻した。
箸を揃えるべきか思案している内に聞こえてきたのは続く麻紀世の声。
「そろそろ…………嫁ぎ先を見付けては如何かと」
不思議なもので、目に見えない空気が変わる。
麻紀世の隣の膳、亥蘇世が箸を置いた。
その流れの中で御簾世も箸を揃えざるを得ない。
「出来るだけ若い内の方がよろしいでしょう…………すでに嫁ぐ齢としては遅いくらいでございますし…………」
麻紀世が畳みかけた。
時代的に事実でもある。御簾世も数えで二十歳。もっと若い嫁を探している所が殆ど。
同時に、麻紀世のその言葉は自らが神社を継ぐ立場であると宣言したようなもの。蓮世も当然のように麻紀世の真意を理解しては、いた。
しかし蓮世は何も応えない。
黙って麻紀世の目を見ながら、その次の言葉を待っている。
麻紀世の中で、何か、嫌なものが渦巻き始めた。
それを掻き回すかのように挟まったのは亥蘇世。
「良き所が……ありまして…………母上」
「良家ですか?」
意外にも蓮世はすぐに応えた。
亥蘇世もすぐに返す。間を空ける事に、何か嫌なものを感じていた。
「御武家様の御宅です。家柄的にも恥ずかしくは無いかと」
「そうですか……」
応えながらも、蓮世は麻紀世から目を外さない。
事の中心にいるのは紛れもなく御簾世。
それでも御簾世の唇が動く事はない。
「……なるほど…………」
その、小さく、囁くような声は蓮世だった。
その声の小ささに、空気に広がるのは〝不安〟。
誰の中の念か、その場でそれに気が付いていたのは、御簾世だけ。
蓮世が立ち上がった。
その音がやけに大きく響く。
しかし、次に続く蓮世の声は、柔らかい。
「夕刻の神事……終わり次第に時間を」
三人が同時に腰を引いた。
すぐに頭を下げ、続くのは蓮世の足袋が畳を擦っていく音。
それだけ。
陽の光が高く昇り、傾き始めた頃、その日の〝祓い〟が始まった。
相談の主は公家の一人、西隆寺政氏。
一月程前からの依頼だった。
本人曰く、足利家からの呪いを受けたとの事。確かに不穏な時世。戦だけでなく、京の都に疑念が多く渦巻いている事は誰もが考え得る事。
〝脅威〟や〝不安〟が目に見える形で人の行動を促していく。その空気の中で、人々の命は軽かった。血生臭いというだけで語るならば、京都御所はまさにその言葉に見合う所だったのだろう。その周辺の街並みも、とても都というには程遠い空気。なぜか常に暗く感じる雰囲気だったとも伝わっている。
〝怨念〟が〝祟り〟や〝呪い〟を生み出し続けていた。
西隆寺政氏の訴えは単純なもの。
足利家が〝蛇の祟り〟を西隆寺家に仕向けたという。毎晩、体を締め付けられるように苦しめられていた。〝蛇〟が夢に現れ、苦しさで目覚める。それが一月程続いた頃に御陵院神社を訪れた。
それから更に一月。
蓮世が中心となり、御陵院神社での祈祷が続いていた。
「あれから、まだ続いているのですね?」
祭壇の前、背後の政氏に背を向けたままの蓮世がそう言うと、政氏は震える声で訴え始める。
「……もちろんだ…………毎晩だ…………早く何とかしてもらえぬものか」
確かに、一月前と比べてもその痩せ方は尋常ではなかった。御付きの従者に支えられながら本殿に上がってきた程。まだ若い齢だったにも関わらず、明らかに老けて見えるくらいだった。
しかし〝憑かれた者〟がどうなるか、蓮世だけでなく三人の姉妹も何度も目にしてきた事。驚くには値しない。
その三姉妹は政氏の更に後ろ、亥蘇世を中心に並んで腰を降ろしている。
蓮世の言葉を待っていた。
その蓮世が言葉を繋いでいく。
「奇妙ですね」
「奇妙?」
反射的に返していた政氏の声が、初めて異質な空気を祭壇前に作り出す。
「はい……奇妙です」
その蓮世の声に呼応するかのように、祭壇前の太い松明が炎を広げた。
熱を伴った突然の音に、政氏が驚いて背を引く。そして、その体が僅かに震え始めた。
背中でそれを感じるのか、蓮世の声は妖艶な響きのまま。
「……ほら」
しかし、次の声は強さを伴う。
「麻紀世」
政氏がゆっくりと後ろを振り向くと、そこには首だけを項垂れた麻紀世の姿。完全に下を向き、その表情は伺えない。横にいる亥蘇世と、更にその横にいる御簾世は動揺する事もなく政氏を見据えている。
政氏はその異様な光景に声も出せずにいた。
聞こえるのは、麻紀世の低い声。
「〝正満殿〟…………元服を終えたばかりですね…………これは……正満殿の〝呪い〟」
「────何を申すかっ!」
狼狽する政氏の声が響き渡った。
しかし、それを蓮世の声が押さえ付ける。
「足利様の影は見えませぬ。見えるのは西隆寺様の御血筋のみ」
「何を────!」
「娘の麻紀世は憑依体質にて、西隆寺様の中の呪いの根源を呼び寄せただけの事。御家争いの渦中のようで……どなたか…………正満殿を言いくるめておる者がおるようです…………その者を排除しなければ、この〝呪い〟は終わりませぬぞ」
そう言う蓮世の背後で、政氏が立ち上がる音がした。
震える足で、政氏は座布団を小さく蹴る。
「去ぬ! 去ぬぞ!」
政氏はそれだけ叫ぶと本殿を降りていく。その態度は、何かに気が付いたことを示唆していた。
そして何人もの従者が参道周りの玉砂利を踏み鳴らす音。
少しずつその音が小さくなっていく。
やがて、静かになった。
そして、本殿の空気を最初に震わせたのは、蓮世。
「……いい経験となりましたね。〝呪い〟とは人が生み出すもの…………醜いものです……」
気持ちを落ち着けた麻紀世が顔を上げた時、祭壇前の蓮世が体を回す。
その蓮世は真っ直ぐに麻紀世の目を見ながら言った。
「麻紀世…………貴女の中にも……その醜さがあるのでは?」
突然の問いに、麻紀世は出来るだけ冷静に。
「まさか……そのような…………」
その言葉を受け、蓮世がゆっくりと顔を振り始める。
それは亥蘇世を過ぎ、御簾世の目を捉えた。
決して大きくはない、それでいて通る蓮世の声が三人を包み込む。
「…………御簾世…………貴女に御陵院神社を預けます」
御簾世は表情を変えない。
並ぶ三人の中心にいる亥蘇世だけが、目を大きく見開いていた。
呪いは人の想い。
言葉と行動によって生み出されるもの。
☆
暑い日が続いていた。
西沙と杏奈が〝風鈴の館〟に行ってからすでに一週間近く。
この日の西沙はいわゆる心霊相談から帰ってくるなり自宅アパートでシャワーを浴びてから相談所に戻っていた。どうやらエアコンの効いた涼しい現場ではなかったらしい。まだ蒸し暑さも残る日々。黙っていても汗が噴き出すのも無理はない。
しかし戻った西沙に美由紀は冷静に声を掛ける。
「そんなゴスロリなんか着てるから暑いんじゃない?」
そう言いながら、エアコンの風を感じるかのようにソファーに寝転がった西沙の前に、麦茶の入ったグラスを置いた。来客時ではないのでコースターはない。
体を素早く起こしながら西沙が返した。
「これでも夏仕様なんだよ」
「まったく違いが分からないけど」
パソコンの事務机に戻りながら美由紀が憮然と応えるが、西沙はグラスを手にし、構わず言葉を続ける。
「生地が違うのよ。しかも風の通りが出来やすいように細かい工夫もあるし」
「でも暑いんでしょ?」
返しながら美由紀が座った椅子の音が甲高い。それでもエアコンで乾燥した空気にはそれほど響かない。
西沙が麦茶を飲み干し、大きく息を吐いた。
「今日なら下着姿だって暑いよ」
「そのほうが見た目は涼しいけど」
「そういう趣味あったの?」
「同性の下着姿に興味はないよ」
「良かった」
「で? 今日の仕事はどうだったの?」
強引に美由紀が話題を変える。
お互いに異性との出会いがある生活ではない。出勤とは言ってもアパートの隣の建物。日々の中で異性に関わるのは毎日通う一階のコンビニくらいのもの。そういう点では西沙のほうが仕事で外に出る分、何かとチャンスはあるだろう。しかしその西沙に言わせると、心霊相談を仕事にするようなゴスロリの霊能力者に惹かれる男がいるとも思えない、とのことだった。事実としてそんな雰囲気にすらなったことはない。
しかし西沙からすると美由紀のほうが心配だった。元々極度の人見知り。普通に会話の出来るのは西沙と杏奈くらいのもの。コンビニですら最近やっと慣れてきたほどだ。
──……彼氏が出来れば変わるのかなあ…………
そんなことを漠然と思う時もある。
でもあまり美由紀が異性に興味があるようにも見えなかった。
──……ただの人見知りだとは思うけど…………
「なんだか今日もスッキリしない仕事だったなあ……本人が勝手に生霊だって言うんだけどさ、素人考えで勝手に話をまとめられるのが一番疲れるよ」
「結局はなんだったの?」
西沙の愚痴にも聞こえる話を聞いてくれるのは美由紀か杏奈くらいのもの。もっとも毎日顔を合わせるのがお互い以外にはいない中では当然かもしれないが、それでも美由紀は西沙の話を聞くのは嫌いではなかった。
「結局ねえ……心霊現象と思われる事象の総て、その依頼者の女性が自分でやってた。無意識の内にね。本当に生霊なんてものがあるとすれば、その人自身の生霊《いきりょう》だろうね。結局は心理学の分野……総てが思い込み。あんまり色んな男を取っ替え引っ替えするからじゃないの? 言われなくてもこっちは分かるのにさ」
「綺麗な人だったの?」
「顔は整ってたけど……やっぱりそういう人って……〝目〟が綺麗じゃないから…………」
その西沙の声が、少しだけ柔らかいものに変わった。
「そっか……」
小さく応える美由紀の声。
その美由紀に、西沙が顔を振る。
「嫉妬した?」
「違うよ」
返事は早い。
しかし西沙はその美由紀の目を見続けていた。
長い黒髪のストレート。その髪を指でズラしたい衝動に駆られる。時として西沙は、美由紀の綺麗な黒髪に隠れた耳が赤くなっていないか確かめたくなることがあった。
それでも、なぜかいつも踏み留まる。
踏み込めない。
──……私も、彼氏作ったほうがいいのかもね…………
毎日、公私共に一緒にいる。
朝食をどちらかの部屋で一緒に食べ、夜に仕事がない限り夕飯も一緒に部屋で。寝る時以外はいつも一緒に時間を過ごしていた。何度かは同じ布団で寝たこともある。
それでも寝るだけ。それ以上の関係になることはない。しかし西沙の体質的に、同じ布団の中の美由紀の感情の揺れを感じていたことは事実。
どう応えたらいいのか、西沙には分からなかった。
それはやはり、今でも分からない。
──……今夜は何食べよっかな…………
そんな西沙の気持ちを遮るように、美由紀の目の前の電話が音を立てた。
「────はい、御陵院心霊相談所です」
いつもの美由紀の電話対応に、なぜか西沙は気持ちが落ち着くのを感じた。
しかし次の美由紀の声に、乾いた空気がわずかに湿度を帯びていく。
「────え? これからですか⁉︎」
受話器に向けて声を上げた美由紀が西沙に目を向けた。応えるように目を合わせる西沙は、一瞬で目付きを変える。
──…………黒い……
「いいよ」
口元に小さく笑みを携えた西沙が続けた。
「今日はもう空いてる。何時?」
「……大丈夫です。お時間は────はい。二時ですね?」
言いながら美由紀が西沙に再び目線。
「オッケー」
「……では二時にお待ちしております……はい、失礼します」
受話器を置いた美由紀の前には西沙。
「お昼ご飯食べる時間はあるね。下で何か買ってくるけど、今日はもう仕事入れないで。それと……夕ご飯は一緒に食べられるから心配しないこと。なんにするか考えておいてね」
西沙の〝先を見る力〟が間違っていたことはない。
「あ……うん…………」
小さく返しながら、美由紀は受話器を当てていた耳を髪で隠した。
☆
黒基調ではあるが細かな装飾を施された浴衣姿。
そんな華やかさを、同じ黒い日傘が盛り立てていた。
〝安い仕事〟ではないことが、その人物の立ち振る舞いからも伝わる。
髪は後頭部で纏められ、うなじがわずかに見えるが、背中まではあるのではないかと思われる美しい黒髪。お金と手間を掛けなければ出ないであろう艶。
「すいません、遅くなってしまって……近くの駐車場を探していたものですから」
そう言いながらも、その女性が相談所を訪れたのは午後の二時を少し回った頃。家柄なのか、時間への厳しさが伺えた。
楢見崎沙智子────西沙と同じ二〇歳とは思えない大人びた物腰にも、西沙は少しも物怖じすることはない。元々は神社の産まれ。母の咲の立ち振る舞いの美しさを幼い頃から見てきた。
しかし美由紀は違った。
孤児院で育ち、幼い頃にしか親の顔を見たことがない人生。その面影すらすでに忘れかけているほど。堂々とした態度は、時に人に対して威圧感になることもある。
美由紀はそれを経験で知っていた。
麦茶をテーブルに置きながらも、西沙にはその美由紀の緊張が伝わる。
──……嫉妬じゃないから……まあいっか…………
入り口の外には運転手と思われる中年の男性。二枚のガラス扉の向こうに黒いスーツ姿が見えている。
「お付きの方」
西沙が沙智子の向かいに座ったまま言葉を続けた。
「ドライバーさんですか? 外暑いですし、良かったら中で…………」
「いえ……あまり聞かれたくない話ですので…………」
沙智子は節目がちに語尾を小さくする。
──……車で待たずに……まるでボディーガードだ…………
西沙はそんなことを思いながら美由紀に声を向けた。
「美由紀、冷蔵庫のペットボトルのお水を外の方に。長くなる時は一階のコンビニに行ってもらって。多分今が一番暑い時間だし」
「はい」
美由紀は軽く応えるとすぐに冷蔵庫へと動いた。
「楢見崎……沙智子さん、でしたね。ご依頼の内容によっては〝御家〟のことも聞かなければなりませんが……」
西沙はそう繋げながら、なんとなくそれを感じていた。
沙智子がゆっくりと顔を上げる。
西沙は沙智子がこの部屋に入ってきた時に気が付いていたが、改めてその目の珍しさに見入った。
──……オッドアイか……珍しい…………
正確には〝虹彩異色症〟。猫など人間以外の動物では先天的に見られるものだが人間では珍しい。先天的なものだけでなく後天的な症例も含まれる。アジア人では特に少ないとされるが、それは人種的に目が黒いため、少し色が違うくらいでは気が付きにくいというのもあるのだろう。
沙智子の場合、西沙が知る限りでは特に珍しいのではないかと思われた。
右目は薄い茶色。
左目は明るく感じるほどの赤。
目だけを見れば日本人ではないと思われるほどだろう。
そんな沙智子の立ち振る舞いのせいもあるのか、真顔とも笑顔とも取れる独特の表情のまま、静かに口を開いた。
「構いません。そもそも……その〝家〟のことですので……」
「そうですか」
──……やっぱりそうか…………
そう思った西沙はやはり冷静なまま。
そしていつものように会話を続けていく。
「最初にお聞きしたいのですが、ここのことはどちらでお知りになりました? ウチはまだネット広告とかも出してませんし……」
「去年、テレビで拝見させて頂きました。失礼ながらお名前がお珍しかったもので覚えておりまして」
確かに〝御陵院〟という苗字を、西沙は他に知らない。
沙智子が続けた。
「それと…………」
しかし、そう言いかけた沙智子の声はか細い。
「こんなこと……お笑いになるかもしれませんが…………夢で、ここを訪ねるようにと……」
「夢?」
反射的に返しながらも、西沙の張ったアンテナは敏感に動き続けていた。次々と頭の中に情報が流れてくる。
「はい……神社の、いわゆる巫女姿でした……もちろん女性ですが……その方が、ここで貴女様に相談するようにと……」
「なるほど、下手な幽霊騒ぎよりはよほど信用出来ますよ。問題はその巫女が誰か、ですけど……さすがに情報が少ないですね」
言いながらも、西沙の意識の中は忙しないまま。
──……まだ見えないなあ…………
何かに遮られているかのような感覚だった。
──……この仕事…………
嫌な感覚でもある。
それに意識を集中させ過ぎたのか、次の沙智子の言葉に我に返る。
「それにしてもなかなかユニークな方ですね。テレビの時と同じで、本当にいつもそのような服装だとは……」
「目立ったほうが仕事になりますからね。私はそれこそ神社の産まれでして……でもだからと言って巫女姿ってわけにもいきませんから」
西沙が場を少し和やかにするために振った話題。
しかし沙智子は、少しだけ目を細める。
「御陵院神社様ですね。存じております。大きな神社様ですね」
「よくご存知ですね。普通に参拝客の行くような神社でもないので……知らない人も多いんですよ」
「私の所も隣町とはいえ古い地主の歴史を持つ家ですので、この周辺の土地のことでしたらそれなりに…………」
──……なるほど……旧家の立ち振る舞いか…………
「そんな歴史の長い御家柄の娘さんが、どうしてこんな場末の心霊相談所になんか────」
「〝呪い〟というものは…………」
急に焦りを感じさせる声色。
そんな変化で西沙の言葉を遮った沙智子が、小さく喉を鳴らして続けた。
「……本当にあることなのでしょうか…………?」
無駄な世間話よりも本題に入りたい────沙智子がそう思っているように西沙は感じた。
だから焦りもあり、同時にそれは深刻なものであることの表れ。
そしてそれは微細な態度でも見て取れていた。もちろん西沙だから分かったレベルのもの。普通の人に判別の出来るものではない。
しかしそんな西沙でも惑わされるのは、沙智子の〝目〟。
──……両目の色が違うだけでこんなに気持ちを読みにくいなんてね…………
──…………でも…………
わずかに〝怯え〟のような感情も見える。
そこに西沙が踏み込む。
「幽霊なんかがいるかどうか……そんなものは、生きてる我々には判別なんか出来ません」
そんな西沙の切り出し方に、沙智子は目を見開き、驚く。
それもそうだろう。仮にもここは心霊相談所。心霊現象に悩む人々が駆け込む所だと思っていたからだ。それなのに西沙は幽霊がいるかどうか分からないと言う。
沙智子は言葉の真意を理解出来ないまま。
西沙の言葉が続いた。
「でも…………〝呪い〟って、人の念が作り出すものだと私は思っています。〝想い〟と言ってもいい。死後の世界とは関係ありません。生きている人間が作り出すものです。無いほうが不思議ですよ」
「では…………」
沙智子は目の前のグラスに視線を落とす。
グラスの周囲に張り付いた大粒の水滴が、周囲の水滴を巻き込みながらコースターへ不規則に吸い込まれていく様を、沙智子は何かを思いながら見つめ、そして少し間を空けた。
その言葉は、わずかに震える。
「我が家の〝呪い〟も誰かが…………」
それに応える西沙は、いつの間にか主導権を握っていた。
「対象は個人、家族、もしくは家…………それとも血筋か…………」
──……土地じゃないな…………
西沙はそう感じていた。
「だいぶ昔からのようですが……いつからかは分かりませんが…………我が楢見崎家は女系だけで血筋を繋いできたそうです」
沙智子が本筋を語り始める。
「いつも婿養子を迎え入れ…………最初は必ず男の子が産まれます」
──…………なるほど……
「しかし、一年を迎える前に亡くなります。そして程なく女の子が産まれ、血筋が繋がれてきました…………それ以降は絶対に子供は産まれないと言われてきたそうです……産まれても死産…………ですので、たった一人の女の子を大事に育てるのが何より重要視されると聞きました……私もそうだったのでしょう。そして、私にも兄がいたそうです。もちろん私が産まれる前ですが…………」
──……そういうことか…………
「それは古くから……楢見崎家では〝呪い〟であると言い伝えられてきたそうです……ですが……それ以上のことは分かりません…………誰の〝呪い〟なのか…………」
「……血筋か…………」
西沙が小さく呟いた。
西沙はずっと沙智子の目を見続け、決して外そうとはしない。睨みつけるわけでもなく、ただ見続ける。人によっては何かを見透かされるようにも感じるかもしれない。事実、美由紀ですら最初はそうだった。
そして、事実として西沙は、見通していた。
──……やっぱり…………黒いなあ…………
「今…………息子さんがいらっしゃいますね?」
唐突な西沙の言葉に、沙智子が小さく体を動かす。
そして顔を伏せ、その唇が小さく動くが言葉は漏れないまま。
それを補うように続ける西沙。
「息子さんがいるのは気が付いていました。仰らなくても分かることはあります。あなたはその息子さんのことが心配でここに来た。もうすぐ六ヶ月になる息子さんを救いたくてここに来た。そうですよね」
沙智子はさらに顔を伏せ、膝の上で合わせた手を見下ろし、小さく肩を震わせ始めた。
「…………はい……」
消え入りそうな小さな沙智子の声は、パソコン前の美由紀にも辿り着く。
椅子を降りた美由紀はソファーの横に駆け寄った。そして沙智子に自分の白いハンカチを手渡す。
反射的に体が動いていた。美由紀は〝親からの愛情〟を知らない。〝親子の繋がり〟を感じたことがない。自分のことだけならいざ知らず、西沙の特殊な境遇も見てきた。
自分が絶対に手に入れることの出来ないもの。
しかし、求めてはいた。
そんな感情が美由紀を動かしていた。
やがて小さく聞こえてきた沙智子の嗚咽に、西沙が言葉を向ける。
「お受けしますよ……沙智子さん…………」
顔を上げた沙智子の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「…………では…………」
「明日、午前一〇時に迎えに来て下さい。お母様にもお話を伺う必要がありそうです。安心して下さい。今日明日でいきなり息子さんの身が危険になることはありませんよ。沙智子さんが今日ここに来たことがその証です。私に見える未来には必ず意味があります。私はそれに従うだけ」
沙智子は腫れた瞼を大きく開き、涙の混ざる声を漏らした。
「では…………受けて頂けるのですね…………」
すると、西沙の目元が笑みを伴う。
「私は解決の出来ない依頼を受けるつもりはありません。それに何より、私はそのお話に関わる未来を信じています」
その自信に満ちた目は、ソファーの横で膝を曲げる美由紀の気持ちを揺らした。
──……私は…………この目を信じてきたんだ…………
ほどなく、深々と頭を下げ、沙智子がガラスの扉に手を掛けた時、西沙の声に足を止めた。
「沙智子さん、最後に一つだけ────」
振り返ると、そこにはゴスロリ姿の小柄な西沙の姿。それでもその小さな体からは、不思議なほどの力強さが漂う。そしてその西沙の隣には、西沙よりも頭一つ身長が高い美由紀が寄り添っていた。
「その目の色……いつからですか? 先天的じゃないですね」
予想外な質問に、沙智子は不思議そうにしながらも体を向けて応えた。
「一年……ほど前だったと思います。別に痛みはありませんし、医者も理由は分からないと申してまして……」
──…………一年…………
「そうですか……すいません。珍しいなって思って、それだけです」
沙智子は笑みを浮かべる西沙に口元を緩め、再び頭を下げると背を向けた。
ガラスの向こうではスーツの男性が深々と西沙と美由紀に頭を下げている。
不意に、美由紀が西沙の手を握った。
「ん?」
突然のことに西沙も驚くが、決して初めてのことではない。
美由紀はガラスの向こうの沙智子に目をやったまま、口を開いた。
「……気を付けてね」
「うん…………」
──……そっか……私にも見えていない部分があるみたいだね…………
西沙は美由紀の細い手を握り返していた。
『 聖者の漆黒 』
第二部「回顧」第1話・終
第2話へつづく
西暦にして一四六八年。
京の都を中心として、世の中が大きく動いていた。
それは後に〝応仁の乱〟と呼ばれることになり、やがて戦国の世へと繋がっていく。
そんな戦乱がいくつもの地で続いていた。
もはや何が事の起こりだったのかなど、誰も覚えてはいない。
血生臭い時。
日々聞こえてくる話には、その先の平穏を願う意識すらも薄れていた。
そんな時代の波の中。
とある地方。
小さな神社があった。
御陵院神社。
歴史は長い。
元は京に近い地の神社の巫女が作った社だったという。
〝力〟の強い巫女だったと伝えられていた。
〝憑き物〟或いは〝祓い事〟のみを行う社。
何故にその巫女がそんな神社を求めたのかは伝えられてはいなかった。
森の中に佇む小さな社。
人里離れ、知らぬ者が殆ど。
この頃まで時が流れ、すでに代は十一。
当主は御陵院蓮世。
三姉妹の長女だった。
御陵院家に産まれるのは女のみ。必ず三姉妹。その代の一番の〝力〟の持ち主が当主を継ぐ。残る二人が神社に残ることもあれば、他所へ嫁ぐこともあった。
蓮世の二人の妹は嫁いで長い。
蓮世もすでに五十に近付く齢。
娘はやはり三人。
長女、麻紀世────齢、二二。
次女、亥蘇世────齢、二一。
三女、御簾世────齢、二十。
すでに誰の頭の中でも次の代選びの事が渦巻いていた。
しかし、誰もが当主の座を欲しがっていると思っているのは長女の麻紀世だけ。長女ということも関係しているのか、麻紀世が一番政治願望が強かった。幼い頃から続く荒業にも一番積極的に参加してきたのは事実。自覚も早い。そして自分が一番の能力者だという自負があったものの、それを最終的に見極めるのは母の蓮世。
そんな中、そんな麻紀世の興味を刺激する噂が、京の都を中心に広がっていた。
京の都の、ではない。しかし世の中の中心地であるということは情報の中心地でもあるということ。
それは、ある人物と〝組織〟の噂。
最初に広まった名前。
〝清国会〟────。
戦乱の世を憂い、帝を奉って新しい日の本を作ろうとする組織。
中心になっていたのは地方の小さな社────〝雄滝神社〟。その小さな神社が全国的な神社組織を束ねていた。
麻紀世が興味を持ったのも無理はない。どうしてそれまではさほど知られてもいなかった小さな神社がそれほど大きな事を成し遂げる事が出来たのか。御陵院神社と何が違うのか。
やがて麻紀世は、その理由を知る。
〝金櫻鈴京〟────。
清国会の中心人物。
そして────〝天照大神様の血を引き継ぐ唯一の人物〟。
帝は真に天照大神の末裔ではない────それが清国会の真の教義そのもの。
もちろん反発する声はあった。帝だけでなく幕府への反発であると。だからこそひっそりと清国会は広まった。多くの神社が、幕府に擦り寄りながらも清国会────強いては金櫻鈴京に惹かれていった。
麻紀世もその一人。
金櫻鈴京に会ってみたかった。
天照大神の真の末裔────。
日の本の中心たる人物────。
「その……金櫻…………」
母の蓮世のその言葉を、向かい合わせで膝を降ろしていた麻紀世が拾う。
「────鈴京様です。天照大神様の真の末裔と言われている御方…………」
「それを真とする確証は────?」
「では母上は────」
間を置かずに応える麻紀世は自信に満ち溢れた口調で続けた。
「話を偽とした場合…………多くの社が騙されていると?」
麻紀世の口角が小さく上がる。
その口元から目を離せないまま、蓮世は膝の上で重ねた両手に汗が浮かぶのを感じていた。
──……麻紀世は何を……求めている…………
「麻紀世…………清国会の真の目的とは────」
「日の本に真の〝神〟を降臨させる事…………」
自信を伴った麻紀世の応えは早い。
「……危険な思想です…………」
蓮世もすぐにそう返していた。
麻紀世は御陵院神社も清国会に属するべきだと考えていたが、蓮世にとってそれは狂信的な感情にしか見えない。
「貴女は長女として社を護っていく立場…………それにも関わらず……帝を…………よもや偽者と申すか」
蓮世は続けて声を荒げる。
対する麻紀世は冷静な口調のまま。
「母上……私は日の本の神たる天照大神様を奉っているのみにございますよ」
「詭弁を────!」
蓮世が立ち上がる。
その巫女服の揺れが空気を揺らし、祭壇の蝋燭の炎を揺らした。
風の無い夜。
真夏の蒸し暑さも過ぎた頃。板戸を開け放した本殿の空気が、僅かだけゆっくりと動き始めた。昼間の霧雨のせいか、辺りを満たすのは草木と土の香り。その小さい筈の匂いすら、巫女服が作り出す風に紛れていく。
麻紀世が開く口が空気を漂った。
「……日の本は変わりますよ母上…………かような戦乱の世のままでは民は疲弊していくばかり……終わらせなければ…………然るに、我等には〝真の神〟が必要です」
その言葉に、蓮世の体は僅かに震え始める。その僅かな衣擦れに続くのは、白い足袋が床を小さく擦る音。
口を開いたのは、その片足に力を込めた蓮世だった。
「……そのような……まるで密教ではないか!」
「否……清国会が新たな幕府となりし時…………御陵院もその中におらずば────」
「その思想そのものが一神教だということが────何故に分からぬか!」
蓮世の声が響く。
麻紀世はその目を見上げた。
僅かに震える蓮世のその両目から、麻紀世はその心を掠め取る。
──……〝恐れ〟か…………相変わらず保守的な御人だ…………
以前より、確かに蓮世と麻紀世の間には意見の乖離が見られていた。それは日々の些細な事の積み重ねではあったが、麻紀世自身が母である蓮世に疑念を積み重ねてきたのも事実。
時代は大きく変化していた。
長く続く日々の戦乱の中で、日の本そのものが疲弊し、人々の求めるものも変化していく。
変化に未来を見る者もいれば、その変化を受け入れられない者もいる。
それまでの時代に縋るようなそんな考え方を、麻紀世は嫌った。自らが継承するつもりの御陵院神社の未来しか見えていない。
蓮世との隔たりは大きい。簡単に埋められる溝ではなかった。
清国会を理由としたこの夜のような二人の言い合いは、今回が初めてではない。
しかし、次女の亥蘇世が祭壇の影で二人の会話を聞いていた事には誰も気が付いていなかった。本来ならば幼い頃から荒業を続けて能力を高めてきた二人が気が付かない筈がない。仮にも〝祓い事〟を専門に行う神社の当主とその娘。
しかし、それを惑わすことが出来るのが亥蘇世の〝力〟────〝幻惑〟。自らの存在を消す事に長けていた。
そして母である蓮世と同じく、悩んでいた。
亥蘇世も例に漏れず清国会の話は伝え聞いていたが、もちろん実際に金櫻鈴京に会ったことがあるわけでもない。何をもって信じるか。もはや姉である麻紀世を信じるしかなかった。
しかし信じるに足る材料が少ない。麻紀世の話だけでは蓮世の言う通りに過激なだけの詭弁。
翌日、亥蘇世は三女の御簾世の部屋にいた。
本殿の建物とは別邸の、小さな部屋だ。
家具と言える物は小さな箪笥の他は机が一つあるだけ。夜に布団を敷けば歩く所も無い。
亥蘇世の部屋も御簾世と同じ別邸にあったが、ここよりは広い。
しかし幼い頃から御簾世に不満は無かった。元々御簾世は物欲という概念が欠落したようなところがある。必要最低限の物しか身の回りに置こうとはしなかった。御簾世に言わせると、巫女として生きていくのに必要な物は自分だけだからということらしい。
それに繋がるのか、御簾世は権力というものにも興味が無かった。神社を継ぐ気などそもそも無い。自分よりも能力の高い姉達のどちらかが継ぐべきだと考えていた。常々自分は三女のままでいいというのが御簾世の想い。
当然のように世間の噂話等に興味を持った事も無かった。
何より、自分に関係の無い事には関心が無い。周囲の人間が自分をどう評価しているのかなど、御簾世自身にはどうでもいい事。
そんな御簾世でも伝え聞いている程に、確かに清国会の名前は知れ渡っていた。しかしその実態を真に知る者は少ない。真実を知る者は口を紡ぎ続ける。その教義も中心となる雄滝神社の名前も麻紀世が調べてやっと辿り着いた。
もしも真実が公になれば、帝に弓を引く組織として幕府からの戦の対象と成り得る。もはや戦乱はその大義が揺らいでいた。もはや誰が起こしたものなのか、誰の為の何の為の戦なのか、誰も思い出すことが出来なくなっていた程。
だからこそ、清国会は密かに広がっていく。
麻紀世の言う事が真実ならば、確かに御陵院家としてもどちらに〝着く〟か考える必要があるだろう。
〝帝〟か────〝金櫻鈴京〟か────。
「貴女はどう思いますか?」
亥蘇世のその質問に、御簾世は予想通りに顔色を変える事は無かった。興味が無いだろうとの亥蘇世の想像通り。
「そうですね…………」
御簾世が淡々と応え始めた。
「それは、どちらを選択するのか、という事でしょうか…………もしくは麻紀世姉様の御調べになった情報をどう捉えるか、という事でしょうか?」
相変わらず無駄を嫌う御簾世らしい言葉。
的を得ている。亥蘇世の問いは麻紀世の話を信じようとするところから始まっていた。
亥蘇世は言葉を詰まらせる。
「そうですね…………」
それだけ言うと、向かいに座る御簾世から目線を外し、膝の先に見える畳に目を落とした。
畳が僅かに赤みを帯びている。
障子からの夕陽の色。
ゆっくりと部屋に入り込む空気の温度も僅かに下がり始めている事を感じた。
そして亥蘇世は、思考を巡らせる。
「麻紀世姉様の御言葉に嘘があるとも思えません……私は常に姉様を信じておりますので…………」
嘘では無かった。だからこそ信じた。それはすでに心酔の域でもある。だいぶ以前から姉妹の関係の枠を超えていた。
そしてその事は、他人に興味の無い御簾世でも気が付いていた事。それでも知ってしまったからとて、御簾世がそれにどうこうと言うつもりは無い。
その二人の関係がありながら、亥蘇世がどうして自分に問いを向けるのか、という事のほうが気になった。
そんな亥蘇世の言葉を受け、御簾世が言葉を繋ぐ。
「亥蘇世姉様……姉様も清国会に与すべきだと御考えですね?」
その言葉に、亥蘇世が顔を上げた。
視界に再び入る御簾世の目は、何かを見透かした〝目〟────。
亥蘇世が知っている、御簾世の〝目〟。
──……我を……〝操る〟気か────
「この話は……また後程に…………」
亥蘇世はそれだけ言うと立ち上がる。
目線を外す理由には丁度いい。
しかし、そこに僅かながら〝恐れ〟があった事も事実。
亥蘇世はそれを隠した事実を悔いた。
その夜、遅く。
麻紀世は自室に亥蘇世を呼ぶ。
御簾世の別邸の部屋とは違い、本殿の建物内にある部屋。
広く、神社の後継者としては申し分無い。
時々、遅い時間、亥蘇世はこうして麻紀世に呼ばれる。今夜もいつもと同じ白い浴衣姿。それは麻紀世の指示。
その姿のまま、亥蘇世は部屋の中心に敷かれた布団の上に膝を降ろしていた。
部屋の中の灯りは一本の蝋燭の炎だけ。
その炎が頼り無げな燭台の上から淡く亥蘇世を照らしている。
空気の揺らめきに合わせて瞬く灯火が、やがて麻紀世の影を大きく亥蘇世の前へ。
膝の着く距離で麻紀世が腰を降ろした。
二人の間の空気を震わせたのは、麻紀世の声。
「……それで……御簾世は……どうでした…………」
僅かに腰を浮かせ、亥蘇世に顔を近付け、麻紀世が囁く。
亥蘇世は麻紀世とは目を合わせない。それもいつもの事。視界に見えるのは浴衣の開けた麻紀世の胸元だけ。
鼓動が高鳴るのを感じながら、亥蘇世がゆっくりと口を開いた。
「…………操られそうに…………なりました…………」
「ほう…………」
すぐに帰ってきた麻紀世の声は、すでに亥蘇世の耳の側。
「それは、我等に与する気持ちは無いということですか…………」
「かもしれません……」
「でも…………」
麻紀世の声が艶を帯びた。
「……御簾世が与したら…………貴女は嫌がるのでしょう…………?」
「そんなことは…………清国会の……金櫻様と……御陵院の為────」
その言葉は、麻紀世の両手が亥蘇世の両肩を掴む事で遮られる。そのまま麻紀世は亥蘇世の背中を布団に押し付けていた。
亥蘇世の浴衣を大きく開き、怯えたようなその目を見つめながら、麻紀世の声が亥蘇世に降り注ぐ。
「……御簾世を……外へ…………我等がここを継ぎ…………清国会へ…………」
「しかし、母上は────」
「継いでしまえば良いのです…………隠居さえしてもらえれば…………先も長くはないでしょう…………」
麻紀世の吐息が、亥蘇世を高揚させた。
左の乳房を包む麻紀世の手の暖かさを感じながら、亥蘇世が感じるのは麻紀世の存在だけ。
──…………姉様と私で…………一緒に…………
体の中で、何かが波打つ。
いつも亥蘇世は、それが何なのか分からないまま。
触れそうな唇の距離。
麻紀世のその唇が小さく開いた。
「……御簾世には……夫婦相手でも見付けてあげましょう…………」
触れた唇に感情を揺り動かされながら、亥蘇世の中で膨らむ不安。
──……姉様もいつかは夫を…………
その心を見透かした麻紀世がすかさず返した。
「心配はいりませんよ……夫など…………子種に必要なだけです」
しかし、亥蘇世の不安は大きくなるばかり。
──……我等を邪魔する者など…………
その気持ちを麻紀世が見透かしたかどうかを判断するよりも早く、亥蘇世は麻紀世の指に落ちていった。
それから、一月も掛からなかった。
本殿の建物。
祭壇のある広い板間を除けば、その他の部屋は総て小振りな部屋ばかり。小振りとは言っても当主である蓮世と麻紀世の部屋くらいの所が数カ所。板場に隣接した食事用の畳部屋も決して広くはない。
女だけで回される神社。
蓮世にももちろん夫はいるが、基本的に共に生活することは無い。
麻紀世の言うように〝子種〟以外に必要の無いものとされ、男用の小さな別邸で生活することを求められる。そこには数名の使用人も暮らしていた。その別邸に入れる女子は蓮世の夫の為の妾だけ。娘が三人産まれると、夫は妾を充てがわれる仕来たりとなっていた。
女子の使用人は亥蘇世や御簾世と同じ別邸。
御陵院神社は小さき社なれど、厳格な仕来たりの下に回されていた。
朝の神事後の食事の場で交わさせる言葉はいつも少ない。
その朝も、いつもと同じはずだった。
しかし麻紀世の作った話題が空気を変える。
「母上」
箸を置いた麻紀世に合わせ、蓮世は顔を向ける前に箸を膳の上に揃えた。
その小さな巫女服の袖の衣擦れの音すら空気を振るわせるような、そんな静かな朝。
そしてそれを見届けるようにして、麻紀世が続ける。
「……これからの事ですが、御簾世の事で少し…………」
その言葉に、御簾世は手にしていた小鉢を膳に戻した。
箸を揃えるべきか思案している内に聞こえてきたのは続く麻紀世の声。
「そろそろ…………嫁ぎ先を見付けては如何かと」
不思議なもので、目に見えない空気が変わる。
麻紀世の隣の膳、亥蘇世が箸を置いた。
その流れの中で御簾世も箸を揃えざるを得ない。
「出来るだけ若い内の方がよろしいでしょう…………すでに嫁ぐ齢としては遅いくらいでございますし…………」
麻紀世が畳みかけた。
時代的に事実でもある。御簾世も数えで二十歳。もっと若い嫁を探している所が殆ど。
同時に、麻紀世のその言葉は自らが神社を継ぐ立場であると宣言したようなもの。蓮世も当然のように麻紀世の真意を理解しては、いた。
しかし蓮世は何も応えない。
黙って麻紀世の目を見ながら、その次の言葉を待っている。
麻紀世の中で、何か、嫌なものが渦巻き始めた。
それを掻き回すかのように挟まったのは亥蘇世。
「良き所が……ありまして…………母上」
「良家ですか?」
意外にも蓮世はすぐに応えた。
亥蘇世もすぐに返す。間を空ける事に、何か嫌なものを感じていた。
「御武家様の御宅です。家柄的にも恥ずかしくは無いかと」
「そうですか……」
応えながらも、蓮世は麻紀世から目を外さない。
事の中心にいるのは紛れもなく御簾世。
それでも御簾世の唇が動く事はない。
「……なるほど…………」
その、小さく、囁くような声は蓮世だった。
その声の小ささに、空気に広がるのは〝不安〟。
誰の中の念か、その場でそれに気が付いていたのは、御簾世だけ。
蓮世が立ち上がった。
その音がやけに大きく響く。
しかし、次に続く蓮世の声は、柔らかい。
「夕刻の神事……終わり次第に時間を」
三人が同時に腰を引いた。
すぐに頭を下げ、続くのは蓮世の足袋が畳を擦っていく音。
それだけ。
陽の光が高く昇り、傾き始めた頃、その日の〝祓い〟が始まった。
相談の主は公家の一人、西隆寺政氏。
一月程前からの依頼だった。
本人曰く、足利家からの呪いを受けたとの事。確かに不穏な時世。戦だけでなく、京の都に疑念が多く渦巻いている事は誰もが考え得る事。
〝脅威〟や〝不安〟が目に見える形で人の行動を促していく。その空気の中で、人々の命は軽かった。血生臭いというだけで語るならば、京都御所はまさにその言葉に見合う所だったのだろう。その周辺の街並みも、とても都というには程遠い空気。なぜか常に暗く感じる雰囲気だったとも伝わっている。
〝怨念〟が〝祟り〟や〝呪い〟を生み出し続けていた。
西隆寺政氏の訴えは単純なもの。
足利家が〝蛇の祟り〟を西隆寺家に仕向けたという。毎晩、体を締め付けられるように苦しめられていた。〝蛇〟が夢に現れ、苦しさで目覚める。それが一月程続いた頃に御陵院神社を訪れた。
それから更に一月。
蓮世が中心となり、御陵院神社での祈祷が続いていた。
「あれから、まだ続いているのですね?」
祭壇の前、背後の政氏に背を向けたままの蓮世がそう言うと、政氏は震える声で訴え始める。
「……もちろんだ…………毎晩だ…………早く何とかしてもらえぬものか」
確かに、一月前と比べてもその痩せ方は尋常ではなかった。御付きの従者に支えられながら本殿に上がってきた程。まだ若い齢だったにも関わらず、明らかに老けて見えるくらいだった。
しかし〝憑かれた者〟がどうなるか、蓮世だけでなく三人の姉妹も何度も目にしてきた事。驚くには値しない。
その三姉妹は政氏の更に後ろ、亥蘇世を中心に並んで腰を降ろしている。
蓮世の言葉を待っていた。
その蓮世が言葉を繋いでいく。
「奇妙ですね」
「奇妙?」
反射的に返していた政氏の声が、初めて異質な空気を祭壇前に作り出す。
「はい……奇妙です」
その蓮世の声に呼応するかのように、祭壇前の太い松明が炎を広げた。
熱を伴った突然の音に、政氏が驚いて背を引く。そして、その体が僅かに震え始めた。
背中でそれを感じるのか、蓮世の声は妖艶な響きのまま。
「……ほら」
しかし、次の声は強さを伴う。
「麻紀世」
政氏がゆっくりと後ろを振り向くと、そこには首だけを項垂れた麻紀世の姿。完全に下を向き、その表情は伺えない。横にいる亥蘇世と、更にその横にいる御簾世は動揺する事もなく政氏を見据えている。
政氏はその異様な光景に声も出せずにいた。
聞こえるのは、麻紀世の低い声。
「〝正満殿〟…………元服を終えたばかりですね…………これは……正満殿の〝呪い〟」
「────何を申すかっ!」
狼狽する政氏の声が響き渡った。
しかし、それを蓮世の声が押さえ付ける。
「足利様の影は見えませぬ。見えるのは西隆寺様の御血筋のみ」
「何を────!」
「娘の麻紀世は憑依体質にて、西隆寺様の中の呪いの根源を呼び寄せただけの事。御家争いの渦中のようで……どなたか…………正満殿を言いくるめておる者がおるようです…………その者を排除しなければ、この〝呪い〟は終わりませぬぞ」
そう言う蓮世の背後で、政氏が立ち上がる音がした。
震える足で、政氏は座布団を小さく蹴る。
「去ぬ! 去ぬぞ!」
政氏はそれだけ叫ぶと本殿を降りていく。その態度は、何かに気が付いたことを示唆していた。
そして何人もの従者が参道周りの玉砂利を踏み鳴らす音。
少しずつその音が小さくなっていく。
やがて、静かになった。
そして、本殿の空気を最初に震わせたのは、蓮世。
「……いい経験となりましたね。〝呪い〟とは人が生み出すもの…………醜いものです……」
気持ちを落ち着けた麻紀世が顔を上げた時、祭壇前の蓮世が体を回す。
その蓮世は真っ直ぐに麻紀世の目を見ながら言った。
「麻紀世…………貴女の中にも……その醜さがあるのでは?」
突然の問いに、麻紀世は出来るだけ冷静に。
「まさか……そのような…………」
その言葉を受け、蓮世がゆっくりと顔を振り始める。
それは亥蘇世を過ぎ、御簾世の目を捉えた。
決して大きくはない、それでいて通る蓮世の声が三人を包み込む。
「…………御簾世…………貴女に御陵院神社を預けます」
御簾世は表情を変えない。
並ぶ三人の中心にいる亥蘇世だけが、目を大きく見開いていた。
呪いは人の想い。
言葉と行動によって生み出されるもの。
☆
暑い日が続いていた。
西沙と杏奈が〝風鈴の館〟に行ってからすでに一週間近く。
この日の西沙はいわゆる心霊相談から帰ってくるなり自宅アパートでシャワーを浴びてから相談所に戻っていた。どうやらエアコンの効いた涼しい現場ではなかったらしい。まだ蒸し暑さも残る日々。黙っていても汗が噴き出すのも無理はない。
しかし戻った西沙に美由紀は冷静に声を掛ける。
「そんなゴスロリなんか着てるから暑いんじゃない?」
そう言いながら、エアコンの風を感じるかのようにソファーに寝転がった西沙の前に、麦茶の入ったグラスを置いた。来客時ではないのでコースターはない。
体を素早く起こしながら西沙が返した。
「これでも夏仕様なんだよ」
「まったく違いが分からないけど」
パソコンの事務机に戻りながら美由紀が憮然と応えるが、西沙はグラスを手にし、構わず言葉を続ける。
「生地が違うのよ。しかも風の通りが出来やすいように細かい工夫もあるし」
「でも暑いんでしょ?」
返しながら美由紀が座った椅子の音が甲高い。それでもエアコンで乾燥した空気にはそれほど響かない。
西沙が麦茶を飲み干し、大きく息を吐いた。
「今日なら下着姿だって暑いよ」
「そのほうが見た目は涼しいけど」
「そういう趣味あったの?」
「同性の下着姿に興味はないよ」
「良かった」
「で? 今日の仕事はどうだったの?」
強引に美由紀が話題を変える。
お互いに異性との出会いがある生活ではない。出勤とは言ってもアパートの隣の建物。日々の中で異性に関わるのは毎日通う一階のコンビニくらいのもの。そういう点では西沙のほうが仕事で外に出る分、何かとチャンスはあるだろう。しかしその西沙に言わせると、心霊相談を仕事にするようなゴスロリの霊能力者に惹かれる男がいるとも思えない、とのことだった。事実としてそんな雰囲気にすらなったことはない。
しかし西沙からすると美由紀のほうが心配だった。元々極度の人見知り。普通に会話の出来るのは西沙と杏奈くらいのもの。コンビニですら最近やっと慣れてきたほどだ。
──……彼氏が出来れば変わるのかなあ…………
そんなことを漠然と思う時もある。
でもあまり美由紀が異性に興味があるようにも見えなかった。
──……ただの人見知りだとは思うけど…………
「なんだか今日もスッキリしない仕事だったなあ……本人が勝手に生霊だって言うんだけどさ、素人考えで勝手に話をまとめられるのが一番疲れるよ」
「結局はなんだったの?」
西沙の愚痴にも聞こえる話を聞いてくれるのは美由紀か杏奈くらいのもの。もっとも毎日顔を合わせるのがお互い以外にはいない中では当然かもしれないが、それでも美由紀は西沙の話を聞くのは嫌いではなかった。
「結局ねえ……心霊現象と思われる事象の総て、その依頼者の女性が自分でやってた。無意識の内にね。本当に生霊なんてものがあるとすれば、その人自身の生霊《いきりょう》だろうね。結局は心理学の分野……総てが思い込み。あんまり色んな男を取っ替え引っ替えするからじゃないの? 言われなくてもこっちは分かるのにさ」
「綺麗な人だったの?」
「顔は整ってたけど……やっぱりそういう人って……〝目〟が綺麗じゃないから…………」
その西沙の声が、少しだけ柔らかいものに変わった。
「そっか……」
小さく応える美由紀の声。
その美由紀に、西沙が顔を振る。
「嫉妬した?」
「違うよ」
返事は早い。
しかし西沙はその美由紀の目を見続けていた。
長い黒髪のストレート。その髪を指でズラしたい衝動に駆られる。時として西沙は、美由紀の綺麗な黒髪に隠れた耳が赤くなっていないか確かめたくなることがあった。
それでも、なぜかいつも踏み留まる。
踏み込めない。
──……私も、彼氏作ったほうがいいのかもね…………
毎日、公私共に一緒にいる。
朝食をどちらかの部屋で一緒に食べ、夜に仕事がない限り夕飯も一緒に部屋で。寝る時以外はいつも一緒に時間を過ごしていた。何度かは同じ布団で寝たこともある。
それでも寝るだけ。それ以上の関係になることはない。しかし西沙の体質的に、同じ布団の中の美由紀の感情の揺れを感じていたことは事実。
どう応えたらいいのか、西沙には分からなかった。
それはやはり、今でも分からない。
──……今夜は何食べよっかな…………
そんな西沙の気持ちを遮るように、美由紀の目の前の電話が音を立てた。
「────はい、御陵院心霊相談所です」
いつもの美由紀の電話対応に、なぜか西沙は気持ちが落ち着くのを感じた。
しかし次の美由紀の声に、乾いた空気がわずかに湿度を帯びていく。
「────え? これからですか⁉︎」
受話器に向けて声を上げた美由紀が西沙に目を向けた。応えるように目を合わせる西沙は、一瞬で目付きを変える。
──…………黒い……
「いいよ」
口元に小さく笑みを携えた西沙が続けた。
「今日はもう空いてる。何時?」
「……大丈夫です。お時間は────はい。二時ですね?」
言いながら美由紀が西沙に再び目線。
「オッケー」
「……では二時にお待ちしております……はい、失礼します」
受話器を置いた美由紀の前には西沙。
「お昼ご飯食べる時間はあるね。下で何か買ってくるけど、今日はもう仕事入れないで。それと……夕ご飯は一緒に食べられるから心配しないこと。なんにするか考えておいてね」
西沙の〝先を見る力〟が間違っていたことはない。
「あ……うん…………」
小さく返しながら、美由紀は受話器を当てていた耳を髪で隠した。
☆
黒基調ではあるが細かな装飾を施された浴衣姿。
そんな華やかさを、同じ黒い日傘が盛り立てていた。
〝安い仕事〟ではないことが、その人物の立ち振る舞いからも伝わる。
髪は後頭部で纏められ、うなじがわずかに見えるが、背中まではあるのではないかと思われる美しい黒髪。お金と手間を掛けなければ出ないであろう艶。
「すいません、遅くなってしまって……近くの駐車場を探していたものですから」
そう言いながらも、その女性が相談所を訪れたのは午後の二時を少し回った頃。家柄なのか、時間への厳しさが伺えた。
楢見崎沙智子────西沙と同じ二〇歳とは思えない大人びた物腰にも、西沙は少しも物怖じすることはない。元々は神社の産まれ。母の咲の立ち振る舞いの美しさを幼い頃から見てきた。
しかし美由紀は違った。
孤児院で育ち、幼い頃にしか親の顔を見たことがない人生。その面影すらすでに忘れかけているほど。堂々とした態度は、時に人に対して威圧感になることもある。
美由紀はそれを経験で知っていた。
麦茶をテーブルに置きながらも、西沙にはその美由紀の緊張が伝わる。
──……嫉妬じゃないから……まあいっか…………
入り口の外には運転手と思われる中年の男性。二枚のガラス扉の向こうに黒いスーツ姿が見えている。
「お付きの方」
西沙が沙智子の向かいに座ったまま言葉を続けた。
「ドライバーさんですか? 外暑いですし、良かったら中で…………」
「いえ……あまり聞かれたくない話ですので…………」
沙智子は節目がちに語尾を小さくする。
──……車で待たずに……まるでボディーガードだ…………
西沙はそんなことを思いながら美由紀に声を向けた。
「美由紀、冷蔵庫のペットボトルのお水を外の方に。長くなる時は一階のコンビニに行ってもらって。多分今が一番暑い時間だし」
「はい」
美由紀は軽く応えるとすぐに冷蔵庫へと動いた。
「楢見崎……沙智子さん、でしたね。ご依頼の内容によっては〝御家〟のことも聞かなければなりませんが……」
西沙はそう繋げながら、なんとなくそれを感じていた。
沙智子がゆっくりと顔を上げる。
西沙は沙智子がこの部屋に入ってきた時に気が付いていたが、改めてその目の珍しさに見入った。
──……オッドアイか……珍しい…………
正確には〝虹彩異色症〟。猫など人間以外の動物では先天的に見られるものだが人間では珍しい。先天的なものだけでなく後天的な症例も含まれる。アジア人では特に少ないとされるが、それは人種的に目が黒いため、少し色が違うくらいでは気が付きにくいというのもあるのだろう。
沙智子の場合、西沙が知る限りでは特に珍しいのではないかと思われた。
右目は薄い茶色。
左目は明るく感じるほどの赤。
目だけを見れば日本人ではないと思われるほどだろう。
そんな沙智子の立ち振る舞いのせいもあるのか、真顔とも笑顔とも取れる独特の表情のまま、静かに口を開いた。
「構いません。そもそも……その〝家〟のことですので……」
「そうですか」
──……やっぱりそうか…………
そう思った西沙はやはり冷静なまま。
そしていつものように会話を続けていく。
「最初にお聞きしたいのですが、ここのことはどちらでお知りになりました? ウチはまだネット広告とかも出してませんし……」
「去年、テレビで拝見させて頂きました。失礼ながらお名前がお珍しかったもので覚えておりまして」
確かに〝御陵院〟という苗字を、西沙は他に知らない。
沙智子が続けた。
「それと…………」
しかし、そう言いかけた沙智子の声はか細い。
「こんなこと……お笑いになるかもしれませんが…………夢で、ここを訪ねるようにと……」
「夢?」
反射的に返しながらも、西沙の張ったアンテナは敏感に動き続けていた。次々と頭の中に情報が流れてくる。
「はい……神社の、いわゆる巫女姿でした……もちろん女性ですが……その方が、ここで貴女様に相談するようにと……」
「なるほど、下手な幽霊騒ぎよりはよほど信用出来ますよ。問題はその巫女が誰か、ですけど……さすがに情報が少ないですね」
言いながらも、西沙の意識の中は忙しないまま。
──……まだ見えないなあ…………
何かに遮られているかのような感覚だった。
──……この仕事…………
嫌な感覚でもある。
それに意識を集中させ過ぎたのか、次の沙智子の言葉に我に返る。
「それにしてもなかなかユニークな方ですね。テレビの時と同じで、本当にいつもそのような服装だとは……」
「目立ったほうが仕事になりますからね。私はそれこそ神社の産まれでして……でもだからと言って巫女姿ってわけにもいきませんから」
西沙が場を少し和やかにするために振った話題。
しかし沙智子は、少しだけ目を細める。
「御陵院神社様ですね。存じております。大きな神社様ですね」
「よくご存知ですね。普通に参拝客の行くような神社でもないので……知らない人も多いんですよ」
「私の所も隣町とはいえ古い地主の歴史を持つ家ですので、この周辺の土地のことでしたらそれなりに…………」
──……なるほど……旧家の立ち振る舞いか…………
「そんな歴史の長い御家柄の娘さんが、どうしてこんな場末の心霊相談所になんか────」
「〝呪い〟というものは…………」
急に焦りを感じさせる声色。
そんな変化で西沙の言葉を遮った沙智子が、小さく喉を鳴らして続けた。
「……本当にあることなのでしょうか…………?」
無駄な世間話よりも本題に入りたい────沙智子がそう思っているように西沙は感じた。
だから焦りもあり、同時にそれは深刻なものであることの表れ。
そしてそれは微細な態度でも見て取れていた。もちろん西沙だから分かったレベルのもの。普通の人に判別の出来るものではない。
しかしそんな西沙でも惑わされるのは、沙智子の〝目〟。
──……両目の色が違うだけでこんなに気持ちを読みにくいなんてね…………
──…………でも…………
わずかに〝怯え〟のような感情も見える。
そこに西沙が踏み込む。
「幽霊なんかがいるかどうか……そんなものは、生きてる我々には判別なんか出来ません」
そんな西沙の切り出し方に、沙智子は目を見開き、驚く。
それもそうだろう。仮にもここは心霊相談所。心霊現象に悩む人々が駆け込む所だと思っていたからだ。それなのに西沙は幽霊がいるかどうか分からないと言う。
沙智子は言葉の真意を理解出来ないまま。
西沙の言葉が続いた。
「でも…………〝呪い〟って、人の念が作り出すものだと私は思っています。〝想い〟と言ってもいい。死後の世界とは関係ありません。生きている人間が作り出すものです。無いほうが不思議ですよ」
「では…………」
沙智子は目の前のグラスに視線を落とす。
グラスの周囲に張り付いた大粒の水滴が、周囲の水滴を巻き込みながらコースターへ不規則に吸い込まれていく様を、沙智子は何かを思いながら見つめ、そして少し間を空けた。
その言葉は、わずかに震える。
「我が家の〝呪い〟も誰かが…………」
それに応える西沙は、いつの間にか主導権を握っていた。
「対象は個人、家族、もしくは家…………それとも血筋か…………」
──……土地じゃないな…………
西沙はそう感じていた。
「だいぶ昔からのようですが……いつからかは分かりませんが…………我が楢見崎家は女系だけで血筋を繋いできたそうです」
沙智子が本筋を語り始める。
「いつも婿養子を迎え入れ…………最初は必ず男の子が産まれます」
──…………なるほど……
「しかし、一年を迎える前に亡くなります。そして程なく女の子が産まれ、血筋が繋がれてきました…………それ以降は絶対に子供は産まれないと言われてきたそうです……産まれても死産…………ですので、たった一人の女の子を大事に育てるのが何より重要視されると聞きました……私もそうだったのでしょう。そして、私にも兄がいたそうです。もちろん私が産まれる前ですが…………」
──……そういうことか…………
「それは古くから……楢見崎家では〝呪い〟であると言い伝えられてきたそうです……ですが……それ以上のことは分かりません…………誰の〝呪い〟なのか…………」
「……血筋か…………」
西沙が小さく呟いた。
西沙はずっと沙智子の目を見続け、決して外そうとはしない。睨みつけるわけでもなく、ただ見続ける。人によっては何かを見透かされるようにも感じるかもしれない。事実、美由紀ですら最初はそうだった。
そして、事実として西沙は、見通していた。
──……やっぱり…………黒いなあ…………
「今…………息子さんがいらっしゃいますね?」
唐突な西沙の言葉に、沙智子が小さく体を動かす。
そして顔を伏せ、その唇が小さく動くが言葉は漏れないまま。
それを補うように続ける西沙。
「息子さんがいるのは気が付いていました。仰らなくても分かることはあります。あなたはその息子さんのことが心配でここに来た。もうすぐ六ヶ月になる息子さんを救いたくてここに来た。そうですよね」
沙智子はさらに顔を伏せ、膝の上で合わせた手を見下ろし、小さく肩を震わせ始めた。
「…………はい……」
消え入りそうな小さな沙智子の声は、パソコン前の美由紀にも辿り着く。
椅子を降りた美由紀はソファーの横に駆け寄った。そして沙智子に自分の白いハンカチを手渡す。
反射的に体が動いていた。美由紀は〝親からの愛情〟を知らない。〝親子の繋がり〟を感じたことがない。自分のことだけならいざ知らず、西沙の特殊な境遇も見てきた。
自分が絶対に手に入れることの出来ないもの。
しかし、求めてはいた。
そんな感情が美由紀を動かしていた。
やがて小さく聞こえてきた沙智子の嗚咽に、西沙が言葉を向ける。
「お受けしますよ……沙智子さん…………」
顔を上げた沙智子の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「…………では…………」
「明日、午前一〇時に迎えに来て下さい。お母様にもお話を伺う必要がありそうです。安心して下さい。今日明日でいきなり息子さんの身が危険になることはありませんよ。沙智子さんが今日ここに来たことがその証です。私に見える未来には必ず意味があります。私はそれに従うだけ」
沙智子は腫れた瞼を大きく開き、涙の混ざる声を漏らした。
「では…………受けて頂けるのですね…………」
すると、西沙の目元が笑みを伴う。
「私は解決の出来ない依頼を受けるつもりはありません。それに何より、私はそのお話に関わる未来を信じています」
その自信に満ちた目は、ソファーの横で膝を曲げる美由紀の気持ちを揺らした。
──……私は…………この目を信じてきたんだ…………
ほどなく、深々と頭を下げ、沙智子がガラスの扉に手を掛けた時、西沙の声に足を止めた。
「沙智子さん、最後に一つだけ────」
振り返ると、そこにはゴスロリ姿の小柄な西沙の姿。それでもその小さな体からは、不思議なほどの力強さが漂う。そしてその西沙の隣には、西沙よりも頭一つ身長が高い美由紀が寄り添っていた。
「その目の色……いつからですか? 先天的じゃないですね」
予想外な質問に、沙智子は不思議そうにしながらも体を向けて応えた。
「一年……ほど前だったと思います。別に痛みはありませんし、医者も理由は分からないと申してまして……」
──…………一年…………
「そうですか……すいません。珍しいなって思って、それだけです」
沙智子は笑みを浮かべる西沙に口元を緩め、再び頭を下げると背を向けた。
ガラスの向こうではスーツの男性が深々と西沙と美由紀に頭を下げている。
不意に、美由紀が西沙の手を握った。
「ん?」
突然のことに西沙も驚くが、決して初めてのことではない。
美由紀はガラスの向こうの沙智子に目をやったまま、口を開いた。
「……気を付けてね」
「うん…………」
──……そっか……私にも見えていない部分があるみたいだね…………
西沙は美由紀の細い手を握り返していた。
『 聖者の漆黒 』
第二部「回顧」第1話・終
第2話へつづく
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