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過去篇

そして少年は男の懐に潜り込む 5

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 夢から醒めて、最初に感じたのは寂しさだった。
 
 とても幸せだった。
 遊園地のような、サーカスのような不思議な世界で、昴は着ぐるみに手を引かれていた。
 何の動物だったのか思い出せない。けれど、大好きだった。何も怖くなかった。
 風船も、綿あめも、大きなぬいぐるみも必要なかった。

 一緒にいるだけで楽しくて、うれしくて。
 昴が手を伸ばすと、着ぐるみはやさしく抱き締めてくれた。

 幸せ過ぎて、これは夢なんだと理解していた。
 小さなころの思い出か、いつか描いた憧れか。
 ただただずっと、そこにいたかった。

「どうした?」
 自然にこぼれた涙を、少しカサついた指の腹が拭った。
 昴の目が大きく見開く。
 カーテン越しのやわらかい光が室内に満ちていた。

「昴?」
「え……と」
「怖い夢でも見たか?」
「いえ」

 混乱したまま、昴は言葉を返した。
 ふたり向き合ってベッドに横になっている。
 時計が見えないので正確な時間はわからないが、早朝はとうに過ぎているようだ。
 里崎は眠気を纏っていない。起きてしばらく経っているように見えた。
 状況を理解するのと引き換えに、夢はおぼろに遠ざかっていく。

 考え込んだ昴の顔を、里崎の手が包み上向かせる。
 視線が合い心配されていると知ると、昴の胸は胸がきゅっと苦しくなった。
 この気持ちは、なんて言葉にしたらいいのだろう。

「しあ、わせで」
「ん?」
「しあわせな夢を見たんです」
「うん」

 昴の指は、まだ里崎のシャツを掴んでいた。
 意識した途端、ぴくりと指先が跳ねる。

 顔が熱くなり、昴は逃げるように目を閉じた。
 本当は俯いてしまいたかったが、里崎が邪魔をした。
 横顔すべて覆ってしまいそうなくらい大きな手は、親指の付け根にくちびるが触れることも厭わず、昴を繋ぎとめようとしてくる。

「あの、恥ずかしいんですけど」
 絞り出すように、昴は訴えた。
「我慢するな。寂しいなら、泣いていいぞ」
「それは……」

 とても魅力的なお誘いではあるが、昴が今困惑しているのは里崎のせいだ。
 不思議と喪失感はなかった。それどころか、くすぐったくてたまらない。
 昴は薄く目を開け、眩しそうに顔を顰めた。

 昨日とは違う意味で怖い。
 里崎はきっと、誰彼愛想を振り撒いたりはしないが、一度懐に入れた人間にはとことん甘いタイプだ。
 子供だからなのか、昴の内面に触れたからなのかはわからない。
 ただ、今現在、昴が里崎にとって守るべき対象になっているのは確かだ。

 けれど、この心地良さに慣れたくはない。
 昨夜から今日にかけて思い知った。
 分不相応なやさしさは身を滅ぼす。

「ぼくはそんな泣き虫じゃありません」
「そうか?」
「昨日は……、さっきのも特別です」
 疑いを掛けられ、昴は小さな声で言い返した。
 二度も泣いてしまったのだから、どう取り繕っても嘘くさい。
 本当は随分久しぶりに泣いたのだけれど、信じて貰うのは諦めた。

「それで、もう気は済んだか?」
 真っ直ぐ昴を見つめていた里崎は、誘導するようにゆっくり視線を落とした。
 その先を追う。昴はいまだ里崎のシャツを掴んだままであったことに気付き、すぐさま手を離した。
「とっくに済んでます!」

 昴が体を起こしベッドに座ると、里崎は立ち上がり寝癖のついた昴の頭に手を置いた。
「お湯を張ってやるから風呂に入れ。その間に朝食を作る」
「でも」
「着替えはある。飯を作る手間は一人分も二人分も変わらない。迷惑だとは思わない。今着てる服は洗って乾燥機にかけるから昼には乾く。
 他に反論があるなら10秒以内に言え。10……9」
「はっ⁉」

 有無を言わさず始まったカウントダウンに、昴は部屋の中を見回した。
 セミダブルのベッドに、さっきまで掛けられていたタオルケット、やっと見つけた時計は8時半を指している。
 カレンダー、今日は土曜だ。自分は夏休みだし、里崎も仕事はないのだろう。

 反論の材料は落ちていない。
 思い付きそうなことは先に言われてしまった。
 そうしているうちにも、カウントは進んでいく。

「5……4」
「えっ、ええと。お金持ってない」
「いらん。2……1」
「困る」
「具体性に欠ける。オレは困らない。0。おしまい」

 最後にはもう、里崎は昴の反応をおもしろがっていたかもしれない。
 イタズラが成功した子供のような表情を見せられ、昴はくちびるをとがらせた。

「反論させる気ないじゃないですか」
「そんなことはない。予定があると言われたら引き下がるつもりだったよ」
「うぐっ……」
 馬鹿正直な自分を悔いたが、手遅れだった。


「嘘つき」
 風呂から上がった昴は、用意された着替えを前につぶやいた。
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