カタブツ上司の溺愛本能

加地アヤメ

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1巻

1-1

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   一


 背中の真ん中まである長い栗色の髪は、日に透けるとキラキラする。

珠海たまみちゃんの髪は本当に綺麗ねえ。お人形さんみたい』

 子供の頃から幾度となくめられた髪を、ブラッシングしながらきっちり一つ結びにする。メイクはナチュラルに。唇に近い自然な色味のリップをのせたら準備完了。仕上げにシルバーフレームの眼鏡をかけたら、いつもの私ができあがる。
 ――はいできたー。よし、行くか……
 自分の部屋がある二階から勢いよく階段を下りると、一階の居間から祖母の声が飛んできた。

「これ~、そんなに慌てて下りなくても……落ちたらどうするの」
「大丈夫よ。それより、もう時間だから行くね。今日もお弁当ありがとう、おばあちゃん」
「はいはい、行ってらっしゃい」

 キッチンに寄ってお弁当の入ったバッグを通勤用のバッグに入れると、私は慌ただしく玄関を出た。
 母の実家である一戸建てで祖母と母と暮らす私――漆瀬うるせ珠海、二十八歳。
 子供の頃両親が離婚し、母に引き取られた私は以来ずっとこの家で暮らしている。
 母は現役の高校教師で、私も就職し正社員として働いているため、お弁当はいつも料理好きの祖母が作ってくれている。本当ならあんまり甘えるべきではないのかもしれない。でも、祖母がこれくらいやらないと生活に張り合いがないと言ってくれるので、ありがたくお願いしている。
 ――料理上手な祖母がいるって素晴らしい……作ってくれるだけでもありがたいのに、すっごく美味おいしいから、ついつい甘えちゃうんだよね……
 それは私だけでなく母もなのだが。母は、毎朝祖母に「その年でいまだにお弁当を作ってもらってるなんて、恥ずかしいから周りには言わないように」と念を押されていた。
 家の近くの停留所からバスに乗り、勤務先に向かう。
 閑静な住宅街の近くに建つ真っ白い大きな建物。ここが私の勤務先である生活雑貨を製造するメーカーの本社だ。
 創業が古く歴史のある我が社は、国内では大手と言われており、キッチン雑貨からバスグッズまで様々な商品の開発と製造を行っている。私は新卒でこの会社に入社してから、ずっと総務部に勤務していた。
 社屋のエントランスから総合受付を通り抜け、バッグの中に入れていた社員証をセキュリティゲートにかざそうとする。しかし手が滑って、社員証を落としてしまった。

「あ」

 ――いっけない……
 腰をかがめて拾おうとしたら、ちょうど近くを通りかかった人が先に社員証を拾ってくれた。

「どうぞ」

 そう言って、私に社員証を差し出してくれた男性の顔は、私の目線よりだいぶ上にあった。
 仕立ての良さそうなグレーのスーツを着ているのは、私と同じシルバーフレームの眼鏡が印象的な男性。しかも綺麗に整えられた清潔感のある短髪のその顔は、恐ろしく整っており、目が合っただけでそのマスクに釘付けになってしまうほど。
 普段、あまり人の顔をまじまじと見ることがない私にしては、珍しいことだった。

「あ……ありがとうございます」

 ――すごいイケメン……こんな人、うちの会社にいたっけ?
 疑問に思いながらお礼を言うと、男性はすぐにセキュリティゲートを通り抜けて、エレベーターがある方へ消えた。
 ――やっぱうちの社員か……でも、どこの部署の人だろう?
 そんなことを思いつつゲートを通り抜けた私は、三階にある自分の部署へ向かったのだった。


 この会社の体制は、以前は創業と同じでかなり古く、完全な年功序列制だったらしい。でも数年前に社長が代替わりしたのを機に成果主義が取り入れられるようになり、旧態依然きゅうたいいぜんとした社風から時代に合った社風へと変化してきている。
 ――それにその時、女性社員の制服も廃止になったのよね。毎日スカートとかちょっと嫌だったし、ほんとよかった。
 部署に到着して、すでに出社していた先輩社員と挨拶あいさつを交わす。

「漆瀬さん、今日もお祖母様のお弁当?」
「はい。今日は筑前煮がメインですって」

 三年先輩の女性社員である向井香むかいかおりさんと話しながら席に着く。彼女は既婚者で、旦那様もこの会社に勤務している。つまり、社内恋愛で結婚したことになる。
 身長が百六十七センチある私と並ぶと、向井さんは十センチ近く低い。華奢きゃしゃで顔立ちの可愛らしい向井さんは、私の憧れである。
 ――私も向井さんくらいの身長がよかったなあ……。旦那さんと並んだ時の身長差に萌えるのよね……
 ヒールを履いたら百七十センチを超える私からすると、夢である。
 大概の男性は、私と目線がほぼ一緒かそれよりも低い。まれに見上げるような長身の男性もいるが、私の周りにはほとんどいなかった。

「それにしても、ほんといつ見ても見事な栗色の髪ねえ……たまには下ろしてくれば?」

 近づいてきた向井さんが、私の背後に回る。

「いえ、下ろすと仕事の邪魔になるので。それに、昔から髪を下ろすとどうも目立つみたいで」

 間髪かんはつれずに返すと、向井さんが苦笑する。

「そうかなあ……そんなことないと思うけど。今ってカラーリングする子の方が多いんだから、そんなに気にならないわよ。っていうか、漆瀬さんは綺麗だから目立つのよ。そんな眼鏡したって美しさは隠せないわよ」

 向井さんの言葉に、つい彼女から目を逸らした。

「眼鏡は……無いと見えませんし」
「ほら、口を尖らせない。まあ、そんな顔も可愛いんだけどね。でも、どうしたってお父様の血は誤魔化せないわよ。肌だって透き通るように白いし、顔もちーっちゃいもん」

 向井さんが私の頭をなでなでする。

「誤魔化しているわけではないんですが……」
「最近は告白とかされてないんでしょう? だったら、別にそこまで気にしなくたっていいのに」
「それは、そうなんですけど……」

 なかなか答えにくいことだったので、もごもごとした返事になってしまう。

「ま、でも漆瀬さんなりに自衛してるのよね。そうしないと、良くも悪くもいろんな人が寄って来ちゃうから」

 それに対する答えが上手く思い浮かばなくて、苦笑いで返した。
 ――そう。確かに私には、良くも悪くもいろんな人が近づいてくる。
 向井さんの言う私の実の父は、外国籍の人だった。
 私と同じ明るい栗色の髪を持つ父と、母は同じ高校に勤務している時に出会い結婚し、私が生まれたのだ。
 そのまま穏やかで幸せな家庭を築く……と思いきや、父の母が病に倒れたことをきっかけに状況が変わった。母国に帰りたい父と、祖父を亡くしたばかりの祖母を置いていけない母の意見が対立。話し合いの結果、離婚を選択した父は母国に帰国してしまったのだ。

『でも別にお互いが嫌いになって別れたわけじゃないわよ。ちゃんと養育費ももらってるしね』

 母の言う通り、年に一度はこちらが会いに行くか、向こうが来るかで父に会っていたし、たまに電話で会話もする。だから父がいなくてさみしいと思ったことはない。
 ただ一つ、問題があったとすれば、子供の頃の私の外見は、今よりも父の要素が色濃く出ていたということだ。
 髪は金髪に近かったし、肌の色も周囲から浮くくらい白かった。
 明らかに周囲から浮いていた私は、簡単に言うとよくからかわれた。
 ありがたいことに、いつも近くにいる友人が助けてくれたから、そこまで大きなトラウマがあるわけじゃないけど、好きだった男の子に外見をからかわれたのはショックだった。顔が小さく、手足が長いことで宇宙人みたいだと言われて、ものすごく落ち込んだし悲しかった。
 それから約二十年。何度も外見を理由にやっかまれたり、目のかたきにされたりした。そんな経験から、いつの間にか私は、内向的な性格になり、必要以上に人と関わらないようになった。
 ――でも、気になる人がいなかったわけじゃないのよね……
 大学生の時は教授に淡い恋心のような、憧れのような気持ちを抱いていたし、社会人になってからは、この会社の当時の副社長を素敵だと思っていた。
 みんな私よりも三十歳くらい年上だったが。
 今思えば、あれは恋愛の好きじゃなくて、なかなか会えない父の面影おもかげを重ねていただけだったと分かる。
 もちろん、同年代の男性とも、外見を気にせず仲良くなることは何度かあった。しかし、友人だと思っている相手から、友人以上の感情を向けられたり、その男性に恋するまったく付き合いのない女性から敵意を向けられたりなどの、トラブルに巻き込まれること多数。
 私が悪いことをしたわけじゃないのに、何故罵声ばせいを浴びせられたり、白い目で見られたりするのか。
 ――恋愛って、面倒だ……
 理不尽な目には遭いたくない。だったら、最初からそういうことに関わらない方が気も楽だ。
 そういう考えに行き着いた結果、いまだにお付き合いの経験もないし、結婚のけの字も見えてこない日々を送っている。
 でも、母も祖母も何も言わないので、今のままで構わないと思っていた。
 ――仕事もあるし、少ないけどなんでも話せる友人だっている。今のままでも特に不満はない。
 しかし、そんな私の平穏な日々は、もうすぐガラガラと音を立てて崩れることになるのだった。


「あの」

 他の部署に向かうため廊下を歩いていると、背後から声をかけられた……ような気がした。
 ――私?
 左右を見回すが他に該当する人はいない。というわけで振り返ると、若い男性社員が立っていた。実際の年齢は分からないが、ぱっとみた感じだと私よりも若い気がする。

「はい……?」

 書類の束を胸に抱えながら、男性と視線を合わせた。私の顔を見るなり、その男性が驚いたように目を見開き距離を詰めてくる。

「うわ……! 突然すみません! あまりにもお綺麗なので、驚いて思わず声かけちゃいました」
「は⁉」

 ――いきなり何……?
 間違いなくうちの社員のはず。だけど、首から提げている社員証に記された名前に見覚えはない。
 何より今は、気がついたら至近距離に来ている男性に腰が引けて、それどころではなかった。

「あ……あの……」
「総務の漆瀬さん……漆瀬さん⁉ あなたが噂の……‼ あ、自己紹介が遅れました。俺、上松洋うえまつようっていいます。つい最近異動で本社勤務になったんです」

 ――……ていうか、噂って何……?
 そう言われて再び胸元の社員証を確認すると、企画開発部と記されている。他部署の男性と私的な交流がほぼない私が、異動してきたばかりの男性社員を知るわけがなかった。
 警戒は解かず、とりあえずあやしい人ではないことが分かり、ひとまずホッとする。

「ああ、そうだったのですね。総務部の漆瀬珠海です。よろしくおね……」
「こちらこそよろしくお願いします。できればもっと親交を深めたいので、SNSなど……」

 私の挨拶あいさつを最後まで聞くことなく、ごそごそとスラックスのポケットからスマホを取り出そうとした上松さんに目をいた。
 ――なっ……無理‼
 初対面の人といきなりそういうやりとりなんか、いまだかつてしたことがない。
 青ざめながら、私はぶるぶると首を横に振り、彼から一歩後ずさる。

「ごめんなさい! 私、そういったことはちょっと……急ぎますので、失礼します」
「え?」

 上松さんに勢いよく頭を下げ、そのまま彼を見ずにこの場を後にした。背後から「ありゃ……」という声が聞こえてきたけど、振り向くことはできなかった。
 ――びっくりした……初対面でいきなりあんなこと言ってくる人がいるなんて……
 気が動転しつつ届け物を終えた私は、昼休みにさっきの出来事を向井さんに話した。

「上松洋? ああ、最近企画開発部に来た人でしょう? ちょっと前に本社に来るって噂になってたよ」

 向井さんと斜めに向かい合ってお弁当を食べていた私は、彼女の言葉にピクッとした。

「噂……? 噂って、なんですか?」
「まだ入社して三年かそこらなのに、すごいアイデアをいくつも出すアイデアマンなんだって。おまけに顔が可愛いとくれば、女子が黙ってないよね。異動が決まった頃から、企画開発部の女子がざわついてたもん」
「へえ……そうなんですか」

 ――やっぱり私よりも若い人だったか。それにしてもそんなすごい人だったなんて……正直まったくいい印象は持たなかった。
 真顔で話を聞いていたら、いきなり向井さんがふふっ、と笑い声を漏らす。

「しっかし……まだ異動してきて間もないのに、もう漆瀬さんを見つけちゃうなんてすごいわね」

 私は、複雑な気持ちでお弁当に視線を落とす。

「仕事ぶりは問題なさそうだし、話して素敵な人だったら連絡先を教えてもいいんじゃない?」

 それに対して、私は素早く首を横に振った。

「……仕事ができるできないは関係ないんです。私、ああいう、ぐいぐい来る感じの人、苦手なんです……」

 どんなに仕事ができようが顔が可愛かろうが、上松さんみたいなタイプは私が最も苦手とする男性なのだ。できることなら、もう二度と顔を合わせたくない。

「そっかー。でも、そういう相手に限って、意外に顔を合わせることが多かったりするのよね。漆瀬さん、頑張れ?」

 哀れむような視線を送ってくる向井さんに、心の底から勘弁してくださいと思う。だけど、残念なことに彼女の予言はこの後、見事に的中することになるのだった。


 上松さんとの衝撃的な出会いの翌日。
 あろうことか出勤した途端、エレベーターの前で本人にばったり遭遇してしまった。

「漆瀬さん‼ おはようございます‼」

 いきなり声をかけられ、まさかとそちらを見れば、満面の笑みを浮かべる上松さんがいた。

「……‼ お、おはよう、ございます……」

 ぎこちない返事をした私がすぐ正面を向くと、上松さんが私のすぐ横に立つ。

「いやー、まさか朝から漆瀬さんに会えるなんて、今日はいい日だなー。いつもこの時間に出勤ですか?」
「……は、はい……」
「そうなんですね。じゃあ、俺もこれからはこの時間に出勤するようにしようかな。そうすれば漆瀬さんに会える確率が上がりますもんね?」
「……⁉」

 絶対今の私は、ものすごく嫌そうな顔をしているという自信がある。よって慌てて上松さんから顔を逸らした。でも、上松さんはそんな私の表情など全然気がついていないらしい。

「何度か顔を合わせているうちに、自然と仲良くなってるかもしれませんもんね~」

 私に構わず勝手なことを言っている。この人、仕事はできるかもしれないけど、女性の気持ちに鈍感、もしくは自分の都合のいいようにしかとらえないタイプ、かもしれない。
 ――嫌だなあ……本当に、こういう人苦手だ……

「上松」

 胸にモヤモヤが生まれるのとほぼ同じくして、私達の真後ろから声がかかった。
 私と上松さんが同時に振り返ると、背の高い男性が立っている。その顔には見覚えがあった。
 ――あれ? この人……

斎賀さいがさん、おはようございます」

 昨日の朝、私が落とした社員証を拾ってくれた人だと思い出した時、上松さんが男性の名を呼んだ。
 昨日と同じ、シルバーフレームの眼鏡の奥にあるのは、涼しげな目元。だけど、昨日よりもその表情がけわしいような気がした。

「おはよう。上松、話があるから階段で行くぞ」

 斎賀さんと呼ばれた男性が、エレベーターホールの向こうにある階段に視線を送った。それを見て、上松さんが「あっ」と声を上げる。

「分かりました。じゃ、漆瀬さんまた」
「はい……」

 上松さんに返事をして何気なく斎賀さんに視線を移す。彼は、私に軽く会釈えしゃくをしてから上松さんを連れて階段へ向かった。
 ――助かったあ……
 二人の背中を見送った後、私は胸を撫で下ろす。
 それにしても上松さんには困った。今回は運良く助けてもらえたけど、これからこういうことが起こった場合、どうやって回避したらいいのだろう。
 どんよりした気分で部署に到着したら、すぐに向井さんが近づいてきた。

「おはよう漆瀬さん。ねえ、さっき下で上松さんに声かけられてなかった? ちょうど一階の倉庫の辺りにいたら上松さんの元気な声が聞こえてたんだけど……」

 大丈夫? と神妙な顔をする向井さんに挨拶あいさつをした私は、その時の状況を説明した。

「エレベーター付近で上松さんに話しかけられて困ってたんですけど、すぐに部署の上司らしき方に連れて行かれました。確か、斎賀さんていう……」
「あー、斎賀さん。あの人も今年の春から本社勤務になったよね」

 うんうんと頷く向井さんに、斎賀さんを知らなかった私は呆気にとられる。

「向井さん、斎賀さんのことご存じなんですか……」

 総務に勤務しているくせに、社員の顔と名前があまり一致しない私とは大違いで、少しへこんだ。
 そんな私を見て、向井さんが咄嗟とっさにフォローしてくれた。

「あー、いやいや、斎賀さんに関しては私の夫が以前、同じ部署だったから知ってたの。確か九州からこっちに戻ってきたって言ってたかな? 前は営業マンだったんだけど、数年前企画に異動になったらめきめきヒット商品開発して、今じゃまだ若いのに課長職に就いているっていう……上松さんみたいに才能ある人らしいよ。でも、性格は正反対みたいだけど」
「……正反対? ってことは……」
「大人しいっていうか、気難しいタイプの人らしいよ、斎賀さん。ものすごく気心の知れた人数人としか話さないし、飲み会にもほとんど参加しないって聞いた。超社交的で誰とでもすぐ仲良くなっちゃう上松君とは全然違うみたい」

 斎賀さんの話を聞いて、すぐに誰かみたいだと思った。
 ――私にそっくりだ。

「なんか……親近感が湧きます……」

 思わず口にしたら、向井さんが「ああ!」と笑顔になる。

「確かに似てるわね。二人ともルックスがいい、ってとこも一緒だし」
「そ……んなことはないだす……アッ……!」

 驚きのあまり、噛んだ。
 向井さんが不意を突かれたとばかりにブッ! と噴き出す。

「……っ、やだもう……その可愛い顔で可笑おかしいことされるとギャップにやられる……」

 苦しそうに体を震わせる向井さんに慌てて謝った。

「す、すみません……でも、斎賀さんて優しい方なのに、ちょっと意外ですね」
「え、そう? 優しいかどうかはよく分かんないのよね。あんまり噂がなくて」

 目尻にたまった涙を拭いながら、向井さんが苦笑した。

「そう……なんですか……」

 ――確かに社員証を拾ってくれただけで優しいって決めつけるのは、おかしいか……
 それで冷静さを取り戻した。今は斎賀さんではなく、上松さんのことを考えるべきなのではないか。そう思ったのは私だけではなかった。

「まー、話を聞いている限り、上松さん、漆瀬さんが嫌がっているのに全然気がついてないでしょう。絶対これからもグイグイ来るわね。覚悟しておいた方がいいわよ」
「そんな……ど、どうしたらいいでしょうか」
「どうしたらってねえ……これも人生だと思って、敢えて荒波に揉まれてみるっていうのもアリかもよ」
「荒波じゃおぼれちゃいますよ……」

 がっくり項垂うなだれる私だったのだが、やっぱり向井さんの言うことは当たるのだ。
 毎朝遭遇することはまぬがれても、上松さんは何かと理由をつけて総務にやって来るようになった。

「漆瀬さん。この書類お願いしていいですか」

 にこにこと微笑みながら私に書類を差し出してくる。それを上目遣いでうかがいながら、書類を受け取った。

「……はい、不備もありませんので、このままお預かりします。ご苦労様でした」

 私が書類を手に会釈えしゃくすると、上松さんが困り顔になる。

「ええ、もう終わりですか? もうちょっと漆瀬さんの綺麗な顔を見ていたかったのに」
「上松さんはお忙しいのでしょう? どうぞお仕事にお戻りください」
「う~ん、忙しいといえば忙しいけど、それとこれとは別っていうか……」
「ご苦労様でした」

 笑顔は崩さず、やや強めの口調で言うと、彼は渋々しぶしぶ自分の部署に帰っていった。
 ――ふう……やれやれだわ。

「漆瀬さん」

 書類を手に自分の席に戻ろうとすると、すれ違いざまに同じ部署の上司に呼び止められた。
 私よりも少し目線が下くらいの身長に、ややぽっちゃり体型の諫山いさやま香屋子かやこさんは私の五年先輩で、今は係長の役職に就いている。
 私は、この人が少しだけ苦手だ。

「はい」

 返事をすると、諫山さんは無表情で私をたしなめた。

「まだ本社に異動になって間もない上松さんに対して、あの態度はあまりよくないと思いますよ。同じ会社に勤務する社員同士なのだから、もっと親切な対応を心がけてください」
「はい、申し訳ありませんでした……」

 確かに、仕事に私的な感情は出すべきではなかった。それは、素直に反省する。
 しかし謝る私を見た諫山さんが「フン」と鼻を鳴らし私をにらみ付けた。

「モテるからって、あまり調子に乗らないでね」

 ――……
 こういったことはこれまで何度もあった。でも、やっぱりいつもと同じように体が強張こわばる。
 そんな私を一瞥いちべつして、諫山さんは自分の席に戻っていった。
 それを横目で見つつ、私も自分の席に着いた。
 普段はそこまで風当たりはきつくないのだが、たまに諫山さんから鋭い視線を感じることがある。たぶん、私のことをあまりよく思っていないのだろう。
 ――はあ……もうやだ……
 自分の席で、誰も見ていないことを確認してから、思いっきり項垂うなだれた。
 ――ここのところは落ち着いていたのに……
 入社したばかりの頃。早く会社に馴染なじみたいからと、頑張って明るく振る舞っていた時がある。でもそれが、周囲の女性社員と上手くいかない原因となってしまった。
 いろいろあった結果、今はなるべく感情を表に出さず、人と接する時も当たり障りなくしている。常に地味で目立たないことを徹底してきたおかげで、以前ほど周囲から反感は買わなくなった。

『あの人、会社に男あさりに来てるのかしら』
『地味にしてても綺麗な人は得よね』

 今まで言われてきたことを思い出したらきりがない。同期入社の女性社員ともりが合わなくて、誰とも仲良くなれなかった。
 私を除いた女性社員だけで仲良くしているのを見るのは、とても辛かった。
 ――調子に乗ったことなんか、一度だってないのに……


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