好きだと言って、ご主人様

加地アヤメ

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1巻

1-2

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「それは……その、大変ですね。……あれ、でも神野さん今二十九歳っておっしゃってましたよね? 三十まで、もう時間がないのでは……」

 神野氏がまっすぐ私を見て頷いた。

「その通りだ。親の決めた女性との結婚を回避するためには、なんとしても二週間後の誕生日までに結婚相手を見つけなければならない」
「に、二週間後!?」
「そうだ」

 窓の外に視線を向け、神野氏は片手で頭を押さえる。そんな彼を見ながら、私は首をかしげた。

「あの、こんなに大きな会社だったら、社内にも結婚相手として相応ふさわしい素敵な女性がたくさんいると思うのですが……」

 しかもこんなイケメンなら、みんな喜んで結婚相手として立候補するんじゃないかな? なんて思ってしまう。
 しかし神野氏は、ため息をついて小さくかぶりを振った。

「俺は自社の社員とは恋愛しないことにしている。なにかあった時面倒だからな。しかし、ここにきて、そうも言っていられなくなった。こうなったら信頼できる人間に協力してもらおうかと考え始めていたところだったんだが……」

 そう言って神野氏が私をじっと見つめてくる。その瞬間、ふと頭に浮かんだ可能性に、私は顔を引きらせた。

「ま、まさか……」
「君に、俺の婚約者の振りをしてもらいたい。設定として、俺たちはすでに同棲していて、他人の入り込む余地はないとする」

 言い終えると、神野氏はニヤッと不敵に笑う。

「無理です!!」

 即座に断ると、神野氏は不機嫌そうに眉根を寄せた。

「なぜだ。さっきは喜んで条件を呑むと言っただろう?」
「だ、だって、まさか仕事が婚約者の振りをすることだなんて思ってもみませんでしたから! なんでこんな、会ったばかりの私に、そんな重要なこと……」
「家族がおらず一人暮らし、会社が倒産して現在求職中。君の話を聞いていてピンときた。今の君なら、金のためと割り切ってこの仕事を引き受けるのではないかと。それに……」
「それに……?」

 神野氏は私を見てフッ、と鼻で笑う。

「君の顔が俺の好みだった」
「は……か、顔?」

 こんなイケメンに「顔が好みだ」なんて言われたら、普通なら照れて顔を赤らめるところだろう。だけど、今の私にそんな余裕は無かった。
 小刻みに震える両手をギュッと握り、小さくかぶりを振った。

「そんなこと言われても……む、無理です。たとえ振りだとしても、婚約者だなんて……」
「では、この壺の弁済免除の話は無かったことになるが……もちろん君の上司にも、このことはしっかり報告させていただく」

 目に見えないタライが、私の頭の上にガンッ、と落ちてきた気がした。
 そうだった……! 
 彼に対して負い目のある私は、神野氏を見つめたままなにも言えなくなってしまう。
 困り果てた私をちらりと見たあと、彼は姿勢を変えてソファーに浅く腰掛ける。

「……なにも本当に結婚するわけじゃない。あくまでも契約として婚約者の振りをしてもらうだけだ。君の状況を考えたら……決して悪い話ではあるまい。どうだろう、ここは俺と手を組まないか?」
「手を、組む……?」

 途方に暮れた顔で神野氏を見上げると、力強く頷かれた。

「そうだ。互いに協力してそれぞれの問題を解決するんだ。さしあたって俺は、君に住むところと充分な給料を提供しよう。壺の弁済も無しだ。その分君は、俺の婚約者として振る舞い、母の決めた望まぬ相手との結婚を回避させてくれ」

 そう言われて、私はもう一度冷静になって考えてみる。確かに、彼の提案は私にとってこれ以上ない好条件。この話を断った時のリスクを考えれば、おのずと選ぶ道は決まってくる。
 だって、断ればミスを上司に報告されて、バイトはクビ。しかも、五百万の借金つきだ。そうなれば、当然家賃は払えなくなり路頭に迷うしかない。その状況で求職活動と借金返済なんて、どう考えたって無理だ! 
 問題は、自分に大企業の御曹司である彼の婚約者が、たとえ振りでもできるのか、ということ。
 まったくもって自信はない。
 だけど、今の私には、この条件を呑む以外の道は残されていなかった。
 私はちらり、と神野氏を見る。彼は涼しい顔で私の返事を待っている。
 ――生きていくためには、割り切るしかない……
 そうだ、割り切れ、私! 今は現状脱却のために彼の話を受けるしかない! 
 覚悟を決めた私は、改めて神野氏を見つめて、しっかりと頷いた。

「わ、分かりました。私でいいのなら……そのお話、引き受けます」

 私の返事を聞いた神野氏の口の端が、クッと上がった。

「よし。交渉成立だ。筧さん……君、下の名前は」

 神野氏が立ち上がり、私の方へ歩いてくる。

「沙彩、です」
「では……沙彩。以後よろしく」

 目の前で足を止めた神野氏が、私に向かって手を差し伸べた。大きくて、指が長く骨ばっている大人の男の手。
 本当にこの手を取っていいものかと、一瞬、躊躇ちゅうちょした。だけど。
 ――これは、契約だ! そう、お仕事なのだ! 
 そう自分を納得させて、私は目の前の男の手にゆっくりと自分の手を重ねたのだった。



   第二章 私はなにをすればいいのでしょう、ご主人様


 バイトを終えた私は高級外車に乗せられ、現在自分のアパートに向かっている。なぜこんなことになっているのかというと――

『ビルの出入り口に車を回しておく。今日中に荷物をまとめてうちに来い』
『は!? 今日中、ですか!?』

 握手を交わして契約を結んだ私に、大企業の御曹司らしく神野征一郎氏が当然のように命じてきた。

『口約束とはいえ契約した以上、君には今すぐ俺の婚約者として必要な知識を身につけてもらう必要がある』
『はあ……』

 私が渋々頷くと、神野氏――改め神野さんは胸ポケットからスマホを取り出し、誰かに電話をかけた。

『俺だ。今すぐ常務室に来るように』

 そうしてやって来たのが、今この車を運転している井筒いづつさんという男性。彼は、神野さんの秘書なのだそうだ。今回の婚約者の振りをする件も、神野さんが説明をしていた。
 長身の神野さんとあまり変わらない身長に、少しキツめの顔立ち。そこにメタルフレームの眼鏡なんてかけているから、威圧感が半端ない。
 私のアパートまで彼と二人で行くことになったのだけど、この人、車が走り出してから一言もしゃべらないのだ。
 時刻は夜の十時過ぎ。もしかしたら、こんな遅くに時間外労働をさせられて怒っているんだろうか。
 後部座席で一人ビクビク考えをめぐらせていると、不意に「筧さん」と声を掛けられた。

「はっ、はい!」

 慌てて運転席の井筒さんに視線を向ける。

「あなたは神野征一郎という人間を、どこまでご存じですか」
「……恥ずかしながら、まったく知りません……」

 自分がバイトをしているビルの経営一族のことくらい、知っておくべきだった。いや、でもこんな状況になるなんて誰が予想できただろう……

「では、簡単にご説明いたします。神野征一郎、二十九歳。兄妹はいません。現在は、神野ホールディングスの常務取締役執行役員であり、将来は神野グループのトップに立つことが約束されています。見ての通り、大変見目がよいので『経済界のプリンス』と言われ、なにかと注目を浴びることも多いのです」
「プリンス……そ、そんな方の婚約者役が、私みたいに貧乏で、なんの取りもない人間に務まるのでしょうか……」

 改めて、自分はとんでもないことを引き受けてしまったのではないか、という気がしてならない。今更だけど。

「務まるかどうかではなく、やっていただかないと困ります。やるとなったら徹底的に、というのが神野の流儀。周囲にニセモノだとバレないように、完璧な婚約者を演じるのがあなたの役目です」

 井筒さんにそう言われて、私は神野さんの言葉を思い出し青ざめた。
 ――そうだよね……ただ婚約者の振りをするだけで、あんな破格の条件出したりしないよね……一体私はなにをやらされるのだろう……? 
 考え始めたらどんどん不安になってきた。あの条件に見合った要求って、私にどうにかできることなのだろうか。

「あなたには努力していただきますが、もちろんこちらでもフォローいたします。そんなに不安そうな顔をせずとも大丈夫です」

 そんなに顔に出ていたのかと、恥ずかしくなるが、井筒さんの言葉にちょっとほっとした。

「あ、ありがとうございます……よろしくお願いします」

 後部座席で頭を下げる私に向かって、井筒さんはそれよりも、と別の話をし始める。

「先程、清掃会社に登録してあるあなたの個人情報を拝見いたしました」
「はやっ」
「ご両親は他界され、ご兄妹はいらっしゃらない。親類縁者など親しい付き合いのある方はいらっしゃいますか」

 両親が若い頃は、それなりに付き合いがあったらしい。だけど、父が友人の借金の連帯保証人になったことで、様々なことが変わってしまった。その友人が、負債を残したまま夜逃げしてしまい、父がその借金を背負うことになったのだ。それを知った親類は、皆、あっさり離れて行ってしまった。

「子供の頃に会って以来、疎遠になっています。今はまったく付き合いはありません」
「結構。ではおおやけの場でもし出自を尋ねられたら、井筒の遠縁、とおっしゃってください」
「……いいんですか? そんなこと言ってしまって」
「井筒家は代々神野家に仕えてきた一族です。今日こんにちの井筒家があるのは神野家のお陰。ゆえに井筒家の人間は神野のためなら全力で偽装に協力します。ご安心ください」
「わ、分かりました」

 全力で偽装に協力するなんて、どんな一族なんだ……いや、違う。なんだかどんどん話の規模が大きくなっている気がするんだけど、本当に大丈夫なんだろうか。
 やっぱり私、判断を誤ってしまった気がして仕方ない。
 そうこうしているうちに、井筒さんの運転する車が、私のアパートの前に横付けされた。

「こちらですか?」

 井筒さんがいぶかしげにアパートを見つめる。どうせボロいアパートだとか思われているのだろう。

「はい。じゃあ、行ってきます」

 私は車を降り、アパートの自室に向かおうとする。

「五分」

 車のドアを閉めようとした時、井筒さんが私を見てそう言った。なんのことか分からず、私は思わず聞き返す。

「はい? 五分?」
「貴重品と必要最低限の荷物だけお持ちください。時間は五分もあれば充分でしょう。では、行ってらっしゃいませ」
「え、ちょっと、五分は短すぎじゃ……」

 井筒さんは慌てる私から視線を外し、腕時計を見る。

「三十秒経過」
「……っ、い、行ってきますっ……!」

 だめだ。この人、融通ゆうずうがきかなーい! 
 車のドアを閉めた私は、猛ダッシュで自分の部屋に荷物を取りに行った。
 ――五分後――
 持っている中で一番大きいボストンバッグに必要最低限の荷物を詰めて、私は井筒さんの待つ車へ戻った。

「時間ぴったりですね」
「あなたがそうしろって言ったからじゃないですか……!」

 ぜえぜえと息を乱しながら、表情を変えない運転席の井筒さんに食ってかかった。さすがに五分は厳しかったが、元々荷物が少ないので、意外と間に合ってしまったのがちょっと悔しい。
 後部座席に乗り込んだ私を確認して、井筒さんは車を発進させる。

「言い忘れましたが、清掃会社のアルバイトは本日付でお辞めください。それと、このアパートも解約してください。よろしければこちらで手続きをいたしますが、どうなさいますか?」
「えっ!? ど、どうしてですか!? バイトはともかく、アパートを解約したら、帰るところが無くなってしまいます」

 焦って後部座席から身を乗り出す私を一瞥いちべつし、井筒さんは再び視線を前に戻した。

「神野からちらっと聞きましたが、あなたは今月の家賃が払えない程困窮こんきゅうしているそうですね」
「うっ……」

 痛いところを突かれ、私は身を縮める。

「それに今見たところ、あのアパートは防犯対策がなにもされていないし、周辺の治安もよくありません。とても、二十歳の独身女性が一人暮らしをするのに適した環境とはいえない。部屋を借りる時、仲介業者からそういった説明はありませんでしたか」

 ややとがめるような口調で尋ねられ、私は戸惑いつつ口を開いた。

「い、いえ……条件を伝えたら、提示された物件があのアパートだったんです」
「足元を見られましたね。家賃も適正価格か怪しいものです。とりあえず、家具や家電は後程業者に運ばせるとして、解約してもよろしいですね?」
「はい……」

 静かながら反論を許さない言葉に、私は頷くことしかできなかった。
 あれよあれよと決められていく状況に頭が追い付いていかない。

「え、えと……井筒さん。このこと、神野さんは承知してるんですか?」
「もちろん。全て神野の指示です」

 この仕事を引き受けたのは私だけど、本当にこのまま神野さんの言う通りにして大丈夫なんだろうか。やっぱり、いきなり同居するのはマズいような気がしてきた。
 どうしよう、私、目先の利益につられて早まったかもしれない。
 全身からサーッと血の気が引いて、背中を嫌な汗が伝う。
 今ならまだ間に合うかも、と私は運転席にいる井筒さんに声を掛けた。

「あ、あの……井筒さん、私やっぱり……」
「そろそろ神野邸に到着いたします」

 同居は考え直してほしい、という私の言葉は、同じタイミングで言葉を発した井筒さんによってあっけなくさえぎられてしまう。
 諦めの境地で前を向くと、白い門扉もんぴが私の視界に入った。
 井筒さんが車の速度を落としながらなにか操作をすると、門扉もんぴがゆっくりと開き始める。

「ここが神野邸です」

 門扉もんぴを通り抜けた車は敷地内を進み、目の前に白亜はくあの邸宅が迫ってきた。
 ……でかい。とにかくでかい。昔、両親と一緒に住んでいた建坪三十坪くらいの家が、優に三個は入りそうな広さがある。
 呆気にとられたまま豪邸を眺めていたら、車が邸宅の玄関前に横付けされた。

「車を置いてきますので、ここでお待ちいただけますか」

 井筒さんに言われるまま、車を降りる。玄関には『JINNO』と記された表札がかかげられていた。間違いなく神野さんの家なんだ、ここ。
 すぐに戻って来た井筒さんのあとに続き、私はこれから住むことになる神野邸に足を踏み入れた。

「……す、ごい」

 玄関を入って目に飛び込んできたのは、大きな吹き抜けと天井からぶら下がるシャンデリア。こんな風景はテレビや漫画の中でしかお目にかかったことがない。

「靴はシューズクローゼットの空いているスペースを使用してください」
「しゅ、しゅーずくろーぜっと……? あの、靴は今履いているスニーカーと冠婚葬祭用の黒いパンプスしか持っていないんですが……」
「……では、中をご案内します」

 華麗にスルーされてしまった。
 私はため息をついて、脱いだ靴をシューズクローゼットに仕舞うと、井筒さんのあとに続いた。

「広い家ですね……ここには何人くらいの方が住んでいらっしゃるんですか?」
「住んでいるのは神野と私だけです」
「えっ、二人だけ!? も、もったいない……」

 なんという贅沢ぜいたくな! 

「元々は神野のご両親も一緒に住まれていたのですが、温泉付きの別荘に引っ越されましたので。さ、こちらがキッチン・ダイニング・リビングになります。基本的に食事などはこちらでしていただくことになります」

 井筒さんがリビングのドアを開ける。そこには、神野さんの姿があった。
 リビングの中央に置かれた黒のレザーソファーから立ち上がった彼は、帰ったばかりなのかジャケットを脱いだだけのスーツ姿だ。

「あの、今日からお世話になります。よろしくお願いいたします」

 とりあえず、とばかりに私は神野さんに深々と頭を下げる。

「ああ。ところで、荷物はそれで全部か」

 頭を上げた私に、神野さんは怪訝けげんそうに問い掛けてきた。家具や家電は後程運んでもらうにしても、ボストンバッグ一つ、という荷物の少なさに驚いたようだった。

「はい。一人暮らしを始めた時に大分処分したので」
「服や化粧品を買ったりはしないのか?」
「あまり買いません」

 私の返答に、神野さんは腕を組んで眉根を寄せる。

「物を買わないのに貯金がないって、一体なにに使ったんだ?」
「お墓です」

 その答えはさすがに神野さんも予想していなかったようで、私を見たまま目を見開いた。

「墓?」
「はい……うちには両親を入れるお墓が無くて。気分的なものですが、やっぱり命日やお彼岸ひがんとかにはお墓参りして手を合わせたいと思ったので」

 神野さんも井筒さんも、黙って私の話を聞いてくれている。話し終えた私に、まず井筒さんが口を開いた。

「昨今は若い人の墓離れが問題視されていますが、あなたのような考えを持った方がいるとは。私はご立派だと思いますよ」

 ウンウンと井筒さんに肯定してもらって、ちょっとだけ嬉しかった。しかし神野さんの考えは違ったようだ。彼はソファーに腰掛け、呆れたようにため息をつく。

「購入はもう少し考えるべきだったな。結果的に生活が苦しくなっては本末転倒だ」

 彼の言うことはもっともだ。だけど、この状況は私だって想定外だったのだ。まさか勤め先が倒産するなんて思ってもみなかったのだから。
 私が黙り込んでいると、神野さんがソファーからおもむろに立ち上がる。

「説明することは山程あるが、ひとまず今日は休んでいい。仕事の詳細は明日の朝、改めて話す」
「分かりました……で、私はどこで休めばいいのでしょうか……?」

 すると神野さんと井筒さんが顔を見合わせた。その後、神野さんがニヤリと笑って私を見る。

「仮とは言え俺の婚約者だ。君さえよければ俺のベッドで一緒に寝てもらって構わないが?」

 色気を感じる切れ長の目にドキッと鼓動が跳ねた。これまでの人生で恋愛経験が皆無の私は、どう返事をしていいのか分からない。

「そっ……それはちょっと……できれば、ご遠慮申し上げたいのですが……」

 しどろもどろになって断ると、神野さんがフン、と鼻で笑う。

「俺の誘いを断るとは失礼な奴だな」

 私に冷たい視線を送った神野さんは、井筒さんになにか目くばせをしてリビングから出て行った。
 神野氏は、ただそこにいるだけで妙な存在感がある。大企業の御曹司ゆえなのか、一般人とは違うなにかオーラのようなものが出ている気がした。
 それもあり、彼がリビングからいなくなったことで緊張の糸がゆるみ、私の肩から一気に力が抜けた。

「では筧さん、客間にご案内します。この家にいる間はそこを自分の部屋として使ってください」
「わ、分かりました」

 よかった、自分の部屋をもらえるんだ。それを知って私は心から安堵する。
 そうして私は、井筒さんに客間だという十畳はありそうな部屋に案内された。部屋の中にはセミダブルのベッドにクローゼット、立派なドレッサーまで備わっていた。はっきり言って、住んでいたアパートより広いし、私の部屋になかったものが揃っている。

「凄く素敵な部屋ですね……!」
「バスルームですが、この家にはバスルームが一階と二階に一つずつあります。そちらはいつ使っていただいても構いませんので。他になにかありましたら、私の部屋は一階のリビングの隣ですので、いつでも声を掛けてください」
「分かりました。あの、井筒さん、今日はいろいろとありがとうございました。これからよろしくお願いいたします」

 忘れないうちにと、私は井筒さんに勢いよく頭を下げた。
 井筒さんは、小さく息を吐いたあと「本日はお疲れさまでした。今夜はゆっくりお休みください」と言って部屋を出て行く。
 井筒さんの足音が聞こえなくなり、気が抜けた私はふらふらとベッドに倒れ込んだ。

「なんて一日だ……」

 勤めていた工場が倒産して、バイト先で大きなミスをやらかした。そのせいで普段なら決して関わることのない御曹司に婚約者の振りを頼まれて、こんな豪邸に住むことになるなんて。
 ――お父さん、お母さん。私はとんでもない人たちと縁を結んでしまったようです……
 横になると、どっと疲れが押し寄せてくる。同時に眠気にも襲われて、私は着替えもせず、ベッドの上で眠ってしまった。


 翌朝。私はふかふかの布団に違和感を覚えてハッと目を覚ました。そして視界に飛び込んできたのは、いつもの茶色い木の天井ではなく、綺麗なシャンデリアがぶら下がった白い天井だった。

「……あ、そうだった……」

 思い出した。壺の弁償を免除してもらう代わりに、住み込みで神野さんの婚約者の振りをすることになったんだ。
 時計を見たら、朝の五時前。昨夜は眠気が我慢できなくて、ベッドに倒れ込んだまま眠ってしまったらしい。
 動き出すにはまだ早いけど、さすがにシャワーを浴びてすっきりしたい。そう思った私は、昨夜井筒さんが言っていたことを思い出し、二階のバスルームを借りることにした。
 着替えを持ってそーっと部屋を出る。時間も早いし、神野さんたちはまだぐっすり寝ているだろう。物音一つしない廊下を歩き、バスルームと書かれたドアを発見。なるべく音を立てないよう慎重にドアを開け中に入る。そして私は、感動で目を見張った。

「おおお……」

 シャワーブースは透明なガラスで周囲を仕切られていて、その向こうにあるバスタブは大人二人が余裕でかれるくらい大きい。これまで私が使っていた、膝を抱えて入るのが精一杯のバスタブとは大違いだ。
 ――す、すっごおおい。さすがお金持ち……!! 
 立派なバスルームに興奮しながら服を脱ぎ、ガラス張りのシャワーブースに入った。……っていうか、シャワーブースなんて生まれて初めてだ。
 中には、高級そうなボディソープや、シャンプー、リンスなんかも揃っている。ありがたく使わせてもらって、髪と体を洗った。泡を落としながら、温かいシャワーを浴びる。
 ――はー……
 ぼんやりとお湯に打たれながら至福の時を過ごしていると、背後でカタンと音がした。

「ん? なに……」

 音に反応して何気なく振り返ると、浴室の壁に手をつきこちらを見ている神野さんがいた。

「えっ、え……キャ――――ッ!!」

 私の悲鳴が浴室内に反響する。
 なんでこんなところに神野さんが? っていうか、私今、裸……! 
 耳をつんざく大声に神野さんは、うるさそうに顔をしかめた。

「朝っぱらから、うるさいぞ」
「なっ、うるさいじゃないですよっ!! なんで中に入って来てるんですか! 出ていってくださいっ!!」

 私は慌てて彼に背を向け、胸を両手で隠す。それなのに神野さんは、全然出て行こうとしない。それどころか私の体をじろじろと眺めてくる。

「昨日倒れたお前を受け止めた時も思ったが、ちょっと細すぎやしないか。ちゃんと三食べてるのか?」
「ちゃんと食べてますっ! って、そんなことはいいから、早く出ていってくださいっ!」

 全身に神野さんの視線を感じて、あまりの羞恥しゅうちに体が熱くなっていく。きっと顔は真っ赤になっていることだろう。

「俺としてはもう少し腰の辺りに肉がある方が好みだが……でも意外と胸と尻にはいい感じに肉がついていて、悪くない」
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