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1巻

1-3

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 二十年ほど商品企画の仕事をしてきた担当者が、思わず漏らした弱音。それを千木良さんは聞き逃さなかった。

『どうやって……? それを考えるのがあなたの仕事でしょう。何年もこの仕事をやってきてそれがわからないのなら、あなたはこの仕事に向いていません。今すぐ異動願いを出してください』

 全く容赦がない冷ややかな千木良さんの声。その瞬間、会議室の空気がピーンと張り詰めた。
 そのことがあって、私は改めて仕事に対する千木良さんの厳しさを知った。それは他の社員も同じだったようで、この時千木良さんに物申した担当者はすぐに謝罪し、今も千木良さんのもとで企画開発にはげんでいる。
 須賀君もその時のことを思い出したのか、うわ……と震え上がっている。

「やだなあ……怖いんですもん、あの人。出向してきてすぐの歓迎会でも全然酔わないし、あんまり自分のことしゃべんないし。何考えてるかわかんなくないですか? それとも総善の人って皆あんな感じなんですかね?」
「いや、さすがにそれはないと思うけど。でも、売り上げの上がんない部署を建て直さなきゃいけないって、私達が思うより大変なことだと思うよ。結果が出ないと総善にも戻れなさそうだし。ここでめられたりしないように、ああしてるんじゃないかなあ……」

 そこで、あの夜の千木良さんを思い出して「ん?」となる。ここでめられちゃいけないのに、なんで私を抱いてくれたんだろう。
 ――これって、下手をすると彼の弱みを握ったことにならない?
 頭の中が「なんで?」で、いっぱいになっていく。でも、よくよく考えると、あの夜の私はだいぶ面倒くさかった。抱いてくれと泣いてすがる私を断ったら、さらに面倒なことになっていたかもしれない。千木良さんはそう判断して、抱いてくれたのではないか。
 だとしたら本当に申し訳ない。

「……飛騨さん? 大丈夫ですか? なんか顔が……」
「えっ、何? 顔がどうかした?」
「今、数秒だけ土偶どぐうみたいになってましたけど」
「……そう……」

 土偶どぐうみたいな顔ってなんだ、と内心落ち込んでいると、蕎麦そばが運ばれてきた。
 打ち立てで立ての蕎麦そばはつやっつやで、思わずため息が漏れる。

「うわ~、美味しそう……!!」
美味うまそうですね~、ほら見てくださいよ、この天ぷら~!」

 須賀君の目の前に置かれたトレイには、ざる蕎麦そばと別の皿に山のように盛られた天ぷら。揚げ立てのそれは見るからにサクサクで美味しそうだけど、彼は本当にこれを全部食べることができるのか。

「……すっごい量だね。須賀君の胃袋、どうなってんの?」
「好きな物はいくらでも入るんです! じゃ、いただきます!」

 私も手を合わせていただきますをしてから、はしを手に取る。汁は出汁だしが利いていて、ほんのり甘め。その汁が打ち立ての蕎麦そばによく絡み、絶妙な相性で美味うまさを引き立てている。

「うわっ、美味しい!! この蕎麦そば、コシがあるね」

 目の前でずるずると音を立てて蕎麦そばすすっていた須賀君も、そのコシに驚いたらしい。

「ほんとだ、コシすごっ」
「こういうお蕎麦そばを、お弁当でも食べられたらいいのにねえ……」
「気持ちはわかります。無理だけど」

 二人で、はは……と乾いた笑いを零しながら、蕎麦そばを堪能した。
 結局、須賀君は山盛りの天ぷらを残さず綺麗に完食した。しかし彼のお腹は見事に膨らんでいて、笑ってしまう。

「すごい……お腹叩いたら、口から天ぷらが出てくるかな」
「ちょっ、やめてくださいよ!? 今触ると危険ですから!!」

 笑いながら会社に戻り、仕事を始める前にお茶をれようと休憩コーナーに向かった。
 ティーバッグの緑茶をマグカップに入れ、ポットのお湯をそそぐ。ある程度お茶が出たところでティーバッグを捨てて席に戻ろうとした時だった。
 振り返ったらそこに千木良さんがいて、驚いてお茶を零しそうになってしまう。

「うわっ!! びっくりした!!」

 千木良さんの顔を見て目を丸くする私に、彼は表情を変えない。

「驚かせてすみません。お茶、零れませんでしたか?」

 千木良さんが私の手元を気にしてくれる。
 できるだけ意識しないようにしているのに、やっぱり本人を前にするとだめだ。ベッドの上でこの人と抱き合っている場面が頭に浮かんできて、あっという間に心臓がドクドクと音を立て始めた。

「は、はい……こっ、零れてはいません……」
「よかった」

 そう言って、千木良さんが私と視線を合わせてくる。
 さっきは逸らされたのに。全然こっちを見てくれなかったのに。
 そんなことを思いながら、私を見つめる千木良さんにドキドキする。

「……あの、何か……?」
「あんなことがあったあとですから、飛騨さんの様子が気になったんです。変わりないですか?」
「っ!!」

 千木良さんが昨夜のことを言っているのは、すぐにわかった。でもあれは、彼の方からなかったことにしてくれたはずだ。
 それなのに話題にしてくるのは、何か意図があってのことだろうか?

「あ、あの、その件は……なかったことにしてくれるって、お、おっしゃってましたよね……?」
「そうですけど。でも事実は事実ですから、気にかけるくらいはしますよ」

 確かにそうだ。なら、私がアワアワしてたら余計気遣わせてしまう。ここは、いつもと変わらぬ態度で答えるのが最善だろう。
 ――で……できるかな……

「お気遣いありがとうございます。……大丈夫ですよ」
「そうですか、それは何より」

 無表情だった千木良さんの頬が、若干緩んだ。

「それでですね」

 千木良さんが持っていた紙袋の中に手を突っ込んだ。

「これ、出張帰りの社員からお土産みやげです。飛騨さんもお一つどうぞ」

 紙袋から取り出したのは、東北銘菓で有名なお菓子だった。

「わ! 私、これ好きなんで、嬉しいです」

 本当に好きなお菓子だったので、自然と口から本音が零れた。それを千木良さんは聞き逃さなかったようだ。

「じゃあ、私の分もあげますよ」
「え……嬉しいですけど、千木良さんは召し上がらないんですか?」
「私は飛騨さんが喜んでくれるなら構いません」

 ――へ……私が喜ぶ、なら……?
 彼の表情はいつもと変わらない。だけど昨日までとちょっと違う千木良さんの態度に、心臓のドキドキが速くなる。
 それってもしかして、ちょっとは私に好意をいだいてくれてる、とかだったり、する?

「実は私、甘い物が嫌いなんですよ」

 全然違った。

「あ、そうですか……」

 ちょっとでも期待した私がバカみたいじゃないか。ていうか私、なんで期待なんかしてるんだろう……? 相手はあの千木良さんなのに。

「はい、どうぞ」

 私が手を差し出すと、そこにポン、と二つのお菓子が置かれる。

「ありがとうございます。ちょうど今緑茶を入れたところなんで、早速いただきます」

 勝手に勘違いして期待した自分が恥ずかしい。早くこの場から退散したくて、愛想笑いを振りまいた。
 なのに、なぜか千木良さんが私を見たまま動こうとしない。

「……あの。千木良さん?」
「飛騨さんは、若い男が好きなんですか?」
「え?」
「須賀君と随分親しいようなので」

 言われた内容に、千木良さんを見たままぽかんとしてしまう。
 ――もしかして、さっき私が須賀君と話しているのを見ていたせい?

「彼とは、親しいというか……商品企画部の中では一番年齢が近くて話しやすいので……そう見えるのではないかと……」
「そうですか。余計なことをいて申し訳ありませんでした」
「いえ、別に……はい……」
「失礼します」

 千木良さんが流し目を残して休憩スペースから去っていく。
 ――っていうか、今の何? 全っ然意味がわかんない……
 そもそも、昨日のことはなかったことにしてくれるんじゃなかったの? 本当に、千木良さんが何を考えているのかわからない。
 私ばっかり、千木良さんにドキドキしてるのに。
 こんなことなら、昨夜セックスしたことをなかったことにしなきゃよかった。
 今更になって後悔が押し寄せてきて、私はため息をつきながらてのひらの上のお菓子を見つめるのだった。


『せっかく数年ぶりにセックスしたのに、全く覚えてないなんて馬鹿じゃない?』

 あの夜のことを人に話したら、きっとこんな言葉が返ってくるに違いない。
 いくら酔っ払っていたとはいえ、あんな激しいスポーツと同等のことをしておきながら、何一つ覚えていないなんてありえない……と。
 全部は覚えてなくても、実は断片的にちょこちょこ思い出してるんじゃないの~? と突っ込まれそうだが、実はその通りだったりする。
 一晩経って、徐々にあの夜のことを思い出してきたのだ。
 最初に行った居酒屋を出たあと、千木良さんに連れられてカウンターだけのバーに行った。そこで飲んだ最初のお酒がすごく美味しかったのだ。確か、お任せで作ってもらったロングカクテルだったと思う。

『飛騨さん、もうアルコールはやめた方がいいのでは?』

 隣でやんわりと私を制止する千木良さんの声が優しくて、その気遣いに胸がきゅんとときめいた結果、私はあんな暴挙に出たのだと思う。
 ――千木良さんが教えてくれたあれね。私を抱いて的なやつ。
 その後、何かのやりとりのあと、私と千木良さんは駅からタクシーに乗り込み、車で二十分ほどの場所にあるホテルに行った。その時は全て千木良さんにお任せしていたから気が付かなかったけれど、連れていかれたホテルは私も名前を聞いたことがある高級なところだと知った。もし私が酔っていなかったら、全力で拒否するようなお高いホテルだ。
 タクシーを降りて千木良さんがチェックインを済ませたあと、二人で客室に移動し、そういう行為に至った……と。
 朝起きてから知ったのだが、私はシャワーを浴びていなかった。つまり、客室に来て早々、行為に突入したということになる。正直、どうしてシャワーを浴びなかったのか! とめちゃくちゃ自分を責めた。
 先にシャワーを浴びていれば、多少なりとも酔いが覚めたかもしれないのに……
 どっちにしろ、身を清めていない状態で私を抱いてくれた千木良さんに、申し訳ない気持ちになった。
 ――それにしても、あの千木良さんに抱いてくれとすがりつくなんて……酔った私、怖い物知らずすぎる。
 素面しらふだったら絶対そんなお願いはできないし、するわけがない。
 もしそんなことを言ったら、あの切れ長の目ににらまれて『は? 何を言ってるんですか? そんな暇があるなら企画内容をもっと精査して、さっさと提出してください』って怒られそうだ。
 なのに、なぜかあの日、千木良さんは私のお願いを聞いてくれた。
 私の魅力にあらがえなかった、なんて嬉しいことを言ってくれたけれど、本当だろうか。
 もしかしたら私を傷つけないように、気を遣ってくれたのかもしれない。
 本当は、迫られて断る理由もないし、まあいいか、くらいの軽い気持ちで抱いてくれただけかもしれないし。
 だから、なかったことにしてあげますって言ったのかな。
 ――そう……そうよね、そんな程度よね……私のことなんて……
 自分で勝手に結論づけて落ち込む。
 最初はやらかしてしまったことの大きさに、かなり動揺していた。だから千木良さんに、なかったことに……って言われて、ちょっと安心したのだ。
 それなのに、今になって後悔してる。だって、せっかく……したのに、それをなかったことにされるのって結構……寂しいって気が付いたから。
 ――あーあ、私ってどうしてこうなんだろう……
 仕事を終えてとぼとぼ歩きながら自宅に向かう。
 私の住まいは会社から徒歩十五分ほどのところにある二階建ての1DKアパート。新築物件だったところを見つけ、入居して二年になる。
 新築なのでどこもかしこも綺麗だし、お風呂は追い炊きができてトイレは別。お隣さんはペットと一緒に住んでいる同じくらいの年代の女性で、会えば世間話をするくらいの仲になった。
 一人で暮らすには家賃が少々高いけれど、快適な今の生活を維持するためになんとか生活をやりくりし、わずかだけど貯金もできている。だから今の生活に不満なんかない。
 ないけど……やっぱり周りが皆結婚していくと焦るし、取り残されたような気持ちになって寂しいのだ。
 会社とアパートの中間くらいにある、小さいスーパーで夕飯の材料を買い、帰宅する。
 今夜は買ってきた豚小間を玉ねぎと一緒に炒めたものと、冷蔵庫の残り野菜を入れた味噌汁とご飯にした。
 夕飯を食べながらビールを飲むのが一日の楽しみだけれど、あの日のことを反省して、しばらく禁酒しようと決めた。
 買ってきた物を冷蔵庫に入れて部屋着に着替えると、早速夕飯の準備。ご飯は朝タイマーで予約しておいたので、炊き上がっている。味噌汁を作り、豚肉と玉ねぎの炒めものを作ったら終わりだ。あの日みたいに美味しいお店に行くのも楽しいけれど、やっぱり自分の部屋で食べるご飯が一番落ち着く。

「いただきまーす」

 リビングの真ん中に置いた小さなテーブルに具だくさん味噌汁と炒めもの、茶碗によそったご飯を運び、テレビを見ながらのんびり食べる。
 夕食を終えたところで、鞄の中に千木良さんからもらったお菓子が入ってるのを思い出した。会社で一つ食べたけど、もう一つは持って帰ってきた。

『飛騨さんは、若い男が好きなんですか?』

 ――なんであんなことを聞いてきたんだか……
 もし私が「若い男が好きですよ」って言ったら、どんな顔したんだろ、千木良さん。
 あの涼しい顔で、「そうですか」とか言うのかな。

「魅力的って言ったくせに。嘘つき」

 千木良さんにもらったお菓子に向かって文句を言って、それを口に放り込んだ。元々味は知っているお菓子だったけれど、なんだかいつもより甘く、美味しく感じた。


 千木良さんとの一夜から数日が経過した。
 その間、高い確率で私の頭を千木良さんが占拠していたわけだけれど、さすがに企画会議が近づいてくるとそれどころじゃなくなる。
 ――今度の会議で企画が通らなかったら、部署にいられなくなるかもしれない……
 千木良さんなら、あっさり「この部署じゃなくて、他に能力を活かせる部署があるのでは?」とか言ってきそう。
 もちろん本当に商品企画に向いていないなら、それは仕方ない。でも、過去にいくつか企画を商品化したことがあるし、中にはかなり売れた物だってある。そういう経験をしてしまうと、簡単に「はい、異動します」とは言いたくなかった。
 できることなら、この部署で頑張りたい。
 だからこそ、企画会議で手を抜くことはできないのだ。
 会議用の資料作成が一段落し、椅子の背もたれに背中を預けてモニターから目を逸らした時だった。逸らした視線の先に千木良さんがいた。それはまあいいのだが、千木良さんの横に、ぴったりと寄り添う女性社員の姿がある。
 ――あれは……
 体は向けずに目だけで誰かをチェックする。あの背格好と髪型は、おそらく営業部の岩見いわみさんだ。
 岩見さんは三十代後半で、営業部の部長を任されるほどのキャリアウーマンである。聞くところによると離婚歴があり、現在は独身らしい。
 百六十センチそこそこの私とあまり身長は変わらないけれど、私よりもかなり細身。手首なんか強く握ったらポキッと折れそうなほど細い。それでいて男性を言い負かすほどのパワフルさと頭の回転の速さを持つすごい女性なのだ。
 ――最初に岩見さんを見た時、この人を目標にしようって思ったのよね。
 でも、時間と共に、岩見さんという人のことが少しずつ見えてきて、どうやら私とは根本的なところが違うと気が付いた。
 もちろん彼女の仕事ぶりはすごい。それは認めるし、尊敬もしている。だけど岩見さんは、明らかに自分が間違っている時でも、その非を認めないのだ。しかも相手にそれを指摘されると機嫌を損ねて逆ギレし、そのまま部署を出ていってしまった……なんて話を聞くくらい、自分に絶対の自信を持っているらしい。
 もちろん、いつもそうというわけではないが、私が知っているだけでも数件はある。その印象が強すぎて、頭にしっかり焼き付いてしまったのだ。
 仕事ができるのは素晴らしいけれど、自分の非はちゃんと認めるべきじゃない? そう思ってしまってから、私は岩見さんを目標にするのをやめた。
 それにこれは余談だけど、彼女は千木良さんを狙っている気がする。
 というのも、千木良さんが商品企画部に来て以来、岩見さんがここに顔を出す機会が増えたのだ。それに千木良さんに話しかける時はいつもより声のトーンが高いし、常に笑顔。商品企画部の面々の間では、彼女が千木良さんに好意を持っていることは、ほぼ決定事項となっていた。
 ――岩見さん、また来てるのか……
 彼女が千木良さんのところに来るのを見るのは、もう何度目だろう。
 これまではその光景を見ても、へえ、千木良さんモテるなぁ……くらいにしか思っていなかった。でも、千木良さんと関係を持ってしまった今、私の中には違う感情が生まれている。
 ――何話してるんだろ、あの二人……
 何食わぬ顔で手を動かしながらも、意識は完全に千木良さんのデスクに行っている。
 ――仕事の話だとは思うけど、それにしては岩見さん、なかなか離れないわね。それに、なんか距離、近くない?
 椅子に座っている千木良さんの背後に回り、一緒にモニターをチェックしているのか、千木良さんの肩の辺りに岩見さんの顔がある。
 近い近い近い近い!!
 もちろん口になんか出せないので、心の中で突っ込みを入れまくった。
 目の端でチラチラ千木良さんの席をチェックしていると、しばらくしてようやく岩見さんが離れていった。
 ――やっと行った……
 なぜか安堵している自分に気付き、なんで私ホッとしてんの? と心の中で首を傾げる。
 あの日から、変だ。
 気が付けば千木良さんのことばかり見てる。近くにいると、自然と目で追いかけてしまうのだ。
 最初はああいうことになった罪悪感や気まずさから、千木良さんのことが気になっていると思っていた。でも、数日経った今も、私の頭の中には常に千木良さんがいる。
 こんなこと、この会社に入って初めてのことで、めちゃくちゃ戸惑う。前の彼氏である同期入社の相手の時だって、こんな風にはならなかった。
 ――もしかして私、千木良さんのこと、好きになっちゃってない……?
 確信はない。でも、ほぼほぼ決まりな気がした。
 私はパソコンのモニターを見ているふりをしながら、その事実に放心する。
 ――私が千木良さんを、好き……
 確かに意識したのはセックスしたからだけど、それだけで彼を好きになったわけじゃない。実際、彼がどんな感じで私を抱いたのかはおぼろげだし。
 あの日以来、気付けば私は千木良さんを目で追うようになっていた。
 モニターを見つめる精悍せいかんな眼差しに、電話対応で時折見せる笑顔。呼び寄せた社員を、書類を見せながら指導する真剣な表情。それに、コーヒーを飲んでいる時の所作だったり、ペンを持って何かを書いている姿だったり。
 これまでは淡々とした物言いや、仕事の手腕にばかり意識が行っていたけれど、千木良真嗣という一人の男性として意識したことで、改めてとても魅力的な人なのだと気付いてしまった。
 そんな素敵な人と一夜を共にして、なかったことにされた。その事実が、今になって私に大きくのしかかってきている。
 ――ほんっっっとに、失敗した……!
 たまらず両手で顔を覆って項垂うなだれる。ややあってから、足音が私の隣で止まった。

「飛騨さん、どうかしました? お腹でも痛いんですか~?」

 須賀君の声だ。

「うんそう。痛いとこだらけなの……」

 頭も痛いし、心も痛い。
 私ってどうしてこう、いろいろ上手くいかないんだろう。
 須賀君に本当のことは言えないから、「嘘です。ちょっと目が疲れただけ」と誤魔化して彼を追いやった。
 それに、どんなにへこんでいても仕事はしなくてはならない。なんとか作業を続け、次の会議に必要な企画書ができあがった。今の自分の精一杯を込めたつもりだけど、これが通るかどうかは神のみぞ知る。
 とにかく今は、千木良さんに失望されたくない。
 ――これでだめなら……もう、異動を言い渡されてもいいや。
 千木良さんだって、使えない社員を近くに置いておきたくはないだろうし。
 そう腹をくくってパソコンの電源を切った。とっくに終業時間は過ぎているので、あとは帰るだけだ。荷物をまとめて席を立つ。残っている社員に声をかけて部署を出た時、背後から「飛騨さん」と呼び止められた。この声は絶対に間違えない――千木良さんだ。

「……はい」

 帰り際、千木良さんに声をかけられた、あの日の場面を思い出す。

「飛騨さん、このあと、お時間はありますか?」
「え。それは、どう……」

 思いがけないお誘いに、目を丸くしたまま千木良さんを見上げた。
 ――もしかして……千木良さんも私のことを……?
 そんな自分に都合のいい話なんかないよね、と思いつつ。それでもまさか……と期待してしまう自分がいた。

「食事でもどうですか。ただし、今夜はお酒ナシで」

 ……ですよね。この前あんな醜態しゅうたいさらしたんですもんね。
 期待しすぎた自分に、心の中で苦笑した。
 アルコールのあるなしよりも、千木良さんがまた私を誘ってくれたことの方が意外だった。

「いいんですか? 相手が私で……」

 他にも誘えば来る女性はいるんじゃないですか? 例えば、岩見さんとか……
 ふいに胸に湧き上がった疑問を、敢えて口にせず呑み込んだ。

「もちろんです。では、了承いただけたということで、行きましょうか」
「はあ……はい」

 なんでまた誘ってくれたのかわからないけれど、正直に言って嬉しかった。
 フワフワした足取りで前を行く千木良さんについていく。しかし、社屋から外に出たところで、ピタッと千木良さんの歩みが止まった。

「……? どうかしましたか?」

 背後から声をかける私を、彼が肩越しに振り返った。

「なんで後ろにいるんです? 隣に来ないんですか」
「……え。だって、隣は……さすがにまずくないですか?」

 この辺りにはまだ同僚がいるかもしれない。ましてや、同じ部署の同僚に見られたら大変なことになる。
 だから周囲を気にしつつ距離を取っていたのだが、千木良さんはそれが気になったらしい。


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