お嬢様は普通の人生を送ってみたい

加地アヤメ

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1巻

1-1

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   一


 ここはオフィスビルが建ち並ぶ街の一角にある、電子部品、音響機器などを製作する電器メーカーの自社ビル。
 この春入社したばかりの私――新行内しんぎょうち涼歩すずほは、午前の新人研修を終えて席を立とうとしたところ、隣にいた同期の女性に声をかけられた。

「新行内さん、一緒にお昼行かない?」
「あ、はい! 行きましょう」

 声をかけてくれたのは釜屋かまやさんという、私と同じ二十二歳の女性。ここ数日、顔を合わせる度に隣に座り、一緒に研修を受けている。
 入社式で隣だった彼女は、私と同じく女子大出身だったこともあって意気投合。この会社に入って初めて会話を交わした女性である。

「新行内さん、お昼何にする? 私は昨日和定食だったから、今日は違うものにしようかな」
「私は昨日パスタだったから、今日はお肉にしようと思います」
「へえ。新行内さん、お肉好きなの?」
「わりと好きです……」

 他愛ない会話をしながら、私と釜屋さんは人が続々と吸い込まれていく社員食堂へ移動する。
 この会社の社員食堂は、値段がとてもリーズナブルで、味も美味おいしい。しかも、社員が首から提げている社員証で購入ができて、料金は給料から自動に引かれる仕組みだ。
 今日のランチはAが中華、Bが和食、Cがイタリアン。
 トレーを持って列に並び、カウンターでAランチを注文する。すぐに、食堂のスタッフが慣れた手さばきでトレーの上に料理のお皿を置いていってくれた。
 ちなみに今日のAランチのメインは、油淋鶏ユーリンチー

「新行内さんの美味おいしそうね。私もAにすればよかったかな~」

 そう言いながら私の手元をのぞき込む釜屋さんは、Cのカルボナーラを選んだようだ。
 広々とした食堂の中からいている窓側の席を選び、釜屋さんと向かい合わせで座る。背中の真ん中まである長いストレートの髪をシュシュで結ぶと、手を合わせ食事を始めた。
 私がスープのうつわに手を伸ばすのと同時に、釜屋さんが口を開く。

「最近、ようやく会社にも研修にも慣れてきた感じがするよ。新行内さんはどう? 慣れた?」
「そうですね~。今のところOJT担当の先輩も優しい方ばかりなので、あまり不安に思うこともなくきてるかなって感じです」

 すると釜屋さんが、ちらっと周囲を確認してから身を乗り出す。

「この会社、昔は新人研修がすごく厳しかったらしいよ。でも今の時代、あんまり厳しくするとせっかく入った新社員がすぐ辞めちゃうから、最近はゆっくり仕事を覚えてもらう方向にシフトチェンジしたらしいって、他の子が話してるの聞いちゃった」
「そ、そうなんですね……私としては、その方がすごくありがたいですけど……」
「私も……」

 小声で教えてくれた釜屋さんと二人で、しみじみと頷く。

「もうすぐ研修も終わりだし、その後どこに配属されるか分かんないんだよね」

 姿勢を戻し、フォークでくるくるとパスタを巻きながら、釜屋さんがため息をついた。

「そうですねえ。でも、どこに配属されても、頑張ることに変わりはないですし」
「違う部署になっても、たまには一緒にランチしようね?」
「はい、ぜひ!」

 こんな風に言ってもらえることが素直に嬉しくて、私の顔に笑みが浮かぶ。そのまま鶏肉とりにくを口に運んでもぐもぐ食べていると、私をじーっと眺める釜屋さんの視線に気づく。

「……? あの、何か……?」
「ううん、なんか……新行内さんて良い子だなあって。言葉遣いとかすごく丁寧じゃない? 姿勢もいいし、おはしの遣い方も綺麗だよね。きっと親御さんが、ちゃんとした方なんだろうなって」
「……えっ!?」

 親の話題を出された瞬間、思わず体が震えた。

「そ、そんなことはないですよ……わりと滅茶苦茶っていうか、一般的ではないといいますか……」

 必死に取りつくろう私に、釜屋さんが不思議そうな顔で首を傾げた。

「滅茶苦茶……? でも、あの新行内家の遠縁にあたるんでしょう? それだけでも、へえ~!! って思ったけどね」

 釜屋さんがニコッとして、フォークでパスタをくるくる巻く。それを笑顔で見つめながら、私は背中につつーっと嫌な汗が流れるのを感じていた。

「……は、はい……すっごく遠いんですけど……一応……」

 新行内家――それは、おそらくこの国で知らない人はいないであろう、超有名な一族の名前だ。
 世界的な有名企業を数多く持ち、財界だけでなく、政界にも著名人を何人も輩出している名家である。
 そして、何を隠そう私は、その新行内家の現当主、新行内源嗣げんじの一人娘なのである。
 ――ごめんなさい、釜屋さん。私、遠いどころかど真ん中なんです…… 
 目の前でにこにこと微笑む同期に、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、私はこの会社に入るまでの経緯を思い返す。


 新行内家の一人娘として生まれた私の周囲には、常に人がいるのが当たり前だった。それというのも、私がまだ小さい頃、家政婦として家に出入りしていた女性に誘拐されかけた、という事件があったせいだ。
 運良く、私を家から連れ出そうとする家政婦に周囲が気づき、誘拐は未然に防ぐことができたものの、それ以来両親は私のことを必要以上に心配するようになってしまった。
 だから私は、小学校から大学に至るまで、とにかくセキュリティのしっかりした、いわゆるお嬢様学校と呼ばれる環境で過ごすことになったのだ。しかも、両親が学校への寄付を上乗せし、セキュリティ面を強化させたという話まであるくらいで。
 おまけに、このネットで検索すればなんでも分かってしまう世の中にありながら、私のことはおおやけにはされていないという徹底ぶり。
 家の力を使って情報を操作していると、父から聞いた時は心底驚いたものだ。
 そんな生活が当たり前となりつつあった中学生の頃、私の意識が変わる出来事が起こった。それまでずっと仲良くしていたクラスメイトの実家が、倒産してしまったのだ。
 私はその子と仲が良かったし、彼女のことが心配でたまらなかった。なのに、クラスメイトの大半は、彼女の実家の事情が分かった途端、態度をガラリと変えたのだ。
 ――○○さん、今度公立の中学校に転校されるらしいわよ。
 ――そりゃそうよ、○○さんのお家には、もうここの学費は払えませんものねえ……
 挙げ句の果てには、落ち込む彼女に声をかけようとした私を『声をかけない方がよろしいですわ。今や彼女と涼歩様では、天と地ほども立場が違うのですから』と言って、側に近づかせてもくれなかったのだ。
 結局その子は、しばらくして転校してしまった。しかしクラスメイト達は、彼女など最初からいなかったかのように振る舞った。それがショックだった。
 その時思ったのだ。
 もし、家の事業が失敗したのが私だったら、どうなっていただろう、と。
 ――絶対ない、なんて言い切れない。
 私だって、ある日突然、彼女のような立場に立たされるかもしれないのだ。だとしたら、今みたいに甘やかされ、守られるだけの状況に身を任せていてはだめなのではないか…… 
 そう思った私は、不測の事態に備え、自分にできることを必死に調べ、勉強した。そして、高校在学中に取れる資格をできるだけ取った。
 その上で、大学進学の際、このままエスカレーター式に大学部へ行くのではなく、社会勉強を兼ねて外部の大学を受け直したい、と両親に相談した。
 だが結果は……あっけなく却下された。
 親の金で勉強しているうちは、親の言うことを聞きなさいと言われ、確かにそれも一理あると納得した。でも、私は諦めなかった。
 就職先を決める際、私は改めて、両親に新行内とは関係のない会社に応募して就職試験を受けたいこと、採用されたら家を出て一人暮らししたいことをお願いした。
 私の願いは、もちろん猛反対された。新行内の一人娘が一人で住むなんてとんでもない、と。
 でも、もしここで、また親の言う通りに就職したら、私が家を出て社会勉強をするチャンスは、きっと一生めぐってこないだろう。それどころか、就職してすぐに結婚相手を紹介され、寿ことぶき退社することになりそうだ。
 ――そんなの、絶対イヤ!!
 だから私は、来る日も来る日も両親を説得し続けた。せめて五年、さもなくば三年だけでいいと、諦めることなく説得した。
 やがて、私の熱意が通じたのか、はたまた説得は無理だと諦めたのか……両親はいくつかの条件をつける形で、私の独り立ちを承諾してくれた。
 その条件のうち、私にとって一番大きな意味を持つものがこれだ。

【新行内家の一人娘であることがバレたら、速やかに会社へ退職届を提出し家に戻ること】

 この条件について、最初軽くとらえていたことはいなめない。
 だけど社会に出て初めて、「新行内」という名の持つ影響力の大きさを、身をもって理解することになったのだ。

「……新行内さん? どうかした?」

 思わず物思いに沈んでいた私に、釜屋さんが心配そうに声をかけてくる。

「あっ、ううん! なんでもないです!」

 私は笑顔で誤魔化して、再び食事に戻ったのだった。


 今日の研修を終えた私が、電車とバスを一時間ほど乗り継いで向かった先は、築二十年になるワンルームマンション。その三階にある六畳一間の小さな部屋が私のお城だ。

「ただいま帰りました」

 玄関でパンプスを脱ぎながら、独り言のつもりで言った声に、「お帰りなさいませ」と返事があってギョッとする。聞き慣れた声と、狭い玄関の端っこにきっちりと揃えられたピカピカの革靴を見て、声の主がすぐに分かった。

秀一郎しゅういちろう
「はい」

 六畳ほどの部屋の中心に置かれた小さなテーブルの前で、きちんと正座しているスーツ姿のグレイヘアーの男性は轟木とどろき秀一郎。御年おんとし七十歳になる彼は、我が新行内家に長年仕えている執事である。
 多忙な両親に代わり、子供の頃からいつも側にいてくれた秀一郎は、私からすればもはや家族も同然の存在だ。
 しかし、いくら家族同然といえども、こうして留守中に部屋に上がり込まれてはたまらない。

「はい、じゃない。また私がいない間に勝手に入って! せめて連絡してからにしてって、この前言ったじゃない!」

 声を荒らげる私に、秀一郎は涼しい顔で「しましたよ」と私の方を向く。

「涼歩様の帰宅時間に合わせて土産みやげを調達し、向かう直前に電話しましたよ。でもいくら電話を鳴らしても出ていただけなかったので、仕方なく先に上がらせてもらいました」
「えっ? 電話?」

 秀一郎に言われて慌ててバッグの中のスマホを確認する。すると確かにえげつないくらい着信履歴があった。
 ――しまった……スマホ、サイレントに切り替えたままだった……

「ご、ごめん……着信音切ってた」
「だと思いました。まったく……涼歩様らしい」

 呆れ顔の秀一郎は、目の前に置かれた湯呑みを手に取り、ずずとすする。どうやら私を待ちながら、一人でお茶を飲んでいたようだ。
 そんな彼を横目で見ながら、手にしていたバッグをクローゼットに入れ、洗面所で手を洗ってうがいをした私は、改めて秀一郎と向かい合う。

「さて。今日もお仕事お疲れ様でした。何か変わったことなどはありませんでしたか?」

 秀一郎はちょくちょく訪ねて来ては、近況を聞いてくる。それもこれも、新行内家当主の娘であることがバレていないか、会社でご迷惑をかけていないかをチェックするためだ。
 少しでもあやしいところがあれば家に連れ戻す、という父からの命令らしい。

「……今日も無事に与えられたお仕事をして参りました。他には何もありません。報告は以上です」
「それは結構でした。しかし、この部屋の狭さ、どうにも慣れませんね……。やはり旦那様に相談して、もっと広くてセキュリティのしっかりしたところに移った方がいいのではないですか?」

 周囲をキョロキョロした後、秀一郎が眉をひそめる。

「何言ってるの、一人で住むには充分な広さじゃない! 私は、このお部屋がとっても気に入ってるの」

 独り立ちをすると啖呵たんかを切った以上、親の力を借りるつもりはなかった。
 このマンションだって、会社からは少し距離があるけれど、自分の給料で借りられる中では一番いい物件だ。大家さんが女性というのも嬉しいし、リフォームしたてで部屋が綺麗なのも気に入っている。
 それにセキュリティだって、マンションの入口はオートロックで住人以外は入れないようになっているし、周辺は住宅街で治安も悪くない。
 住んで二ヶ月になるが、今のところなんの問題も感じていなかった。
 だけど秀一郎は、ここに来る度に、今の私の生活について不満を漏らす。

「それでもですよ。新行内家の一人娘が、このような狭い部屋に護衛もつけず一人暮らしなんて、私は心配で心配で夜も眠れず……」
「やめてよ。大袈裟おおげさだから。せっかくもうすぐ研修期間も終えて、晴れて正社員になれるっていうのに」

 自分の湯呑みを持ってきて、秀一郎があらかじめ沸かしておいてくれたお湯でお茶を淹れる。そんな私を見て、秀一郎がはあ、とため息をついた。

「正社員ですか……問題なくやれているようで何よりですが、本当に大丈夫なのですか? 私はそれが気がかりで、涼歩様が家を出てから胃の調子が……」

 胃の辺りを押さえて苦しげな顔をする秀一郎につられ、私もため息をついた。

「そんなに心配しなくたって大丈夫よ! 新行内という名前でも、こっちが堂々とあの新行内とは関係ないって否定したら、意外とすんなり信じてくれるものよ」

 確かに就職活動中や就職してからも、新行内の名を見ると眉をひそめる人は多かった。でも、私がきっぱり否定すると、そうだよね、そんな人がこんなところにいるわけないよね、という空気に変わり、それ以降家のことを聞かれることはなかった。
 堂々としていれば、余計な詮索せんさくはされない、ということを入社後の二ヶ月でよくよく思い知った。

「はあ、そういうものでしょうか……私には分かりかねますがね」

 私の言ったことに首を傾げつつ、ため息をついた秀一郎がお茶をすする。

啓矢けいや様も心配なさってましたよ。箱入り娘であるあなたが一人暮らしなど、本当に大丈夫なのかって」
「知ってます。定期的に連絡が来てますから」

 これには私も、はあ~とため息をつかざるを得ない。
 啓矢というのは私の父方の従兄弟いとこである。父の弟の長男である啓矢は二つ年上で、一人っ子の私とよく一緒に遊んでくれた気のいい相手だ。
 その啓矢も、やはり私が家を出ることに猛反対した一人で、いまだに家に戻れという説得が続いている。家を出て二ヶ月になるのだから、もうそろそろ諦めてもらいたい。

「とにかく、私は今、初めて自分の力で頑張っているの。心配なのも分かるけど、この経験は今後の私の人生に必要なことだと思うし……。だから、父と約束した三年は、どうか何も言わず見守っていてほしいの。お願いします!」

 そう言って、私は正座して床に手をつき、深く頭を下げる。すると、目の前の秀一郎が静かに立ち上がった気配がした。

「分かりました。ですが、困ったことが起きたら、すぐに連絡してください。涼歩様に何かあったら、それこそ内輪の問題では済まされませんから。そこのところ、よく承知しておいてくださいよ」

 真剣な表情で告げられた秀一郎の言葉は、ものすごく重い。それが分かっているからこそ、私はももの上の手をぎゅっと強く握りしめる。

「……はい……分かってます……」
「それなら結構。では、私はおいとまいたします。冷蔵庫に涼歩様の大好きなフルーツパーラーのケーキが入っておりますよ。本日中に召し上がってください」
「えっ、ケーキ!? ありがとう、秀一郎!」
「いいえ。今日もお仕事お疲れ様でした。早くお休みになりますように」

 そう言って、秀一郎は静かに部屋を出ていった。
 秀一郎がいなくなってすぐ、私はいそいそと冷蔵庫の中をチェックする。そこには、子供の頃からよく行くフルーツパーラーの、イチゴをふんだんに使ったショートケーキが入っていた。
 ――わー、嬉しい……!! 秀一郎、ありがとう……!!
 実家を出て以来、たまに会えばお小言ばかりの秀一郎だけど、毎回こうやって私の好きなものを買ってきてくれる。
 一緒にいる時はなかなか気づけなかったけど、一人暮らしをするようになってから、秀一郎のそんな優しさがダイレクトに身に沁みた。
 私が一人暮らしをすることで、秀一郎や両親、従兄弟いとこの啓矢にすごく心配をかけている。わがままを通している自覚がある分、今まで以上に気を引き締めなければ。
 ――うん、頑張ろう。
 私は大好きなケーキを見つめ、決意を新たにしたのだった。



   二


 晴れて研修期間を終えた私達、新入社員は、各部署に配属されることになった。
 私の配属先は営業部で、釜屋さんはマーケティング部。一緒でないのが少し残念だけど、お互い違う部署で頑張ろう、とはげまし合った。
 そうして迎えた配属初日。緊張しながら事前にうかがっていた担当者の元へ行くと、早速部署の社員に挨拶あいさつをする流れになった。

「今日から営業部に配属になった新行内さんです」
「新行内涼歩です。よろしくお願いいたします」

 そう言って頭を下げると、部署の皆さんが拍手で迎えてくれて、少しだけ緊張がやわらいだ。そんな中、微かに「新行内って……」という声が聞こえたような気がしたが、私は笑顔でスルーした。
 新行内家のお嬢様ではない私個人を評価してもらえる機会は、きっと今しかない。だからこそ、私はこの限られた時間の中で、できることを精一杯やりたいのだ。そのためにも、細かいことをいちいち気にしている時間はない。
 ――名前を呼ばれる度にビクビクしてたら、かえってあやしまれるだけだもの。
 私をみんなに紹介してくれた部長が、誰かを探すように辺りを見回す。

「じゃあ、君に付いてもらう社員だけど……秋川あきかわ

 名前を呼ばれ、すぐに「はい」と返事をした男性が私に近づいてきた……のだが、その容姿に思いがけず目が釘付けになる。
 清潔感のある短めの黒髪に整った顔立ち。細身で長身の彼は、まごうことなき美形と呼ばれるたぐいの男性だ。

「営業主任の秋川です。どうぞよろしく。これから新行内さんには、俺の補佐に付いて営業部の仕事を覚えていってもらいます」

 秋川と呼ばれた男性は、私と視線を合わせて、にこりと微笑んだ。
 これまで身近に接してこなかった美形男性の笑顔に面食らいつつ、私は深々と頭を下げた。

「は、はい。よろしくお願いいたします」
「じゃ、席に案内するから、こっちに来てください」
「はい」

 スタスタと歩いていく秋川主任の後を、私は周囲の人達に頭を下げながらついていった。

「新行内さんの席はここね」

 秋川主任が示したデスクに、私は持っていた荷物を置き、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
 ――わあ、これが私のデスク……すごく嬉しい……
 正社員になった喜びに打ち震えていると、私の隣の席に秋川主任が座った。

「俺の席は隣なんで、何かあれば遠慮なく声をかけてください」
「はい。お世話になります」

 まだ緊張でぎこちない返事をした私に、秋川主任はフッ、と笑みを漏らす。

初々ういういしいな」

 そう言って微笑む秋川主任の笑顔がものすごくさわやかで、私の胸がドキッと小さく跳ねた。
 ――なんて綺麗なお顔……これがきっと、イケメンという男性なのだわ……
 なんせ幼稚園からずーっと女子校育ちで、家族以外の男性にほとんど免疫のない私。
 経験のない、ある意味事件ともいえるこの状況に、私は秋川主任の顔を見つめたまま硬直する。そんな私に気づいた秋川主任が、表情を曇らせた。

「……どうした? 大丈夫?」
「あっ! はい。大丈夫です!!」

 声をかけられて、慌てて秋川主任から視線を逸らした。そんな私に、主任が「それならいいけど」と言いながら、再び微笑む。

「部署の雰囲気とか、仕事に慣れるまでは大変だと思うけど、最初は誰でも戸惑うし、失敗もするものだから。困ったら一人で悩まず、必ず相談してください。もちろん俺じゃなくても、部署の先輩社員なら誰に声をかけてくれても大丈夫です」

 とても優しい声音と、さわやかな笑顔に、ついぽーっとなりかけて、慌てて気を引き締めた。

「……はいっ。分かりました。お気遣いありがとうございます」
「うん。じゃあ、まずは新行内さんがやることを、順を追って説明していきます」
「はい、よろしくお願いします」

 私のデスクに椅子を近づけ、パソコンを立ち上げた秋川主任が、ゆっくりと仕事内容について説明してくれた。
 分からないことに関してその都度質問をすると、秋川主任は変わらぬ優しいトーンで、私がちゃんと理解するまで根気よく説明してくれる。
 一通りの説明を終え、ある程度のノルマを私に課すと、彼は会議があるといって席を立った。
 説明をしてくれている間、なんとしても一回で理解しなければといつも以上に集中していた結果、秋川主任の姿が見えなくなった途端、私の体から力が抜けた。
 ――ふう、緊張した……あんなイケメンさんの補佐っていうのもしだわ……でも、教えてもらったことが無駄にならないよう、頑張らなくては。
 気持ちを新たに深呼吸した私は、与えられたノルマをこなすために、パソコンのモニターに向かったのだった。


 営業部に配属になり、一週間が過ぎた。
 私の仕事は、秋川主任の補佐をする営業事務だ。彼が受注を決めるごとに契約書を作成したり、発注書を作成し発注の手続きを行ったり、お客様に送る請求書を作成するのが主な業務になる。
 まだ書類を作成する度に秋川主任の確認が必要だけど、なんとなく仕事の流れが掴めてきたような気がする。
 と同時に、だんだんとこの部署内のことが見えてきた。
 営業部の男女の比率はほぼ半々で、年齢は様々。営業担当の社員には基本補佐の事務員が付くのだが、秋川主任はこれまでほとんど補佐を必要としなかったのだとか。
 現在三十一歳の秋川主任は、年齢的には中堅の営業担当社員だが、二十代で主任に昇格するとめきめき頭角を現し、月間の売上高トップを一年近くキープし社長賞を数回もらうほど優秀な人なのだと、近くの席に座る女性社員が教えてくれた。
 それに加え、長身でスタイルも良く、整った顔立ちから女性人気も高いのよ、と耳打ちされる。それに関しては、言われる前から私もなんとなく気づいていた。
 毎日色合いの違うスーツを身にまとっている秋川主任は、腰の位置も高いし、おしりも小さくキュッと上がっていて本当にスタイルがいい。
 私も実家にいる時は、秀一郎をはじめスーツを着た男性といつも接してきたけれど、秋川主任ほどスーツが似合う男性をこれまでに見たことがない。
 それどころか、スーツ姿の男性に見惚れたのは、秋川主任が初めてだった。
 そんな秋川主任は女性人気だけに留まらず、男性社員からの人望も厚いらしい。
 私が秋川主任に指導を受けている時、声をかけてくる男性社員達は揃って『秋川は教え方が上手うまいから、こいつについていけば間違いない』と太鼓判たいこばんを押していった。
 しかし中には、『こいつ、とにかく女性に人気あるから、新行内さんやっかまれないように気をつけてね?』と、冗談めかして忠告され、返答に困ってしまうことも。
 そんな時は、大抵横から秋川主任が会話に割り込み、『嘘だから。気にしないように』と、フォローしてくれた。
 ――でも、嘘ではないと思う。秋川主任、モテそうだもの。
 そう内心で思っていた、ある日の昼。


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