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1巻
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――って言ってもなあ……
私の今のメイン業務は、先日企画が採用された婚活イベント。このイベントは、工業団地にある企業の男性従業員に出会いの場を、という目的で開催が決定した。このイベントをきっかけに普段あまり接点がない異性と出会い、人生のパートナーとなる相手を見つけよう、という明るい未来に向けた企画なのだ。
しかし私ときたら、そういったイベントで出会った同棲中の彼に三十手前で出て行かれ、未来に夢も希望も抱けないという状況。
企画のことを考えれば考えるほど、夢と現実のギャップに空しくなってくる。
しかもこの空しさは、彼がいなくなったことに対してではなく、いなくなったことによって明らかになった事実に対して、だ。
私は彼と付き合っている間、彼女としての役割をきちんと果たしているつもりでいた。洋一のことが好きだったし、彼とはそのうち結婚するだろうと思っていたから。
でもこうなってみて、最初こそショックだったけど、追いすがって復縁を望むほど彼のことが好きかというと、そうでもないことに気づいてしまった。
それどころか、今となれば、本当に彼と結婚したかったのかも疑問に感じる。
どっちかというと電子レンジとテレビを持って行かれたショックの方が大きいという事実に、我ながら愕然としてしまった。
心にも懐にも大きなダメージを負い、もう頭の中がごっちゃごちゃで最悪な気分だったりする。
二年も付き合った相手をちゃんと愛することもできなかった自分が、他人様の恋の成就を願い叶える企画を考えられるのかという迷いもあり、仕事がちっとも捗らないのだ。
――ダメだダメだ、これは仕事。自分のことなんて今は関係ない。せっかく私の企画を推してくれた入江課長の期待を裏切るような真似は、もうしたくないし。
コーヒーでも飲んで気合を入れよう。そう思って、私は休憩スペースに向かった。
南向きの大きな窓から光が差し込む休憩スペースは、明るいグリーンと白の二色に塗られた壁に囲まれ、その一角にドリンクサーバーやコーヒーマシンが置かれている。社員はこれを自由に飲むことができ、社員からの評判も上々だ。私もよく利用しかなり重宝している。
私のお目当てのコーヒーマシンに近づくと、その前に一人佇む先客の姿があった。
少し猫背気味の、白いシャツに黒のスラックス姿。後ろ姿だけで分かる、暮林さんだ。
また遭遇してしまった。かといって引き返すのも、と考えた結果、勇気を出して声をかける。
「お疲れ様です」
私の声に振り返った彼は、コーヒーを手にしたままフワリと微笑んだ。
「よく会うね」
そうですねと返すが、どうにも顔が引き攣って自然に笑えない。
彼が少し横によけてくれたので、私はその空いたスペースに体を割り込ませ、置いてあったカップにコーヒーを注ぐ。その間、何故か暮林さんは黙って私の横に立っていた。コーヒーは淹れ終えたはずなのに、どうして彼はこの場を離れないのだろう?
そんな風に思っていると、不意に声をかけられた。
「どう、最近」
「えっ、あっ? 最近ですか? まあ、ぼちぼちですね……」
私は暮林さんから視線を逸らし、淹れたばかりのコーヒーに口を付けた。
「そう? ここ最近の小菅さん、ちょっと元気がないように見えるから」
その言葉にチラッと彼を見上げると、私に意味ありげな視線を送ってくる。
これは、もしかしてこの間のやけ食いのことを指してる?
「そ、そんなに元気ないように見えますかね……?」
恐る恐る尋ねると、即、返事が返ってきた。
「うん。表情が暗い」
今の私ってそんな風に見えているのか。
無自覚に態度に出して周囲に心配をかけ、仕事も中途半端。本当にダメダメだな、今の私。
この仕事はずっとやりたかったことなんだから、もっとちゃんとしなきゃ。
自分の中ではっきりと意識を切り替え、ぐっと顔を上げた。
「……ご心配いただいていてすみません。実は、私生活でちょっといろいろありまして。でも大丈夫です。これからは心機一転、バリバリ仕事を頑張りますので!」
努めて明るく振る舞ったつもりなのだが、私を見る暮林さんの表情は微妙なまま。これはきっと無理をしていると思われてるな。
「入江さんにそのこと話したの?」
「いえ……」
小さく首を振る私を、暮林さんはじっと見つめてくる。
「今のままじゃ、頑張っても作業進まないでしょ。まずは集中できない原因をどうにかするのが先決じゃない?」
その正論すぎる指摘に言葉に詰まる。なんだか彼の下で研修を受けていた頃のような気持ちになり、視線を落とした。
「小菅さん、この後暇?」
何も答えられずにいる私に、暮林さんが尋ねてきた。
「いえ、まだやらなければいけないことが……」
ぽかんとする私を置き去りに、暮林さんは時計に目をやる。
「時間も時間だし、メシ行こうか」
「ええっ!? なんで……」
思いがけない提案に動揺して声がうわずってしまう。ちなみに入社して以来、暮林さんと二人で食事をしたことなどない。だけど暮林さんの表情はいつも通りだ。
「入江さんよりは俺の方がまだ年も近いし、今は仕事にもあまり絡んでない。だから私生活のいろいろも話しやすいんじゃない?」
と言って、私の顔を覗き込みニコッと微笑んだ。
確かに入江さんには恋愛の話なんて言いにくい、っていうか言いたくない。だからって、何故暮林さんに?
大体、彼は顧客から指名で依頼が来るほどの売れっ子プロデューサーだ。そんな忙しい人がなんでわざわざ私の話なんて……
ここでハッとする。もしかして暮林さん、さっき入江さんに何か言われたのだろうか?
そんなことを考えている間に、暮林さんは飲み終えたコーヒーカップを片付け、おもむろに私の腕を掴んだ。
「考える時間があるくらいなら、さっさと行こう」
「えっ、あの、ちょ、暮林さん!」
まだ行くと返事をしたわけではないのに、暮林さんは私の腕を掴んだまま歩き出してしまう。
「はっきり言おうか」
「え?」
「ケーキのやけ食いするくらい、腹の立つことがあったんでしょ」
「うっ……!」
暮林さんが振り返りざまにニヤッと笑う。その顔を見たらもう弁解する気も起きなかった。
「……分かりました。すぐ用意します」
私が頷くと、暮林さんは余裕の笑みを浮かべる。
「廊下で待ってる」
そう言って、私の腕を離して自分の席に向かって歩き出した。
――暮林さんの言う通り今のままでは仕事が捗らないのも確かだ。それに、彼にはすでにみっともないところを見られてる……この際、全部吐き出してみるのもいいかもしれない。
私は急いで帰り支度をして部署を出る。廊下では、鞄を持った暮林さんが私のことを待っていた。
「じゃ、行こうか」
「はい……」
歩きながら、まだ困惑している自分がいる。なんでこんなことになったのか、自分でも状況がよく呑み込めない。
彼の後について、暮林さんの行きつけだという焼き鳥屋の暖簾をくぐった。
香ばしい匂いが充満した店内は、カウンターと四人がけのテーブル席が四つだけで、私達がカウンターの端の席に着くと店内は満席になった。
初めて来た店だけど、建物のレトロな感じとか、優しそうな店主の笑顔に好感が持てる。
「いい感じのお店ですね。よくいらっしゃるんですか」
「たまにね。気に入ってもらえてよかった。何食べる?」
彼にクリアケースに入ったメニューを手渡され、それをざっと見て注文を決めた。
「じゃあ焼き鳥の盛り合わせと、唐揚げとトマトのサラダを」
「飲み物は」
「えっと……レモンサワーで」
お酒を飲もうかどうか一瞬迷ったけど、ま、いいか。飲んじゃおう。
「了解。じゃ、俺はウーロン茶で」
それを聞いて慌てて彼を見る。
「ええっ!? く、暮林さんアルコール飲まないんですか? じゃあ私も……」
「いいって。君はアルコールが入った方が話しやすいでしょ」
焦る私を見て暮林さんが笑う。
「す、すみません……」
カウンター越しに飲み物を手渡され、そのグラスを私の前に置いた暮林さんは、ウーロン茶の入ったグラスを「お疲れ」と私に向かって小さく掲げた。
「お疲れ様です……」
彼に倣って私も同じように掲げてからグラスに口をつける。
暮林さんが飲まないのに私だけ飲んでいいものかと悩みどころではあるのだが。
それにしても……暮林さんとこうして肩が触れるくらいの距離で食事をするなんて変な感じ。
右隣でメニューをチェックしている暮林さんをチラリと盗み見る。
眼鏡にかかる前髪が、野暮ったく見えるような気がしないでもないけど、相変わらずとても綺麗な横顔。暮林さんって肌が綺麗で若々しいんだよね。たぶん二十代って言っても通用するんじゃないだろうか。
――そういえば、暮林さんって彼女とかいるのかな。そんな噂一度も聞いたことないけど……
そんなことを考えていたら、私の目の前にサラダと、焼き鳥の盛り合わせが置かれた。
「どうぞ。食べて」
同時に暮林さんの前にも盛り合わせが置かれたので、私はカウンターのケースから箸を取り、まず彼に手渡す。
「ありがとう」
「いえ。いただきます」
そう言って、ぺこりと一礼する。
「で、何があったの」
いきなりすぎて、口に入れたばかりのトマトでむせそうになった。私は慌てて、おしぼりで口元を押さえる。
「……っ、と、唐突ですね」
「それを解決するために誘ったんだから、当然。入江さんも心配してる」
「やっぱり、課長に頼まれたんですね」
だよね。そうでもなきゃ暮林さんが私を誘うなんて、ありえないよ。
「それもあるけど、この前あんな場面に遭遇したからね。泣きながら無表情でケーキを食べてる小菅さんは、なかなかインパクトがあったから」
その時のことを思い出したのか、暮林さんが苦笑する。
恥ずかしさに俯き、私は急激に火照る顔を両手で押さえた。
「勘弁してくださいよ……」
「いつもと違う小菅さんがずっと気になっててね。入江さんを口実にこうやって誘い出したわけだよ」
砂肝が刺さっていた串を木製の串入れに入れてから、暮林さんが腕を組んで私を見る。
ここにきて、私は言葉にするのを躊躇う。
「……聞いても楽しくないと思いますけど」
「それはなんとなく分かってる」
観念した私は、軽く息を吐いてから目の前の焼き鳥に手を伸ばした。
「私、婚活イベントで知り合った彼氏と同棲してたんです。その彼が、先日置き手紙だけを残して出てっちゃったんです」
さすがにこの展開は読んでいなかったのか、暮林さんがグラスを持ったまま固まった。
「出てった?」
「はい。置き手紙には別れてくれって書いてあったので、要は私が振られたってことなんですけどね……」
「振られた? 小菅さんが?」
暮林さん、さっきから疑問形ばっかりだ。
私はこっくりと頷いた。
「別れの原因に心当たりはないの」
これまで正面を向いていた暮林さんが、体ごと私の方に向きを変えた。
完全に話を聞く態勢になってる……。さすがに困惑したけど、ここまで話したのだからもういいか、という気になった。
「喧嘩とかはしてなかったので、最初は理由が分からなかったんです。でも……後になって、思い当たることがいくつかあって……私、ここ一年くらい仕事が楽しくって、仕事中心の生活になってたんですよね。もちろん彼を忘れたわけではなかったんですけど、彼も仕事で夜はいつも遅いから、完全に生活がすれ違ってしまって、顔を合わせない日の方が多いくらいでした」
「気づいたら心もすれ違ってたってことか」
「……ですね。きっと、そういうことだったのかと思います」
自分の行動が招いた結果だと分かってはいるけれど、はっきりそう言われてしまうと少しだけ胸が痛んだ。
ちらっと暮林さんを見れば、何か考え込んでいるように見える。
暮林さん、私のやけ食いの原因が男絡みだと分かって呆れているんだろうか。そりゃー、そうか。
こんな理由で仕事に支障を来すなんて、情けないことこの上ない。
でも、もう忘れよう。全部忘れて、仕事に生きるのもいいかもしれない……そんなことを考えていると、黙っていた暮林さんが口を開いた。
「……小菅さんは」
「は、はい」
「まだ彼のことが好きなの?」
真面目な口調で聞かれて、私はゆっくりと首を横に振る。
好きか嫌いかといえば、もう好きじゃない。
「彼とは……元々、友達みたいな感じで始まったんです。こう、『好きだー!』みたいな熱い感情ではなくて、軽い『好き』みたいな? 思えば、一緒にいて楽だったから同棲できていたのかもしれません……」
「そうか」
暮林さんは静かに話を聞いてくれている。
「漠然と結婚も考えていたので、いなくなった時はショックでしたけど……今となっては、本当に彼と結婚したかったのかも分からなくなっていて」
「うん」
――そうなると私、大して好きでもない相手のせいで仕事に支障来してるってことになるな……
「すみません、こんなプライベートなことを引きずって、ご迷惑をおかけして……」
自分で言って自分で落ち込んでしまう。ここで間髪を容れずに暮林さんの声が飛んできた。
「いや。別れた後ってそういうものでしょ。頭では分かっていても気持ちが追いつかないっていうかさ」
その言葉に思わず彼を見ると、優しく微笑まれた。
「……暮林さんも、そんなことがあるんですか?」
言った後でさすがに元上司に向かって失礼だった、と反省する。そんな私を見て、暮林さんがクスッと笑った。
「そりゃまあ。長く生きていれば、いろいろあるよ」
「あの、じゃあ、どうしたらその気持ちを切り替えられるんでしょう?」
この際だし、今の状況から抜け出すきっかけになれば、と私は暮林さんの方へ身を乗り出した。
「一つあるけど」
静かにそう言った暮林さんに、期待の眼差しを送る。
「なんですか?」
「別の相手と恋愛すること」
予想外の答えに驚き、暮林さんを見たまま固まってしまった。
「どうした? 俺なんか変なこと言った?」
自分の方を見たまま動かない私に、暮林さんは持ち上げたグラスを再びカウンターに戻した。
「い、いえ……でも、すぐにそんな気にはなれませんよ。それに、相手がいませんし」
本気なのか冗談なのか。彼の本意がいまいち掴めなくて、笑って誤魔化した。
私はそっと暮林さんから視線を逸らし、焼き鳥に手を伸ばす。
「相手ならいるけど」
「はい……?」
なにげなく彼を見た時だった。
「小菅さん」
さっきまでと明らかに声のトーンが違う暮林さんが、妖艶な眼差しで私を見つめている。見慣れないその視線に、私は激しく動揺した。
「は、はい?」
「俺と恋愛してみない」
――へ……恋愛? 暮林さんと?
彼の言ったことが理解できず、私は目をパチパチさせる。
「……暮林さんも冗談を言うんですね」
「冗談を言ってるつもりはまったくないけど」
そう言って彼は、焼き鳥を取ろうと伸ばしたままだった私の手に、そっと触れた。その行動にも驚いたけど、さっきより彼との距離が近づいていることに気づき、私の顔から作り笑いが消える。
――待って、ちょっと待って。
私は、必死でこの状況を理解しようと試みる。
暮林さんは私に「恋愛しよう」と言った。しかも冗談じゃないって。これは一体どういうことなの。
ものすごい勢いで私の体がカーッと熱くなる。と同時に戸惑いすぎて、視線が定まらない。
「あの、あの。暮林さんは本気で私と恋愛をしたい、と仰る……?」
「うんそう。っていうか仰るって何。おもしろいね小菅さん」
「どうして!?」
思いがけず大きな声を出してしまい、目の前で調理をしていた店主がビクッとなって私を見た。
「ああっ、すみませんっ」
ペコペコと店主に向かって頭を下げると、横で暮林さんがブフッと噴き出した。
――くっ、誰のせいだと思って……!
ムッとして暮林さんを睨む。すると彼は、口元を手の甲で拭いつつ、ごめん、と言ってずれた眼鏡を直した。
「どうしてって言われてもなあ。俺がそうしたくなったから、かな」
「したくなったからって、そんな簡単に……」
「簡単にってわけでもないんだよね。俺、結構前から小菅さんのこといいと思ってたから」
驚きすぎて、私の喉がひゅっと鳴った。
これまで、暮林さんと仕事で何度か接してきたけど、こんなに喋る彼を見るのは初めてだった。それどころか、いつもの彼と雰囲気が全然違うので焦ってしまう。
私はようやく今起きていることは現実なんだと、じわじわと肌で感じ始めていた。
「……そ、それってつまり、私のことが好きってことですか?」
「うん、好きだね」
――ええええ……!!
改めて言われるとものすごい破壊力があった。
だ、だって、仕事がめちゃくちゃできて顧客からの信頼も厚い暮林さんだよ? そんな人が、なんで私みたいなひよっこプランナーを!?
それに私、暮林さんがどういう人なのか、はっきり言ってよく知らない。
悪い人ではないというのは分かる。むしろ憧れている。でも、だからっていきなりお付き合いなんて考えられない。
「君は? 俺のことどう思う?」
未だ私の手を掴んだままの彼の手に力がこもる。
「ええっ、どうって……ええと……」
ぐっと身を乗り出し私との距離を詰める暮林さんに、どう返事をしたらいいのか分からなかった。しかも、カウンターの端に座っている私には、逃げ場すらない。
「あ、あの、新入社員の頃から尊敬していますし、すっ、素敵な男性だと思っています……」
テンパりつつ、なんとか言葉を選ぶ。その返事に、暮林さんがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ恋愛も問題ないね」
――え――――っ!! な、なんでそうなるの!? っていうか、顔が近い近い!!
「ちょっと待って、待ってください!」
どうやってこの場を乗り切ろうか。必死に頭を動かし、私はとりあえず彼に掴まれていた自分の手を思い切って引き抜き、大きく深呼吸をした。
「暮林さん! あの……そう言ってもらえるのはすごく嬉しいんですけど、私、まだ当分恋愛はいいっていうか、どちらかというと今は仕事を頑張りたいというか……」
私の説明を、黙って聞いていた暮林さん。
分かってもらえただろうか、とドキドキしながら彼の次の言葉を待つ。
「うん、大いに頑張って。君の仕事ぶりにはみんな、期待してる」
穏やかにそう言ってくれた暮林さんにほっと胸を撫で下ろした。
「でもそれはそれ、これはこれ」
「ええっ!?」
カウンターに軽く肘を付きながら、暮林さんは焦る私に再び妖艶な視線を送ってくる。
「これまで公私混同をせず、きっちり仕事をこなしてきた小菅さんだ。今更、恋愛が仕事の邪魔になることもないんじゃない」
「うっ……いやでも、現にこうして周囲にご迷惑をお掛けしていますし……」
「今回は例外。普通何も言わず出て行ったりとか、しないでしょ」
「そうですね……って、そうじゃなくて! 突然すぎて私、何が何だか……」
思えば元カレともラブな雰囲気は欠片もなく、女として男性から好意を向けられる機会など、すっかりご無沙汰になっていた。それゆえに、突然のこの状況にどう対応していいか分からない。
おまけにさっきから暮林さんの色気が半端ないのだ。本当に隣にいる人物は、さっきまでの暮林さんと同一人物なのか!? と激しく首を傾げたくなる。
頭の処理能力がいよいよ追いつかなくなった私は、両手を上げて暮林さんにギブアップを申し出た。
「あの、お願いですからちょっと待ってください。私もう、いっぱいいっぱいで……」
「君にとって俺は、恋愛対象にはならない?」
暮林さんが苦笑しながら私を見る。
「そっ、そういうことでは決してなく……」
即座に頭を横に振ると、暮林さんは少し寂しそうに目を伏せた。
「それともこんなおじさんはダメかな」
おじさんって。
「暮林さんはちっともおじさんじゃありません。年より若く見えるし、スタイルだっていいし。彼女がいないことがむしろ謎っていうか……」
「でも君は首を縦に振ってくれない」
これまでの暮林さんって、どちらかというと穏やかに人の話を聞いてくれる印象だった。なのに今はそんな穏やかさはまったく感じられない。それどころか、私に考える余裕を与えずに、ぐいぐいと答えを迫ってくる。
――どうしよう……どうしたらいいの……
私は内心で頭を抱えた。
「と、とにかく。待ってください。付き合うにしても、まずはお互いのことを知ってからでないと。話はそれからじゃないか、と……思うのですが」
苦肉の策でこう切り出すと、ずっと体をこっちに向けて私を見ていた暮林さんの眉が、ピクッと動いた、ような気がした。
「待てば、良い返事がもらえる?」
カウンターに肘を突き、私を見る暮林さんは、いつもの無口な元上司などではなく、大人の男の人そのもの。私を口説き落とす気満々なその表情にあてられて、何だか変な汗が流れてくる。
「……わ、私、暮林さんのことほとんど知らないので、今はお付き合いも何も考えられません」
なんとか、精一杯のお断りの言葉を口にした。
私の今のメイン業務は、先日企画が採用された婚活イベント。このイベントは、工業団地にある企業の男性従業員に出会いの場を、という目的で開催が決定した。このイベントをきっかけに普段あまり接点がない異性と出会い、人生のパートナーとなる相手を見つけよう、という明るい未来に向けた企画なのだ。
しかし私ときたら、そういったイベントで出会った同棲中の彼に三十手前で出て行かれ、未来に夢も希望も抱けないという状況。
企画のことを考えれば考えるほど、夢と現実のギャップに空しくなってくる。
しかもこの空しさは、彼がいなくなったことに対してではなく、いなくなったことによって明らかになった事実に対して、だ。
私は彼と付き合っている間、彼女としての役割をきちんと果たしているつもりでいた。洋一のことが好きだったし、彼とはそのうち結婚するだろうと思っていたから。
でもこうなってみて、最初こそショックだったけど、追いすがって復縁を望むほど彼のことが好きかというと、そうでもないことに気づいてしまった。
それどころか、今となれば、本当に彼と結婚したかったのかも疑問に感じる。
どっちかというと電子レンジとテレビを持って行かれたショックの方が大きいという事実に、我ながら愕然としてしまった。
心にも懐にも大きなダメージを負い、もう頭の中がごっちゃごちゃで最悪な気分だったりする。
二年も付き合った相手をちゃんと愛することもできなかった自分が、他人様の恋の成就を願い叶える企画を考えられるのかという迷いもあり、仕事がちっとも捗らないのだ。
――ダメだダメだ、これは仕事。自分のことなんて今は関係ない。せっかく私の企画を推してくれた入江課長の期待を裏切るような真似は、もうしたくないし。
コーヒーでも飲んで気合を入れよう。そう思って、私は休憩スペースに向かった。
南向きの大きな窓から光が差し込む休憩スペースは、明るいグリーンと白の二色に塗られた壁に囲まれ、その一角にドリンクサーバーやコーヒーマシンが置かれている。社員はこれを自由に飲むことができ、社員からの評判も上々だ。私もよく利用しかなり重宝している。
私のお目当てのコーヒーマシンに近づくと、その前に一人佇む先客の姿があった。
少し猫背気味の、白いシャツに黒のスラックス姿。後ろ姿だけで分かる、暮林さんだ。
また遭遇してしまった。かといって引き返すのも、と考えた結果、勇気を出して声をかける。
「お疲れ様です」
私の声に振り返った彼は、コーヒーを手にしたままフワリと微笑んだ。
「よく会うね」
そうですねと返すが、どうにも顔が引き攣って自然に笑えない。
彼が少し横によけてくれたので、私はその空いたスペースに体を割り込ませ、置いてあったカップにコーヒーを注ぐ。その間、何故か暮林さんは黙って私の横に立っていた。コーヒーは淹れ終えたはずなのに、どうして彼はこの場を離れないのだろう?
そんな風に思っていると、不意に声をかけられた。
「どう、最近」
「えっ、あっ? 最近ですか? まあ、ぼちぼちですね……」
私は暮林さんから視線を逸らし、淹れたばかりのコーヒーに口を付けた。
「そう? ここ最近の小菅さん、ちょっと元気がないように見えるから」
その言葉にチラッと彼を見上げると、私に意味ありげな視線を送ってくる。
これは、もしかしてこの間のやけ食いのことを指してる?
「そ、そんなに元気ないように見えますかね……?」
恐る恐る尋ねると、即、返事が返ってきた。
「うん。表情が暗い」
今の私ってそんな風に見えているのか。
無自覚に態度に出して周囲に心配をかけ、仕事も中途半端。本当にダメダメだな、今の私。
この仕事はずっとやりたかったことなんだから、もっとちゃんとしなきゃ。
自分の中ではっきりと意識を切り替え、ぐっと顔を上げた。
「……ご心配いただいていてすみません。実は、私生活でちょっといろいろありまして。でも大丈夫です。これからは心機一転、バリバリ仕事を頑張りますので!」
努めて明るく振る舞ったつもりなのだが、私を見る暮林さんの表情は微妙なまま。これはきっと無理をしていると思われてるな。
「入江さんにそのこと話したの?」
「いえ……」
小さく首を振る私を、暮林さんはじっと見つめてくる。
「今のままじゃ、頑張っても作業進まないでしょ。まずは集中できない原因をどうにかするのが先決じゃない?」
その正論すぎる指摘に言葉に詰まる。なんだか彼の下で研修を受けていた頃のような気持ちになり、視線を落とした。
「小菅さん、この後暇?」
何も答えられずにいる私に、暮林さんが尋ねてきた。
「いえ、まだやらなければいけないことが……」
ぽかんとする私を置き去りに、暮林さんは時計に目をやる。
「時間も時間だし、メシ行こうか」
「ええっ!? なんで……」
思いがけない提案に動揺して声がうわずってしまう。ちなみに入社して以来、暮林さんと二人で食事をしたことなどない。だけど暮林さんの表情はいつも通りだ。
「入江さんよりは俺の方がまだ年も近いし、今は仕事にもあまり絡んでない。だから私生活のいろいろも話しやすいんじゃない?」
と言って、私の顔を覗き込みニコッと微笑んだ。
確かに入江さんには恋愛の話なんて言いにくい、っていうか言いたくない。だからって、何故暮林さんに?
大体、彼は顧客から指名で依頼が来るほどの売れっ子プロデューサーだ。そんな忙しい人がなんでわざわざ私の話なんて……
ここでハッとする。もしかして暮林さん、さっき入江さんに何か言われたのだろうか?
そんなことを考えている間に、暮林さんは飲み終えたコーヒーカップを片付け、おもむろに私の腕を掴んだ。
「考える時間があるくらいなら、さっさと行こう」
「えっ、あの、ちょ、暮林さん!」
まだ行くと返事をしたわけではないのに、暮林さんは私の腕を掴んだまま歩き出してしまう。
「はっきり言おうか」
「え?」
「ケーキのやけ食いするくらい、腹の立つことがあったんでしょ」
「うっ……!」
暮林さんが振り返りざまにニヤッと笑う。その顔を見たらもう弁解する気も起きなかった。
「……分かりました。すぐ用意します」
私が頷くと、暮林さんは余裕の笑みを浮かべる。
「廊下で待ってる」
そう言って、私の腕を離して自分の席に向かって歩き出した。
――暮林さんの言う通り今のままでは仕事が捗らないのも確かだ。それに、彼にはすでにみっともないところを見られてる……この際、全部吐き出してみるのもいいかもしれない。
私は急いで帰り支度をして部署を出る。廊下では、鞄を持った暮林さんが私のことを待っていた。
「じゃ、行こうか」
「はい……」
歩きながら、まだ困惑している自分がいる。なんでこんなことになったのか、自分でも状況がよく呑み込めない。
彼の後について、暮林さんの行きつけだという焼き鳥屋の暖簾をくぐった。
香ばしい匂いが充満した店内は、カウンターと四人がけのテーブル席が四つだけで、私達がカウンターの端の席に着くと店内は満席になった。
初めて来た店だけど、建物のレトロな感じとか、優しそうな店主の笑顔に好感が持てる。
「いい感じのお店ですね。よくいらっしゃるんですか」
「たまにね。気に入ってもらえてよかった。何食べる?」
彼にクリアケースに入ったメニューを手渡され、それをざっと見て注文を決めた。
「じゃあ焼き鳥の盛り合わせと、唐揚げとトマトのサラダを」
「飲み物は」
「えっと……レモンサワーで」
お酒を飲もうかどうか一瞬迷ったけど、ま、いいか。飲んじゃおう。
「了解。じゃ、俺はウーロン茶で」
それを聞いて慌てて彼を見る。
「ええっ!? く、暮林さんアルコール飲まないんですか? じゃあ私も……」
「いいって。君はアルコールが入った方が話しやすいでしょ」
焦る私を見て暮林さんが笑う。
「す、すみません……」
カウンター越しに飲み物を手渡され、そのグラスを私の前に置いた暮林さんは、ウーロン茶の入ったグラスを「お疲れ」と私に向かって小さく掲げた。
「お疲れ様です……」
彼に倣って私も同じように掲げてからグラスに口をつける。
暮林さんが飲まないのに私だけ飲んでいいものかと悩みどころではあるのだが。
それにしても……暮林さんとこうして肩が触れるくらいの距離で食事をするなんて変な感じ。
右隣でメニューをチェックしている暮林さんをチラリと盗み見る。
眼鏡にかかる前髪が、野暮ったく見えるような気がしないでもないけど、相変わらずとても綺麗な横顔。暮林さんって肌が綺麗で若々しいんだよね。たぶん二十代って言っても通用するんじゃないだろうか。
――そういえば、暮林さんって彼女とかいるのかな。そんな噂一度も聞いたことないけど……
そんなことを考えていたら、私の目の前にサラダと、焼き鳥の盛り合わせが置かれた。
「どうぞ。食べて」
同時に暮林さんの前にも盛り合わせが置かれたので、私はカウンターのケースから箸を取り、まず彼に手渡す。
「ありがとう」
「いえ。いただきます」
そう言って、ぺこりと一礼する。
「で、何があったの」
いきなりすぎて、口に入れたばかりのトマトでむせそうになった。私は慌てて、おしぼりで口元を押さえる。
「……っ、と、唐突ですね」
「それを解決するために誘ったんだから、当然。入江さんも心配してる」
「やっぱり、課長に頼まれたんですね」
だよね。そうでもなきゃ暮林さんが私を誘うなんて、ありえないよ。
「それもあるけど、この前あんな場面に遭遇したからね。泣きながら無表情でケーキを食べてる小菅さんは、なかなかインパクトがあったから」
その時のことを思い出したのか、暮林さんが苦笑する。
恥ずかしさに俯き、私は急激に火照る顔を両手で押さえた。
「勘弁してくださいよ……」
「いつもと違う小菅さんがずっと気になっててね。入江さんを口実にこうやって誘い出したわけだよ」
砂肝が刺さっていた串を木製の串入れに入れてから、暮林さんが腕を組んで私を見る。
ここにきて、私は言葉にするのを躊躇う。
「……聞いても楽しくないと思いますけど」
「それはなんとなく分かってる」
観念した私は、軽く息を吐いてから目の前の焼き鳥に手を伸ばした。
「私、婚活イベントで知り合った彼氏と同棲してたんです。その彼が、先日置き手紙だけを残して出てっちゃったんです」
さすがにこの展開は読んでいなかったのか、暮林さんがグラスを持ったまま固まった。
「出てった?」
「はい。置き手紙には別れてくれって書いてあったので、要は私が振られたってことなんですけどね……」
「振られた? 小菅さんが?」
暮林さん、さっきから疑問形ばっかりだ。
私はこっくりと頷いた。
「別れの原因に心当たりはないの」
これまで正面を向いていた暮林さんが、体ごと私の方に向きを変えた。
完全に話を聞く態勢になってる……。さすがに困惑したけど、ここまで話したのだからもういいか、という気になった。
「喧嘩とかはしてなかったので、最初は理由が分からなかったんです。でも……後になって、思い当たることがいくつかあって……私、ここ一年くらい仕事が楽しくって、仕事中心の生活になってたんですよね。もちろん彼を忘れたわけではなかったんですけど、彼も仕事で夜はいつも遅いから、完全に生活がすれ違ってしまって、顔を合わせない日の方が多いくらいでした」
「気づいたら心もすれ違ってたってことか」
「……ですね。きっと、そういうことだったのかと思います」
自分の行動が招いた結果だと分かってはいるけれど、はっきりそう言われてしまうと少しだけ胸が痛んだ。
ちらっと暮林さんを見れば、何か考え込んでいるように見える。
暮林さん、私のやけ食いの原因が男絡みだと分かって呆れているんだろうか。そりゃー、そうか。
こんな理由で仕事に支障を来すなんて、情けないことこの上ない。
でも、もう忘れよう。全部忘れて、仕事に生きるのもいいかもしれない……そんなことを考えていると、黙っていた暮林さんが口を開いた。
「……小菅さんは」
「は、はい」
「まだ彼のことが好きなの?」
真面目な口調で聞かれて、私はゆっくりと首を横に振る。
好きか嫌いかといえば、もう好きじゃない。
「彼とは……元々、友達みたいな感じで始まったんです。こう、『好きだー!』みたいな熱い感情ではなくて、軽い『好き』みたいな? 思えば、一緒にいて楽だったから同棲できていたのかもしれません……」
「そうか」
暮林さんは静かに話を聞いてくれている。
「漠然と結婚も考えていたので、いなくなった時はショックでしたけど……今となっては、本当に彼と結婚したかったのかも分からなくなっていて」
「うん」
――そうなると私、大して好きでもない相手のせいで仕事に支障来してるってことになるな……
「すみません、こんなプライベートなことを引きずって、ご迷惑をおかけして……」
自分で言って自分で落ち込んでしまう。ここで間髪を容れずに暮林さんの声が飛んできた。
「いや。別れた後ってそういうものでしょ。頭では分かっていても気持ちが追いつかないっていうかさ」
その言葉に思わず彼を見ると、優しく微笑まれた。
「……暮林さんも、そんなことがあるんですか?」
言った後でさすがに元上司に向かって失礼だった、と反省する。そんな私を見て、暮林さんがクスッと笑った。
「そりゃまあ。長く生きていれば、いろいろあるよ」
「あの、じゃあ、どうしたらその気持ちを切り替えられるんでしょう?」
この際だし、今の状況から抜け出すきっかけになれば、と私は暮林さんの方へ身を乗り出した。
「一つあるけど」
静かにそう言った暮林さんに、期待の眼差しを送る。
「なんですか?」
「別の相手と恋愛すること」
予想外の答えに驚き、暮林さんを見たまま固まってしまった。
「どうした? 俺なんか変なこと言った?」
自分の方を見たまま動かない私に、暮林さんは持ち上げたグラスを再びカウンターに戻した。
「い、いえ……でも、すぐにそんな気にはなれませんよ。それに、相手がいませんし」
本気なのか冗談なのか。彼の本意がいまいち掴めなくて、笑って誤魔化した。
私はそっと暮林さんから視線を逸らし、焼き鳥に手を伸ばす。
「相手ならいるけど」
「はい……?」
なにげなく彼を見た時だった。
「小菅さん」
さっきまでと明らかに声のトーンが違う暮林さんが、妖艶な眼差しで私を見つめている。見慣れないその視線に、私は激しく動揺した。
「は、はい?」
「俺と恋愛してみない」
――へ……恋愛? 暮林さんと?
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「……暮林さんも冗談を言うんですね」
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そう言って彼は、焼き鳥を取ろうと伸ばしたままだった私の手に、そっと触れた。その行動にも驚いたけど、さっきより彼との距離が近づいていることに気づき、私の顔から作り笑いが消える。
――待って、ちょっと待って。
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暮林さんは私に「恋愛しよう」と言った。しかも冗談じゃないって。これは一体どういうことなの。
ものすごい勢いで私の体がカーッと熱くなる。と同時に戸惑いすぎて、視線が定まらない。
「あの、あの。暮林さんは本気で私と恋愛をしたい、と仰る……?」
「うんそう。っていうか仰るって何。おもしろいね小菅さん」
「どうして!?」
思いがけず大きな声を出してしまい、目の前で調理をしていた店主がビクッとなって私を見た。
「ああっ、すみませんっ」
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ムッとして暮林さんを睨む。すると彼は、口元を手の甲で拭いつつ、ごめん、と言ってずれた眼鏡を直した。
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「したくなったからって、そんな簡単に……」
「簡単にってわけでもないんだよね。俺、結構前から小菅さんのこといいと思ってたから」
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これまで、暮林さんと仕事で何度か接してきたけど、こんなに喋る彼を見るのは初めてだった。それどころか、いつもの彼と雰囲気が全然違うので焦ってしまう。
私はようやく今起きていることは現実なんだと、じわじわと肌で感じ始めていた。
「……そ、それってつまり、私のことが好きってことですか?」
「うん、好きだね」
――ええええ……!!
改めて言われるとものすごい破壊力があった。
だ、だって、仕事がめちゃくちゃできて顧客からの信頼も厚い暮林さんだよ? そんな人が、なんで私みたいなひよっこプランナーを!?
それに私、暮林さんがどういう人なのか、はっきり言ってよく知らない。
悪い人ではないというのは分かる。むしろ憧れている。でも、だからっていきなりお付き合いなんて考えられない。
「君は? 俺のことどう思う?」
未だ私の手を掴んだままの彼の手に力がこもる。
「ええっ、どうって……ええと……」
ぐっと身を乗り出し私との距離を詰める暮林さんに、どう返事をしたらいいのか分からなかった。しかも、カウンターの端に座っている私には、逃げ場すらない。
「あ、あの、新入社員の頃から尊敬していますし、すっ、素敵な男性だと思っています……」
テンパりつつ、なんとか言葉を選ぶ。その返事に、暮林さんがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ恋愛も問題ないね」
――え――――っ!! な、なんでそうなるの!? っていうか、顔が近い近い!!
「ちょっと待って、待ってください!」
どうやってこの場を乗り切ろうか。必死に頭を動かし、私はとりあえず彼に掴まれていた自分の手を思い切って引き抜き、大きく深呼吸をした。
「暮林さん! あの……そう言ってもらえるのはすごく嬉しいんですけど、私、まだ当分恋愛はいいっていうか、どちらかというと今は仕事を頑張りたいというか……」
私の説明を、黙って聞いていた暮林さん。
分かってもらえただろうか、とドキドキしながら彼の次の言葉を待つ。
「うん、大いに頑張って。君の仕事ぶりにはみんな、期待してる」
穏やかにそう言ってくれた暮林さんにほっと胸を撫で下ろした。
「でもそれはそれ、これはこれ」
「ええっ!?」
カウンターに軽く肘を付きながら、暮林さんは焦る私に再び妖艶な視線を送ってくる。
「これまで公私混同をせず、きっちり仕事をこなしてきた小菅さんだ。今更、恋愛が仕事の邪魔になることもないんじゃない」
「うっ……いやでも、現にこうして周囲にご迷惑をお掛けしていますし……」
「今回は例外。普通何も言わず出て行ったりとか、しないでしょ」
「そうですね……って、そうじゃなくて! 突然すぎて私、何が何だか……」
思えば元カレともラブな雰囲気は欠片もなく、女として男性から好意を向けられる機会など、すっかりご無沙汰になっていた。それゆえに、突然のこの状況にどう対応していいか分からない。
おまけにさっきから暮林さんの色気が半端ないのだ。本当に隣にいる人物は、さっきまでの暮林さんと同一人物なのか!? と激しく首を傾げたくなる。
頭の処理能力がいよいよ追いつかなくなった私は、両手を上げて暮林さんにギブアップを申し出た。
「あの、お願いですからちょっと待ってください。私もう、いっぱいいっぱいで……」
「君にとって俺は、恋愛対象にはならない?」
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「そっ、そういうことでは決してなく……」
即座に頭を横に振ると、暮林さんは少し寂しそうに目を伏せた。
「それともこんなおじさんはダメかな」
おじさんって。
「暮林さんはちっともおじさんじゃありません。年より若く見えるし、スタイルだっていいし。彼女がいないことがむしろ謎っていうか……」
「でも君は首を縦に振ってくれない」
これまでの暮林さんって、どちらかというと穏やかに人の話を聞いてくれる印象だった。なのに今はそんな穏やかさはまったく感じられない。それどころか、私に考える余裕を与えずに、ぐいぐいと答えを迫ってくる。
――どうしよう……どうしたらいいの……
私は内心で頭を抱えた。
「と、とにかく。待ってください。付き合うにしても、まずはお互いのことを知ってからでないと。話はそれからじゃないか、と……思うのですが」
苦肉の策でこう切り出すと、ずっと体をこっちに向けて私を見ていた暮林さんの眉が、ピクッと動いた、ような気がした。
「待てば、良い返事がもらえる?」
カウンターに肘を突き、私を見る暮林さんは、いつもの無口な元上司などではなく、大人の男の人そのもの。私を口説き落とす気満々なその表情にあてられて、何だか変な汗が流れてくる。
「……わ、私、暮林さんのことほとんど知らないので、今はお付き合いも何も考えられません」
なんとか、精一杯のお断りの言葉を口にした。
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