お嬢様は普通の人生を送ってみたい

加地アヤメ

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1巻

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 同期の釜屋さんと、久しぶりにランチをご一緒することになった。
 私と釜屋さんは、社員食堂のテーブルに向かい合わせに座り、お互い本日のAランチであるエビチリ定食を前に手を合わせる。

「それにしても、新行内さんが秋川主任の補佐になるなんて、びっくりした」

 話し始めてすぐに彼女の口からその話題が出たことに驚き、ついはしを止めてしまった。

「あの。その情報をどこで聞いたのですか……?」

 思わず尋ねると、釜屋さんがごくん、とご飯を呑み込んで教えてくれた。

「秋川主任って、社内ですごく人気あるみたいでね、私の部署の女性社員が噂話してたんだ。秋川さんに、新入社員の女の子が補佐に付いたらしい……て」
「そ、そうなんですか……やっぱり秋川主任の人気はすごいんですね。実は私も、何回か女性社員が秋川主任の噂話をしている場面に遭遇しました」

 ある時、休憩時間に無料で飲めるコーヒーを淹れに行ったら、そこに集まっていた別部署の女性社員が秋川主任のことを話していた。また、社員食堂で食事をしている時も、度々女性社員の会話に秋川主任の名前が出てくるのを耳にした。
 そうしたことから、彼がこの会社でかなり有名人であることがよく分かった。

「で、新行内さん。そんな有名人の下で働いている率直な感想は? 実際の秋川さんって、どんな感じ?」

 食べる手を止め、釜屋さんが目をキラキラさせながら私に尋ねてくる。
 どんな感じと聞かれて、ぼんやりと秋川主任を思い浮かべた。

「……実際の、ですか……? そうですね……すごく優しく丁寧に指導してくださるので、秋川主任の補佐に付けてよかったなって思います」

 頭の中に秋川主任の顔を思い浮かべた私は、これまでのことを思い出し、はあ~と深いため息をついた。
 秋川主任に付いて仕事を教わっている私も、四六時中一緒にいるわけではない。というのも、人一倍お忙しい秋川主任は、ちょくちょく外出したり、会議で席を外すことが多いからだ。
 なので主任が不在の間、私は教わったことをふまえて一人で黙々と作業をしているのだが……
 やはりというか案の定というか、この一週間、何度も失敗をして秋川主任の手をわずらわせてしまっていた。
 昨日も、打ち込んだばかりのデータの保存を忘れてしまい、あまりの申し訳なさに地中深く埋まりたくなってしまった。

『本当に、申し訳ありませんでした……!!』

 ――私のバカ……!! どんくさいにもほどがある……!!
 私が頭を下げ小さくなっていると、『ちょっといい?』と言って、主任が私のパソコンの前に座って何やら作業をし始める。しばらくすると、モニターに消えたはずのデータが表示されていた。

『はい、これで元通り』
『え、あれ……?』

 パソコンにうとい私は知らなかったのだが、どうやら自動保存機能があったらしく、消えたと思ったデータは消えていなかったのだそうだ。

『よ、よかった……消えていなくて!! ありがとうございます』

 胸に手を当て安堵しながら、主任にお礼を言うと、何故か『ごめんな』と謝られた。

『いや、自動保存のこと言ってなかった俺が悪かった。ごめんな、無駄に落ち込ませて』

 どう考えても保存を忘れた私の方が悪いのに、こんな風に言ってくれるなんて。
 ――秋川さんって、なんていい人なんだろう……
 秋川主任に感謝しつつ、忙しい彼の手をわずらわせてしまったことに改めて落ち込んでしまった。
 そのことを思い出し、またため息を零す。

「へえ……そうなんだ~。格好いいのに優しいなんて、そりゃ女性から人気出るわよね」

 再びはしを動かし始めた釜屋さんに、私は激しく同意する。

「そうですね……世の中には、こんな素晴らしい男性がいらっしゃるのだと、衝撃を受けました」
「衝撃って……あ、そっか。新行内さん、女子校だったから、あんまり男性と接してこなかったのか。もしかして、男性が苦手だったりする?」

 ぱくぱくエビチリのエビを口に運ぶ釜屋さんに尋ねられ、私は考える。

「苦手ではないのですが、これまで家族以外の男性とほとんど接することがなかったので。それに、お付き合いなどもしたことがないですし、なんとも……」

 正直に話したら、釜屋さんがはしまんだばかりのエビをぽろりと落とした。

「……えっ、ないの? 一回も?」
「はい」
「そ、そっか……それは確かに衝撃を受けるかもね……でも、秋川主任みたいな人、そうそういないから、ある意味、新行内さんはラッキーだったね」
「ラッキー、ですか」
「うん。あ、そうだ。そういえばね……」

 すぐに釜屋さんから別の話題が振られる。だけど私の頭の中には、彼女の言った「ラッキー」という言葉が何故か消えずに残った。
 ――そっか、ラッキーなのか……
 なんだかよく分からないけど、そう言われたら嬉しい。
 思いがけず気分が上がったまま、釜屋さんとの楽しいランチタイムは続いたのだった。


 ランチを終えた私が部署に戻ると、秋川主任から新製品の展示会について説明される。

「毎年、うちみたいなメーカーが、こぞって新製品を出品する展示会があるんだよ。今年は来週に社外の展示場でやるんだけど、できれば新行内さんにも手伝ってもらいたいんだ」

 私は、秋川主任に渡された、概要の書かれたプリントに視線を落とす。我が社が開発・製造・販売している電子部品や、カーナビやスピーカー、それに近年本格的に参入したロボット掃除機などの新製品を展示し、従来の顧客以外にも広く商品をアピールする場となっているのだそうだ。
 こういう場に行くことも勉強のうち。もちろん私に断るという選択肢はない。

「はい。分かりました」
「展示会の期間は来週の水曜日から土曜までだけど、そのうちの二日間、手伝いをお願いできる? 普通に会社に来てくれれば、俺が一緒に会場に行くから」
「はい」

 素直にこくりと頷くと、秋川主任は小さく頷き返して席を立った。それを見届けた私は、再びプリントに視線を落とす。そこで、裏面に参加企業の一覧が載っていることに気づいた。
 ――どんな企業が参加するんだろう。
 何気なくその一覧に目を通していた私は、ある企業の名を目にした瞬間、小さくうめき声を上げてしまった。
「SGC電機株式会社」――私の実家、新行内家が経営する会社の一つである。
 私が就職した会社は、実家の関連企業とは業種が違うので、すっかり気を抜いていたけれど、まさかこんな形で関わることになるとは。
 ――ど、どうしよ……これはマズいかもしれない……
 うちが経営する会社の重役は、新行内の親族が多く、私とも顔を合わせる機会が多い。なので、世間一般にはおおやけにされていない私の顔も、もちろん知られている。
 展示会で万が一、知り合いに遭遇することになったら……
 私は、大企業の重役が、新入社員の私に声をかけてくる場面を想像して青くなる。そんなことになったら、周りにいる人は絶対私の素性をあやしむ。
 ――急いで何か対策を立てなければ!
 展示会に行くまでの数日間、私はどうやって身バレを防ぐか、そのことばかり考えていた。
 そして展示会当日。
 出勤してきた私の姿を見て、秋川主任が「あれ?」と声を上げた。

「今日の新行内さん、いつもと雰囲気が違うね。髪型や服装もだけど、眼鏡してるからかな?」
「そ、そうですか? 今日は、上手うまくコンタクトが入らなかったので……」

 笑顔でなんでもないふりをすると、秋川主任はそれ以上聞いてこなかったのでほっとする。
 今日の私は、黒縁の眼鏡をかけ、いつも下ろしている長い髪を後頭部でお団子にしていた。服装も、普段スカートやキュロットが多いけど、かっちりとしたパンツスーツだ。
 昨夜、秀一郎にもビデオ通話で確認してもらい、一見すると私とは分からない、とお墨付きをもらっていた。
 心の中でよし、とこぶしを握りしめつつ、秋川主任がハンドルを握る車に乗り込んだ。そうして私は、もう一人の担当者と共に展示会が行われる会場に移動した。
 会場となるのは、湾岸エリアにある大きなイベント会場で、こうした場所に来るのが初めての私は、目的を忘れて建物に見入ってしまった。
 ――ここがイベント会場……大きい……
 展示する製品は事前に運び込まれているので、私達は直接ブースに移動し、来客の対応をするのが仕事だ。
 関係者に配られた会場のマップで、ブースの位置を確認する。私が一番近づきたくない「SGC電機」のブースとは、位置が離れていたのでとりあえず安心した。
 でも、いつどこで誰と遭遇するか分からない以上、気は抜けない。
 ブース内の製品やパンフレット、それにブースに来てくださった方に差し上げる販促品を確認しながら、周囲をうかがっていると、秋川主任が顔をのぞき込んできた。

「新行内さん、大丈夫? なんか元気ないけど」

 主任に声をかけられて、ハッ、とする。
 ――いけない。今は仕事に集中しなくては……!! 
 忙しい秋川主任に、余計な心配をかけてはいけないと思い、気を引き締め直す。

「いえ、大丈夫です……それに私、体は丈夫なので……」

 笑顔で返事をしたものの、動揺しているせいか会話がかみ合っていないことに気づき、「すみません、本当になんでもないんです」と謝った。
 私の返答に不思議そうな顔をしていた秋川主任は、何かを思い出したように持参したバッグを漁ると、ミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれた。

「よかったら飲んで。初めてだし、最初は緊張すると思うけど、時間が経てば慣れるから。それと、もし途中で具合が悪くなったら、遠慮なく言うこと。いいね?」
「は、はい! ありがとうございます」

 買ってからまだそんなに時間が経っていないのか、冷たいペットボトルを握りしめた私の胸が、小さくうずく。それは、これまで感じたことのない、痛みのような不思議な感覚で。
 ――ん? 何、この感覚……もしかして私、本当に具合悪いのかしら……
 困惑しながら陰に隠れてお水をいただき、再びブースに戻る。そこではすでに、我が社の製品に興味を持った人が続々と足を止め始めていた。
 事前の打ち合わせ通り、私が足を止めてくれたお客様一人一人に販促品を渡し、興味を持ってくれた方に秋川主任が製品の説明をしていく。

「どうぞ、ゆっくりご覧になってください。こちらは、今年発売する新製品でして。これまでの製品より、だいぶ性能が上がっています。例えばこちらの機能ですが……」

 流れるような主任の説明に耳を傾けられた方々は、興味深そうに聞き入り必ずパンフレットを持って帰っていく。
 お客様の姿が見えなくなると、秋川主任が短く息を吐いた。

「……と。まあ、こんな感じです。中には細かく機能とか聞いてくる人もいるので、そういう場合は、無理せず俺に振ってくれていいから」
「はい。分かりました」

 ちょっとだけ緊張がほぐれた私の目に、秋川主任の社員証が映る。
 ――秋川……こう……KOU AKIKAWA……秋川主任って、こう、っていうんだ。
 いつも書類に名前が書いてあっても読み方が分からなかったのだが、社員証を見てようやく判明した。素直にいい名前だと思った。すごくお似合いだ。

「秋川主任って、にじって書いてこう、っていうお名前なのですね。素敵です」

 まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。秋川主任が口を開けて、ぽかんとしている。

「……え? 名前?」
「その、社員証を拝見しまして……恥ずかしながら、今の今まで、なんて読むのかなって思ってました」
「……今? 一週間以上隣で仕事してたのに?」
「はい、なので、恥ずかしながら、と……」

 私と秋川主任の間に、数秒の間がいた。

「新行内さんって、天然って言われたことない?」
「は、天然……ですか? あの、マグロとかウナギの……」
「うん、ごめん。俺が言ったことは忘れてくれ」

 秋川主任はパッと口元に手をやると、私に背を向けてしまった。

「……え? それはどういう意味……」

 さっぱり状況が理解できないでいると、またブースに足を止める方が数人いらしたので、私達は急いでその方達の対応に回った。
 忙しくやって来る人達の対応をしているうちに、あっと言う間に昼時になる。各企業の参加者には、あらかじめ控え室が用意されており、そこで各自昼食を取ることになっていた。

「あー、もうこんな時間だな。新行内さん、先に食事してきていいよ」
「はい。じゃあお先にいただきます」

 秋川主任がそう言ってくれたので、私はその厚意に甘えさせてもらう。
 展示場のすぐ近くにコンビニやカフェがあるので、そこで昼食を調達する人がほとんどらしい。事前にそれを聞いていた私は、コンビニでサンドイッチを買って控え室で食べることにした。
 主任はゆっくりしておいで、と言ってくれたけど、さすがに先輩方が何も食べずブースで待機しているのに、自分だけのんびり食事なんてできない。
 できるだけ早く食事を済ませた私は、急いでブースに戻った。
 ――お昼時だからか、さっきより人が少ないかな……
 キョロキョロしながら、食事の間外していた眼鏡を持ってブースに向かっていると、正面から歩いてきたスーツ姿の年配男性とすれ違う。その男性が私の横を通り過ぎる瞬間「あれっ!?」と声を上げた。

「涼歩ちゃんじゃないかい?」

 いきなり名前を呼ばれたことに驚き、勢いよくその男性を見上げる。
 グレイヘアーを綺麗に整え、上質な明るいグレーのスーツを身につけた男性の顔には見覚えがあった。

「す……須藤すどうのおじさま……!!」
「やあ、久しぶりだな~。何年ぶりかな。すっかり大人になって。元気にしてたかい」

 私を見つめるおじさまは、目尻を下げ優しげに微笑んでいる。
 須藤のおじさまは、須藤産業という重機を製造販売するメーカーの社長さんだ。父とは高校時代からの友人で、年に何回かお互いの家を行き来するほど仲が良く、私も子供の頃から知っている。
 久しぶりに会ったおじさまに、ついつい私も気が緩んで笑顔になった。

「はい、元気です!! おじさまもお元気そうで」
「はは。いつの間にか、こんなに年食っちゃったけどね。お陰様で元気だよ。……で、涼歩ちゃん。今日はこんなところで何をしてるんだい?」

 この質問に、なつかしい気持ちが一転。頭の中に「絶体絶命」という言葉が浮かんだ。

「いや、えっと……それがですね……ちょっと事情がありまして……」

 なんとかしてこの場を切り抜けなければと、必死に頭を働かせる。しかし、おじさまは眉根を寄せながら、私の胸元に提がった社員証に視線を向けた。

「……社員証? あれ、もしかして涼歩ちゃん、そこに就……」
「おじさま、ちょ、ちょっとこちらへ!!」
「え?」

 私は咄嗟とっさにおじさまの腕を掴み、ブースとブースの境目にある隙間に連れ込んだ。私の突然の行動に、おじさまは目を丸くして驚いているようだった。
 おじさまと一緒にいた部下らしい二人の男性が、ぽかんとしたまま、通路に立ち尽くしている。

「す、すみません、おじさま。でも、これには事情があるんです……!!」
「はて、事情……?」

 興味深そうに眉を動かしたおじさまに、私が今の会社に就職することになった経緯を説明した。すると、それまで神妙に話を聞いていたおじさまの顔に、だんだんと笑みが浮かんでくる。

「ははーん、なるほどねえ……。しかし新行内家のご令嬢が一人暮らしだなんて、なんと思い切ったことを……あの源嗣さんがよく許したね。涼歩ちゃんを溺愛しまくってるのに……」
「だからです。このご時世、何があるか分かりませんし、いつまでも家に守られているようではいけないと思って。だからおじさま、私が今の会社で働いていることは誰にも言わないでいただけますか? 周囲に私の正体がバレたら、父との約束で実家に戻らなくてはいけないので……」

 必死に訴えると、おじさまは少し考えた後、静かに頷いてくれた。

「いいでしょう。でもね、涼歩ちゃん。君が新行内家の一人娘という事実は変わらないんだ。だから君は、これまで以上に周囲に気を配ったほうがいい。君の正体を知った途端、周りの目が百八十度変わるからね……そのことを、忘れちゃいけないよ?」

 声は優しいけど、目が笑っていない。本気で私のことを心配してくれていると分かるからこそ、私は神妙にならざるを得なかった。

「……はい、分かっています……」
「よし。じゃあ、頑張って! 何か困ったことがあれば、私でよければいつでも相談に乗るからね」
「おじさま……ありがとうございます」
「うん、じゃ」

 最後ににっこり微笑んで、須藤のおじさまは部下達と一緒に会場の奥へ歩いていった。
 それを見送った私は、一度ため息をつき、気持ちを入れ替えて自分のブースに戻る。

「秋川主任、お先にお昼ありがとうございました」

 来客が一旦落ち着いたブースで、水を飲んでいた秋川主任に声をかける。

「お帰り。今さ、どっかの企業の重役っぽい人と話してなかった? もしかして知り合い?」

 ――ええっ!! まさか秋川主任に見られてた!?
 内心ものすごく動揺しつつも、それを悟られないよう必死に平静をよそおった。

「あっ……の、そう、トイレの場所を聞かれまして……」
「そうなんだ。確かにこうやってブースが並んでると、トイレの場所が分かりにくいもんな」

 とりあえず不審がられていないので、誤魔化しは成功した模様。

「それよりも、主任。お食事に行ってください」
「いや、俺は別に食べなくても大丈夫だ。水飲んだし」

 冗談なのか本気なのか、そんなことを言う秋川主任に、私はちょっと困惑した。

「いえ、ちゃんと食べないとだめですよ。他の先輩方もいらっしゃるので私は大丈夫ですから」

 そう訴えると、主任がははっ、と笑い声を漏らす。

「そうか。気を遣ってもらって申し訳ないね。じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっとだけ抜けるわ」

 秋川主任はそう言うと、もう一人の営業担当者である駒田こまださんという男性社員に声をかけ、ブースから出ていった。
 その後ろ姿を見送っていると、駒田さんが私の近くに寄ってくる。

「あの人、ほっとくと本当に何も食べないまま、夕方までぶっ通しでブースにいたりするからね。新行内さんが食事に行かせてくれてよかったよ」

 苦笑いする駒田さんの言葉に、私は目を見開いた。

「えっ……さっきのアレ、冗談じゃなかったんですか……!!」
「うん。今日はわりと人が少ないから、休憩する余裕があるけど、忙しい日はマジで食事する余裕なんかないからさ。しかも秋川さん、あのビジュアルで目立つだろ? そのせいか、ひっきりなしに声かけられて、夕方まで休みなしなんてことがよくあるんだよ」
「えええ……!! そ、そうだったんですね……」

 でも、秋川主任は外見だけじゃなく、製品に関する説明もすごく分かりやすい。それに、声もよく通るから、頭にスッと入ってくる。だからみんな、彼に声をかけるのかもしれない。
 そんなことを思っていると、ブースに数人来客があった。商品の説明は駒田さんに任せて、私は彼の隣でその補佐に回る。

「ねえ」

 その時、私の左横から声をかけられた。「はい」と返事をしてそちらを向くと、スーツ姿の若い男性が立っている。首から提げられた社員証の企業名には見覚えがあった。展示会に参加している他の企業の社員らしい。

「おたくの製品、俺、長いこと使ってますよ」
「ありがとうございます!」
「で、この新製品、俺が使ってるヤツの後継になるみたいだけど、具体的にどういうところが違うの?」
「あ、はい。それでは、細かな説明は営業担当の駒田が……」

 専門的な話は私ではなく、駒田さんの担当。しかし話を振ろうとした駒田さんは、現在別のお客様の対応中だった。
 では、別のスタッフ……と周囲を見回すが、それぞれ他のお客様の対応に付いている。要するに、今フリーなのは私しかいない。
 ――どうしよう。私じゃ、上手うまく説明できない……!!
 咄嗟とっさの対応に困っていると、その若い男性は私を見てクス、と笑う。

「自社製品のこと、よく知らないんだ? まあ、若い女の子じゃあ仕方ないか……しかし君、可愛いね」
「……え?」

 製品の話から、何故か違う話になったことに、私はますます混乱した。
 その間に、男性は身を乗り出してまじまじと私の顔をのぞき込んだ後、社員証に視線を落とす。

「新行内涼歩ちゃんっていうの? へえ~、あの新行内と同じ名字なんだ。まさか関係者だったりとかする……?」

 私の顔をうかがってくる男性に、思わずぶんぶんと首を横に振って否定した。

「いいえ!! 違います。まったく関係ありません」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、せっかくだし名刺交換しようよ。俺のあげるから、君のもくれる?」
「あの、その……私は営業担当ではないので……」

 男性が名刺を差し出そうとした時、私と男性の間にすっと人が立ちふさがった。

「ありがとうございます。では、私が」

 ――あれっ。
 私の前に立ちふさがったのは、秋川主任だった。
 主任は男性から名刺を受け取ると、素早く自分の名刺を取り出し、男性に手渡した。

「製品に関する説明は、私がさせていただきます。ご質問がありましたら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」

 にっこりと微笑む秋川主任の、できる男のオーラにビビッたのか、今までぐいぐい来ていた男性の腰が引ける。

「あ、ああ……じゃあ、パンフレットだけいただいていきます……」

 秋川主任にひるんだ男性は、製品のパンフレットを持っていってしまった。その後ろ姿を見送りながら、私はほっと胸を撫で下ろした。 
 それにしても、助けてくれたことはありがたいが、さすがに戻って来るのが早すぎる。
 私はいまだ男性の姿を見送っている秋川主任に、こそっと声をかけた。

「秋川主任、戻って来るのが早いですよ!! ちゃんとお食事されたんですか?」
「ちゃんと食べたよ。来る途中コンビニで買ってきたおにぎりを二個。元々俺、早食いだし」
「は、早食いにもほどがありますよ」

 面食らった私の顔が可笑おかしい、と言って、秋川主任が笑う。

「さっきの男性は、うちの製品より新行内さんに興味があるように見えたけどね。ああいう人には、気をつけて。新行内さん、意外と隙がありそうだから」
「隙……ですか? 自分ではそんなつもりはないのですが……」
「だろうな。まあ、今みたいなことがあったら、休憩中でも構わず俺のこと呼んで。いいね?」
「は、はい。分かりました」
「よし」

 そう言って微笑む秋川主任に、何故か胸の辺りがキュッとして、苦しいようななんとも言えない不思議な感覚におちいった。
 ――あれ……? 今の、何……?
 これまでの人生で味わったことのない不思議な感覚に、私は一瞬混乱する。でも今は仕事中なので、そんなことを考えている場合ではない。
 私は気持ちを切り替えて、ブースにいらした方の対応に集中する。
 そうして数時間後。これといったトラブルもなく、無事に展示会の終了時間を迎えた私と秋川主任、それと駒田さんの三人は、ブースの片付けをして会場を後にした。
 車で会社に向かう途中、後部座席の駒田さんが別件で車を降りる。すると、自動的に車内は運転している秋川主任と助手席に座る私の二人だけになってしまう。
 その途端、これまでなんともなかった私の心臓が、急にどきどきと大きく音を立て始める。
 ――あれ。なんだろうこれ。急に緊張してきた……
 それもそのはずで、私はこれまで、移動の際はいつも後部座席に座っていたのだ。
 こんな風に、若い男性が運転する車の助手席に座ったことなど、生まれてこのかた一度もない。何より、私がお世話になっていた運転手は、常に女性だったし。
 ――よく考えたら、こういうシチュエーションは初めて……
 意識した途端、尚更緊張した。
 どっきんどっきんから、ばっくんばっくんしてきた心臓の音を秋川主任に聞かれたら、絶対に変に思われる。
 明らかに様子のおかしい私に、秋川主任がちらりと視線をよこしてきた。

「大丈夫? なんか顔が強張こわばってるけど……」


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