夏の残香

宮浦透

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9.心が背伸びを。

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 朝、起きれば。目の前に浮かんでるそれは夕陽だった。
 タワマンの最上階。オレンジの空を背景に、沈み切った心は体を無理やり突き動かして何かに焦るように家を飛び出した。玄関の扉をこじ開けて二十歩、人っ気の一つもない廊下を野垂れ歩いて、そこにはエレベーターが二つ。
 ボタンを押す。先にここまで到着するのは、右か左か。どっちでもいいけど、早く下まで送り届けてくれた方が勝ち。このタワマンなんて四六階もあるんだから。それはもうエレベーターだって頑張ってもらわないと、どれだけ時間がかかったって下まで着きやしない。
 先にここまで到着したのは右のエレベーター。やっぱり、多分。そんな気がしてた。きっと、今日は右の気分だったはず。
 きっかけは単純だった。ただのすれ違い。今、思えば悪いと思ってる。でも謝るまでの道のりは長そうだ。
 それは四十階。綺麗な浴衣の女性が一人。そういえば今日は大きな花火があるらしい。好きな人とデートにでも行くのだろうか。これ以上はないほどに綺麗に整えられた髪の毛を、少し耳に乗せて真剣な眼差しを手鏡に向ける。その目は真剣に容姿をチェックしていても、口元は緩んでる。これ以上のコンディションは無いんだろう。
 好きな人に、最高の姿を見せつけたいんだろう。それでその人の目線を独り占めしたいんだろう。
 それは三四階。今度は子供の手を引いて。お母さんと二人。飴玉でも食べてるのか。口が片方膨れてる。
 家族とはなんて幸せな色をしているんだろう。なんだかこの子はこれからも幸せな気がする。
 それは三二階、二九階、二四階。気付けばエレベーターは人が溢れんばかりになっていく。止まっては人が乗り込んで、止まってはまた一つの幸せの形を目の前にして。
 夕暮れの何気ない風景が、この数分の空間さえもが、一世一代の大事件。その讃劇を目前になぜか少しの動揺と焦燥感と、それとどこからともなく湧き出す羨望とを、胸の内に無理矢理押し込んで蓋をするとする。
 不思議な世界。エレベーターはまだ一番下まで到達しない。しかし鬱陶しくもない。
 同じところばかりに目を向けて、違いを認められない僕ら。きっとまだ奥があるだろう。まだ見ぬ未来へ足を進められるのだろう。それが人生なら、少しだけ楽しみかもしれない。
 エレベーターが重量オーバーで声を上げた。乗ろうとしたマッチョは大声で笑いながら階段に走って行った。エレベーターに乗っていた皆はそれを笑っていていた。
 そしてそれは遂に一階。左のエレベーターはとっくの前に到着していた。でも早く着くよりも大切なものを見た気がする。
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