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1巻
1-2
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廊下を足早に進んでいると、後方から聞き覚えのある声に話しかけられて、肩が跳ねた。
「こんにちは」
すぐに誰なのか分かった。けれど、何故か金縛りにあったように体が固まってしまい、後ろを振り向けない。
「お久しぶりですね、花乃さん。あれから貴女のことを忘れた日は一日もありませんでしたが……貴女は?」
支倉さんが私に問いかける。
まさかこんなところで会っちゃうなんて……!! どうしよう……
ちゃんと断ると決意してきたものの、いざ彼を前にすると戸惑ってしまう。
だが、このまま逃げ出すわけにもいかないので、私はおそるおそる背後を振り返った。すると、法衣に身を包んだ支倉さんが私に向かってニコリと微笑む。
その綺麗な笑みに怯みつつも、私は意を決して口を開いた。
「お、お久しぶりです……あの、支倉さん、私……貴方にお話が……」
「お手洗いを、お探しですか?」
あ、そうだった。うう……せっかく勇気を振り絞って話を振ったのに……
出鼻をくじかれた形になってしまいガックリするが、当初の目的を思い出した。今は彼とゆっくり話をしている場合ではない。
「ええ、ちょっと、髪を直しに行こうと思って……」
「ああ、それでしたら私が直して差し上げますよ」
私の返事を聞いた支倉さんが、すっと後ろに回り込んだ。
「え、いいです。自分でやりますから」
「もうすぐ法要が始まります。結い直すより、ピンで留めたほうが早いですよ」
そう言うと、彼の指が慣れた手つきで私の髪に触れた。
うっ……なにこれ!! 心臓の跳ねっぷりがヤバイんですけどっ……! いや、動揺してる場合じゃない。今言わないと、もうチャンスは無いかも……!
私は覚悟を決めて、再び切り出した。
「あの、支倉さん、先日のお話なんですけど……」
「……貴女が言いたいことは、おおよそ見当がつきます」
静かに支倉さんが口を開いた。
支倉さんは私の髪からピンを抜くと、指で整えた髪に再びピンを挿す。
「差詰め、『先日のお話は無かったことに……』といったところでしょうか」
「え」
「申し訳ありませんが、その言葉は受け入れられませんね」
そう言って、彼の指が優しく私の髪を梳いてくる。くすぐったくて、こそばゆくて、何故か体が熱くなった。
「……どうしてですか」
動揺しつつも、私は必死で平静を装い彼に尋ねる。すると彼の気配がより近づき、私の耳のすぐ横で甘い低音が響いた。
「私は貴女と結婚したいので」
みっ、耳に息がかかった……!! わざとだ、絶対わざとやってるこの人……!!
彼の息がかかった耳に咄嗟に手を当て、私はなんとか声を出す。
「で、ですから! 急にそんなことを言われても困ります」
「それではせめて、私のことを知ってから判断していただけませんか?」
支倉さんの手が、髪から私の肩にするりと移動した。
「私を知っていただく機会なら、幾らでも作りますよ」
彼の手が触れている肩が、意思を持ったように熱を持つ。気持ちとは真逆の反応をする自分に動揺し、居たたまれなくなって思わずギュッと目を瞑った。
背後にいる彼のことを意識して、さっきから胸のドキドキが止まらない。
もう、この状況無理……!!
思いきって振り返ると、優しく微笑む支倉さんと視線がぶつかった。
「……もうすぐ法要が始まります。控え室にお戻りください」
そう言い残して、支倉さんは衣擦れの音と共に去っていった。
ド、ドキドキし過ぎて心臓が破裂するかと思った……
胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
あの人を相手にするとどうも調子が狂う……言いたいことが全然言えなかった。
うるさい心臓をなんとか落ち着かせて控え室に戻ると、私の顔を見た佑に「なんで顔真っ赤なの?」と不思議そうに言われた。
うう……お祖母ちゃんごめんね。ほとんど読経が頭に入らなかったよ……
あの後、すぐに三回忌の法要が始まったんだけど、読経の際、住職の加藤さんだけでなく、支倉さんまで現れたから、私は静かにお経を聞くどころじゃなくなってしまった。
支倉さんはもう一人のお弟子さんと中央を向いているので目が合うことはなかったんだけど……私は顔を上げることができなかった。
読経の後、お墓参りと卒塔婆の供養を行い、私達は会食にあたる、お斎のためにお寺の中の広間へ移動した。集まった三十人程の親族が、それぞれ用意された席に着く。最後に読経をあげてくれた住職の加藤さんが祭壇側の上座に着席する。
私は周囲を見回し、支倉さんがこの場にいないことに心底ほっとした。
会食が始まってしばらく経つと、私の両親と叔父が住職と和気藹々と談笑しているのが目に入った。
はっ、よく見たら叔父さん、お酒入ってない?
うわー……叔父さんお酒入ると、要らんお喋りを始めるんだよな……
なんて思っていたら、叔父とばっちり目が合ってしまった。
「そういや花乃はまだ結婚しないのか」
ほらきた……お酒飲むといつもこれだよ……
「叔父さん。お酒飲む度にそれ聞くのやめてよ。こんな席で……」
ウンザリしながら、叔父を軽く睨みつける。だが、そんな苦情など気にもかけず、叔父は滔々と話し続けた。
「おばあちゃんの一周忌の時、付き合ってる相手がいるって言ってたじゃないか。その彼はどうした?」
ぐっ! ……あの時も相当お酒入ってたくせに、そういうことはちゃんと覚えてるのね……
「残念ながら、とっくに別れました……!」
「なんだ別れたのか。お前もうすぐ三十だろ~? 俺の会社の若いヤツ紹介してやろうか?」
「結構です」
私と叔父の会話にさりげなく耳を傾けていた父が、ここで口を開いた。
「花乃は結婚したくないのか?」
まさか父まで参戦してくるとは……
「そ、そういうわけじゃないけど、私は今の生活に満足してるから!」
「でもなあ……」
「ほんとに! 私のことより、佑のことを心配して」
「なんで俺!?」
矛先を弟に向けて、何とかその場をやり過ごす。
どうやら叔父さんは、会社に紹介したい若い子がいるみたいで、お酒が入ると毎回この流れになるのだ。本当に勘弁してもらいたい。
そんなこんなで、ぼちぼちお斎もお開きになりそうなので、私はすいているうちにと、トイレに立った。
――精進料理は美味しかったけど、いろいろあって疲れた。もう、早く帰りたい。
ハンカチで手を拭きながらトイレを出ると目の前に支倉さんがいて、驚きのあまり飛び退いた。彼は腕を組んで壁に凭れ、口元に笑みを浮かべている。
「っ!! なっ!?」
なんでここにっ!?
「本日はお勤め御苦労様でした」
驚きに目を丸くする私に構わず、支倉さんは壁から背を離すと丁寧に一礼した。彼は先ほどまでの礼装ではなく、略装に着替えている。
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
何とか平静を装って私も礼をすると、支倉さんは優しく微笑んだ。
「弟さんがいらっしゃるんですね。貴女とよく似ていらっしゃる」
「そうですか? 自分ではよく分からないんですけど」
「……この間の薄いブルーのワンピースも素敵でしたが、喪服もとてもお似合いですね。このまま私の部屋にさらってしまいたいくらいです」
「……は……?」
口元に不敵な笑みを浮かべた支倉さんがそんなことを言うもんだから、また顔に熱が集中してしまう。
「変なこと言うのやめてください。支倉さんは、いつもそんなことを檀家の女性に言っているんですか?」
「おや、心外ですね。私がこんなことを言ったのは貴女が初めてですよ」
支倉さんは本当に心外そうに少し肩を竦める。嘘ばっかり……
「それはどうでしょう。これまでも、女性とお付き合いされてきたでしょう?」
絶対この人経験豊富に違いない、と思って鎌をかけてみた。
「はい」
やっぱり。意外にあっさり認めたな。
「しかしながら、自分から望んでお付き合いした女性は一人もいません。これまでは全てあちらから来てくださったので」
なにそれ! 超モテモテじゃないの!!
思わずため息が零れてしまう。
「だったらなおさら……」
「なので、自分から女性にアピールするのは実は初めてなのです。正直、加減がよく分かりません。花乃さん。どうしたら私が本気だと分かってくださいますか?」
「…………」
そんなこと言われても分かんないし。
口をきゅっと真一文字に結んだまま、私は黙り込んだ。そんな私を支倉さんは少し困ったように覗き込んでくる。
「何も仰ってくれないのですか?」
「わ、分からないんですよ! 私だってこんな状況、初めてですから」
私の答えに対して、支倉さんは口元に手を当てて何やら考える仕草をした。そしてチラリと私に視線を向ける。
「貴女が許可してくれるなら」
「なんです?」
「抱き締めてもいいですか?」
――はっ!?
突拍子もない申し出に思わず目を丸くした。でもすぐ彼の要求を理解し体が熱くなってくる。
「……そんなのっ! 却下します!!」
私はぶんぶんと首を横に振りながら彼を睨みつけた。だけど支倉さんは表情を変えない。
「じゃあキスは?」
「あっ、ありえません!!」
間髪を容れず即答した。
私の返事にくっくっくっ、と肩を震わせて笑う支倉さん。
「金城鉄壁とはまさにこのこと。花乃さんを口説き落とすのは一筋縄ではいかなそうですね」
そう言いながらも、彼の態度からは余裕が感じられる。
私がいろいろ理由をつけて断っても、きっと支倉さんのペースに持っていかれるに違いない。そんな気がする……。やだ、逃げたい。もう帰ってもいいかな。
「すみません、私そろそろ戻ります」
支倉さんから目を逸らし、お斎の会場に戻ろうと踵を返したところで、いきなり腕を掴まれた。
「え! なにす……」
「事前に許しを請うと断られるので、いささか強引な手段に変更致します」
耳元で囁かれたと思ったら、あっという間に私の体は支倉さんの腕に包まれていた。
「っ!!」
――どっ、どうしよう! 私、抱き締められてる……!
この状況を自覚した瞬間、私の体は石のように固まってしまった。
「棚経の日、よろけた貴女を支えた時も思いましたが、細いですね」
そう囁きながら、彼の掌が私の背中を優しく撫でる。壊れ物を扱うような手つきについ身を任せそうになってしまった。しかし、今はそれどころではない。
「はっ……離してください!」
私は彼の腕から逃れようと身を捩る。
「貴女に、私の胸の音が伝わりますか?」
そう問うた後、彼は私の頭を自分の胸に優しく押しつけた。私は一瞬抵抗を忘れて支倉さんの胸元に耳を当てる。
…………あれ、結構ドキドキしてる?
思わず、支倉さんの顔を見上げたら、彼と視線がぶつかった。
「……本当に、なんて可愛らしい……」
「え」
「このまま、貴女を私のものにしてしまえたら……」
支倉さんが蕩けるような眼差しで私を見つめながら、絞り出すように呟いた。
そのとんでもない呟きに一瞬固まってしまった私は、すぐに我に返る。
「なっ、何言ってるんですか!! お、お坊さんがそんなこと言っていいんですか!?」
「僧侶だって人間です。少なくとも、うちの宗派で恋愛は禁忌ではありません。私の両親も恋愛結婚ですし」
しれっともっともらしく言われ、こっちは何も言い返せない。その隙に支倉さんはさらに私を包み込む腕に力を込めた。
――なんかこれ、ヤバくない? は、早く離れなければ……!!
「は、離してください!」
身の危険を感じ、腕に力を入れて支倉さんを押しやるも、支倉さんはびくともしない。
「花乃さん。私との結婚を真剣に考えてくださいませんか」
「もう、からかうのは止めてください」
こんな超イケメンで今まで女性に苦労したことなどなさそうな人に、平穏な私の日常を引っ掻き回されるのはご免蒙りたい。
「私は本気です」
「いっ、嫌です!!」
そう言った瞬間、私を抱く支倉さんの腕の力が緩む。
気がついたら、私は両手で支倉さんを強く突き飛ばしていた。
「……もうっ、二度と私の前に現れないでください」
驚いたように立ち尽くす支倉さんに、これ以上ないくらいはっきり告げる。
そのまま私は踵を返し、振り返ることなくお斎会場に戻った。そして、引ったくるように自分のバッグを手にする。
「私、歩いて帰るからっ」
突然戻ってきた私の剣幕に驚き、キョトンとしている家族へそう宣言し、私は逃げるようにお寺を後にしたのだった。
三 花乃、譲歩する
――はあ……
もうすぐ鬼のように忙しいランチタイムが始まる。呑気にため息なんかついている場合ではないと分かっているのだが、どうもここ最近、私の気分は下降する一方だ。
「葛原さん……最近ため息が多いけど、何か悩みごとでもあるの?」
そんな私を近くにいる店長が心配してくれる。
「……店長……人間誰しも失敗することってありますよね……」
私は遠くを見つめながら、店長に同意を求めた。
いきなりそんなことを言われた店長は、ちょっと困惑した顔をしている。
「そりゃあ、ねぇ。……もしかして葛原さん何か失敗でもしたの?」
「……まあ、ちょっと……」
コーヒーカップを拭きながら、また一つため息を落とす。
あれから一週間が過ぎた。
支倉さんに突然抱き締められ再び求婚された私は、動揺した勢いでかなり酷いことを言ってしまった。
でも時間と共に、少しずつ冷静さが戻ってくると、さすがにあれは言い過ぎたかもしれないと自己嫌悪に陥る。
支倉さんにも、確かに行きすぎたところがあったと思う。それでも、あんな風に頭から拒絶しなくてもよかったのではないか……
そう思うとキリキリと胃が痛んでくる。
……いやいや、別に好きでもない人にどう思われたっていいじゃない。何度もそう思うようにしても、やっぱりどこか気分が晴れないのだ。
あんな捨て台詞、言わなきゃよかった……
「葛原さん……本当に大丈夫?」
店長がまた私を見て心配そうに呟いた。
「すみません……もうすぐ上がりなんで、今日はさっさと帰って休みます」
「よく休んで、早くいつもの葛原さんに戻ってよ?」
「……はい」
ほんと、戻りたいです……
勤務を終えた私は、のんびりと商店街を散歩しながら帰ることにした。
太陽が沈みつつある夕方六時。昼間の暑さが少しおさまり、吹く風もどことなく心地いい。
私は落ち込んだ気分を変えようと、お気に入りの洋菓子店のプリンを買って帰ることにした。その店のプリンは今流行りのとろっとしたクリーミーなプリンではなく、昔ながらの弾力のあるプリンだ。甘さも控えめで、下の方にあるカラメルソースと一緒に食べると甘さとほろ苦さとの加減が絶妙の美味しさなのだ。
そのプリンを無事にゲットして、再び帰路につく。
しかし支倉さんに対する罪悪感と、このいまいちすっきりしない気持ちは一体どこから来るのか。ちょっと考えたくらいでは、その答えは見つからなかった。
ま、いいか……考えても分からないことは仕方がない。今日はこれ食べて早く寝よっと。
気持ちを切り替えて、やや気分が浮上した私はいつもと変わらない調子で自宅のドアを開けた。
「ただいま……」
家のドアを開けて玄関に入った私は、そこにあるはずのないものを見つけて立ち止まった。狭い玄関に綺麗に揃えて置かれているのは、まさかの草履――
まさか……まさか、まさか……!
「あっ、花乃! 支倉さんがいらしてるわよ」
廊下の向こうから母がパタパタとスリッパを鳴らしてやってきた。
やっぱり!!
「……な、なんで? なんでうちにいるの……?」
私は玄関に立ち尽くしたまま、やっとのことで喉から声を絞り出した。
「あんたが三回忌の時にお寺に落としたハンカチをわざわざ届けてくださったのよ。ほら、早く客間に行ってお礼を言ってきなさい! 私は、スーパーのタイムセールに行ってくるから、後は頼んだわよ!」
母は私にハンカチを手渡すと、足早に家を飛び出していった。
「…………嘘でしょ……」
私は玄関の上がり框に手をついて、がくりと項垂れる。
なにこの展開。
確かに言いすぎてしまったことを謝りたい、という気持ちはあった。だからって、どうしてこの人はいきなり家まで訪ねてくるの? ほんとこの人の行動は私の想像の斜め上をいくものばかり。
とはいえ、こうして忙しい中、忘れ物を届けに来てくれた相手を、無視するわけにもいかない。
私は、大きく深呼吸をしてから客間に向かった。一声かけて襖を開けると、棚経の時と同じ出で立ちで背筋をぴん、と伸ばし正座をしている支倉さんと目が合った。
「……花乃さん」
私を見るや否や目を見開いた支倉さんは、ちゃぶ台から少し横にずれて畳に手をつき、私に向かって頭を下げた。
「え、支倉さん……?」
支倉さんのいきなりの行動に、私は面食らってしまう。
「先日は大変ご無礼いたしました。ご気分を害されたのであれば、心よりお詫びいたします。申し訳ありませんでした」
抱き締められた時のことをはっきり思い出してしまい、心拍数が上がる。それをなんとか落ち着かせて、私も畳に正座した。
買い物袋を脇に置いて、頭を下げる支倉さんを見つめる。
これまでのことから、少なからず支倉さんに対しては思うところがあった。それなのに、こうして真摯に頭を下げられると、なんとなく許すような気持ちが湧き上がってくる。
我ながらなんとチョロい女だろうと、自分にがっかりする。でもこの前のことがずっと引っかかってモヤモヤしていたのも事実だ。だったらこの機会を利用して謝ってしまえばいい。そうすればきっと気持ちもすっきりするはずだ。
私は一度深呼吸をしてから、支倉さんに向かって静かに口を開いた。
「支倉さん。頭を上げてください。……あの日は私も、つい勢いで失礼なことを言ってしまったので、謝りたいと思っていたんです。私の方こそ、酷いことを言って申し訳ありませんでした。でも――」
支倉さんが頭を上げて、私をじっと見つめてくる。
「でも?」
「やっぱり、貴方と結婚はできません」
「……何故、とお聞きしても?」
「まだ知り合って間もないのに、いきなり妻にって言われても現実味がありません。それに、お寺の事情はよく分かりませんが、結婚するなら私みたいに何にも知らない女より、もっと支倉さんに相応しい教養を持った方のほうがいいのではないですか? だから……」
「私に相応しい女性、か……」
私の話を黙って聞いていた支倉さんが、窓の外に視線を向けて呟いた。
「私の妻は、もう花乃さんしか考えられません。なので、貴女と結婚できないのであれば、私は生涯独身を貫くだけです」
至極真面目な顔をして、再び視線を戻した支倉さんが言った。
「え? ちょっと、何言ってるんですか、そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありません。それほど、私の中で貴女の存在は特別なのです。花乃さん、何度でも言います。私の妻になってください」
支倉さんの言葉に、私はポカンと口を開けたまま絶句した。
どうしよう……私が言ったことが通じない……というか、私の主張と彼の主張が根本的に食い違っているような気がしてならないんだけど……
そうなるとどんなに私が今の気持ちを彼に伝えたところで、結局堂々巡りになっちゃうんじゃないかな……
すると支倉さんが、困惑する私から視線を逸らして苦笑した。
「ですが、出会ってすぐに求婚というのは、確かに性急すぎました。花乃さんが混乱し、私を信じられないのももっともかと思います。その点は深く反省しております」
「……はい」
そう、そうなんですよ! 一瞬で心の中の霧が晴れたような気持ちになって、私はつい緩んだ顔で支倉さんを見る。
そんな私を見て、支倉さんがニコッと微笑んだ。
「それでひとつ提案があるのですが……とりあえず私という人間を知っていただけませんか?」
「え……」
「つまり、結婚は考えずに、まずは私とお付き合いから始めてみるのはいかがでしょう」
「はっ!?」
ここへきて、また振り出しに戻った!
……でもちょっと待てよ。これまでみたいにいきなり「結婚してくれ」って言われないだけ、状況は変化しているのかもしれない。
私は改めて、目の前にいる支倉という男性について考えてみる。
外見は高身長に、端整な顔立ち。物腰も柔らかく客観的に見ればとても印象のいい人だ。
しかし内面はやや強引で、人の話をあまり聞かないといった面もある。そこはかなり厄介だ。
だけど私に何度も拒絶されているというのに、こうやって新たな提案をしてまで関係を続けようとするのは、それだけ私への思いが強いということではないか。
正直なところ何故彼が私にそこまでの感情を持っているのかさっぱり分からない。
ただ、ちょっと気にはなってる。彼が私の何を見てこう言っているのか……
彼の提案について考えている間、支倉さんは黙って私の返事を待っていた。
私は伏せていた顔を上げると、心を決めて支倉さんと向かい合う。
「……本当に、結婚のことは考えなくてもいいんですか?」
そう確認すると、彼の綺麗な顔が優しげに綻んだ。
「はい」
「分かりました。では……お付き合いからで、お、お願いします」
おどおどしながら提案を承諾した私に、支倉さんは嬉しげに頬を緩ませ、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。これで断られたらもう望みはないと思っていたので、安堵しました」
「そんな、大袈裟です」
「いえ、本当に。これ以上貴女に嫌われるのは辛かったので」
どこかリラックスした感じの支倉さんの笑顔に、つい見惚れてしまう。
スッと上がった眉に、高い鼻と切れ長の目。薄い唇に綺麗な歯並び……
この人、本当に綺麗な顔をしてるな。
そんなことを考えていたら、突然、今この家に二人きりだということを思い出す。その途端、妙に支倉さんを意識してしまい、胸がドキドキしてきた。
「花乃さん? どうかされましたか」
急に落ち着きがなくなった私を不思議に思ったのか、支倉さんがそう尋ねてくる。
「な、なんでもない、です……」
この胸のドキドキを悟られないよう、私は必死に平静を装った。その時、私の視線が買ってきたプリンの袋を捉える。
「あ……、あの、支倉さん。プリンはお好きですか?」
「プリンですか」
「ええ。ここのプリン、凄く美味しいんです。久しぶりに食べたくなって、帰りに買ってきたんですけど」
プリン……支倉さんも食べるかな……
私は、側に置いていたプリンの袋を膝の上にのせた。
「花乃さんは、プリンがお好きなんですか?」
「はい。プリンもですけど、寒天とか羊羮とか、くずきりとか。ツルッとした食感のものが好きなんです」
「そういえば、棚経の時、お土産にいただいた水羊羹もとても美味しかったです」
支倉さんはにっこりと微笑んだ。そんな彼の笑顔を見ると、少し胸が切なくなる。
付き合うことになったものの、私はこれまで、随分支倉さんに冷たく当たっていた。それなのに、どうしてこの人は、こんな優しい顔で私に微笑みかけてくれるんだろう。
心が広いのか、よっぽど我慢強いのか……
そんなことを思いながら、支倉さんの顔を窺う。
「こんにちは」
すぐに誰なのか分かった。けれど、何故か金縛りにあったように体が固まってしまい、後ろを振り向けない。
「お久しぶりですね、花乃さん。あれから貴女のことを忘れた日は一日もありませんでしたが……貴女は?」
支倉さんが私に問いかける。
まさかこんなところで会っちゃうなんて……!! どうしよう……
ちゃんと断ると決意してきたものの、いざ彼を前にすると戸惑ってしまう。
だが、このまま逃げ出すわけにもいかないので、私はおそるおそる背後を振り返った。すると、法衣に身を包んだ支倉さんが私に向かってニコリと微笑む。
その綺麗な笑みに怯みつつも、私は意を決して口を開いた。
「お、お久しぶりです……あの、支倉さん、私……貴方にお話が……」
「お手洗いを、お探しですか?」
あ、そうだった。うう……せっかく勇気を振り絞って話を振ったのに……
出鼻をくじかれた形になってしまいガックリするが、当初の目的を思い出した。今は彼とゆっくり話をしている場合ではない。
「ええ、ちょっと、髪を直しに行こうと思って……」
「ああ、それでしたら私が直して差し上げますよ」
私の返事を聞いた支倉さんが、すっと後ろに回り込んだ。
「え、いいです。自分でやりますから」
「もうすぐ法要が始まります。結い直すより、ピンで留めたほうが早いですよ」
そう言うと、彼の指が慣れた手つきで私の髪に触れた。
うっ……なにこれ!! 心臓の跳ねっぷりがヤバイんですけどっ……! いや、動揺してる場合じゃない。今言わないと、もうチャンスは無いかも……!
私は覚悟を決めて、再び切り出した。
「あの、支倉さん、先日のお話なんですけど……」
「……貴女が言いたいことは、おおよそ見当がつきます」
静かに支倉さんが口を開いた。
支倉さんは私の髪からピンを抜くと、指で整えた髪に再びピンを挿す。
「差詰め、『先日のお話は無かったことに……』といったところでしょうか」
「え」
「申し訳ありませんが、その言葉は受け入れられませんね」
そう言って、彼の指が優しく私の髪を梳いてくる。くすぐったくて、こそばゆくて、何故か体が熱くなった。
「……どうしてですか」
動揺しつつも、私は必死で平静を装い彼に尋ねる。すると彼の気配がより近づき、私の耳のすぐ横で甘い低音が響いた。
「私は貴女と結婚したいので」
みっ、耳に息がかかった……!! わざとだ、絶対わざとやってるこの人……!!
彼の息がかかった耳に咄嗟に手を当て、私はなんとか声を出す。
「で、ですから! 急にそんなことを言われても困ります」
「それではせめて、私のことを知ってから判断していただけませんか?」
支倉さんの手が、髪から私の肩にするりと移動した。
「私を知っていただく機会なら、幾らでも作りますよ」
彼の手が触れている肩が、意思を持ったように熱を持つ。気持ちとは真逆の反応をする自分に動揺し、居たたまれなくなって思わずギュッと目を瞑った。
背後にいる彼のことを意識して、さっきから胸のドキドキが止まらない。
もう、この状況無理……!!
思いきって振り返ると、優しく微笑む支倉さんと視線がぶつかった。
「……もうすぐ法要が始まります。控え室にお戻りください」
そう言い残して、支倉さんは衣擦れの音と共に去っていった。
ド、ドキドキし過ぎて心臓が破裂するかと思った……
胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
あの人を相手にするとどうも調子が狂う……言いたいことが全然言えなかった。
うるさい心臓をなんとか落ち着かせて控え室に戻ると、私の顔を見た佑に「なんで顔真っ赤なの?」と不思議そうに言われた。
うう……お祖母ちゃんごめんね。ほとんど読経が頭に入らなかったよ……
あの後、すぐに三回忌の法要が始まったんだけど、読経の際、住職の加藤さんだけでなく、支倉さんまで現れたから、私は静かにお経を聞くどころじゃなくなってしまった。
支倉さんはもう一人のお弟子さんと中央を向いているので目が合うことはなかったんだけど……私は顔を上げることができなかった。
読経の後、お墓参りと卒塔婆の供養を行い、私達は会食にあたる、お斎のためにお寺の中の広間へ移動した。集まった三十人程の親族が、それぞれ用意された席に着く。最後に読経をあげてくれた住職の加藤さんが祭壇側の上座に着席する。
私は周囲を見回し、支倉さんがこの場にいないことに心底ほっとした。
会食が始まってしばらく経つと、私の両親と叔父が住職と和気藹々と談笑しているのが目に入った。
はっ、よく見たら叔父さん、お酒入ってない?
うわー……叔父さんお酒入ると、要らんお喋りを始めるんだよな……
なんて思っていたら、叔父とばっちり目が合ってしまった。
「そういや花乃はまだ結婚しないのか」
ほらきた……お酒飲むといつもこれだよ……
「叔父さん。お酒飲む度にそれ聞くのやめてよ。こんな席で……」
ウンザリしながら、叔父を軽く睨みつける。だが、そんな苦情など気にもかけず、叔父は滔々と話し続けた。
「おばあちゃんの一周忌の時、付き合ってる相手がいるって言ってたじゃないか。その彼はどうした?」
ぐっ! ……あの時も相当お酒入ってたくせに、そういうことはちゃんと覚えてるのね……
「残念ながら、とっくに別れました……!」
「なんだ別れたのか。お前もうすぐ三十だろ~? 俺の会社の若いヤツ紹介してやろうか?」
「結構です」
私と叔父の会話にさりげなく耳を傾けていた父が、ここで口を開いた。
「花乃は結婚したくないのか?」
まさか父まで参戦してくるとは……
「そ、そういうわけじゃないけど、私は今の生活に満足してるから!」
「でもなあ……」
「ほんとに! 私のことより、佑のことを心配して」
「なんで俺!?」
矛先を弟に向けて、何とかその場をやり過ごす。
どうやら叔父さんは、会社に紹介したい若い子がいるみたいで、お酒が入ると毎回この流れになるのだ。本当に勘弁してもらいたい。
そんなこんなで、ぼちぼちお斎もお開きになりそうなので、私はすいているうちにと、トイレに立った。
――精進料理は美味しかったけど、いろいろあって疲れた。もう、早く帰りたい。
ハンカチで手を拭きながらトイレを出ると目の前に支倉さんがいて、驚きのあまり飛び退いた。彼は腕を組んで壁に凭れ、口元に笑みを浮かべている。
「っ!! なっ!?」
なんでここにっ!?
「本日はお勤め御苦労様でした」
驚きに目を丸くする私に構わず、支倉さんは壁から背を離すと丁寧に一礼した。彼は先ほどまでの礼装ではなく、略装に着替えている。
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
何とか平静を装って私も礼をすると、支倉さんは優しく微笑んだ。
「弟さんがいらっしゃるんですね。貴女とよく似ていらっしゃる」
「そうですか? 自分ではよく分からないんですけど」
「……この間の薄いブルーのワンピースも素敵でしたが、喪服もとてもお似合いですね。このまま私の部屋にさらってしまいたいくらいです」
「……は……?」
口元に不敵な笑みを浮かべた支倉さんがそんなことを言うもんだから、また顔に熱が集中してしまう。
「変なこと言うのやめてください。支倉さんは、いつもそんなことを檀家の女性に言っているんですか?」
「おや、心外ですね。私がこんなことを言ったのは貴女が初めてですよ」
支倉さんは本当に心外そうに少し肩を竦める。嘘ばっかり……
「それはどうでしょう。これまでも、女性とお付き合いされてきたでしょう?」
絶対この人経験豊富に違いない、と思って鎌をかけてみた。
「はい」
やっぱり。意外にあっさり認めたな。
「しかしながら、自分から望んでお付き合いした女性は一人もいません。これまでは全てあちらから来てくださったので」
なにそれ! 超モテモテじゃないの!!
思わずため息が零れてしまう。
「だったらなおさら……」
「なので、自分から女性にアピールするのは実は初めてなのです。正直、加減がよく分かりません。花乃さん。どうしたら私が本気だと分かってくださいますか?」
「…………」
そんなこと言われても分かんないし。
口をきゅっと真一文字に結んだまま、私は黙り込んだ。そんな私を支倉さんは少し困ったように覗き込んでくる。
「何も仰ってくれないのですか?」
「わ、分からないんですよ! 私だってこんな状況、初めてですから」
私の答えに対して、支倉さんは口元に手を当てて何やら考える仕草をした。そしてチラリと私に視線を向ける。
「貴女が許可してくれるなら」
「なんです?」
「抱き締めてもいいですか?」
――はっ!?
突拍子もない申し出に思わず目を丸くした。でもすぐ彼の要求を理解し体が熱くなってくる。
「……そんなのっ! 却下します!!」
私はぶんぶんと首を横に振りながら彼を睨みつけた。だけど支倉さんは表情を変えない。
「じゃあキスは?」
「あっ、ありえません!!」
間髪を容れず即答した。
私の返事にくっくっくっ、と肩を震わせて笑う支倉さん。
「金城鉄壁とはまさにこのこと。花乃さんを口説き落とすのは一筋縄ではいかなそうですね」
そう言いながらも、彼の態度からは余裕が感じられる。
私がいろいろ理由をつけて断っても、きっと支倉さんのペースに持っていかれるに違いない。そんな気がする……。やだ、逃げたい。もう帰ってもいいかな。
「すみません、私そろそろ戻ります」
支倉さんから目を逸らし、お斎の会場に戻ろうと踵を返したところで、いきなり腕を掴まれた。
「え! なにす……」
「事前に許しを請うと断られるので、いささか強引な手段に変更致します」
耳元で囁かれたと思ったら、あっという間に私の体は支倉さんの腕に包まれていた。
「っ!!」
――どっ、どうしよう! 私、抱き締められてる……!
この状況を自覚した瞬間、私の体は石のように固まってしまった。
「棚経の日、よろけた貴女を支えた時も思いましたが、細いですね」
そう囁きながら、彼の掌が私の背中を優しく撫でる。壊れ物を扱うような手つきについ身を任せそうになってしまった。しかし、今はそれどころではない。
「はっ……離してください!」
私は彼の腕から逃れようと身を捩る。
「貴女に、私の胸の音が伝わりますか?」
そう問うた後、彼は私の頭を自分の胸に優しく押しつけた。私は一瞬抵抗を忘れて支倉さんの胸元に耳を当てる。
…………あれ、結構ドキドキしてる?
思わず、支倉さんの顔を見上げたら、彼と視線がぶつかった。
「……本当に、なんて可愛らしい……」
「え」
「このまま、貴女を私のものにしてしまえたら……」
支倉さんが蕩けるような眼差しで私を見つめながら、絞り出すように呟いた。
そのとんでもない呟きに一瞬固まってしまった私は、すぐに我に返る。
「なっ、何言ってるんですか!! お、お坊さんがそんなこと言っていいんですか!?」
「僧侶だって人間です。少なくとも、うちの宗派で恋愛は禁忌ではありません。私の両親も恋愛結婚ですし」
しれっともっともらしく言われ、こっちは何も言い返せない。その隙に支倉さんはさらに私を包み込む腕に力を込めた。
――なんかこれ、ヤバくない? は、早く離れなければ……!!
「は、離してください!」
身の危険を感じ、腕に力を入れて支倉さんを押しやるも、支倉さんはびくともしない。
「花乃さん。私との結婚を真剣に考えてくださいませんか」
「もう、からかうのは止めてください」
こんな超イケメンで今まで女性に苦労したことなどなさそうな人に、平穏な私の日常を引っ掻き回されるのはご免蒙りたい。
「私は本気です」
「いっ、嫌です!!」
そう言った瞬間、私を抱く支倉さんの腕の力が緩む。
気がついたら、私は両手で支倉さんを強く突き飛ばしていた。
「……もうっ、二度と私の前に現れないでください」
驚いたように立ち尽くす支倉さんに、これ以上ないくらいはっきり告げる。
そのまま私は踵を返し、振り返ることなくお斎会場に戻った。そして、引ったくるように自分のバッグを手にする。
「私、歩いて帰るからっ」
突然戻ってきた私の剣幕に驚き、キョトンとしている家族へそう宣言し、私は逃げるようにお寺を後にしたのだった。
三 花乃、譲歩する
――はあ……
もうすぐ鬼のように忙しいランチタイムが始まる。呑気にため息なんかついている場合ではないと分かっているのだが、どうもここ最近、私の気分は下降する一方だ。
「葛原さん……最近ため息が多いけど、何か悩みごとでもあるの?」
そんな私を近くにいる店長が心配してくれる。
「……店長……人間誰しも失敗することってありますよね……」
私は遠くを見つめながら、店長に同意を求めた。
いきなりそんなことを言われた店長は、ちょっと困惑した顔をしている。
「そりゃあ、ねぇ。……もしかして葛原さん何か失敗でもしたの?」
「……まあ、ちょっと……」
コーヒーカップを拭きながら、また一つため息を落とす。
あれから一週間が過ぎた。
支倉さんに突然抱き締められ再び求婚された私は、動揺した勢いでかなり酷いことを言ってしまった。
でも時間と共に、少しずつ冷静さが戻ってくると、さすがにあれは言い過ぎたかもしれないと自己嫌悪に陥る。
支倉さんにも、確かに行きすぎたところがあったと思う。それでも、あんな風に頭から拒絶しなくてもよかったのではないか……
そう思うとキリキリと胃が痛んでくる。
……いやいや、別に好きでもない人にどう思われたっていいじゃない。何度もそう思うようにしても、やっぱりどこか気分が晴れないのだ。
あんな捨て台詞、言わなきゃよかった……
「葛原さん……本当に大丈夫?」
店長がまた私を見て心配そうに呟いた。
「すみません……もうすぐ上がりなんで、今日はさっさと帰って休みます」
「よく休んで、早くいつもの葛原さんに戻ってよ?」
「……はい」
ほんと、戻りたいです……
勤務を終えた私は、のんびりと商店街を散歩しながら帰ることにした。
太陽が沈みつつある夕方六時。昼間の暑さが少しおさまり、吹く風もどことなく心地いい。
私は落ち込んだ気分を変えようと、お気に入りの洋菓子店のプリンを買って帰ることにした。その店のプリンは今流行りのとろっとしたクリーミーなプリンではなく、昔ながらの弾力のあるプリンだ。甘さも控えめで、下の方にあるカラメルソースと一緒に食べると甘さとほろ苦さとの加減が絶妙の美味しさなのだ。
そのプリンを無事にゲットして、再び帰路につく。
しかし支倉さんに対する罪悪感と、このいまいちすっきりしない気持ちは一体どこから来るのか。ちょっと考えたくらいでは、その答えは見つからなかった。
ま、いいか……考えても分からないことは仕方がない。今日はこれ食べて早く寝よっと。
気持ちを切り替えて、やや気分が浮上した私はいつもと変わらない調子で自宅のドアを開けた。
「ただいま……」
家のドアを開けて玄関に入った私は、そこにあるはずのないものを見つけて立ち止まった。狭い玄関に綺麗に揃えて置かれているのは、まさかの草履――
まさか……まさか、まさか……!
「あっ、花乃! 支倉さんがいらしてるわよ」
廊下の向こうから母がパタパタとスリッパを鳴らしてやってきた。
やっぱり!!
「……な、なんで? なんでうちにいるの……?」
私は玄関に立ち尽くしたまま、やっとのことで喉から声を絞り出した。
「あんたが三回忌の時にお寺に落としたハンカチをわざわざ届けてくださったのよ。ほら、早く客間に行ってお礼を言ってきなさい! 私は、スーパーのタイムセールに行ってくるから、後は頼んだわよ!」
母は私にハンカチを手渡すと、足早に家を飛び出していった。
「…………嘘でしょ……」
私は玄関の上がり框に手をついて、がくりと項垂れる。
なにこの展開。
確かに言いすぎてしまったことを謝りたい、という気持ちはあった。だからって、どうしてこの人はいきなり家まで訪ねてくるの? ほんとこの人の行動は私の想像の斜め上をいくものばかり。
とはいえ、こうして忙しい中、忘れ物を届けに来てくれた相手を、無視するわけにもいかない。
私は、大きく深呼吸をしてから客間に向かった。一声かけて襖を開けると、棚経の時と同じ出で立ちで背筋をぴん、と伸ばし正座をしている支倉さんと目が合った。
「……花乃さん」
私を見るや否や目を見開いた支倉さんは、ちゃぶ台から少し横にずれて畳に手をつき、私に向かって頭を下げた。
「え、支倉さん……?」
支倉さんのいきなりの行動に、私は面食らってしまう。
「先日は大変ご無礼いたしました。ご気分を害されたのであれば、心よりお詫びいたします。申し訳ありませんでした」
抱き締められた時のことをはっきり思い出してしまい、心拍数が上がる。それをなんとか落ち着かせて、私も畳に正座した。
買い物袋を脇に置いて、頭を下げる支倉さんを見つめる。
これまでのことから、少なからず支倉さんに対しては思うところがあった。それなのに、こうして真摯に頭を下げられると、なんとなく許すような気持ちが湧き上がってくる。
我ながらなんとチョロい女だろうと、自分にがっかりする。でもこの前のことがずっと引っかかってモヤモヤしていたのも事実だ。だったらこの機会を利用して謝ってしまえばいい。そうすればきっと気持ちもすっきりするはずだ。
私は一度深呼吸をしてから、支倉さんに向かって静かに口を開いた。
「支倉さん。頭を上げてください。……あの日は私も、つい勢いで失礼なことを言ってしまったので、謝りたいと思っていたんです。私の方こそ、酷いことを言って申し訳ありませんでした。でも――」
支倉さんが頭を上げて、私をじっと見つめてくる。
「でも?」
「やっぱり、貴方と結婚はできません」
「……何故、とお聞きしても?」
「まだ知り合って間もないのに、いきなり妻にって言われても現実味がありません。それに、お寺の事情はよく分かりませんが、結婚するなら私みたいに何にも知らない女より、もっと支倉さんに相応しい教養を持った方のほうがいいのではないですか? だから……」
「私に相応しい女性、か……」
私の話を黙って聞いていた支倉さんが、窓の外に視線を向けて呟いた。
「私の妻は、もう花乃さんしか考えられません。なので、貴女と結婚できないのであれば、私は生涯独身を貫くだけです」
至極真面目な顔をして、再び視線を戻した支倉さんが言った。
「え? ちょっと、何言ってるんですか、そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありません。それほど、私の中で貴女の存在は特別なのです。花乃さん、何度でも言います。私の妻になってください」
支倉さんの言葉に、私はポカンと口を開けたまま絶句した。
どうしよう……私が言ったことが通じない……というか、私の主張と彼の主張が根本的に食い違っているような気がしてならないんだけど……
そうなるとどんなに私が今の気持ちを彼に伝えたところで、結局堂々巡りになっちゃうんじゃないかな……
すると支倉さんが、困惑する私から視線を逸らして苦笑した。
「ですが、出会ってすぐに求婚というのは、確かに性急すぎました。花乃さんが混乱し、私を信じられないのももっともかと思います。その点は深く反省しております」
「……はい」
そう、そうなんですよ! 一瞬で心の中の霧が晴れたような気持ちになって、私はつい緩んだ顔で支倉さんを見る。
そんな私を見て、支倉さんがニコッと微笑んだ。
「それでひとつ提案があるのですが……とりあえず私という人間を知っていただけませんか?」
「え……」
「つまり、結婚は考えずに、まずは私とお付き合いから始めてみるのはいかがでしょう」
「はっ!?」
ここへきて、また振り出しに戻った!
……でもちょっと待てよ。これまでみたいにいきなり「結婚してくれ」って言われないだけ、状況は変化しているのかもしれない。
私は改めて、目の前にいる支倉という男性について考えてみる。
外見は高身長に、端整な顔立ち。物腰も柔らかく客観的に見ればとても印象のいい人だ。
しかし内面はやや強引で、人の話をあまり聞かないといった面もある。そこはかなり厄介だ。
だけど私に何度も拒絶されているというのに、こうやって新たな提案をしてまで関係を続けようとするのは、それだけ私への思いが強いということではないか。
正直なところ何故彼が私にそこまでの感情を持っているのかさっぱり分からない。
ただ、ちょっと気にはなってる。彼が私の何を見てこう言っているのか……
彼の提案について考えている間、支倉さんは黙って私の返事を待っていた。
私は伏せていた顔を上げると、心を決めて支倉さんと向かい合う。
「……本当に、結婚のことは考えなくてもいいんですか?」
そう確認すると、彼の綺麗な顔が優しげに綻んだ。
「はい」
「分かりました。では……お付き合いからで、お、お願いします」
おどおどしながら提案を承諾した私に、支倉さんは嬉しげに頬を緩ませ、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。これで断られたらもう望みはないと思っていたので、安堵しました」
「そんな、大袈裟です」
「いえ、本当に。これ以上貴女に嫌われるのは辛かったので」
どこかリラックスした感じの支倉さんの笑顔に、つい見惚れてしまう。
スッと上がった眉に、高い鼻と切れ長の目。薄い唇に綺麗な歯並び……
この人、本当に綺麗な顔をしてるな。
そんなことを考えていたら、突然、今この家に二人きりだということを思い出す。その途端、妙に支倉さんを意識してしまい、胸がドキドキしてきた。
「花乃さん? どうかされましたか」
急に落ち着きがなくなった私を不思議に思ったのか、支倉さんがそう尋ねてくる。
「な、なんでもない、です……」
この胸のドキドキを悟られないよう、私は必死に平静を装った。その時、私の視線が買ってきたプリンの袋を捉える。
「あ……、あの、支倉さん。プリンはお好きですか?」
「プリンですか」
「ええ。ここのプリン、凄く美味しいんです。久しぶりに食べたくなって、帰りに買ってきたんですけど」
プリン……支倉さんも食べるかな……
私は、側に置いていたプリンの袋を膝の上にのせた。
「花乃さんは、プリンがお好きなんですか?」
「はい。プリンもですけど、寒天とか羊羮とか、くずきりとか。ツルッとした食感のものが好きなんです」
「そういえば、棚経の時、お土産にいただいた水羊羹もとても美味しかったです」
支倉さんはにっこりと微笑んだ。そんな彼の笑顔を見ると、少し胸が切なくなる。
付き合うことになったものの、私はこれまで、随分支倉さんに冷たく当たっていた。それなのに、どうしてこの人は、こんな優しい顔で私に微笑みかけてくれるんだろう。
心が広いのか、よっぽど我慢強いのか……
そんなことを思いながら、支倉さんの顔を窺う。
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