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1巻
1-3
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「うん、そうね……その方がいいわね」
部長の提案に、向井さんも同意した。私は向井さんから離れ、目元を拭いながら二人に頭を下げる。
「すみません……少しだけ、席を外します……」
心配そうに見守る向井さんと部長に軽く会釈をしてから、私は部署を出て外に向かった。
【あなたみたいな人、好きになって時間の無駄でした】
こんなこと、人生で初めて言われた。
誠実に気持ちを伝えたつもりだったけど、言い方を間違えてしまったのか?
じゃあ彼に言われるまま付き合えばよかったのか? でも、好きでもないのに付き合ったら、それこそ残酷ではないのか?
試しにお付き合いをして、やっぱり好きになれなかった時はどうするのだ。
自分を偽ったまま相手と一緒に居続けるのは、相手に対して失礼だし、それこそ、時間の無駄ではないのか。
――本当の気持ちを話しただけなのに、なんであんなことを言われないといけないの……?
歩きながら悶々としていたら、またじわりと涙が浮かんでくる。どうやら、完全に涙腺を刺激するスイッチが入ってしまったらしい。
――いい年して泣くな。みっともない。
すれ違う人に見られないよう、俯いたまま外を目指す。そんな時に限って、タイミング悪く声をかけられた。
「漆瀬さん」
聞き覚えのある低音に小さく胸が跳ねた。控えめに顔をそちらに向けると、正面から斎賀さんが歩いてきた。おそらく、外で食事を済ませて戻ってきたところだろう。
斎賀さんは私の顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「どうしたんですか」
そう言いながら、私のすぐ近くまで歩み寄ってきた。
どうしたと言われても、すぐに事情を説明することなど、今の私にはできない。
「なんでもありません、大丈夫です」
声もいつもより出ていないし、斎賀さんと再び目を合わせることもできない。これでは何かあったと一目瞭然だろう。
――気まずい……
「すみません、急ぐので……」
会釈をしながら斎賀さんの隣を通り過ぎようとした。しかし、咄嗟に「ちょっと待って」と呼び止められてしまう。
「そんな状態でどこに行こうっていうんだ」
これまでのような落ち着いた丁寧さはなく、素の感情を表に出したような斎賀さんに戸惑う。
――斎賀さん、なんだかいつもと違う……
焦りのようなものが浮かぶ斎賀さんと目を合わせ、私は小さく首を横に振った。
「いやあの……少し外の空気を吸って気持ちを落ち着けようと思って。だから……失礼します」
斎賀さんの視線から逃れるように顔を背けた。そのままこの場を去ろうとしたら、手首を優しく掴まれた。
「待って。今の君は一人でいると余計に目立つ。――おいで」
「えっ……? あ、あの……」
戸惑う私に構わず、私の手首を掴んだ斎賀さんが、来た道を戻り始めた。
――どこへ行くの? っていうか、なんで斎賀さんまで?
手首を掴まれて一緒に歩いているところなど人に見られたら、またどう思われるか分からない。
彼の背中を見ながらそんな不安を抱いていると、正面から人が歩いてくるのが見えた途端、私の手を掴んでいた斎賀さんの手が離れた。
「すぐそこのコンビニに行くだけだから」
「は……はい」
連れだって社屋を出た私達は、道路を挟んで向かいにあるコンビニに入った。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
何を飲むか聞かれて、真っ先に目に入ったカフェオレと答える。すると、彼がカフェオレと自分用のコーヒーを買ってくれた。店を出て、コンビニの壁に凭れながら、二人並んで立ったままそれを飲んだ。
斎賀さんが買ってくれたのは、私もよく飲むごく普通のカフェオレ。なのに、今日のカフェオレはやけに心に沁みた。
――美味しいなあ、このカフェオレ。こんなに美味しかったっけ。
ほう……と息を吐き出していたら、コーヒーを飲んでいた斎賀さんが、こちらを見ないまま話しかけてきた。
「少しは落ち着いた?」
「はい……」
「原因は上松だろう」
いきなり言い当てられてしまい、ため息をつく。
「はい……」
「……あいつに何を言われた?」
そこまで分かっているのなら、話してもいいかという気になった。
「……もう一度ちゃんと、お付き合いをお断りしたんですけど、私の言い方がよくなかったのか、上松さんの気分を損ねてしまって……ちょっと……言われたことがショックだったというか……」
恥ずかしくて、視線を手元のカップに落とす。
二十八にもなって人前で泣くなんてみっともない。しかも、たまたま通りかかった斎賀さんに心配までかけて、私は一体何をやっているのか。
考えれば考えるほどやるせなくなる。
「……上松は、今まで女性に振られたことがないそうだ」
「え?」
いきなりそう切り出した斎賀さんを見上げる。
「おそらく上松は、漆瀬さんが自分を断るはずがないと思い込んでいたんだろう。でも、振られた。それが上松にとっては受け入れがたいことだったんだろう。だから、思わず君に怒りをぶつけた……ってとこかな」
「あんなに無理ですって言っていたのに、どうして私が断るはずがないなんて思い込めるんでしょう……」
「周囲がちやほやしすぎなんだろう。あれじゃ天狗になっても仕方がない。今回のことは、これまで自信満々だった上松の鼻が折れて、むしろよかったんじゃないか」
涼しい顔で紙コップに口を付ける斎賀さんを見つめ、私はまたため息をついた。
「でも……私、彼を傷つけてしまいました」
「君が傷つくよりはいい」
間髪容れず返ってきた言葉に、また斎賀さんを見上げた。それに気づいた斎賀さんも、顔をこちらに向けてきた。
「ん?」
「いえ、あの……同じ部署でもない私に、なんでそんなことを言ってくれるんだろうって思って……」
「あんな泣きそうな顔で歩いていたら放っておけないだろう。その原因が自分の部下なら、余計だ」
斎賀さんは残っていたコーヒーをぐいっと呷った。空になった紙コップをゴミ箱に入れ、私の隣に戻ってくる。
「……涙はもう引っ込んだ?」
斎賀さんが、少し腰を屈めて私の顔を覗き込んできた。その顔があまりにも綺麗だったので、ドキッとする。あと、近すぎる距離にも。
「は……はい、大丈夫、だと思います……」
「でもまだ目が赤いな」
じっと目を見つめられると、どこを見ていいか分からない。私はたまらず一歩後ろに下がった。
「……か、花粉症で誤魔化します……」
こう言ったら、斎賀さんが腰を屈めたまま「あ」という顔をする。
「なるほど。そういう手があったか」
体勢を戻し口元に手を当てながら、真顔で納得している。そんな斎賀さんがなんだか可笑しくて、笑いが込み上げてきた。
「そんな真剣に言い訳を考えなくても……」
でも相手は先輩社員。笑っちゃいけないと思い必死で笑いを堪える。そんな私を黙って見つめていた斎賀さんの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「笑顔の方がいいよ、漆瀬さん」
斎賀さんの口から、彼が発したとは思えない言葉が紡がれた。
「……え?」
「そろそろ昼休みが終わる。行こうか」
ぽかんとする私にちらっと視線を送って斎賀さんが歩き出す。慌ててカフェラテのカップを持ったまま彼を追いかけた。
社屋の正面玄関からエントランスに入る寸前、斎賀さんが立ち止まって私を振り返った。
「前も言ったと思うけど、上松のことで何か困ったら遠慮なく相談して」
眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、困った時は頼れと言っている。
「きっと……もう大丈夫だと思います。私のことなんか嫌いになったみたいですし。それに、彼の上司である斎賀さんに相談するのはちょっと……言いつけるみたいじゃないですか」
上目遣いで斎賀さんを窺うと、何故か彼は、ふいっと視線を逸らしてしまう。
「上司として当然のことだ。上松は、はっきり言わないと気づかないことも多いから。漆瀬さんが心配するようなことは何もないよ」
「でも」
躊躇っていると、斎賀さんが胸ポケットからカードケースを取り出し、そこからカードを一枚抜いて私の手に握らせた。
「いつでも構わないから」
さらりと言い放ち、斎賀さんはエントランスの奥へ消えていった。
彼が去って行くのをじっと見守ってから、手の中にあるカードへ視線を落とす。それは、斎賀さんの名刺だった。よく見れば携帯電話の番号も記載されている。
名刺に記載されている名前は、斎賀陣。
私は部署に戻るまで、ずっとその名前を頭に思い浮かべていた。
その日、仕事を終えた私は、上松さんが置いていったたっぷりお土産の入った紙袋を持って、企画開発部に向かった。
いらなかったら捨ててくれ、なんて言われたけど、そんなことできるわけがない。
かといって、あんなことを言われた相手からもらったものを、何食わぬ顔で持って帰れるほど私は強心臓ではない。
――もしかしたら、またキレられるかもしれないけど……それでも、もらったままでいるよりは返してスッキリした方がマシ。
企画開発部で最初に会った女性社員に上松さんのことを聞いたら、その女性がフロアの奥の方にいた上松さんを呼びに行ってくれた。それを目で追っていると、何気にすぐ近くには斎賀さんの姿もあった。
いつもの無表情で、パソコンの画面に見入っていた斎賀さんは、上松さんが私の存在に気がつくと同時に顔を上げた。
――あ。こっち見た……
斎賀さんと視線がぶつかったことで、何故か私の胸がドキドキ音を立て始める。そのことに動揺していると、眼前にものすごく焦った様子の上松さんが早足で近づいてきた。その勢いに、思わずビクッと体が震える。
また何か言われるかもしれない、と無意識に身構えていたら、いきなり頭を下げられた。
「……っ、すみませんでした!」
「え」
「……いくらあなたに振られて苛ついていたからとはいえ、ひどいことを言ってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
まるで昼とは別人のような上松さんに、なんだか狐につままれたような、変な気分になる。
「上松さん、昼はあんなに怒っていたのに」
体を戻した上松さんが、申し訳なさそうに視線を泳がせる。
「いやその……あの後、少し冷静になったところで上司からたまたますれ違ったあなたが泣いていたと聞いて……自分の言動を思い返してみたんです。さすがに、あれはひどかったと……思って……」
上司というのは、斎賀さんのことだろう。
ちらっと斎賀さんの方へ視線を向けると、一瞬目が合ったのにすぐ逸らされてしまった。
――大丈夫だって言ったのにな……
それでも、こんな風に上松さんから謝罪してもらえたのは、斎賀さんのおかげかもしれない。
素直にありがたく思った。
「そうですか。私も上松さんのことを深く知ろうともせずに、一方的に拒絶するような態度を取ってしまったので。ご気分を害されるのも無理ありません」
これに対し、急に上松さんの表情が明るくなる。
「え……じゃあ付き合ってくれるんですか?」
「いいえ。それは絶対に無理です。それとこれ、やっぱりお返しします」
お土産の入った紙袋を彼に返すと、上松さんの表情が分かりやすく曇り、そのままがっくりと項垂れてしまった。
「まあ、そうですよね……」
紙袋を胸に抱えている上松さんが、これまでと違って小さく見える。
その姿を見ているうちに、あまりのギャップに笑いが込み上げてきた。
「ふふっ……ほんと、上松さん昼と別人すぎます」
申し訳ないけど声を上げ笑ってしまった。すると、何故か上松さんが、私を見たまま顔を赤らめた。しかも気のせいか、体が微かに震えているような気もする。
――あれっ? なんで顔赤い……もしかして笑ったことに怒ったのかな。
「すみません、私――」
慌てて笑うのをやめると、上松さんが紙袋を両手に抱えたまま、私に一歩近づいた。そして彼は、天井に向かって声を張り上げる。
「漆瀬さあああん‼ やっぱり好きだあああああ‼」
「えっ⁉ えええ⁉」
真っ赤な顔でいきなり叫んだ上松さんに、部署に残っていた社員の視線が一気に集まる。
その中には、もちろん斎賀さんの視線も含まれていた。斎賀さんは、目を見開いたまま私を見た後、額に手を当て項垂れてしまった。
――さ……斎賀さん……どうしましょう……
きっぱりお断りしたのに、今度はこんな場所で愛を叫ばれてしまった。
結局上松さんのことは、今日ですっきり終わり……とはいかなかったのだった。
翌日出勤すると、やっぱりというか案の定というか、いつも以上に視線が痛かった。
特に上松さんが叫んだ現場を、その場で目撃した企画開発部の女性からは、かなり冷ややかな視線を浴びせられる。
「告白されるのはいいけど、さすがに場所をわきまえて欲しいわよね」
「そうよね。やるんだったら誰もいない場所で二人きりでやってほしいわ。それにしても、上松君にはがっかりよ。やっぱ顔なんだね」
エレベーター待ちをしている間、企画開発部の女性二人が背後でわざと私に聞こえるようなボリュームで話している。その一言一句が針のようにチクチクと私の背中に刺さってきた。
――いや私、ちゃんと断ってるし……どうすりゃよかったのよ……
昨日、企画開発部で再び告白してきた上松さんは、駆けつけた斎賀さんを含めた同僚に取り押さえられた。
『漆瀬さん、もう行っていいよ』
斎賀さんに言われて、私は急いで『すみません、失礼します!』と挨拶をして、企画開発部を後にした。
結果として、上松さんと仲直りをしたことはよかったのか、悪かったのか。
いまだ背後で、私に対する当てつけのように文句を言い続けている女性二人に嫌気がさし、エレベーターに乗るのを諦めた。
人気が少ない階段で三階にある部署へ向かおうとすると、背後に人の気配を感じた。
――まさか上松さん⁉
勢いよく振り返ったら、後ろにいたのは斎賀さんだった。
「あ……斎賀さん。おはようございます」
「おはよう」
斎賀さんの顔を見た瞬間、自分でもびっくりするくらい安心して気が抜けた。
いつもと変わらぬシルバーフレームの眼鏡に、綺麗に整えられた髪。それと、耳馴染みのいい低い声。しかも斎賀さん、いい匂いがする。
いい匂いをさせた斎賀さんは、私の隣に来ると、いきなり謝ってきた。
「昨日は上松が申し訳なかった。漆瀬さんには気まずい思いばかりさせてしまって、なんとお詫びしたらいいのか」
斎賀さんは、本当に申し訳なさそうに目を伏せている。彼は、何も悪くないのに、だ。
そんな顔を見たら、こちらの方が申し訳なくなってきた。
「いえ、斎賀さんは何も悪くありません。だから、そんな顔なさらないでください。上松さんは、なんというか、ああいう人なんだなって昨日一日でよく分かりましたし……もう、いいです。今後は何を言われても、きっぱりお断りしますから」
彼を安心させようと、努めて明るく振る舞った。だけど斎賀さんの表情は晴れない。
「いや、上松だけじゃないだろう。さっきエレベーターの前で、君の話をしている社員がいたようだし」
「ああ……」
「あまりにひどいようなら、何か手を考える」
今の一言で、さっきの嫌な気持ちを全部チャラにできた。
「ありがとうございます。そうやって、ちゃんと分かってくれている人がいると分かっただけで、私は大丈夫です。だからもう、気になさらないでください」
私の言った内容が理解できないのか、斎賀さんが困り顔で見下ろしてきた。
「恥ずかしながら、私、わりと周囲に誤解されやすいみたいで、こういうことがよくあるんです。だから、本当に気にしないでください」
「こんなことがよくあるのか」
「ええ、まあ……すみません……」
恥ずかしいと思っていると、斎賀さんがため息をついた。
「……昨日渡した名刺、今持ってる?」
階段をゆっくり一段ずつ上りながら、斎賀さんが私に尋ねてくる。
「はい、持ってますけど」
「ちょっと貸してもらっていいかな」
「? はい」
なんだかよく分からないけど、言われるまま、スマホケースのカードホルダーに入っていた斎賀さんの名刺を渡した。
彼はそれを手にすると、胸ポケットからペンを取り出し、さらさらと何か書いていく。
「よく考えたら電話番号だけしか書いてなかった。業務以外のことを電話で連絡っていうのは、ハードルが高いように思うので、SNSのIDを書いておいた。緊急の連絡があれば、ここに送って」
ペンを胸ポケットにしまいながら、斎賀さんが名刺を私に戻してくる。裏面に手書きで書かれたIDを見た瞬間、私の胸が苦しいくらい締め付けられた。
「あ……ありがとうございます。休憩時間に早速登録しておきます」
「よろしく。あと、君、上松の前であまり笑顔を見せない方がいい」
「へ? どうして……」
「ものすごく可愛いから。あれだと上松にとっては逆効果」
気がついたら私の部署がある三階に到着していた。
斎賀さんが勤務する企画開発部は四階にあるので、彼は私にちらっと視線を送ると、そのまま大股で階段を上っていった。
その足の長さに驚く以上に、私の頭は別のことでいっぱいで、その場から動けなくなった。
――今……笑顔が可愛いって言った? しかもものすごくって……
言われた内容を頭が理解した途端、嘘みたいに顔が熱くなってきて呼吸が浅くなる。
いや、あれは気をつけるように教えてくれただけだ。きっと深い意味なんてないはず。だけど、どうしても体が熱くなるのを止められない。
正直に言うと、これまでも人から可愛いと言われたことは結構ある。
けれど、男性にそう言われて、ここまで動揺したのは人生で初めてだった。
思い出したら、心臓があり得ないほどドキドキして、足に力が入らなくなる。
私は胸に手を当てたまま、彼が上っていった階段をただ見つめていた。
昼休み。利用しているSNSに斎賀さんのIDを登録して数時間後。
先に【よろしくお願いします】と送っておいたら、ちゃんと既読がついていた。
――見てくれた。
ただ見た。それだけのことなのに、なんでこんなに嬉しいのだろう。
これまで誤解され悪く言われることの方が多かったのに、ちゃんと事実だけを見て気遣ってもらえたことが、心から嬉しかったからだと思う。
なんとなくふわふわした気持ちのまま、いつも通り仕事を終えた。
「お疲れ様でした」
向井さんや席が近い同僚に挨拶をして部署を出る。エントランスから外へ抜け、最寄りのバス停まで真っ直ぐ歩く。バス停には五、六人のバス待ちの行列ができていた。
うちの社屋の近くにはバスの車庫がある。よってこれくらいのバス待ち行列なら間違いなく座って帰れる。
家までの距離が結構長いので、座って帰れるのはありがたい。ホッとした私はオレンジ色の光を放つ夕日に目をやった。
――まぶし……それに、まだ結構暑い。
夕方とはいえまだ気温が高く蒸し暑い。ずっと髪を結んでいたので、頭の中が蒸れて気持ち悪い。
ここは外だし、あとはもう帰るだけ。だったらいいかと髪をほどいた。軽く手櫛で整えてから何気なく顔を横に向けると、そこに斎賀さんが立っていた。
「……お、お疲れ様です……」
「お疲れ様」
それだけ言うと、斎賀さんは無言で私の隣に立った。もしかして、斎賀さんもこのバスに乗るのだろうか。
「バス……乗られるんですか?」
躊躇いがちに声をかけたら、斎賀さんがフッと口元を緩めた。ちなみに彼とバス停で一緒になるのは、私の認識では初めてだと思う。
「うん。漆瀬さんはいつもバス?」
「はい。斎賀さんは……?」
「普段は電車か、たまにマイカー。今、車を点検に出してて、今日は久しぶりにバスで帰ろうかと思って」
「そうだったんですね。このバスに乗るってことは、同じ方向なんですね」
「ああ、○○町だから」
「えっ」
斎賀さんが口にした住所は、私の実家がある町の隣だった。
「実は近かったんですね」
素直に驚いていると、斎賀さんもそうだねと頷いた。具体的にどの辺か、という話をしているうちにバスが来た。タイミングが良かったのかそれほど混み合ってはおらず、ごくごく自然な流れで二人がけの椅子に並んで座ることになった。
――う……体が思いっきり密着している……
斎賀さんの肩とか腕の感触や、微かに香るいい匂いにめまいがしそう。こんな状態で、私は無事に家まで辿り着けるのだろうか。
緊張して悶々としていると、そうだ、と言って斎賀さんがスマホを取り出した。
「登録してくれてありがとう」
「あ、いえ」
「緊急時は遠慮なく連絡ください」
「はい、ありがとうございます」
斎賀さんがスマホに視線を落としながら、手早く操作をする。その数秒後、私のスマホが小さく震えた。
「もしかして、何か送りました?」
「うん」
慌ててスマホを取り出して確認すると、斎賀さんからのメッセージが画面に表示されていた。
【上松とはその後、何かあった?】
思わず斎賀さんを見た。これを使用するのは緊急時じゃなかったのだろうか。
「普通に口で聞いてくださいよ」
「言いにくいかと思って」
いいのかな? と思いながらも、私も彼に倣ってメッセージを返す。
【今日は会っていないので】
ちらっと隣を見たら、斎賀さんが小さく頷きながらすばやく文字を入力した。
【宿題を多めに出したからかな】
「宿題?」
声に出して尋ねたら、斎賀さんが理由は分かるだろ? と言わんばかりに首を小さく傾げた。
「一応上司なので」
クスッと小さく笑った私は、またスマホに視線を落とす。
【斎賀さんって、おいくつなんですか】
【三十三】
返事はすぐに届いた。
――あれ。意外と若いんだな。
課長って聞いてたから、もうちょっと上かと思ってた。
【私と五つしか変わらないんですね】
【顔が老けてるからね】
自虐的な返しに、ガクッとなりかけた。
【そんなこと一言も言ってませんよ】
【言わなくても分かる。昔から五歳は上に見られてきたから】
【落ち着きがあるってことですよ】
部長の提案に、向井さんも同意した。私は向井さんから離れ、目元を拭いながら二人に頭を下げる。
「すみません……少しだけ、席を外します……」
心配そうに見守る向井さんと部長に軽く会釈をしてから、私は部署を出て外に向かった。
【あなたみたいな人、好きになって時間の無駄でした】
こんなこと、人生で初めて言われた。
誠実に気持ちを伝えたつもりだったけど、言い方を間違えてしまったのか?
じゃあ彼に言われるまま付き合えばよかったのか? でも、好きでもないのに付き合ったら、それこそ残酷ではないのか?
試しにお付き合いをして、やっぱり好きになれなかった時はどうするのだ。
自分を偽ったまま相手と一緒に居続けるのは、相手に対して失礼だし、それこそ、時間の無駄ではないのか。
――本当の気持ちを話しただけなのに、なんであんなことを言われないといけないの……?
歩きながら悶々としていたら、またじわりと涙が浮かんでくる。どうやら、完全に涙腺を刺激するスイッチが入ってしまったらしい。
――いい年して泣くな。みっともない。
すれ違う人に見られないよう、俯いたまま外を目指す。そんな時に限って、タイミング悪く声をかけられた。
「漆瀬さん」
聞き覚えのある低音に小さく胸が跳ねた。控えめに顔をそちらに向けると、正面から斎賀さんが歩いてきた。おそらく、外で食事を済ませて戻ってきたところだろう。
斎賀さんは私の顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「どうしたんですか」
そう言いながら、私のすぐ近くまで歩み寄ってきた。
どうしたと言われても、すぐに事情を説明することなど、今の私にはできない。
「なんでもありません、大丈夫です」
声もいつもより出ていないし、斎賀さんと再び目を合わせることもできない。これでは何かあったと一目瞭然だろう。
――気まずい……
「すみません、急ぐので……」
会釈をしながら斎賀さんの隣を通り過ぎようとした。しかし、咄嗟に「ちょっと待って」と呼び止められてしまう。
「そんな状態でどこに行こうっていうんだ」
これまでのような落ち着いた丁寧さはなく、素の感情を表に出したような斎賀さんに戸惑う。
――斎賀さん、なんだかいつもと違う……
焦りのようなものが浮かぶ斎賀さんと目を合わせ、私は小さく首を横に振った。
「いやあの……少し外の空気を吸って気持ちを落ち着けようと思って。だから……失礼します」
斎賀さんの視線から逃れるように顔を背けた。そのままこの場を去ろうとしたら、手首を優しく掴まれた。
「待って。今の君は一人でいると余計に目立つ。――おいで」
「えっ……? あ、あの……」
戸惑う私に構わず、私の手首を掴んだ斎賀さんが、来た道を戻り始めた。
――どこへ行くの? っていうか、なんで斎賀さんまで?
手首を掴まれて一緒に歩いているところなど人に見られたら、またどう思われるか分からない。
彼の背中を見ながらそんな不安を抱いていると、正面から人が歩いてくるのが見えた途端、私の手を掴んでいた斎賀さんの手が離れた。
「すぐそこのコンビニに行くだけだから」
「は……はい」
連れだって社屋を出た私達は、道路を挟んで向かいにあるコンビニに入った。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
何を飲むか聞かれて、真っ先に目に入ったカフェオレと答える。すると、彼がカフェオレと自分用のコーヒーを買ってくれた。店を出て、コンビニの壁に凭れながら、二人並んで立ったままそれを飲んだ。
斎賀さんが買ってくれたのは、私もよく飲むごく普通のカフェオレ。なのに、今日のカフェオレはやけに心に沁みた。
――美味しいなあ、このカフェオレ。こんなに美味しかったっけ。
ほう……と息を吐き出していたら、コーヒーを飲んでいた斎賀さんが、こちらを見ないまま話しかけてきた。
「少しは落ち着いた?」
「はい……」
「原因は上松だろう」
いきなり言い当てられてしまい、ため息をつく。
「はい……」
「……あいつに何を言われた?」
そこまで分かっているのなら、話してもいいかという気になった。
「……もう一度ちゃんと、お付き合いをお断りしたんですけど、私の言い方がよくなかったのか、上松さんの気分を損ねてしまって……ちょっと……言われたことがショックだったというか……」
恥ずかしくて、視線を手元のカップに落とす。
二十八にもなって人前で泣くなんてみっともない。しかも、たまたま通りかかった斎賀さんに心配までかけて、私は一体何をやっているのか。
考えれば考えるほどやるせなくなる。
「……上松は、今まで女性に振られたことがないそうだ」
「え?」
いきなりそう切り出した斎賀さんを見上げる。
「おそらく上松は、漆瀬さんが自分を断るはずがないと思い込んでいたんだろう。でも、振られた。それが上松にとっては受け入れがたいことだったんだろう。だから、思わず君に怒りをぶつけた……ってとこかな」
「あんなに無理ですって言っていたのに、どうして私が断るはずがないなんて思い込めるんでしょう……」
「周囲がちやほやしすぎなんだろう。あれじゃ天狗になっても仕方がない。今回のことは、これまで自信満々だった上松の鼻が折れて、むしろよかったんじゃないか」
涼しい顔で紙コップに口を付ける斎賀さんを見つめ、私はまたため息をついた。
「でも……私、彼を傷つけてしまいました」
「君が傷つくよりはいい」
間髪容れず返ってきた言葉に、また斎賀さんを見上げた。それに気づいた斎賀さんも、顔をこちらに向けてきた。
「ん?」
「いえ、あの……同じ部署でもない私に、なんでそんなことを言ってくれるんだろうって思って……」
「あんな泣きそうな顔で歩いていたら放っておけないだろう。その原因が自分の部下なら、余計だ」
斎賀さんは残っていたコーヒーをぐいっと呷った。空になった紙コップをゴミ箱に入れ、私の隣に戻ってくる。
「……涙はもう引っ込んだ?」
斎賀さんが、少し腰を屈めて私の顔を覗き込んできた。その顔があまりにも綺麗だったので、ドキッとする。あと、近すぎる距離にも。
「は……はい、大丈夫、だと思います……」
「でもまだ目が赤いな」
じっと目を見つめられると、どこを見ていいか分からない。私はたまらず一歩後ろに下がった。
「……か、花粉症で誤魔化します……」
こう言ったら、斎賀さんが腰を屈めたまま「あ」という顔をする。
「なるほど。そういう手があったか」
体勢を戻し口元に手を当てながら、真顔で納得している。そんな斎賀さんがなんだか可笑しくて、笑いが込み上げてきた。
「そんな真剣に言い訳を考えなくても……」
でも相手は先輩社員。笑っちゃいけないと思い必死で笑いを堪える。そんな私を黙って見つめていた斎賀さんの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「笑顔の方がいいよ、漆瀬さん」
斎賀さんの口から、彼が発したとは思えない言葉が紡がれた。
「……え?」
「そろそろ昼休みが終わる。行こうか」
ぽかんとする私にちらっと視線を送って斎賀さんが歩き出す。慌ててカフェラテのカップを持ったまま彼を追いかけた。
社屋の正面玄関からエントランスに入る寸前、斎賀さんが立ち止まって私を振り返った。
「前も言ったと思うけど、上松のことで何か困ったら遠慮なく相談して」
眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、困った時は頼れと言っている。
「きっと……もう大丈夫だと思います。私のことなんか嫌いになったみたいですし。それに、彼の上司である斎賀さんに相談するのはちょっと……言いつけるみたいじゃないですか」
上目遣いで斎賀さんを窺うと、何故か彼は、ふいっと視線を逸らしてしまう。
「上司として当然のことだ。上松は、はっきり言わないと気づかないことも多いから。漆瀬さんが心配するようなことは何もないよ」
「でも」
躊躇っていると、斎賀さんが胸ポケットからカードケースを取り出し、そこからカードを一枚抜いて私の手に握らせた。
「いつでも構わないから」
さらりと言い放ち、斎賀さんはエントランスの奥へ消えていった。
彼が去って行くのをじっと見守ってから、手の中にあるカードへ視線を落とす。それは、斎賀さんの名刺だった。よく見れば携帯電話の番号も記載されている。
名刺に記載されている名前は、斎賀陣。
私は部署に戻るまで、ずっとその名前を頭に思い浮かべていた。
その日、仕事を終えた私は、上松さんが置いていったたっぷりお土産の入った紙袋を持って、企画開発部に向かった。
いらなかったら捨ててくれ、なんて言われたけど、そんなことできるわけがない。
かといって、あんなことを言われた相手からもらったものを、何食わぬ顔で持って帰れるほど私は強心臓ではない。
――もしかしたら、またキレられるかもしれないけど……それでも、もらったままでいるよりは返してスッキリした方がマシ。
企画開発部で最初に会った女性社員に上松さんのことを聞いたら、その女性がフロアの奥の方にいた上松さんを呼びに行ってくれた。それを目で追っていると、何気にすぐ近くには斎賀さんの姿もあった。
いつもの無表情で、パソコンの画面に見入っていた斎賀さんは、上松さんが私の存在に気がつくと同時に顔を上げた。
――あ。こっち見た……
斎賀さんと視線がぶつかったことで、何故か私の胸がドキドキ音を立て始める。そのことに動揺していると、眼前にものすごく焦った様子の上松さんが早足で近づいてきた。その勢いに、思わずビクッと体が震える。
また何か言われるかもしれない、と無意識に身構えていたら、いきなり頭を下げられた。
「……っ、すみませんでした!」
「え」
「……いくらあなたに振られて苛ついていたからとはいえ、ひどいことを言ってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
まるで昼とは別人のような上松さんに、なんだか狐につままれたような、変な気分になる。
「上松さん、昼はあんなに怒っていたのに」
体を戻した上松さんが、申し訳なさそうに視線を泳がせる。
「いやその……あの後、少し冷静になったところで上司からたまたますれ違ったあなたが泣いていたと聞いて……自分の言動を思い返してみたんです。さすがに、あれはひどかったと……思って……」
上司というのは、斎賀さんのことだろう。
ちらっと斎賀さんの方へ視線を向けると、一瞬目が合ったのにすぐ逸らされてしまった。
――大丈夫だって言ったのにな……
それでも、こんな風に上松さんから謝罪してもらえたのは、斎賀さんのおかげかもしれない。
素直にありがたく思った。
「そうですか。私も上松さんのことを深く知ろうともせずに、一方的に拒絶するような態度を取ってしまったので。ご気分を害されるのも無理ありません」
これに対し、急に上松さんの表情が明るくなる。
「え……じゃあ付き合ってくれるんですか?」
「いいえ。それは絶対に無理です。それとこれ、やっぱりお返しします」
お土産の入った紙袋を彼に返すと、上松さんの表情が分かりやすく曇り、そのままがっくりと項垂れてしまった。
「まあ、そうですよね……」
紙袋を胸に抱えている上松さんが、これまでと違って小さく見える。
その姿を見ているうちに、あまりのギャップに笑いが込み上げてきた。
「ふふっ……ほんと、上松さん昼と別人すぎます」
申し訳ないけど声を上げ笑ってしまった。すると、何故か上松さんが、私を見たまま顔を赤らめた。しかも気のせいか、体が微かに震えているような気もする。
――あれっ? なんで顔赤い……もしかして笑ったことに怒ったのかな。
「すみません、私――」
慌てて笑うのをやめると、上松さんが紙袋を両手に抱えたまま、私に一歩近づいた。そして彼は、天井に向かって声を張り上げる。
「漆瀬さあああん‼ やっぱり好きだあああああ‼」
「えっ⁉ えええ⁉」
真っ赤な顔でいきなり叫んだ上松さんに、部署に残っていた社員の視線が一気に集まる。
その中には、もちろん斎賀さんの視線も含まれていた。斎賀さんは、目を見開いたまま私を見た後、額に手を当て項垂れてしまった。
――さ……斎賀さん……どうしましょう……
きっぱりお断りしたのに、今度はこんな場所で愛を叫ばれてしまった。
結局上松さんのことは、今日ですっきり終わり……とはいかなかったのだった。
翌日出勤すると、やっぱりというか案の定というか、いつも以上に視線が痛かった。
特に上松さんが叫んだ現場を、その場で目撃した企画開発部の女性からは、かなり冷ややかな視線を浴びせられる。
「告白されるのはいいけど、さすがに場所をわきまえて欲しいわよね」
「そうよね。やるんだったら誰もいない場所で二人きりでやってほしいわ。それにしても、上松君にはがっかりよ。やっぱ顔なんだね」
エレベーター待ちをしている間、企画開発部の女性二人が背後でわざと私に聞こえるようなボリュームで話している。その一言一句が針のようにチクチクと私の背中に刺さってきた。
――いや私、ちゃんと断ってるし……どうすりゃよかったのよ……
昨日、企画開発部で再び告白してきた上松さんは、駆けつけた斎賀さんを含めた同僚に取り押さえられた。
『漆瀬さん、もう行っていいよ』
斎賀さんに言われて、私は急いで『すみません、失礼します!』と挨拶をして、企画開発部を後にした。
結果として、上松さんと仲直りをしたことはよかったのか、悪かったのか。
いまだ背後で、私に対する当てつけのように文句を言い続けている女性二人に嫌気がさし、エレベーターに乗るのを諦めた。
人気が少ない階段で三階にある部署へ向かおうとすると、背後に人の気配を感じた。
――まさか上松さん⁉
勢いよく振り返ったら、後ろにいたのは斎賀さんだった。
「あ……斎賀さん。おはようございます」
「おはよう」
斎賀さんの顔を見た瞬間、自分でもびっくりするくらい安心して気が抜けた。
いつもと変わらぬシルバーフレームの眼鏡に、綺麗に整えられた髪。それと、耳馴染みのいい低い声。しかも斎賀さん、いい匂いがする。
いい匂いをさせた斎賀さんは、私の隣に来ると、いきなり謝ってきた。
「昨日は上松が申し訳なかった。漆瀬さんには気まずい思いばかりさせてしまって、なんとお詫びしたらいいのか」
斎賀さんは、本当に申し訳なさそうに目を伏せている。彼は、何も悪くないのに、だ。
そんな顔を見たら、こちらの方が申し訳なくなってきた。
「いえ、斎賀さんは何も悪くありません。だから、そんな顔なさらないでください。上松さんは、なんというか、ああいう人なんだなって昨日一日でよく分かりましたし……もう、いいです。今後は何を言われても、きっぱりお断りしますから」
彼を安心させようと、努めて明るく振る舞った。だけど斎賀さんの表情は晴れない。
「いや、上松だけじゃないだろう。さっきエレベーターの前で、君の話をしている社員がいたようだし」
「ああ……」
「あまりにひどいようなら、何か手を考える」
今の一言で、さっきの嫌な気持ちを全部チャラにできた。
「ありがとうございます。そうやって、ちゃんと分かってくれている人がいると分かっただけで、私は大丈夫です。だからもう、気になさらないでください」
私の言った内容が理解できないのか、斎賀さんが困り顔で見下ろしてきた。
「恥ずかしながら、私、わりと周囲に誤解されやすいみたいで、こういうことがよくあるんです。だから、本当に気にしないでください」
「こんなことがよくあるのか」
「ええ、まあ……すみません……」
恥ずかしいと思っていると、斎賀さんがため息をついた。
「……昨日渡した名刺、今持ってる?」
階段をゆっくり一段ずつ上りながら、斎賀さんが私に尋ねてくる。
「はい、持ってますけど」
「ちょっと貸してもらっていいかな」
「? はい」
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彼はそれを手にすると、胸ポケットからペンを取り出し、さらさらと何か書いていく。
「よく考えたら電話番号だけしか書いてなかった。業務以外のことを電話で連絡っていうのは、ハードルが高いように思うので、SNSのIDを書いておいた。緊急の連絡があれば、ここに送って」
ペンを胸ポケットにしまいながら、斎賀さんが名刺を私に戻してくる。裏面に手書きで書かれたIDを見た瞬間、私の胸が苦しいくらい締め付けられた。
「あ……ありがとうございます。休憩時間に早速登録しておきます」
「よろしく。あと、君、上松の前であまり笑顔を見せない方がいい」
「へ? どうして……」
「ものすごく可愛いから。あれだと上松にとっては逆効果」
気がついたら私の部署がある三階に到着していた。
斎賀さんが勤務する企画開発部は四階にあるので、彼は私にちらっと視線を送ると、そのまま大股で階段を上っていった。
その足の長さに驚く以上に、私の頭は別のことでいっぱいで、その場から動けなくなった。
――今……笑顔が可愛いって言った? しかもものすごくって……
言われた内容を頭が理解した途端、嘘みたいに顔が熱くなってきて呼吸が浅くなる。
いや、あれは気をつけるように教えてくれただけだ。きっと深い意味なんてないはず。だけど、どうしても体が熱くなるのを止められない。
正直に言うと、これまでも人から可愛いと言われたことは結構ある。
けれど、男性にそう言われて、ここまで動揺したのは人生で初めてだった。
思い出したら、心臓があり得ないほどドキドキして、足に力が入らなくなる。
私は胸に手を当てたまま、彼が上っていった階段をただ見つめていた。
昼休み。利用しているSNSに斎賀さんのIDを登録して数時間後。
先に【よろしくお願いします】と送っておいたら、ちゃんと既読がついていた。
――見てくれた。
ただ見た。それだけのことなのに、なんでこんなに嬉しいのだろう。
これまで誤解され悪く言われることの方が多かったのに、ちゃんと事実だけを見て気遣ってもらえたことが、心から嬉しかったからだと思う。
なんとなくふわふわした気持ちのまま、いつも通り仕事を終えた。
「お疲れ様でした」
向井さんや席が近い同僚に挨拶をして部署を出る。エントランスから外へ抜け、最寄りのバス停まで真っ直ぐ歩く。バス停には五、六人のバス待ちの行列ができていた。
うちの社屋の近くにはバスの車庫がある。よってこれくらいのバス待ち行列なら間違いなく座って帰れる。
家までの距離が結構長いので、座って帰れるのはありがたい。ホッとした私はオレンジ色の光を放つ夕日に目をやった。
――まぶし……それに、まだ結構暑い。
夕方とはいえまだ気温が高く蒸し暑い。ずっと髪を結んでいたので、頭の中が蒸れて気持ち悪い。
ここは外だし、あとはもう帰るだけ。だったらいいかと髪をほどいた。軽く手櫛で整えてから何気なく顔を横に向けると、そこに斎賀さんが立っていた。
「……お、お疲れ様です……」
「お疲れ様」
それだけ言うと、斎賀さんは無言で私の隣に立った。もしかして、斎賀さんもこのバスに乗るのだろうか。
「バス……乗られるんですか?」
躊躇いがちに声をかけたら、斎賀さんがフッと口元を緩めた。ちなみに彼とバス停で一緒になるのは、私の認識では初めてだと思う。
「うん。漆瀬さんはいつもバス?」
「はい。斎賀さんは……?」
「普段は電車か、たまにマイカー。今、車を点検に出してて、今日は久しぶりにバスで帰ろうかと思って」
「そうだったんですね。このバスに乗るってことは、同じ方向なんですね」
「ああ、○○町だから」
「えっ」
斎賀さんが口にした住所は、私の実家がある町の隣だった。
「実は近かったんですね」
素直に驚いていると、斎賀さんもそうだねと頷いた。具体的にどの辺か、という話をしているうちにバスが来た。タイミングが良かったのかそれほど混み合ってはおらず、ごくごく自然な流れで二人がけの椅子に並んで座ることになった。
――う……体が思いっきり密着している……
斎賀さんの肩とか腕の感触や、微かに香るいい匂いにめまいがしそう。こんな状態で、私は無事に家まで辿り着けるのだろうか。
緊張して悶々としていると、そうだ、と言って斎賀さんがスマホを取り出した。
「登録してくれてありがとう」
「あ、いえ」
「緊急時は遠慮なく連絡ください」
「はい、ありがとうございます」
斎賀さんがスマホに視線を落としながら、手早く操作をする。その数秒後、私のスマホが小さく震えた。
「もしかして、何か送りました?」
「うん」
慌ててスマホを取り出して確認すると、斎賀さんからのメッセージが画面に表示されていた。
【上松とはその後、何かあった?】
思わず斎賀さんを見た。これを使用するのは緊急時じゃなかったのだろうか。
「普通に口で聞いてくださいよ」
「言いにくいかと思って」
いいのかな? と思いながらも、私も彼に倣ってメッセージを返す。
【今日は会っていないので】
ちらっと隣を見たら、斎賀さんが小さく頷きながらすばやく文字を入力した。
【宿題を多めに出したからかな】
「宿題?」
声に出して尋ねたら、斎賀さんが理由は分かるだろ? と言わんばかりに首を小さく傾げた。
「一応上司なので」
クスッと小さく笑った私は、またスマホに視線を落とす。
【斎賀さんって、おいくつなんですか】
【三十三】
返事はすぐに届いた。
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課長って聞いてたから、もうちょっと上かと思ってた。
【私と五つしか変わらないんですね】
【顔が老けてるからね】
自虐的な返しに、ガクッとなりかけた。
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【言わなくても分かる。昔から五歳は上に見られてきたから】
【落ち着きがあるってことですよ】
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