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1巻

1-3

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 運転しながら、秋川主任が心配そうに声をかけてくる。

「はっ!? い、いえ、なんでもありません!! 大丈夫です」
「そう? 今日は初めてのことばっかりで疲れただろ? 新行内さんは、会社に戻らないでこのまま直帰でいいよ。家の近くまで送るから」
「え!? いいんですか? でも私のマンション、ちょっと遠いですよ」
「いいよ。これ俺の車だし。家の場所はどこら辺?」

 てっきり会社の車だと思い込んでいたのは、秋川主任の車だったらしい。
 ――そう、だったんだ、これ主任の……
 これ、今の私にはある意味いらない情報だった。だって、秋川主任の車だって分かった瞬間、ますます緊張してしまう。

「……やっぱり新行内さん疲れてるんじゃない? 早く帰ってゆっくり休んだ方がいい」
「はっ!! いえ、大丈夫です。えっと私の家は……」

 私はつたない地理の知識で懸命に説明をする。でも、上手うまく伝えられた気がまったくしない。
 しかし秋川主任は下手へたくそな私の説明でも、場所が理解できたらしい。前を向いた涼しい顔が、何度か頷いている。

「ああ、あの辺ね。分かった」
「自分で言うのもなんですが、あの説明でよく分かりましたね……」
「そりゃあ、営業やってりゃ自然と地理には詳しくなるよ。でも、新行内さん、結構遠くから通ってるんだな」
「はい……」

 そう言いながら、秋川主任は私のマンションまで、途中高速道路を利用したりして、思っていたよりずっと早く送り届けてくれる。それには、心の底からすごいと思った。

「主任、すごいです。私、もっと時間がかかると思ってました。主任の頭の中には、高性能のナビが入ってるみたいですね」
「そう? どうもありがとう。ナビも一応付いてはいるけどね」

 確かに車にはナビも付いている。でも秋川主任はそれを使わないまま、私のマンションのすぐ近くまで来てしまった。

「で、新行内さんのマンションはどこ……」

 もう充分マンションに近いところまで来ているのに、秋川主任はマンションまで送ってくれようとしている。私としては、ここまで送ってくれただけで充分だ。

「いえ、ここで大丈夫です。その辺の路肩に停めてください」
「行けるとこまで行くよ。ついでだし」
「でも私のマンションの場所って、ちょっと説明しにくくて。なので、本当にここで大丈夫です。ありがとうございました」

 私が秋川主任に頭を下げると、主任は路肩に車を寄せて停車させた。

「遠いところまで送ってくださり、ありがとうございました。では今日はお疲れ様でした」

 私が車から降りると、すぐに助手席の窓が開いた。

「お疲れ様。ゆっくり休んで」
「はい。あの、ちゃんと夕飯は栄養のあるものを食べてくださいね」

 余計なお世話かもしれないけど、言わずにはいられなかった。
 すると運転席から私を見ていた秋川主任が、その綺麗な顔をほころばせ「ははっ」と声を出して笑った。

「心配してくれてどうもありがとう。じゃあ、夕飯は久しぶりに精の付くものでも食べるかな」
「ぜひ、そうしてください!」
「はは。それじゃ」

 秋川主任は私に向かって左手を上げ、流れるようなハンドルさばきで道路に出ると、二、三回ハザードランプを点滅させて会社に戻って行った。

「お疲れ様でした……」

 誰に聞かせるわけでもなくぼそっと独り呟いた私は、秋川主任の車が見えなくなるまで見送った後、自分のマンションに向かって歩き出す。
 確かに、今日は慣れないことの連続でとても疲れた。でも、私は別のことが気になりすぎて、疲れがあまり気にならない。
 ――秋川主任のお顔が……頭から離れません……
 それに、秋川主任と二人きりになってから、ずっと胸がぎゅっと掴まれたように苦しい。
 ――はっ、もしかして……病気!?
 初めて感じる不調に、自分なりの結論を出した私は、マンションの部屋に着くなり、急いでいつもお世話になっているクリニックに電話をかけたのだった。


 展示会に参加した週の土曜日。
 私は普段お世話になっているクリニックを受診し、帰路に就いていた。
 ――特に異常なしって言われてしまった……
 経験したことのない胸の痛みに、締め付け。絶対、病気に違いないと思ったのだが、クリニックで検査してもらった結果は、どこも異常なし。念のため行った血液検査も、まるっきり問題なしの健康体だと太鼓判たいこばんを押されてしまった。
 ――心電図も異常なし……じゃあ、この前の胸の痛みは、一体なんだったというの……?
 悩みながら歩いていた私は、近くにあった書店にふらりと足を踏み入れる。
 ――いつも買っている雑誌がもう発売しているはず……
 これまでは、昔からお世話になっているブランドで服を揃えていた。でも今は、会社に着ていく服は雑誌を参考にして購入するようにしている。
 新刊コーナーにある雑誌を手に取った後、他の雑誌をチェックしつつ店内をうろうろしていた私は、ふと足を止めた。少女漫画の帯に書かれた一文に、目が釘付けになる。

【……恋する気持ちに胸がキュンとなる……】

 ――胸がキュン……キュン? それって……
 今まで経験したことのない、あの胸の締め付けは、キュン、という感覚に似ている。
 ――え、恋……? 私が?
 誰に、という疑問に対しては、一人しか思い浮かばない……秋川主任だ。
 主任に恋をしている。そう考えれば、私の胸の苦しさに説明がつく。だけど……
 ――これ、本当に恋なのかな……
 単に、これまで周囲に男性がいなかったから、初めて接した家族以外の男性に戸惑っているだけな気も……
 まったく恋愛経験のない私には、この感情が恋であると、すぐに判断することができない。
 とりあえず雑誌の会計を済ませた私は、結論を出すことなくマンションへ帰ったのだった。



   三


 休み明けに出勤すると、部署の先輩社員に飲み会に誘われた。

「新行内さんがこの部署に来てからまだ一度もしてないでしょ? 新任のお祝いと親睦しんぼくを図るために今度の金曜にでもやろうと思うんだけど、都合はどうかな」

 私に声をかけてくれたのは、畑野はたの香月かづきさんという五年先輩の女性社員。
 外見は肩ぐらいまでのボブヘアで、笑うと垂れる目がとってもキュートな女性だ。彼女も私と同じ営業事務の仕事をしている。だけど畑野さんは、一人で数人の営業社員の補佐をこなしている、ものすごく仕事ができる方なのだ。

「ありがとうございます。ぜひ参加させていただきます」

 ――私のために歓迎会を開いてくださるなんて……!!

「そう? よかった。じゃあ、またお店とか詳しいことが決まったら連絡するわね」
「はい、よろしくお願いします」
「で、秋川主任と一緒にお仕事してみてどう? 慣れてきた?」

 気を許していたところに、いきなり秋川さんの名前が出てきたので、ドキッとする。

「あっ、その……はい。お陰様で……」

 動揺しているのを悟られないよう、必死に笑顔を保つ。ちなみに本日、秋川主任は日帰りの出張で不在である。

「秋川主任、優しいよね。新行内さんが来る少し前まで、私が主任の補佐をやってたんだけど、いやな思いしたこと一度もなかったわ」
「そうなんですね」
「でも、私の仕事が増えすぎちゃって、どうにも手が回らなくなっちゃったの。そしたら秋川主任が、自分の補佐はいいって言ってくれて。それに新入社員の指導も自分がするからいいよって……ほんといい人なの、秋川主任。しかもあの外見でしょう? そりゃあ女が放っておかないわ……」
「……放っておかれてない、んですか……?」

 畑野さんの言ったことが気になり、無意識に聞き返していた。

「うん、私達が見ていないような場所で、結構、告白されたりしてるみたい。何人か、見たって言ってたし」
「そう、なんですね……」
「……新行内さんも気になるの?」

 ぼんやりしている私の顔を、畑野さんが腰に手を当ててのぞき込んでくる。

「えっ? あ、いえ……そういうわけではないんですけど」
「ふふ。ライバルはいっぱいいるわよ~。部署内にも部署外にも」
「ち、違いますって、本当に!」

 一生懸命手を振って否定するけど、畑野さんはニヤニヤと意味ありげに笑っている。

「はは。でも新行内さん、若くて可愛いからモテそうね~。彼氏はいないの?」
「はい」

 すぐに返事をしたら、畑野さんがガクッとする。

「即答ね。本当に?」
「はい。これまで周囲に、あまり男性がいない環境で育ってきたもので……」
「あー、そっか。女子大出身だったもんね。付属から?」
「はい」

 これにもまたすぐ返事をしたら、何故か今度は畑野さんの顔が神妙になる。

「あの女子大に付属から……もしかして新行内さんって、すごいお嬢様だったりする……?」
「そんなことはありません。ごく普通の家です」

 畑野さんの疑問をさらっとかわすと、そっか、とそれ以上家の話にはならずに済んだ。

「でも、新行内さん、雰囲気がなんかお嬢様っぽいのよね。なんていうか、立ち居振る舞いとかに品があるし、言葉遣いも丁寧だし。よく言われたりしない?」
「い、いえ……あんまり自分では意識していないのですが……」

 物心ついた頃からずっとこのスタイルなので、お嬢様らしいと言われても、自分ではさっぱり分からない。

「そういうところがいいんじゃない? 自然体で。あ、あと飲み会には秋川主任も来るわよ。……私は個人的に新行内さんを応援するから、頑張って!」
「へ? が、頑張るって、何を……」

 くすくす笑いながら、畑野さんが私の背中をポンッと叩く。その意図がよく分からなくてしどろもどろになっていると、また連絡するねと言って畑野さんが私から離れていった。
 ――ど、どういう意味だろう? 今のは……
 彼女に言われたことが気になり、私は席に着いたまま、しばらく頭を悩ませることになった。


 歓迎会兼懇親会までの日々を淡々と過ごし、迎えた金曜日。
 終業時刻までに今日の仕事を片付けた私は、いち早く畑野さんと一緒に飲み会のお店へ向かうことになった。

「そういえば、一応参加になってた秋川主任、まだ外出先から戻って来てなかったけど、新行内さん、何か聞いてる?」
「あ、はい。お得意様のところに行く用事があるそうで、その後、直接お店に向かうと聞いてます」
「そっか、了解。秋川主任が飲み会に来るとすごいわよ。普段抑えてる女子達が、ここぞとばかりに主任の周りに集まるから」
「そ、そうなんですか?」
「うん。それにね……お酒飲んでる時の主任って、なんというかエロいのよね。普段きっちり閉めてるシャツのボタンとか開けちゃって、グラスを持つ仕草がなんとも言えず色っぽいって、私は思ってる。勝手に」

 会社のエントランスを出ながらウットリする畑野さんに、思わず目が釘付けになる。それってもしかして、畑野さんも秋川主任のことが好きなのだろうか?

「あの、畑野さんも……秋川主任のこと……?」

 恐る恐る尋ねると、一瞬ぽかんとした畑野さんが、何故か可笑おかしそうに噴き出した。

「違う違う! 私にそういう感情はまったくないの。長年付き合ってる人もいるしね。私にとっての秋川主任は、ある意味目の保養っていうか。だって、あんなイケメン、身近にそうそういないじゃない? 存在が貴重なのよー」

 けらけらと屈託くったくなく笑う畑野さんにつられ、私も自然と笑みが浮かぶ。

「そうですね、確かに……秋川主任のお顔は、すごく綺麗ですよね。最初見た時、びっくりしました。これが世に言うイケメンなんだって……」
「周りに男性がいない環境で育ったなら、確かにあの顔は衝撃的よね。リアル王子様だもん」
「リアル王子様……」

 畑野さんの言ったことを噛みしめつつ、私は頭の中に秋川主任の姿を思い浮かべた。
 私も子供の頃からよく童話やおとぎ話を読んできたので、王子様には馴染なじみ深い。秋川主任が、王子様のコスチュームで白馬にまたがっているところを想像してみても、まったく違和感がない。
 ――すごい、似合ってる……! 

「新行内さん? おーい」

 ぼーっとしていたら、畑野さんに声をかけられハッとする。

「はい、すみません!」
「今夜の飲み会のお店はここです」

 畑野さんがそう言って立ち止まったのは、会社の目と鼻の先にある和風居酒屋だった。シンプルな白い壁に、店の名前が黒い文字で書かれている。木製の引き戸をカラカラと開けると、調理場を囲むカウンターが見えた。

「予約した畑野です」
「畑野様ですね。お待ちしておりました、どうぞお座敷へ」

 通されたお座敷は、営業部の社員全員が余裕で入れる広さ。テーブルにカセットコンロがセッティングされているところを見ると、お鍋だろうか?

「畑野さん、今日はお鍋ですか?」
「鍋っていうか、湯豆腐ね」
「あ、なるほど」

 話をしながら、畑野さんと横並びでテーブルの真ん中に腰を下ろし、みんなが揃うのを待つ。
 十分経過した辺りから徐々に人が集まってくる。更に十分経った頃、全員揃うにはまだかかりそうということで、先に始めることになった。
 みんなが好き好きに飲み物を注文していると、秋川主任が座敷に入ってくる。

「主任、お疲れ様です! いいタイミングですね」

 畑野さんが声をかけると、秋川主任がしたり顔で「だろ?」と言った。
 その秋川主任は、私とは対角線上にある席に座った。どうやら、近くに仲の良い男性社員がいたようで笑顔で話している。
 ――秋川主任、楽しそう。
 彼の笑顔を見ることができて、何故だか胸の辺りがぽかぽか温かくなってくる。
 それを不思議に思っているうちに、あれよあれよと主任の周りに女性が集まってきた。

「私、秋川主任の隣ゲット」
「私も」
「じゃ、私、向かいで~」

 到着して数分も経たぬ間に、主任は周囲を女性社員に囲まれてしまった。
 その光景に目を丸くする。
 ――すごい、あっという間に女性に囲まれちゃった……

「新行内さんは飲み物どうする? ビール? それともカクテルとかの方がいい?」

 畑野さんが私にメニューを差し出しながら、尋ねてくる。

「あ、はい……ええと……」

 メニューを見ても、何がどういう飲み物かよく分からない。
 ――困ったな、何を頼んだらいいんだろう……あ、そうだ!
 そこで私は、二十二歳の誕生日に、父が用意してくれたお酒を思い出した。
 ――美味おいしかったんだよね、あれ。確かク……なんとかっていう名前の、シャンパンだったかな……あら? ここ、シャンパン置いてない……?
 私が真剣にメニューを見つめていると、畑野さんが助け船を出してくれた。

「もしかして、お酒あんまり詳しくない? じゃあ、飲みやすそうなレモンソーダとかにする?」

 レモンソーダなら、どんな味か想像できたので、素直に頷く。

「はい。それにします」

 畑野さんはクスクス笑いながら、私からメニューを受け取った。

「新行内さん、やっぱ箱入りじゃない? 大学時代、サークルの飲み会とかなかったの?」
「そうですね、私が参加してたサークルは、わりとみんな大人しかったので……それに親からも、飲み会の参加は禁止されていたので。社会人になって、ようやく解禁されたんです」

 正直に事情を話したら、畑野さんがギョッとした顔で私を見る。

「うっそ……もしかして新行内さん、深窓しんそうのお嬢様だったりする!?」
「いっ、いえ!! 全然普通の家です! ただ、ちょっと親が厳しくて……」

 苦し紛れの言葉だったが、畑野さんはすんなりと納得してくれた。

「そっか。私の友人にも、すっごく門限の厳しい子がいたなー。新行内さんも、大変だったのね」
「恐縮です……」

 しばらくして、注文した飲み物が運ばれてきたので、この場にいる人だけで乾杯をする。私が遠慮がちにレモンソーダの入ったグラスをかかげると、ちょうどこっちを見ていた秋川主任と目が合った。すると、秋川主任が持っていたビールジョッキを私に向かってかかげてくれる。
 そんな主任のちょっとした気遣いが嬉しくて、胸がジーンと熱くなった。

「……美味おいしい」

 初めて飲んだレモンソーダは、すっきりしていて全部飲めそうだ。
 今日の歓迎会には、急用や元々の用事があった社員数人が来られなかっただけで、部署のほとんどの人が参加してくれた、と畑野さんが教えてくれた。
 私は畑野さんや、近くに座っている先輩社員と話をさせてもらいながら、美味おいしい湯豆腐に舌鼓したつづみを打つ。このお店、湯豆腐の美味おいしい居酒屋としても有名なのだそう。
 ――確かにこの湯豆腐、すごく美味おいしい……きっといいお豆腐を使っているのね……
 実家住まいの頃、お豆腐好きの母がよく美味おいしい湯豆腐を提供してくれる料理屋さんへ連れて行ってくれたことを思い出す。
 母はそこのお豆腐が気に入り、しばらく家の食事にもその店のお豆腐を取り寄せていた。そんなことをぼんやり考えていると、私の向かいに同じ部署の女性社員がやって来た。
 軽くウエーブのかかったミディアムレングスの髪に、やや丸顔でほんわりした外見の女性は、江渕えぶち美織みおりさんという。彼女は私の二年先輩らしい。

「ちゃんと話すのはこれが初めてよね? 新行内さんと同じで、営業事務をしてるの。よろしくね」

 江渕さんが手に持っていたグラスを私に向け「かんぱーい」と微笑んだので、私ももう飲み終わりそうなレモンソーダの入ったグラスをかかげた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「ねえねえ、新行内さんって彼氏とかいるの? なんかいそうな感じするけど」

 挨拶あいさつが終わるやいなや、いきなりそんなことを聞かれて驚く。

「い、いえ。いません」

 私がはっきりと否定すると、何故か江渕さんの表情が曇った。

「え? そうなんだ? ふうん……」
「あ、あの……」

 私がどうしていいか分からなくてオロオロしていると、すかさず畑野さんがフォローしてくれる。

「ああ、気にしなくていいのよ。江渕はね、秋川主任のファンなの。だから、主任の近くにいる女子には必ず、彼氏がいるかどうか確認してるわけ」
「畑野さん、いきなりバラすのやめてくれません……」

 ムッとして口を尖らせる江渕さん。でも、否定しないところを見ると、畑野さんの言ったことは間違っていないらしい。
 ――秋川主任のファン……そ、そうなんだ……さすが主任。
 私が納得するように二、三度小さく頷いていると、江渕さんの鋭い眼差しが向けられる。

「だって……ずるいですよ。私、営業部に来てからずっと主任の補佐やりたいって部長に直談判じかだんぱんしてるのに、いきなり新入社員の新行内さんが補佐になるなんて……」

 一気にまくし立てると、江渕さんはグラスに残っていたお酒をあおった。

「そりゃ、直談判じかだんぱんするくらい秋川主任が大好きな江渕を補佐になんかしたら、仕事にならないでしょうが……部長だってそこんとこよく分かってるのよ」

 畑野さんが苦笑いすると、いたグラスをテーブルに置いた江渕さんがえた。

「そんなのずるい! ねえ、新行内さん。秋川主任の補佐、私と代わってくれない~?」

 冗談なのか本気なのか分からないが、江渕さんが私に頼み込んでくる。でも。

「お断りします」

 無意識に即答した私に、江渕さんの顔から笑みが消える。

「……は? 何それ。しかも即答?」

 明らかに気分を害した様子の江渕さんに、私はハッと我に返る。

「あっ!! す、すみません……!! その、せっかくいろいろ教えていただいて、ようやく仕事にも慣れてきたところなので……ここで代わるのは、ちょっと……」

 さすがに先輩に向かって、今のはまずかったと必死で取りつくろうが、江渕さんの機嫌は直る様子がない。

「……ふうん……新行内さんって、やっぱり秋川さんに気があるのね? 私、負けないから」
「い、いえ、そんな……」
「江渕、やめなって!」

 畑野さんにたしなめられた江渕さんは、私を軽くにらみ付けると席を移動していった。
 やってしまった、と思った。

「……畑野さん、すみません……私、江渕さんを怒らせてしまいました……」
「いや~、あれは江渕が悪いでしょ。っていうか、あの子、主任が絡むと途端に攻撃的になるんだから……。前もそれで他の子とやり合って、相手の子、江渕に嫌気が差して部署異動したっていう前科があるの……ごめんね、せっかくの歓迎会なのに」

 もっと早く止めに入るんだった、と畑野さんが謝ってくる。気にしないでください、と首を横に振りながらも、やはり気分は落ち込む。
 ――あんなにムキになるくらい、江渕さんは秋川主任のことが好きなんだ……
 ため息をつき、残っていたレモンソーダを全部飲む。なんとなく、もう少しだけお酒が飲みたい心境だった。
 畑野さんからメニューをもらい、思い切ってビールを注文する。
 ジョッキになみなみとがれた初めてのビールは、ただただ苦かった。

「……にがい……」

 これが大人の味か……と思っていると、隣に座っていた畑野さんがトイレに立つ。前に座っていた人も別の場所で飲んでいるので、その場に私だけがぽつんと残されてしまった。
 ――なんか……一人になってしまった……
 じゃあ、せっかくだし、また湯豆腐でもいただこうかな、とお鍋に残っていたお豆腐を自分のうつわに入れていると、隣に誰かが来たような気配がした。

「新行内さん、お酒飲めるの?」

 その声にハッとなって隣を見上げると、そこにいたのは秋川主任だった。

「あ……秋川主任」
「ビールか。一緒だな」

 秋川主任が持ってきたジョッキにはビールが入っている。

「はい。初めて飲みましたけど、苦いです。そのうち美味おいしく感じるようになるんでしょうか?」

 何気なく思っていることを口にすると、秋川主任が驚いたように目を見開く。

「……ビール、初めて飲んだの? 本当に?」
「はい。私の実家には、ビールを飲む人がいなかったので……」

 これは事実で、私の父はワインをたしなみ、母は日本酒をたしなんでいた。何より、つい最近まで外での飲酒を禁止されていた私は、ビールを飲む機会というものに恵まれなかったのだ。

「そうか、じゃあ最初は苦く感じるだろうな。でも、そのうちこの苦さがやみつきになるんだよ。暑い日に、キンキンに冷やしたビールを飲んでみな? 旨いから」
「……じゃあ、今度、試してみます」

 主任が言うのならきっとそうなのだろう。私はビールを買って冷やしておこう、と心に決めた。
 そう思いながらビールの入ったジョッキに口をつけると、隣から秋川主任の声が聞こえてくる。

「……新行内さんは、きっとご両親に大事に大事に育てられたんだろうな」


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