3 / 17
1巻
1-3
しおりを挟む
じっくり裸を見られたどころか、感想まで聞かされて恥ずかしさに死にそうだ。
「……っ!」
――もう、無理……!!
痺れを切らした私は、勢いよく振り返りシャワーブースを出る。その行動に、神野さんは驚いたように目を見開いた。
「おっ」
「もう、いいから出てって――っ!!」
私は、浴室の壁に寄りかかっていた彼を外に押し出しドアを閉めた。
「し、信じられない……!!」
人がシャワーを浴びているところに、平然と入ってくるなんて。
そんな人の婚約者の振りをするなんて、はたして大丈夫だろうか。今後の生活がたまらなく不安になり、私は裸のまま頭を抱えてしゃがみこんだ……
なんとか気持ちを立て直してリビングに行くと、パリッとスーツを着た井筒さんが私に声を掛けてくる。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「おはようございます。井筒さん。おかげ様で、眠れまし……」
そこまで言った時、スーツ姿の神野さんが、ダイニングテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるのに気づいた。
その瞬間、思わず私の口元がムッと歪んでしまう。
「それはよかった。私たちは朝はコーヒーだけですが、あなたはどうしますか? と言っても飲み物くらいしかありませんが」
言われてテーブルの上を見ると、本当にコーヒーの入ったカップしかない。
「お二人とも、食事を取らなくても大丈夫なんですか?」
「もちろん腹が減ったら食うさ。外食か、デリバリーで」
神野さんがなんでもないことのように言う。それを聞いて、『金持ちめ……』と心の中で悪態をついてしまった。
「ではお言葉に甘えて飲み物をいただきます……冷蔵庫の中を見てもよろしいですか?」
「いいですよ」
井筒さんの同意を得て、私はキッチンの奥に鎮座する大きな冷蔵庫を開けた。
「……ほんとだ」
がらんとした冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターのペットボトルや、外国の瓶ビールなど……本当に飲み物しか入っていなかった。
――こんなに大きな冷蔵庫なのに、なんてもったいない……
がっかりしつつ、私は炭酸入りの水を一本取り出す。そのタイミングで、神野さんが読んでいた新聞をばさ、と音を立ててテーブルに置いた。
「沙彩、こちらに座れ。仕事について説明する」
促されるまま、私は彼らの向かいの席に腰を下ろした。私が座るのを待っていた神野さんが、再び口を開く。
「昨日も言った通り、君には俺の婚約者の振りをしてもらう。そこでまずは、俺の母に気に入られるような女性を演じてほしい」
「……神野さんのお母様に、ですか」
「そうだ。俺を結婚させたがっている張本人だ。母は自分が姑で苦労したから、俺の結婚相手は自分と気の合う女性がいいと言ってきかないんだ。まだ結婚する気のない俺に代わって、自分が相手を見つけると意気込んでいるくらいだしな」
なるほど、と神野さんの言葉に小さく頷く。
だけど、私なんかが、神野さんのお母様が気に入る婚約者を演じられるのだろうか? はっきり言ってまったく自信が無い!
「やっぱり、無理じゃないですか? とても私にできるとは思えません」
「なら、割った壺はどうするんだ」
「あうう……」
それを持ち出されるとなにも言えない。世の中お金が全てとは思っていないけど、なんだかんだ言ったところでお金がなければ立場は弱くなる。それはこれまでの人生で、痛いくらい身にしみていた。
黙り込んだ私を見ながら、神野さんが言葉を続ける。
「自分で相手を見つけるのが最善だと分かっている。だが、それじゃなくても重要な仕事を抱えて時間がない中、婚約者候補を見つけ、のんびり愛を育んでいる暇などない。だから……そうだな、一年間。君には俺の婚約者の振りをしてもらいたい」
「一年……」
初めて具体的な期間を提示されて、私は自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
「そうだ。その間の衣食住は保証するし、給料も出す。一年後、俺の身辺が落ち着いたところで婚約を解消し、君を自由にしよう。希望するなら、就職先や住居もこちらで紹介する。それなら安心だろう?」
不安があるとすれば、神野さんの望む婚約者を演じることができるのか、ということと、彼が婚約者役になにをどこまで要求するのか、ということだ。
それ以外は、お給料も出るし、こんな広い家に住むことができるので問題はない。それどころか、背負うはずだった壺の借金をチャラにしてもらえるのだからいいことずくめだ。
不安はあるけれど背に腹は替えられない。
「わ、かりました……精一杯、努めさせていただきます」
私は改めて、目の前にいる神野さんに頭を下げる。すると彼は口元に手を当て、ニヤリと不敵に笑った。
「こちらこそ、よろしく頼む。しっかりやれよ」
お金のためだ。多少のことには目を瞑り、まずは神野さんのお母様に気に入ってもらえるような、完璧な婚約者を演じてみせる! そしてお金を貯めて、大手を振ってこの家を出てってやるのだ。
目の前にいる、まだ全面的には信用できない男を見ながら、私は固く心に決めた。
「ちなみに母との対面は二週間後だ。俺の誕生日パーティーに来ることになっているからな」
「えっ……」
気合を入れていたところに、神野さんから聞かされた事実に面食らう。
二週間だなんて、意外と時間がないじゃないか。やっぱりこの人信用ならない……
「話はこれで全部だ。じゃ、俺はそろそろ行く。あとは井筒の指示に従ってくれ」
神野さんがジャケットを手に立ち上がる。井筒さんもそれに続いた。
さすがにここで一人座ったまま見送りもしないというのは失礼だと思い、立ち上がって二人のあとを追う。
玄関で会話している二人に近づき、じっとしていると、私の視線に気がついた神野さんがこちらを見た。
「なんだ。なにか聞きたいことでもあるのか」
「いえ、お見送りしようと思って。仕事とはいえ、この家でお世話になることに変わりはないので」
「そうだな……」
ふむ、と納得したような様子の神野さんは、再び私を見て、ニヤリと笑った。
「それなら『行ってらっしゃいませ、ご主人様』だ」
「……は?」
「俺と君は、ある意味主従関係だ。よって君にとって俺は『ご主人様』となる。ほら」
ニヤニヤしながら私の言葉を待つ神野さんに、私は呆気にとられる。
なんでそんな、メイドさんみたいなこと言わなきゃいけないの……なんだかとっても屈辱的……
早々に決意が揺らぎそうになるが、私はぐっと我慢して言われた通りにした。
「……い、行ってらっしゃいませ、ご主人様……」
「結構。では、行ってくる」
面白そうにクスクスと笑いながら、神野さんが家を出て行った。
――くっ……お金のため、お金のため。
内心で自分に言い聞かせていると、玄関に立ったままの井筒さんに気づいた。
「井筒さんは一緒に行かなくて大丈夫なんですか? 神野さんの秘書なんですよね?」
「会社までは運転手が同行します。神野の秘書は私だけではないので問題ありません。それに、今日は神野からあなたの世話をするように仰せつかっておりますから」
「私の世話、ですか?」
すると井筒さんの視線が、私の頭のてっぺんから足先まで素早く移動していった。
「まずは、その外見をなんとかしなければいけません。あなたの朝食を調達しがてらすぐ外出します。準備ができたら声を掛けてください」
「は、はい」
私の外見をなんとかするって、一体なにをされるのだろう? だけど契約を結んだ以上、言われたことはしっかりやらなければ。
気持ちを引き締めた私は、急いで出かける準備を始めた。
それからすぐ、井筒さんの運転する車に乗せられる。まず向かったのは、早朝から営業している喫茶店だった。そこで井筒さんは、サンドイッチとオレンジジュースをテイクアウトし、「朝食です」と渡してきた。
私はそれをありがたく車の中でいただく。分厚い玉子焼きが挟まったたまごサンドは未知の美味しさで、私は後部座席で感動に打ち震えてしまった。
――か、金持ちはいつもこんな美味しいものを食べているのか……!!
サンドイッチに感動している私に、ルームミラーに映る井筒さんが涼しい顔で声を掛けてきた。
「これからヘアサロンに向かいます。そのあと、あなたの服を買いにショップへ行く予定です。本当の婚約者でないといっても、外見がまったく神野の好みでないと、すぐにニセモノだとバレてしまう可能性がありますから。ですので、まずは外見を神野の好みに合わせていただくところから始めてもらいます」
井筒さんの言うことはもっともだ。私は自分の着ている服をじっと見つめる。
安さが売りの衣料品チェーン店で買った服は、見る人が見れば一発で安物だと分かってしまう。さすがに私でも、自分の服で神野さんの婚約者を名乗り、人前に出るのはマズいと分かる。
だけど……果たして髪や服装を変えたくらいで、自分が御曹司の婚約者らしく見えるようになるのだろうか。考えれば考える程不安でいっぱいになってくる。
しかし、そんな私の思いとは裏腹に、井筒さんの運転する車が、とあるビルの前で停車した。
ビルの一階には「Hair」と書かれた看板が掲げられている。
「ここは神野の行きつけのヘアサロンです。今朝オーナーに連絡して予約を入れました。見たところ、あまり髪の手入れをしていないようですね」
「うっ……その通りです」
髪を切りに行く時間もなかったし、お金もかかるので、ここ数年は伸ばしっぱなしにしていた。それもあって、私の髪は腰の辺りまである。
「髪を短くしろとは申しませんが、少し整えてください。また、必要ならカラーリングで印象を変えてもらうかもしれません。こちらの希望は全てオーナーに話してありますから」
「わ、分かりました」
私は特にこだわりがあって髪を伸ばしていたわけじゃない。なので、イメチェンに関して異論はない。それどころか、長すぎて重いし肩の凝る髪を切ってもらえるのは、個人的にもありがたい。
「あなたが髪の手入れをしている間、私はちょっと買い物をしてまいります。終わる頃に迎えに来ます」
「りょ、了解いたしました」
車を降りて井筒さんと別れた私は、おずおずとヘアサロンの扉を開ける。すると、待っていましたとばかりに、スタッフが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、筧様。オーナーからお話は伺っております。本日はお任せください」
「よろしくお願いします……」
随分と久しぶりのヘアサロンに緊張しながら、促されるまま席に座った。簡単なヒアリングのあと施術が始まる。
腰まで伸びた髪は、背中の真ん中あたりで切り揃えられ、少しだけ明るく見えるようピンクブラウンにカラーリングされた。仕上げに傷んだ髪へトリートメントをし、コテで巻いて終了。ついでとばかりに化粧っ気のない私の顔に軽くメークまでしてくれた。仕上がった姿を鏡で見て驚いた。
「す、凄い……!!」
人の顔はこんなにも劇的に変わるものなのか。私は別人のようになった自分の顔を見て、言葉を失う。
メークで強調された目はぱっちりとして、グロスを塗った唇はぷっくりと愛らしく輝き、女性らしさが増していた。ピンク色のチークが健康的な印象も与えている。自分でもびっくりの変貌ぶりに、これなら神野さんの婚約者と言っても周囲に疑われなくてすむかもしれない、とちょっと思った。
「随分イメージが変わりましたね。とってもお似合いです」
私を担当してくれた男性の美容師さんに笑顔でそう言われて、照れてしまう。
時計を見るとすでに三時間近くが経過していた。
そういえば買い物に行くと言って出て行ったまま、井筒さんはまだ戻ってきていない。彼の連絡先を聞いていなかったことに気づいた私は、困ってしまった。
なにも聞いていないけど、ここの支払いとかどうなっているんだろう……
見るからに高そうなサロンに、私の頭の中は別の心配でいっぱいになってくる。
その時、店の入り口から井筒さんがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。私を見るなり、井筒さんは目を大きく見開く。
「ほう。これはこれは……見違えましたね」
「あ、ありがとうございます……それよりもあの、ここの支払いは……」
こんなにいろいろしてもらったとなると、きっと支払額は私の想像を遙かに超えているに違いない……
心配でソワソワしていると、スタッフに挨拶をした井筒さんに手を引かれ、そのまま出口に向かった。
「え、あの……」
「次は服装です。行きましょう」
戸惑っているうちに、スタッフの方々に見送られヘアサロンから連れ出される。
再び車に乗せられしばらくすると、今度は私でも名前を知っているような有名ブランドのショップに連れて来られた。
――なにかとても、いやな予感がする。
「井筒さん……まさかここで服を買うんですか……?」
車を降り、高級ブランドのショップに向かって歩き出した井筒さんに、恐る恐る声を掛けた。
「そうです。ここも神野の行きつけのショップですので、せっかくなら合わせましょう。このブランドはメンズだけではなくレディースも扱っていますし」
「で、でも、こんな高そうなところじゃなくても服は買えますよ!?」
「さ、段差がありますので足下に気をつけてくださいね」
私の言い分を華麗にスルーして、井筒さんは店内に入っていった。
中に入るなり、井筒さんは私に合う洋服を何着か見繕ってほしいとスタッフに声を掛ける。
すぐにワンピースやら、スーツやら、カジュアルなセットアップなどが目の前に並んでいく。さらには、二週間後に迫った神野さんの誕生日パーティー用にと、ドレスまでも持ってこさせた。
それらを試着させられている合間に、井筒さんとスタッフの間でバッグやアクセサリーなどが決められていく。一体総額いくらになるのか、私は怖くて考えることができなかった。
きっと私が直視できないくらいの金額になるに違いない。
店を出て車に戻る頃には、精神的にいっぱいいっぱいになっていた私。なにより、山のようなショッピングバッグを見て、恐怖で震えた。
こんなに大量の買い物、未だかつてしたことがない。しかも……ワンピース一着の値段が、私の一ヶ月の生活費よりも高いなんて! そんな服を何着も購入する井筒さんの正気を疑ってしまう。
――まさかこの買い物代、私の借金に上乗せになるのかな……? これ以上借金が増えたら、今後私、なにをやらされるか分かんないんですけどっ……!
私が真っ青になって買い物の山を見つめていると、それに気がついた井筒さんに「どうしました?」と声を掛けられた。
「あ、あの! ヘアサロンとこの買い物の支払いは、どうなっているんでしょう? まさか、私の借金に……」
すると、井筒さんは呆れたように大きなため息をついた。
「あなたがお金を持っていないことなど百も承知。これは必要経費です」
「必要経費? でも、ただでさえお世話になっているのに、これ以上……」
そうだ、なにもこんなに高い店じゃなくてもちゃんとした服は買える。それなら、私も給料で買うことができるのに。
渋い顔をしていると、すぐに井筒さんの声が飛んでくる。
「これは投資です。あなたが神野の婚約者役を引き受けてくださったことで、神野は結婚相手を探すために費やすはずだった時間を全て仕事に充てることができる。それに女性と知り合い、関係を構築していくためにはそれなりにお金もかかります。それを考えたら、あなたに費やす金額など大した額ではありません」
――そんなものなのだろうか……
なんか、上手く丸め込まれたような気がしてならない。
それに……ここまでお金をかけさせたあげく、神野さんから「イメージじゃない」とか言われたらどうしたらいいんだか……
新たな不安を抱きつつ、私を乗せた車は神野邸に向かって走り出したのだった。
神野邸に到着し、先にリビングへ入った私は、程なく大量の食料品を持って現れた井筒さんに驚く。
どうやら私がヘアサロンにいる間に買い込んできたものらしい。
見ると、味噌や醤油などといった主な調味料類に、お米。それから、お肉や野菜に果物まである。さらに、キッチンスツールなども一式あった。
「どうしたんですか、こんなにたくさん」
「今朝、あなたは冷蔵庫の中を見てがっかりしていたようなので。神野から食料を入れておけと指示がありました。外食でもいいし、あるものを好きに調理して食べていただいても構いません」
「あ、ありがとうございます……!」
この配慮は正直、とても嬉しい。
「これ以外になにか必要なものがありましたら生活費をお渡ししますので、ご自分で買い出しに行ってください。それと契約期間中はこのスマートフォンをお持ちください。私や神野の連絡先を入れてあります」
井筒さんが私に封筒と真新しいスマートフォンを差し出す。おずおずとそれを受け取り封筒の中身を見ると、数枚のお札が入っていた。だけど明らかに多い。
「あの、お給料をいただけるのなら、その中で生活費を工面するので、別にいただかなくても大丈夫です」
「いえ、生活費は給料とは別に支給しろと、これも神野の指示です」
私は訳が分からず眉根を寄せる。
「……なんで、そこまでよくしてくださるんですか?」
「私には分かりかねます。神野が帰宅したら聞いてみたらどうですか」
そう言って、井筒さんは微かに微笑んだ。なんだかまた答えをはぐらかされたみたいで、私は黙り込む。彼はそんな私に構わず、全ての荷物をキッチンに運び込んだ。
時刻はもう午後一時過ぎ。井筒さんは午後から出社するということで、この家の留守を私が一人で預かることになった。
その時間を勉強に充ててください、と、マナーの本を数冊手渡される。
「特に大事だと思われるページには付箋を貼っておきました。後日マナー講師を呼んで、立ち居振る舞いなど、チェックしていただきます。それまでに基本の内容を頭に叩き込んでおいてください」
「分かりました……それはそうと、知り合ったばかりの私に留守番なんかさせていいんですか?」
つい、気になったことを聞いてしまった。
――だって、さすがに不用心なんじゃない……?
「あなたのことは全て調べた上で、問題ないと判断いたしました。万が一契約を反故にしてこの家から逃げたとしても、我々はあなたを地の果てまで追いかけることが可能です。賢いあなたなら、どうするのが一番かよくお分かりでしょう」
そりゃそうだ。これだけの財力のある人たちから、逃げられるなんて思えない。
「……逃げませんよ。ただ、意外と信用してくれているんだと思って、驚いただけです」
ちょっとだけムッとした私を見て、井筒さんは「それはよかった」と、鼻で笑った。
そういうところ、神野さんとそっくり。秘書ともなると、やはり似てくるものなのか。
玄関まで井筒さんを見送ったあと、私は買ってもらった服やバッグをクローゼットにしまった。
アパートから持ってきた安物の服の隣に高級な服が並んでいるのを見て、夢と現実が同居しているような変な気持ちになる。そしてあらかた荷物を片づけ終えた私は、最後にパーティー用のドレスを手に取り、うーんと悩む。
このドレス、デコルテ部分が総レースになっていて、私が持っている下着では肩紐がばっちり見えてしまう。今日は井筒さんがいたから言えなかったけど、このドレスに合わせた下着を買ってこなければ。
そんなことを考えながらダイニングに戻り、私は井筒さんに言われたマナーの勉強を始める。最初のページから読み進めていき、途中で付箋が貼られたページに辿り着く。
最初の付箋は、食事のマナーについて書かれたページに貼られていた。
――あー、マナーが必要な料理なんて食べたことないからなあ……確かに大事かも。
婚約者がマナーも知らないなんてことになったら、恥ずかしい思いをするのは神野さんだもんね。契約した以上、しっかり頭に叩き込まなきゃ。
私はテーブルマナーのページを熟読し、なおかつ実際にカトラリーをテーブルに並べて実践してみた。最初はおぼつかなかったものの、何度も繰り返していくうちに、なんとなく形になってくる。
夢中になってやっていたこともあって、時計を見るとすでに数時間が経過していた。
――さすがに喉が渇いたな……なにか飲もう。
私は硬くなった身体をほぐしつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注いだ。水を飲みながら、何気なくキッチンを見回す。おしゃれなダークブラウンの落ち着いた色合いで、機能も充実した立派なキッチンだ。だけど神野さんも井筒さんもほとんど料理をしないとあって、圧倒的にものが少ない。まるでショールームのようだ。
調理器具は少しあるけど、キッチン家電は冷蔵庫とオーブンレンジのみ。それに、せっかくお米を買ってもらったのに、この家には炊飯ジャーがなかった。お米は鍋で炊くしかないか。
そんなことをぼんやり考える。
こうやって先のことを考える余裕が出てきたのはいいことだ。
昨晩からの急展開に、まだ頭が付いていかないこともあるけど、想像していたよりも状況は悪くない……というより、ずっとよかった。
神野さんは、私のことをいろいろ考えてくれているようだ。つい、そこまで悪い人ではないのかな? と、彼に対する印象がちょっとだけ良くなる。
――ちょっとだけ、ほんっとーにちょっとだけだけどね!
今朝の暴挙を簡単に許しそうになっている自分に、慌てて首を振った。
その時、何気なく窓へ視線を向けると、眩しいくらいの真っ青な空が見える。
――いい天気……これなら洗濯物がよく乾きそう……って洗濯物……?
ここでふとある疑問が頭に浮かんだ。
そういえば洗濯ってどうすればいいんだろう? ずっと溜めとくわけにもいかないし、時間がある時に洗っておきたい。それに、神野さんたちに下着を見られるのはさすがに嫌だから、できれば二人がいない間に。
私はおもむろに、洗濯機を探して広い神野邸を歩き回る。二階のバスルームには無かった。だけど、一階のバスルームにもそれらしきものはない。
「この家には洗濯機がないのか……!!」
一通り家の中を探し回ったあと、ダイニングに戻ってきた私は途方に暮れる。
「……っ!」
――もう、無理……!!
痺れを切らした私は、勢いよく振り返りシャワーブースを出る。その行動に、神野さんは驚いたように目を見開いた。
「おっ」
「もう、いいから出てって――っ!!」
私は、浴室の壁に寄りかかっていた彼を外に押し出しドアを閉めた。
「し、信じられない……!!」
人がシャワーを浴びているところに、平然と入ってくるなんて。
そんな人の婚約者の振りをするなんて、はたして大丈夫だろうか。今後の生活がたまらなく不安になり、私は裸のまま頭を抱えてしゃがみこんだ……
なんとか気持ちを立て直してリビングに行くと、パリッとスーツを着た井筒さんが私に声を掛けてくる。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「おはようございます。井筒さん。おかげ様で、眠れまし……」
そこまで言った時、スーツ姿の神野さんが、ダイニングテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるのに気づいた。
その瞬間、思わず私の口元がムッと歪んでしまう。
「それはよかった。私たちは朝はコーヒーだけですが、あなたはどうしますか? と言っても飲み物くらいしかありませんが」
言われてテーブルの上を見ると、本当にコーヒーの入ったカップしかない。
「お二人とも、食事を取らなくても大丈夫なんですか?」
「もちろん腹が減ったら食うさ。外食か、デリバリーで」
神野さんがなんでもないことのように言う。それを聞いて、『金持ちめ……』と心の中で悪態をついてしまった。
「ではお言葉に甘えて飲み物をいただきます……冷蔵庫の中を見てもよろしいですか?」
「いいですよ」
井筒さんの同意を得て、私はキッチンの奥に鎮座する大きな冷蔵庫を開けた。
「……ほんとだ」
がらんとした冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターのペットボトルや、外国の瓶ビールなど……本当に飲み物しか入っていなかった。
――こんなに大きな冷蔵庫なのに、なんてもったいない……
がっかりしつつ、私は炭酸入りの水を一本取り出す。そのタイミングで、神野さんが読んでいた新聞をばさ、と音を立ててテーブルに置いた。
「沙彩、こちらに座れ。仕事について説明する」
促されるまま、私は彼らの向かいの席に腰を下ろした。私が座るのを待っていた神野さんが、再び口を開く。
「昨日も言った通り、君には俺の婚約者の振りをしてもらう。そこでまずは、俺の母に気に入られるような女性を演じてほしい」
「……神野さんのお母様に、ですか」
「そうだ。俺を結婚させたがっている張本人だ。母は自分が姑で苦労したから、俺の結婚相手は自分と気の合う女性がいいと言ってきかないんだ。まだ結婚する気のない俺に代わって、自分が相手を見つけると意気込んでいるくらいだしな」
なるほど、と神野さんの言葉に小さく頷く。
だけど、私なんかが、神野さんのお母様が気に入る婚約者を演じられるのだろうか? はっきり言ってまったく自信が無い!
「やっぱり、無理じゃないですか? とても私にできるとは思えません」
「なら、割った壺はどうするんだ」
「あうう……」
それを持ち出されるとなにも言えない。世の中お金が全てとは思っていないけど、なんだかんだ言ったところでお金がなければ立場は弱くなる。それはこれまでの人生で、痛いくらい身にしみていた。
黙り込んだ私を見ながら、神野さんが言葉を続ける。
「自分で相手を見つけるのが最善だと分かっている。だが、それじゃなくても重要な仕事を抱えて時間がない中、婚約者候補を見つけ、のんびり愛を育んでいる暇などない。だから……そうだな、一年間。君には俺の婚約者の振りをしてもらいたい」
「一年……」
初めて具体的な期間を提示されて、私は自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
「そうだ。その間の衣食住は保証するし、給料も出す。一年後、俺の身辺が落ち着いたところで婚約を解消し、君を自由にしよう。希望するなら、就職先や住居もこちらで紹介する。それなら安心だろう?」
不安があるとすれば、神野さんの望む婚約者を演じることができるのか、ということと、彼が婚約者役になにをどこまで要求するのか、ということだ。
それ以外は、お給料も出るし、こんな広い家に住むことができるので問題はない。それどころか、背負うはずだった壺の借金をチャラにしてもらえるのだからいいことずくめだ。
不安はあるけれど背に腹は替えられない。
「わ、かりました……精一杯、努めさせていただきます」
私は改めて、目の前にいる神野さんに頭を下げる。すると彼は口元に手を当て、ニヤリと不敵に笑った。
「こちらこそ、よろしく頼む。しっかりやれよ」
お金のためだ。多少のことには目を瞑り、まずは神野さんのお母様に気に入ってもらえるような、完璧な婚約者を演じてみせる! そしてお金を貯めて、大手を振ってこの家を出てってやるのだ。
目の前にいる、まだ全面的には信用できない男を見ながら、私は固く心に決めた。
「ちなみに母との対面は二週間後だ。俺の誕生日パーティーに来ることになっているからな」
「えっ……」
気合を入れていたところに、神野さんから聞かされた事実に面食らう。
二週間だなんて、意外と時間がないじゃないか。やっぱりこの人信用ならない……
「話はこれで全部だ。じゃ、俺はそろそろ行く。あとは井筒の指示に従ってくれ」
神野さんがジャケットを手に立ち上がる。井筒さんもそれに続いた。
さすがにここで一人座ったまま見送りもしないというのは失礼だと思い、立ち上がって二人のあとを追う。
玄関で会話している二人に近づき、じっとしていると、私の視線に気がついた神野さんがこちらを見た。
「なんだ。なにか聞きたいことでもあるのか」
「いえ、お見送りしようと思って。仕事とはいえ、この家でお世話になることに変わりはないので」
「そうだな……」
ふむ、と納得したような様子の神野さんは、再び私を見て、ニヤリと笑った。
「それなら『行ってらっしゃいませ、ご主人様』だ」
「……は?」
「俺と君は、ある意味主従関係だ。よって君にとって俺は『ご主人様』となる。ほら」
ニヤニヤしながら私の言葉を待つ神野さんに、私は呆気にとられる。
なんでそんな、メイドさんみたいなこと言わなきゃいけないの……なんだかとっても屈辱的……
早々に決意が揺らぎそうになるが、私はぐっと我慢して言われた通りにした。
「……い、行ってらっしゃいませ、ご主人様……」
「結構。では、行ってくる」
面白そうにクスクスと笑いながら、神野さんが家を出て行った。
――くっ……お金のため、お金のため。
内心で自分に言い聞かせていると、玄関に立ったままの井筒さんに気づいた。
「井筒さんは一緒に行かなくて大丈夫なんですか? 神野さんの秘書なんですよね?」
「会社までは運転手が同行します。神野の秘書は私だけではないので問題ありません。それに、今日は神野からあなたの世話をするように仰せつかっておりますから」
「私の世話、ですか?」
すると井筒さんの視線が、私の頭のてっぺんから足先まで素早く移動していった。
「まずは、その外見をなんとかしなければいけません。あなたの朝食を調達しがてらすぐ外出します。準備ができたら声を掛けてください」
「は、はい」
私の外見をなんとかするって、一体なにをされるのだろう? だけど契約を結んだ以上、言われたことはしっかりやらなければ。
気持ちを引き締めた私は、急いで出かける準備を始めた。
それからすぐ、井筒さんの運転する車に乗せられる。まず向かったのは、早朝から営業している喫茶店だった。そこで井筒さんは、サンドイッチとオレンジジュースをテイクアウトし、「朝食です」と渡してきた。
私はそれをありがたく車の中でいただく。分厚い玉子焼きが挟まったたまごサンドは未知の美味しさで、私は後部座席で感動に打ち震えてしまった。
――か、金持ちはいつもこんな美味しいものを食べているのか……!!
サンドイッチに感動している私に、ルームミラーに映る井筒さんが涼しい顔で声を掛けてきた。
「これからヘアサロンに向かいます。そのあと、あなたの服を買いにショップへ行く予定です。本当の婚約者でないといっても、外見がまったく神野の好みでないと、すぐにニセモノだとバレてしまう可能性がありますから。ですので、まずは外見を神野の好みに合わせていただくところから始めてもらいます」
井筒さんの言うことはもっともだ。私は自分の着ている服をじっと見つめる。
安さが売りの衣料品チェーン店で買った服は、見る人が見れば一発で安物だと分かってしまう。さすがに私でも、自分の服で神野さんの婚約者を名乗り、人前に出るのはマズいと分かる。
だけど……果たして髪や服装を変えたくらいで、自分が御曹司の婚約者らしく見えるようになるのだろうか。考えれば考える程不安でいっぱいになってくる。
しかし、そんな私の思いとは裏腹に、井筒さんの運転する車が、とあるビルの前で停車した。
ビルの一階には「Hair」と書かれた看板が掲げられている。
「ここは神野の行きつけのヘアサロンです。今朝オーナーに連絡して予約を入れました。見たところ、あまり髪の手入れをしていないようですね」
「うっ……その通りです」
髪を切りに行く時間もなかったし、お金もかかるので、ここ数年は伸ばしっぱなしにしていた。それもあって、私の髪は腰の辺りまである。
「髪を短くしろとは申しませんが、少し整えてください。また、必要ならカラーリングで印象を変えてもらうかもしれません。こちらの希望は全てオーナーに話してありますから」
「わ、分かりました」
私は特にこだわりがあって髪を伸ばしていたわけじゃない。なので、イメチェンに関して異論はない。それどころか、長すぎて重いし肩の凝る髪を切ってもらえるのは、個人的にもありがたい。
「あなたが髪の手入れをしている間、私はちょっと買い物をしてまいります。終わる頃に迎えに来ます」
「りょ、了解いたしました」
車を降りて井筒さんと別れた私は、おずおずとヘアサロンの扉を開ける。すると、待っていましたとばかりに、スタッフが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、筧様。オーナーからお話は伺っております。本日はお任せください」
「よろしくお願いします……」
随分と久しぶりのヘアサロンに緊張しながら、促されるまま席に座った。簡単なヒアリングのあと施術が始まる。
腰まで伸びた髪は、背中の真ん中あたりで切り揃えられ、少しだけ明るく見えるようピンクブラウンにカラーリングされた。仕上げに傷んだ髪へトリートメントをし、コテで巻いて終了。ついでとばかりに化粧っ気のない私の顔に軽くメークまでしてくれた。仕上がった姿を鏡で見て驚いた。
「す、凄い……!!」
人の顔はこんなにも劇的に変わるものなのか。私は別人のようになった自分の顔を見て、言葉を失う。
メークで強調された目はぱっちりとして、グロスを塗った唇はぷっくりと愛らしく輝き、女性らしさが増していた。ピンク色のチークが健康的な印象も与えている。自分でもびっくりの変貌ぶりに、これなら神野さんの婚約者と言っても周囲に疑われなくてすむかもしれない、とちょっと思った。
「随分イメージが変わりましたね。とってもお似合いです」
私を担当してくれた男性の美容師さんに笑顔でそう言われて、照れてしまう。
時計を見るとすでに三時間近くが経過していた。
そういえば買い物に行くと言って出て行ったまま、井筒さんはまだ戻ってきていない。彼の連絡先を聞いていなかったことに気づいた私は、困ってしまった。
なにも聞いていないけど、ここの支払いとかどうなっているんだろう……
見るからに高そうなサロンに、私の頭の中は別の心配でいっぱいになってくる。
その時、店の入り口から井筒さんがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。私を見るなり、井筒さんは目を大きく見開く。
「ほう。これはこれは……見違えましたね」
「あ、ありがとうございます……それよりもあの、ここの支払いは……」
こんなにいろいろしてもらったとなると、きっと支払額は私の想像を遙かに超えているに違いない……
心配でソワソワしていると、スタッフに挨拶をした井筒さんに手を引かれ、そのまま出口に向かった。
「え、あの……」
「次は服装です。行きましょう」
戸惑っているうちに、スタッフの方々に見送られヘアサロンから連れ出される。
再び車に乗せられしばらくすると、今度は私でも名前を知っているような有名ブランドのショップに連れて来られた。
――なにかとても、いやな予感がする。
「井筒さん……まさかここで服を買うんですか……?」
車を降り、高級ブランドのショップに向かって歩き出した井筒さんに、恐る恐る声を掛けた。
「そうです。ここも神野の行きつけのショップですので、せっかくなら合わせましょう。このブランドはメンズだけではなくレディースも扱っていますし」
「で、でも、こんな高そうなところじゃなくても服は買えますよ!?」
「さ、段差がありますので足下に気をつけてくださいね」
私の言い分を華麗にスルーして、井筒さんは店内に入っていった。
中に入るなり、井筒さんは私に合う洋服を何着か見繕ってほしいとスタッフに声を掛ける。
すぐにワンピースやら、スーツやら、カジュアルなセットアップなどが目の前に並んでいく。さらには、二週間後に迫った神野さんの誕生日パーティー用にと、ドレスまでも持ってこさせた。
それらを試着させられている合間に、井筒さんとスタッフの間でバッグやアクセサリーなどが決められていく。一体総額いくらになるのか、私は怖くて考えることができなかった。
きっと私が直視できないくらいの金額になるに違いない。
店を出て車に戻る頃には、精神的にいっぱいいっぱいになっていた私。なにより、山のようなショッピングバッグを見て、恐怖で震えた。
こんなに大量の買い物、未だかつてしたことがない。しかも……ワンピース一着の値段が、私の一ヶ月の生活費よりも高いなんて! そんな服を何着も購入する井筒さんの正気を疑ってしまう。
――まさかこの買い物代、私の借金に上乗せになるのかな……? これ以上借金が増えたら、今後私、なにをやらされるか分かんないんですけどっ……!
私が真っ青になって買い物の山を見つめていると、それに気がついた井筒さんに「どうしました?」と声を掛けられた。
「あ、あの! ヘアサロンとこの買い物の支払いは、どうなっているんでしょう? まさか、私の借金に……」
すると、井筒さんは呆れたように大きなため息をついた。
「あなたがお金を持っていないことなど百も承知。これは必要経費です」
「必要経費? でも、ただでさえお世話になっているのに、これ以上……」
そうだ、なにもこんなに高い店じゃなくてもちゃんとした服は買える。それなら、私も給料で買うことができるのに。
渋い顔をしていると、すぐに井筒さんの声が飛んでくる。
「これは投資です。あなたが神野の婚約者役を引き受けてくださったことで、神野は結婚相手を探すために費やすはずだった時間を全て仕事に充てることができる。それに女性と知り合い、関係を構築していくためにはそれなりにお金もかかります。それを考えたら、あなたに費やす金額など大した額ではありません」
――そんなものなのだろうか……
なんか、上手く丸め込まれたような気がしてならない。
それに……ここまでお金をかけさせたあげく、神野さんから「イメージじゃない」とか言われたらどうしたらいいんだか……
新たな不安を抱きつつ、私を乗せた車は神野邸に向かって走り出したのだった。
神野邸に到着し、先にリビングへ入った私は、程なく大量の食料品を持って現れた井筒さんに驚く。
どうやら私がヘアサロンにいる間に買い込んできたものらしい。
見ると、味噌や醤油などといった主な調味料類に、お米。それから、お肉や野菜に果物まである。さらに、キッチンスツールなども一式あった。
「どうしたんですか、こんなにたくさん」
「今朝、あなたは冷蔵庫の中を見てがっかりしていたようなので。神野から食料を入れておけと指示がありました。外食でもいいし、あるものを好きに調理して食べていただいても構いません」
「あ、ありがとうございます……!」
この配慮は正直、とても嬉しい。
「これ以外になにか必要なものがありましたら生活費をお渡ししますので、ご自分で買い出しに行ってください。それと契約期間中はこのスマートフォンをお持ちください。私や神野の連絡先を入れてあります」
井筒さんが私に封筒と真新しいスマートフォンを差し出す。おずおずとそれを受け取り封筒の中身を見ると、数枚のお札が入っていた。だけど明らかに多い。
「あの、お給料をいただけるのなら、その中で生活費を工面するので、別にいただかなくても大丈夫です」
「いえ、生活費は給料とは別に支給しろと、これも神野の指示です」
私は訳が分からず眉根を寄せる。
「……なんで、そこまでよくしてくださるんですか?」
「私には分かりかねます。神野が帰宅したら聞いてみたらどうですか」
そう言って、井筒さんは微かに微笑んだ。なんだかまた答えをはぐらかされたみたいで、私は黙り込む。彼はそんな私に構わず、全ての荷物をキッチンに運び込んだ。
時刻はもう午後一時過ぎ。井筒さんは午後から出社するということで、この家の留守を私が一人で預かることになった。
その時間を勉強に充ててください、と、マナーの本を数冊手渡される。
「特に大事だと思われるページには付箋を貼っておきました。後日マナー講師を呼んで、立ち居振る舞いなど、チェックしていただきます。それまでに基本の内容を頭に叩き込んでおいてください」
「分かりました……それはそうと、知り合ったばかりの私に留守番なんかさせていいんですか?」
つい、気になったことを聞いてしまった。
――だって、さすがに不用心なんじゃない……?
「あなたのことは全て調べた上で、問題ないと判断いたしました。万が一契約を反故にしてこの家から逃げたとしても、我々はあなたを地の果てまで追いかけることが可能です。賢いあなたなら、どうするのが一番かよくお分かりでしょう」
そりゃそうだ。これだけの財力のある人たちから、逃げられるなんて思えない。
「……逃げませんよ。ただ、意外と信用してくれているんだと思って、驚いただけです」
ちょっとだけムッとした私を見て、井筒さんは「それはよかった」と、鼻で笑った。
そういうところ、神野さんとそっくり。秘書ともなると、やはり似てくるものなのか。
玄関まで井筒さんを見送ったあと、私は買ってもらった服やバッグをクローゼットにしまった。
アパートから持ってきた安物の服の隣に高級な服が並んでいるのを見て、夢と現実が同居しているような変な気持ちになる。そしてあらかた荷物を片づけ終えた私は、最後にパーティー用のドレスを手に取り、うーんと悩む。
このドレス、デコルテ部分が総レースになっていて、私が持っている下着では肩紐がばっちり見えてしまう。今日は井筒さんがいたから言えなかったけど、このドレスに合わせた下着を買ってこなければ。
そんなことを考えながらダイニングに戻り、私は井筒さんに言われたマナーの勉強を始める。最初のページから読み進めていき、途中で付箋が貼られたページに辿り着く。
最初の付箋は、食事のマナーについて書かれたページに貼られていた。
――あー、マナーが必要な料理なんて食べたことないからなあ……確かに大事かも。
婚約者がマナーも知らないなんてことになったら、恥ずかしい思いをするのは神野さんだもんね。契約した以上、しっかり頭に叩き込まなきゃ。
私はテーブルマナーのページを熟読し、なおかつ実際にカトラリーをテーブルに並べて実践してみた。最初はおぼつかなかったものの、何度も繰り返していくうちに、なんとなく形になってくる。
夢中になってやっていたこともあって、時計を見るとすでに数時間が経過していた。
――さすがに喉が渇いたな……なにか飲もう。
私は硬くなった身体をほぐしつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注いだ。水を飲みながら、何気なくキッチンを見回す。おしゃれなダークブラウンの落ち着いた色合いで、機能も充実した立派なキッチンだ。だけど神野さんも井筒さんもほとんど料理をしないとあって、圧倒的にものが少ない。まるでショールームのようだ。
調理器具は少しあるけど、キッチン家電は冷蔵庫とオーブンレンジのみ。それに、せっかくお米を買ってもらったのに、この家には炊飯ジャーがなかった。お米は鍋で炊くしかないか。
そんなことをぼんやり考える。
こうやって先のことを考える余裕が出てきたのはいいことだ。
昨晩からの急展開に、まだ頭が付いていかないこともあるけど、想像していたよりも状況は悪くない……というより、ずっとよかった。
神野さんは、私のことをいろいろ考えてくれているようだ。つい、そこまで悪い人ではないのかな? と、彼に対する印象がちょっとだけ良くなる。
――ちょっとだけ、ほんっとーにちょっとだけだけどね!
今朝の暴挙を簡単に許しそうになっている自分に、慌てて首を振った。
その時、何気なく窓へ視線を向けると、眩しいくらいの真っ青な空が見える。
――いい天気……これなら洗濯物がよく乾きそう……って洗濯物……?
ここでふとある疑問が頭に浮かんだ。
そういえば洗濯ってどうすればいいんだろう? ずっと溜めとくわけにもいかないし、時間がある時に洗っておきたい。それに、神野さんたちに下着を見られるのはさすがに嫌だから、できれば二人がいない間に。
私はおもむろに、洗濯機を探して広い神野邸を歩き回る。二階のバスルームには無かった。だけど、一階のバスルームにもそれらしきものはない。
「この家には洗濯機がないのか……!!」
一通り家の中を探し回ったあと、ダイニングに戻ってきた私は途方に暮れる。
0
お気に入りに追加
69
あなたにおすすめの小説

お飾りな妻は何を思う
湖月もか
恋愛
リーリアには二歳歳上の婚約者がいる。
彼は突然父が連れてきた少年で、幼い頃から美しい人だったが歳を重ねるにつれてより美しさが際立つ顔つきに。
次第に婚約者へ惹かれていくリーリア。しかし彼にとっては世間体のための結婚だった。
そんなお飾り妻リーリアとその夫の話。


アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。


【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

【完結済】後悔していると言われても、ねぇ。私はもう……。
木嶋うめ香
恋愛
五歳で婚約したシオン殿下は、ある日先触れもなしに我が家にやってきました。
「君と婚約を解消したい、私はスィートピーを愛してるんだ」
シオン殿下は、私の妹スィートピーを隣に座らせ、馬鹿なことを言い始めたのです。
妹はとても愛らしいですから、殿下が思っても仕方がありません。
でも、それなら側妃でいいのではありませんか?
どうしても私と婚約解消したいのですか、本当に後悔はございませんか?
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。