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1巻

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   一


 女の子なら誰だって、一度は結婚を夢見たことがあるはず。
 純白のウェディングドレスを着て、旦那様になる人と腕を組んで微笑みながら写真に収まる。
 そしていつも笑いが絶えない幸せな家庭を作るのだ、という人はかなりいるのではないだろうか。
 しかしながら、私、宗守むねもり沙霧さぎりは、幼い頃からそんな夢を見たことが一度もない。
 それというのも――

「ごめん、何度も聞いて本当に申し訳ないんだけど、宗守さんのお母様って何回離婚したんだっけ?」

 同じ事務員で勤続三十年の大先輩である香山かやまさんが、申し訳なさそうに尋ねてくる。彼女にこれを聞かれるのはおそらく三回目か四回目だ。

「五回です。バツ五」

 私は特に気にせず、玉子焼きを食べながら淡々と答えた。
 今は職場の同僚と休憩室でお昼を食べている最中。

「そうだった。ごめん、言いづらいことまた聞いちゃって……確か、四回か五回だったような気がしてたんだけど、気になりだしたら聞かずにはいられなくなっちゃって」

 しゅん、としている香山さんは五十代の既婚女性。大学生の息子さんの学費のために、ご夫婦で節約しながら貯金にはげんでいる真っ最中だという。
 高卒でこの払田ほった工業に入社した私に、事務や経理といった仕事の全てをたたき込んでくれたのは香山さんだ。たたき込んだといっても、スパルタではなく優しく丁寧に教えてくれた。
 そのおかげで仕事が好きになり、入社して十年間、辞めようと思ったことは一度もない。
 そんな香山さんに、私は笑顔で首を横に振った。

「いえ、まったく問題ありません。私もいまだに何回だったか分からなくなることがあるので……」

 自分で作った玉子焼きをもぐもぐと咀嚼そしゃくしていると、香山さんが感嘆のため息を漏らす。

「それにしても五回も結婚と離婚ができるなんて、驚くわぁ。で、そのお母様はお元気?」
「はい、元気です。まあ……母は根っからの恋愛体質ですから……常に恋をしていないといられないというか、気持ちだけはいつまでもティーンみたいな人なので」

 ティーン、というたとえに香山さんが感心する。

「……さすがね……じゃあ、娘である宗守さんはそこんとこどうなの?」

 香山さんの問いかけに、私は笑顔できっぱり断言する。

「私は結婚願望がないので、ずっと一人でいいです」

 そう、私は母とは違う。結婚なんてしないとずっと前から決めている。


 私の人生は、超恋愛体質な母、由子ゆうこのせいで大いに狂わされたといっても過言ではない。
 私が二歳の時に父と離婚した母は、以来、再婚と離婚を繰り返してきた。その数五回。
 父と呼ぶ人が代わる生活に、幼い頃は特に疑問を抱かなかったが、小学生にもなるとさすがにおかしいと思うようになる。何故うちはお父さんが代わるのだろう、と。
 だけれど、それを問う私に泣きながら謝ってくる母を前にすると、そんな生活はもう嫌だ、とは言えなかった。離婚してから、母は私を保育所に預けて働いていたが、夕方までのパート勤務で得られる収入だけでは生活がかなり苦しかったのだろう。

『沙霧、ごめんね。お母さんのせいでお前に苦労をかけて。でも、お父さんがいれば、生活がだいぶ楽になるの。だから許してくれる?』
『……うん、分かった』

 他になんと言えばいいのか。子供の私には浮かばなかった。
 しかし私が高校の頃、三度目の離婚をして一年かそこらで、四度目の結婚をすると言い出した母に、私は反発した。離婚して一年しか経っていないのに、りずにまた結婚しようとする母が、どうしても理解できなかったからだ。
 当時は思春期真っ只中。私といる時は優しい母が、恋人を前にした途端あからさまに女の顔になるのが、嫌でたまらなかった。
 加えて四度目の義父は、母が居ない間に私に手を出そうとしたとんだゲス野郎で、私の我慢は限界に達した。私は義父のいない時に、母へ「もう一緒に住めない」と宣言した。もちろん母は驚き、そんなこと言わないで一緒に住もうと引き止めてきた。でも、義父に手を出されそうになったと伝えると母の表情が一変した。

『嘘……それ、本当なの……?』

 さすがにすぐには信じてくれなかったけど、最終的にマンションを出ることを許してくれた。そうして私は、高校三年生の途中から、母方の祖父母の家に身を寄せることになった。
 祖父母はずっとここにいていいと言ってくれたが、高齢の二人に苦労をかけたくなかったのと、早く自立したいと思っていたこともあり、高校卒業と共に家を出て就職した。以来、誰の手も借りずに一人で生活をしている。
 その間に母は四度目の離婚をし、五度目の結婚をした。だが、やはりこれも長くは続かず私が二十五の時に離婚した。しかし五度目の義父が飲食店をいくつか経営する資産家で、母は今、財産分与でもらった資産を元に小料理屋をいとなんで生計を立てている。
 ――これにりて、もう結婚はしないでくれたらいいんだけど……いや、無理だなあの人は。
 今となっては年に数回くらいしか連絡を取り合わないが、直近の電話で好きな人がいるようなことを言っていた。所詮、私が何を言ったって聞きやしない、そういう母なのだ。
 この先も、きっと母は変わらない。でも、私はああはならない。
 恋愛に振り回されるのは嫌だし、すぐに破綻はたんする結婚もしたくない。だから私は、誰にも頼らず、一人で生きていくと決めたのだった。


 食べ終えた弁当箱を洗ってバッグに入れ、少しの休憩を挟むと午後の業務が始まる。
 私が勤務する株式会社払田工業は、国産自動車の部品を製造する社員数六十名ほどの中小企業だ。高卒で採用されて以来、私はこの会社で正社員として、経理事務を担当している。
 自分の席で、午前に引き続き売上伝票のチェックをしようとすると、社長である払田一郎いちろう氏が私に近づいてきた。

「宗守さん、ごめん、ちょっと社長室に来てくれる?」
「はい」

 これまで社長室に呼ばれたことなど一度もない。他の人がいる場所では言えないようなことなのかと心の中で首を傾げつつ、私は席を立った。
 今から三十年ほど前にこの会社を創業した社長は現在六十代半ば。跡継ぎとなる息子の常務と共に我が社の経営を担う社長は、つるりとした頭がトレードマークの、温厚で人情味にあふれた人だ。私は社長を悪く言う人を見たことがない。
 そんなことを考えながら、私は社長の後に続いて社長室に入った。
 ドアを閉め、社長に勧められるまま茶色いレザーのソファーに腰を下ろす。ガラステーブルを挟んで私の前に腰を下ろした社長が、白い封筒から何かを取り出した。

「仕事中に悪いね宗守さん。実はね、君に縁談が来てるんだよ」
「え?」

 社長が封筒から取り出した物を私に差し出す。
 いつもなら社長に手渡される物はすぐに受け取るのに、今回に限っては一瞬躊躇ちゅうちょしてしまった。
 それくらい、私にとっては寝耳に水の話だった。

「しゃ、社長……私の聞き間違いでしょうか。今、縁談と聞こえたような……?」
「うんそう、縁談。ほらそれ。お相手の写真と釣書」
「えッ……!! いやあの、社長、私は結婚する気はない……」
「うん、宗守さんが独身主義なのは知ってる。でも、今回はちょっと事情があってね……とりあえず、写真と釣書を見てくれないかな」
「……では、一応……」

 神妙な顔をする社長を前にしたら、きっぱり拒絶なんかできなかった。私は仕方なく、差し出された冊子を受け取り、それを開く。
 目に飛び込んできたのは、端整な顔をしたスーツ姿の男性だった。しかも、ちょっとびっくりするぐらいのイケメン。
 目はぱっちりとして眉と目の間が狭い、彫りの深い顔立ち。鼻梁びりょうの通った鼻は高く、口元もバランスがいい。まるでファッション誌のモデルばりの美男子に、私は目をパチパチさせる。
 ――なんでこんな人が私みたいな女と見合いを……?
 こんなにイケメンならお見合いなんかしなくたっていくらでも相手がいそうなのに。

「あの、本当にこの方が私との見合いを望んでいらっしゃるのですか……?」

 これに対し、社長が困り顔で「そうなんだよ」と頷いた。

「私も、どうしてこの話が宗守さんに来たのかよく分からないんだ」
「ですよね? だって、彼女なんていくらでもいそうな顔立ちですよ、この方」
「顔だけじゃないんだよ。経歴を見てごらん。すごいから」

 社長が腕を組みながらため息をつく。社長にこんな顔をさせるほどのすごい経歴ってどんなだ。

「経歴、ですか……?」

 私は一旦写真をテーブルに置くと、渡された釣書に目を通す。そこに記されていたのは、にわかには信じがたいキャリアの数々だった。

「あの……なんですか、この経歴……どこぞの御曹司かってくらいすごいんですけど……」

 国内最高峰の大学を卒業後、海外の大学に留学してMBAを取得。帰国後はうちの主要取引先である自動車部品を製造する大手サプライチェーンの重役に就任とある。それもまだ三十二歳という若さで、だ。
 釣書を持つ手がブルブルと震えてくる。それくらい、私の周囲どころか、完全に別世界に住んでいる人だ。
 そんな人との縁談がどうして私に、と、疑問より不安の方が大きくなる。

「実際、御曹司なんだよ。この方のご実家、かなりの資産家だから。しかもおじい様がうちの取引先の創業者でね。現社長の久宝くぼうさんは彼の父にあたる。確か宗守さんは一度会ってるはずだよ。社長と一緒にうちに来たことあるし」
「久宝社長がいらしたのは覚えてますけど、この方に見覚えはありませんが……」

 今年の初めくらいに、久宝社長が来ると社内がバタバタしていたのは覚えている。お付きの社員も数人いたが、その中にこんな人はいなかった。

「あの時は、写真と髪型が違ったかな。それと眼鏡もしていたかもしれないんで、宗守さんが覚えていないのも無理ないかもしれん。それでだね……非常に頼みづらいことなんだが……」

 ずっと申し訳なさそうな表情をしていた社長が、さらに肩を落とす。その様子を見ただけで、何を言われるのか容易に想像できた。

「この方とお見合いをしろと、おっしゃるのですね?」

 はっきり言うと、社長が頭を下げた。

「申し訳ない……宗守さんの事情は私も知っているから、一度は断ったんだ。だけどどうしても引いてもらえなくて……とにかく君と直接話をする機会をくれと、その一点張りで」

 ただの事務員である私に頭を下げる社長を見ていると、やるせない気持ちになる。
 高卒でなんのスキルもない私を、この会社に入れてくれた社長には、ずっと感謝していた。その社長が頭を下げてまで頼む以上、私に断るという選択肢はなかった。

「分かりました」

 私が返事をすると、社長が弾かれたように頭を上げた。

「い……いいのかい? 宗守さん」
「会うだけなら問題ありませんので。でも、私の気持ちはきちんと相手にお伝えします。それでも、よろしいですか?」
「も……もちろんだ。それで相手がこの話をなかったことにしてくれと言ってくるのであれば、それはまったく問題ないよ」
「それを聞いて安心しました。では、私が直接この方に会って事情を説明してきます」

 相手は社会的に立場のある男性だ。結婚したくないと言う女性に無理矢理求婚などしないだろう。
 しかし、その考えは甘かった。
 なんせお見合い当日に私の前に現れた男性は、想像していたよりもずっと一筋縄ではいかない人だったからである。



   二


 見合いを了承したのち、先方から指定されたお見合いの場所は、私のような庶民には一生縁がないような高級料亭だった。
 場所を聞いた時、まず頭に浮かんだのは「何を着ていけばいいの!?」だ。それほど私とは縁遠い場所だった。
 香山さんに相談して購入した淡い色のフォーマルワンピースで家を出た私は、料亭の入り口の前で一度立ち止まり、数回深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
 ――落ち着け、落ち着け。今から会う相手は、別に鬼とか妖怪じゃなく、同じ人なんだから。きっと話せば分かってくれる。
 とはいえ、同じ人間でも話が通じない人をこれまで山ほど見てきている。そのことが頭を掠める度、づきそうになるが、意を決し料亭の敷地に足を踏み入れた。

「ようこそいらっしゃいませ」

 店の引き戸を開けると、すぐに奥から着物を着た綺麗な女性が近づいてきて、私に微笑みかける。

「あっ、あの……久宝で予約が入っていると思うのですが……」
「久宝様でございますね。お待ちしておりました、どうぞこちらへ」

 しどろもどろになりつつ先方の名を出すと、すぐに個室へ案内される。

「こちらのお部屋です、どうぞ」
「ありがとうございます」

 私がお礼を言うと、その女性が部屋の奥に「お連れ様がお見えになりました」と声をかけた。
 その瞬間、すでに先方がこの場にいることを知り、ドッ!! と心臓が跳ねた。
 ――嘘、もう来てた!! 
 待ち合わせに指定された時間よりもだいぶ早く到着したのに、まさか相手の方が早いだなんて。
 慌てて部屋の中を覗き込むと、畳が敷かれた和室の奥にいた男性が立ち上がるのが見えた。 

「すみません、お待たせしてしまって。く、久宝さん……でしょうか」
「はい。宗守沙霧さん。お待ちしておりました」

 黒々とした短髪にかっちりとしたスーツを身にまとい私に微笑みかけるのは、まごうことなき写真の男性――久宝公章きみあき氏だ。写真で見た時も美男子だと思ったが、対面するとそのイケメンぶりに圧倒される。
 釣書によると、年齢は三十二歳ということだが、二十代と言われても信じるくらい肌が綺麗で若々しい。体型はスマートで、パッと見た感じ、身長はかなり高い。百八十センチはあるだろうか。

「どうぞ、そちらに。今日は急なお願いにもかかわらずお越しくださり感謝いたします」

 にっこり微笑む久宝さんにつられ、私も笑顔を作る。もしかしたら、引きっているかもしれないけど。

「いえ……こちらこそ、今日はよろしくお願いします……」

 勧められるまま、私は彼の向かいの席に腰を下ろした。
 あらかじめ用意されていたらしく、目の前の大きなテーブルには二人分とは思えないほどの料理が並んでいる。それも色彩豊かな美しいお椀ばかり。
 久宝さんの美男子ぶりにも驚いたが、このお料理も私の度肝どぎもを抜く豪華さだ。
 ――うわわわわ……す、っごい……こんなの初めて見た……
 ついゴクン、とのどを鳴らしてしまう。

「何を飲まれますか。ここにはいいお酒も揃っていますが」

 メインのお料理はこれから来るということで、飲み物のメニューを手渡される。

「いえ、私はお茶で」

 お酒に弱いわけではないが、酔っぱらって何かしでかしでもしたら大変だ。
 そう言ってメニューを返すと、久宝さんが少しだけ残念そうに微笑んだ。

「そうですか。では私もお茶をいただくことにしましょう」

 オーダーを聞いた店の女性が部屋を出ていくと、久宝さんと二人きりになってしまう。
 かろうじてテーブルを挟んで向き合っているものの、会社の同僚以外の男性と二人きりで食事をするなど初めての経験だ。落ち着かなくても仕方がない。
 しかも相手は大企業の重役……もし粗相そそうをしたらと……私は今、かつてないほど緊張していた。
 視線を落として黙り込んでいると、先に久宝さんが口を開いた。

「さて……宗守沙霧さん。今回は急な話でさぞかし驚かれたのではないですか」
「はい。すごく驚きました」

 間髪かんはつれず返事をしたら、久宝さんがクスッと笑う。

「でしょうね。すみません。ああ、せっかくなので食事をしながらお話ししましょうか。今日は私の方で勝手に選んでしまいましたが……」
「あっ、ありがとうございます! すごく美味おいしそうなものばかりで驚いていたところです」
「この店は何を食べても美味おいしいので、私も楽しみにしてきたんです。さ、冷めないうちにどうぞ」
「では……いただきます」

 そう言って、まずは小さなグラスに入った食前酒をいただく。これくらいの量なら酔うことはないだろう。

「……ん、梅酒ですね」
「ええ。とても口当たりのいい梅酒だ」

 梅酒を口に含みながら、目の前にいる男性をチラリと盗み見た。
 グラスを掴む骨張った指に男の色香を感じる。少し伏せた目はまつげも長く形がいい。アーモンドアイというのはこういう目のことを言うのかもしれない。
 ――それにしても、本当に綺麗な男の人だなあ……なんでお見合いなんかするんだろう……
 こんなにイケメンで地位も名誉もお金もある人なら、お見合いなんかしなくっても女の人の方から近づいてきそうなものなのに。
 頭の中を、何故とどうしてでいっぱいにしていると、久宝さんと目が合った。
 反射的に目を逸らしてしまい、笑いを含んだ声が聞こえてくる。

「……そんなにおびえなくてもいいのに」
「お、おびっ……!? すみません。こういう場は初めてなので、正直どういう風にしたらいいのか分からなくて。し、失礼なことをしていたらお詫びします……」
「失礼なことなんて、まったくないですよ。可愛いなと思って見ていました」

 ――か、可愛い……!?
 言われ慣れていない言葉に、心底リアクションに困ってしまう。

「あの……そ、それよりもですね……何故、久宝さんは私とお見合いをしようと思われたのでしょう? 私、久宝さんとお会いしたことって、ありませんよね……?」

 勢いに任せて、思っていたことを聞いてしまった。
 しかし、久宝さんは静かに首を横に振った。

「いいえ。会っていますよ。覚えていませんか? こういう男を」

 そう言うなり、久宝さんは前髪を横に流し、ジャケットの胸ポケットから取り出した銀縁眼鏡をかける。その姿を見た私は、思わず「あっ」と声を上げる。
 微かにだが、見覚えがあった。
 ――この人、いた……!! 
 久宝社長が来社した時、付き添いで来ていた数人の男性の中に、こういうビジュアルの人がいたことをうっすらと思い出す。

「思い出しました?」

 私の反応を見て久宝さんが嬉しそうに口角を上げる。

「も……申し訳ありません! 今日は眼鏡をしていらっしゃらないし、髪形が違ったので気がつきませんでした」 

 顔を覚えていなかったことを心から申し訳なく思い、深々と頭を下げた。しかし、久宝さんは笑顔のままだ。

「謝らないでください。あの時、私は社長の隣に座っていただけなので、覚えていないのも無理はないのです。それにあの姿で人前に出るのは勤務中のみなので……あ、どうぞ、食事を進めましょう」
「は、はい。では……」

 久宝さんに勧められ、先付けにはしをつける。肌色をした肝のようなものをドキドキしながら口に入れた。次の瞬間、口の中に未経験の味わいが広がる。

「……! これ、すごく美味おいしいですね……なんていうか、とってもクリーミー……」
鮟肝あんきもですね。確かに濃厚で、クリーミーです。鮟肝あんきもは海のフォアグラと言われているみたいですよ」

 久宝さんが美しい所作で鮟肝あんきもを口に運ぶ。それを見て、私も再びはしを動かした。

「そうなんですか。私、二十八歳にして初めて食べました。あ、それで、話の続きをしてもいいでしょうか」
「どうぞ?」
「先ほどのお話からでは、何故、私に今回のお話が来たのか分からないんですが……」
「それもそうですね」

 鮟肝あんきもを食べていた久宝さんが小さく頷く。

「そもそも、私が社長について払田工業さんへ行ったのは、あなたに会うためだったんです」
「……私に会うため、ですか?」
「ええ。父に宗守さんのことを聞いてね」
「はっ?」

 私の頭の中で、過去に久宝社長と交わした言葉や行動が激しく入り乱れる。
 何か粗相そそうをしてしまったのではないか、失礼なことを言ってしまったのではないか。そのことで頭がいっぱいになると、今度は沸々ふつふつと不安が湧いてくる。
 私の異変に気がついた久宝さんが慌ててフォローの言葉を口にした。

「ああ、違います。父はあなたにとてもいい印象を抱いているんですよ。私が聞いたのは、父と歴史の話で盛り上がった、とか……」

 思いもしなかった話になって、私は「へっ」と気が抜けたような声を出した。

「……確かにお茶を持って行った時、どういう流れかは忘れましたけど、日本の歴史の話になりました。私も歴史好きなので、楽しくお話しさせていただいたのは記憶にありますが……」
「それが父の中では強く印象に残っているようでね。若くて可愛らしい女性なのに、非常に落ち着いていて感じがいいと。それからというもの、父が私によく言うのですよ。払田工業の事務員の女性ならお前に合うんじゃないか、とね」
「そんな……ちょっとお話ししただけでそれは……ないんじゃないかと……」

 さすがに本気で困惑する。さっきからはしも止まったままだ。

「もちろん、私も父の言うことを鵜呑うのみにはしませんでした。ただ、あまりにうるさいので、そこまで言うあなたを、一度この目で見てみようと思いましてね。新年の挨拶あいさつを兼ねて払田工業へ視察に行くという父に同行したのですよ」
「……なるほど。そういう流れでしたか……」

 まだ核心にはほど遠いけれど、何故私に声がかかったのか少しだけ理解できた。


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