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1巻

1-2

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「あああああ……!!」

 机に突っ伏すと、前方からクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「飛騨さんて、楽しい方ですね」

 運ばれてきたサラダをテーブルの真ん中に置き、千木良さんが取り皿を渡してくれた。

「……楽しくたって、男性にはモテませんもん……」

 自分で取り分けたサラダに柚子ゆずドレッシングをかけて、フォークでグサグサ刺す。口に運ぶと、新鮮な野菜が口の中でシャクシャクと音を立てた。柚子ゆずドレッシングも、確かに美味しい。口の中がすごくさっぱりする。

「そんなことないですよ。少なくとも、私は好感を持ちましたから」

 なんか、千木良さんって私が思っていたよりもいい人?

「そ……そうですか? ありがとうございま……」
「それにしても、そんなに結婚したいですかねえ……今時、世間一般の言う適齢期にこだわる必要はない気がしますが」

 そこでなぜか千木良さんがネクタイを緩め始めた。人差し指で緩めるその仕草に、つい目が行ってしまう。

「い……今すぐ結婚したいわけじゃないんです。でも……せめて恋人が欲しいっていうか……」

 もじもじする私に向かって、千木良さんが真顔できっぱり言い放つ。

「飛騨さんなら猫をかぶっとけば、すぐに男ができると思いますが」
「猫かぶったまま付き合えって言うんですかっ!」
「はは」
「笑わないでくださいっ」

 終始こんな感じで、私が悩みを話せば、千木良さんが全く解決に繋がらない持論を述べる。そこにまた私が突っ込みを入れて……というやりとりを繰り返す。
 そのうち、お腹の中に食べ物は入っているのに、思いのほか酔いが早く回っていい気分になってきた。
 多分それは私だけではなく、千木良さんも……
 あまり表情の豊かな人ではないからわかりにくいが、時折私の言動に肩を揺らして笑っているし、私と同じくらいお酒が進んでいる。
 千木良さんとのやりとりが楽しくて、私はきっとたがが外れてしまったのだと思う。


「……ん……」

 いい気分で夢の中にいた。心地よい人の温もりなんて、何年ぶりだろう。
 目の前にある温もりに頬をすり寄せると、優しく髪を撫でられているような錯覚におちいった。
 ――何これ、気持ちいい……それに、あったかい……
 このままこの温もりを感じていたい。そんな気持ちで再び眠りに就こうとした時だった。

「飛騨さん、そろそろ起きませんか」

 ――飛騨、さん……?
 すぐに状況が理解できない。でも、今の声には聞き覚えがある。
 ――誰だっけ……えっと……そう、うちの上司の……ち、ちぎ……
 次の瞬間、意識がはっきりした。

「千木良さん……?」
「はい」

 聞き慣れた声がすぐ頭の上から聞こえてきた。恐る恐る目を開けた瞬間、驚きのあまり時が止まった。
 なぜなら目の前にいる千木良さんが服を着ていなかったからだ。そして私も裸。これが意味することは一つしかない。

「ちっ、ちぎっ……!? なっ……な、ななな、なんで!?」

 言葉にならない叫び声を上げる私に、目の前の千木良さんがすっと眉根を寄せ、目を閉じた。

「案の定こういう反応ですか……だから言ったのに」

 少し困ったような顔をした千木良さんをよく見ると、いつもかけているシルバーフレームの眼鏡がない。そして、いつもしっかりセットされている髪が乱れ、長めの前髪が目にかかっている。
 掛け布団から露出するたくましい肩や、厚みのある引き締まった体。少々汗ばんだ肌は明らかに事後の余韻をただよわせており、ありえないくらいの色気をかもし出している。
 ――嘘……千木良さん、すごくいい体してる……? いや、それよりも私、この人にだ……抱かれ……たの……!?
 しかも今の今まで千木良さんの腕枕で寝ていたらしい。それに気付き、慌てて上半身を起こした。でもその途端、何も身に付けていない上半身があらわになってしまい、慌てて布団を掴んで胸元を隠した。

「あのっ、私達、その……し、したんですか……?」
「しましたよ」

 けろりと返事をされて、無言で天を仰いだ。
 一応、たずねはしたけど、自分でもちゃんとわかってはいた。だって、下半身に思いっきり余韻が残っているから。

「……す……すみませんっ、私、何がなんだか……」

 しかし残念なことに、ここに至るまでの経緯を何も覚えていない。さすがに申し訳なくて、千木良さんの顔を見ることができない。

「だと思いました。飛騨さん、すごく酔っていたので」

 千木良さんは未だに枕に肘をついた状態で、ずっと無表情。きっと何も覚えていない私に呆れているのだろう。

「それであの、ここって……どこですか?」

 胸元を布団で隠したまま、ベッドにぺたんと座り込んで周囲を見回す。
 二人が余裕で寝られる広いベッドはおそらくダブル。大きな窓の近くには、小さなテーブルと一人掛けのソファー。そして壁側にはドレッサーがある。
 パッと見た感じの印象では、いわゆるラブホテルではない。

「最初の居酒屋から、次にどこへ移動したかは覚えてますか?」
「えっ、と……確か、バーに行ったような気がします」
「そう。そこであなたは、多分許容量をオーバーしたのでしょう。私に絡んできて……」
「えっ。私、千木良さんに絡んだんですか!?」
「はい。それはもう、盛大に」

 無表情だった千木良さんの顔に、初めて笑みが浮かんだ。
 嫌な予感がする。いや、嫌な予感しかない。

「あ……の……私、どんな絡み方をしたんでしょう……?」

 すると、千木良さんの顔から再び笑みが消えた。

「言っていいんですか?」
「えええ、そ、そんなに酷かったんですか!?」

 どうしよう、と青ざめる。

「ああ、別に暴れるとかそういう絡み方じゃないですよ。至って静かに、なんというか……おそらく今の飛騨さんが抱えている悩みと、それに関しての願望がそのまま口から出てしまったと言いますか……」
「そのまま!! 出てしまった!?」

 自分が一体何をやらかしたのか、ますます内容が気になってしまう。
 そのため、今の自分の状況そっちのけで千木良さんに迫った。

「あの……私が何を言ったのか、教えてください。じゃないと私、気になって仕事が手につかないです……!!」
「それは困りますね」
「そうです」

 わかりました、と小さく呟いた千木良さんが、髪を手で掻き上げた。

「もう何年も男に抱かれていない。恋人を作るのが無理なら、せめて誰かに抱かれたい」
「え」
「そう言って、あなたは泣きました。バーのカウンターに突っ伏してね」
「え、ええええ……」

 背中にびしゃびしゃと冷水を浴びせられたかのごとく、全身から血の気が引いていく。

「あまりにあなたが泣くので、なんとかなだめてバーを出ました。でもバーを出たところで、あなたが私にすがってきたんです。千木良さん、お付き合いしている人はいますか、と」

 酔っ払ってても、千木良さんに恋人がいるかどうかは気になったのね、私。

「あの、もしかして私……」
「そう。私に特定の相手がいないことを知ったあなたは、すぐさま抱いてくれませんか、と懇願してきました」
「……っ!?」

 思わず胸元を隠していた布団を頭から被った。
 ――私ったら、なんてことを……っ!!

「すみません……! ほんっとうに、申し訳ないです……っ!!」
「続き、聞きますか?」
「お、お願いします……」
「もちろん最初は私もお断りましたよ。男と女とはいえ、あなたとは上司と部下ですから。体の関係を持つと仕事がやりにくくなるのはわかっていましたし、飛騨さんはかなり酔っ払っていた。酔いが覚めた時に、あなたがショックを受けることは目に見えてましたから」

 はあ、と千木良さんがため息をつく。それをの当たりにして、小さく胸が痛んだ。
 ――あああ……もう、めちゃくちゃ迷惑かけてるじゃん……どうしよう……
 彼の予想した通り、絶対にこれから仕事がやりにくくなる。
 私が今後についてうれい始めた時だった。

「でも、それらの懸念けねんを余裕で払拭ふっしょくするくらい、あなたの魅力にあらがえなかった。これが全てです」
「へ」

 急に話の方向が変わった。恐る恐る布団から顔を出すと、私を見て微笑んでいる千木良さんがいた。

「あなたはとても可愛かった。だから抱きました」
「え……それ、ほ、本当ですか……?」
「こんなことで嘘をついてどうするんです。それに相手に魅力がなければ、いくら迫られたとしても私が機能しません」

 千木良さんの長い指が私に伸びてきて、頬にそっと触れた。

「久しぶりに女性を抱いて激しく興奮しました。それだけ、あなたは魅力的だということです」

 目の前にいる美男子と見つめ合う。彼の表情を見る限り、今の言葉が嘘とは思えない。

「み……魅力的、でした? 私が……」
「ええ、とても。あなたを放っておく男は見る目がないですね」
「……嬉しいことばっかり言ってくれるんですね、千木良さん……」
「そりゃまあ。あなたからしたら今回のことは事故みたいなものでしょうけど、私からしたら完全に役得ですから」

 さっきから千木良さんの言葉がぐるぐると頭を駆けめぐっている。
 魅力的、可愛かった、役得。
 男性にこんな言葉を言ってもらえたのは何年ぶりだろう。
 正直に言って、すごく嬉しかった。自分が女であると再認識できた気がする。それに、相手が私に魅力を感じて欲情してくれたことが何より嬉しかった。
 ただ、その相手が、直属の上司である千木良さんということだけが問題だった。
 ――もし千木良さんと男女の関係になったことが周囲にバレたら……
 千木良さんの性格上、一度寝たからといって、私の企画を通してくれたり、優遇してくれたりというのはありえないとわかる。でも、周囲は違う。
 私が彼とそういう関係になったのは、仕事で優遇してもらうためだと邪推する人もいるかもしれない。
 それを考えると、千木良さんと関係を持ってしまった事実は……危険だ。
 嬉しい言葉をもらったあとではあるが、酔いが覚めて冷静になった私の頭の中には、いかにしてこの状況を回避して千木良さんとの情事をなかったことにするか。そればかりが、ぐるぐる回っていた。

「あの……ち、千木良さん、今回のことは本当に申し訳ありませんでした……。ご迷惑をかけたのに、私、本当に途中から記憶がなくて……」
「そうみたいですね。あなたの表情を見ていればわかります」
「すみません……それであの、今後のことなんですけど……」
「何からぬ心配をしているようですが」

 真顔に戻った千木良さんが、ベッドから体を起こす。布団に隠れていた腹筋が現れて、なぜか緊張してしまった。
 千木良さんはそんな私を見て、しそうに口元を押さえた。

「あなたが心配しているような事態にはなりませんから、大丈夫ですよ」
「……だ、大丈夫って、どういう……」
「忘れてあげます」
「忘れるって、何を……」

 千木良さんが口元から手を外し、私を見て微笑んだ。

「今夜の出来事はなかったことにしてあげましょう」
「え……なかったことにって、ぜ、全部ですか!?」
「そう。そうすればあなたも安心してこれまで通り仕事ができるでしょう? これが最善かと」

 千木良さんの提案は、正直、願ってもないことだった。
 ――本当にそれでいいのだろうか?
 なぜか、明らかに安堵する私と、胸が痛む私がいる。
 でも今は何が正解なのか、自分じゃ判断できない。
 だから千木良さんの提案に首を縦に振るしかできなかった。

「あ、ありがとうございます……」
「先にシャワーを浴びてきます。その後、ご自宅まで送りますね」

 千木良さんがするっとベッドから立ち上がる。何も身に付けていない姿に、慌てて目を逸らしていたら、彼はそのままバスルームに消えていった。
 さっきまで布団の中で抱き合っていたらしき人が目の前からいなくなり、どっと気が抜けた。
 ――千木良さんと……セックス……しちゃった……全然覚えてないけど……
 これからも千木良さんと仕事をしていくうえでは、情事を覚えていないのはラッキーと言っていい。なぜなら無駄に意識しなくて済むからだ。
 しかし、一人の女としては、せっかく数年ぶりにセックスしたのに、それを全く覚えていないことがショックだった。
 ――人生で初めて酔って記憶をなくしたのが、なんでよりによって今夜なの……
 遠くから聞こえてくるシャワーの音をBGMに、放心状態の私は再びベッドへ倒れ込んだのだった。



   二


 千木良さんと過ちを犯した翌日。
 私は何食わぬ顔で出社し、いつもと何も変わらないていで仕事にいそしんでいた。
 会議室に集まった商品企画部の面々の前にあるのは、先日企画が通った惣菜の試作品である。
 私が頭を悩ませている弁当以外にも、スーパーの惣菜売り場に送り出す新製品はまだまだある。今回は揚げ物――コロッケだ。定番の牛肉コロッケ、じゃがいもコロッケ、コーンクリームコロッケなどに加え、カボチャのコロッケや紫いものコロッケなど、バリエーションの豊富さで主婦の支持を得ようという試みだ。
 じゃがいも自体に甘みのある品種を使っているため、これまでのコロッケに比べて格段にうまみが増している。その違いは、一口食べただけでわかった。

「美味しいですね。これでほぼ完成形じゃないですか?」
「確かに。でも、もう少しタマネギを入れてもいいかもしれない」
「コーンクリームも美味しいですよ。コーンを増やせばもっといいかも。子どもが好きそう」

 こんな風に担当者同士で議論を交わし、感想や改善点をまとめて試作品を作る。そしてパッケージ案と一緒に、千木良さんを含めた企画会議にかけ、そこで承認された商品が社長面接に進む。
 社長が試食して問題ないと太鼓判たいこばんを押し、世に出す決裁が下りたところで、ようやく商品化されるのだ。
 様々なコロッケを試食して、かなりお腹が満たされたところで会議は終了。各々が会議室を出て自分の席に戻る。
 ――ふー、美味しかった。いい商品ができそうでよかった……
 安堵しながら何気なく視線をフロアへ向ける。自然と、私から数メートル前方でパソコンのモニターを見つめている千木良さんが目に入って、心臓がばっくん、と大きく脈打った。
 ――やばっ。目が勝手に。
 慌てて目を逸らすけれど、心臓はそう簡単に落ち着いてくれない。
 これまでは千木良さんを見ても、イケメンだなーとか、仕事ができそうな感じだねー、などといった印象しかなかった。
 でも、昨夜の出来事があったことで、私の千木良さんに対する印象は激的に変化していた。
 ――そりゃそうよね、だってセックスしたんだもん。あの人と……
 参ったな、と手元にあったお茶で喉をうるおす。
 正直、あの人とどんな夜を過ごしたのかはほとんど覚えていない。でも本当にわずかだが、断片的に思い出したこともあって、一人でもだもだしてしまった。

『飛騨さん』

 甘くて低い声が私の名を呼び、顔が近づいてくる。首筋を滑り下りていく唇や、胸や秘部を愛撫あいぶする手の感触。それらが脳裏に浮かぶたびに、いたたまれないというか、なんというか、たまらない気持ちになるのだ。
 じっとしていられなくてお手洗いに逃げたり、お茶をれに席を立ったりと、どうにも落ち着かない。
 ――せっかく千木良さんがなかったことにしてくれたのに……き、きつい……
 こんな私に対し、千木良さんはというと、全くもっていつも通り。びっくりするくらいこれまでと変わらず、朝ばったり会った時に、思わず二度見してしまったくらいだ。
 さすが、デキる男は違う。
 というか、きっと千木良さんは経験も豊富なのだろう。私みたいにずっと彼氏ができなくて、泣いてすがって上司に抱いてもらったような女とは違うのだ。
 ――だめだ、自分で言っててへこんできた。
 可愛かったとか、魅力的だとか、言ってもらえて嬉しかったのにな。
 もうちょっと私を気にする素振りを見せてくれてもよくない? と心の中で千木良さんをなじった。
 自分でこうなることを望んでおきながら、いざ思い通りになったらなったでそれが不満って、私はなんて勝手な人間なのかと、さらに自己嫌悪におちいってしまう。

「飛騨さ~ん。昼行きませんか」

 席に座って悶々もんもんとしていたら、声をかけられた。この声は、同じ商品企画を担当している須賀すが君だ。
 その声に椅子をくるっと左に動かす。

「……今、試食でコロッケ食べたばっかりじゃん。私、お昼いらないって思ってたのに」
「えー、さすがにあれだけじゃ足りないですよ~。すぐ近所にオープンした蕎麦そば屋に行きません?」

 須賀君は私より四年後輩の二十六歳。
 一年前、人なつっこい彼が商品企画部に配属されてからというもの、こんな感じで昼時に声をかけてくることが多い。それはおそらく、商品企画部の他の社員が私達よりだいぶ年上だったり、既婚でお弁当持ちが多いという理由からだろう。
 細身なくせによく食べる須賀君は、顔が可愛くて異性という感じがあまりしない。目がくりっとしていて、垂れ目の彼が、可愛い笑顔で「飛騨さ~ん」と駆け寄ってくる姿が、たまに柴犬に見える時がある。

蕎麦そばか……それなら入るかな……」

 試食だけでじゅうぶんと思っていた私も、お蕎麦そばと聞いて興味が湧いた。

「オープンしてすぐ行った知り合いが美味うまいって言ってましたよ。蕎麦そば美味うまいけど、天ぷらも美味うまいそうです」
「気になるけど、さすがに天ぷらは入らないわ。蕎麦そばだけなら付き合うよ」

 お財布とスマホを持って席を立つ。その時、ふと、千木良さんがこちらを見ていることに気付く。
 ――ん……?
 私が千木良さんの方を見ると、ふいっと視線を逸らされてしまった。これまでだったら気にも留めないようなこと。なのに今日は逸らされたことにショックを受けた。
 ――なんで、逸らすの……!?
 実は何か言いたいことがあるんじゃないの、もしくは何か気になることでもある!? という圧を込めてじっと千木良さんを見つめる。なのに、千木良さんは全然こっちを見てくれない。
 ――こんなに見てるのになんで気付かないの……!!
 こっちを見てくれない千木良さんにモヤモヤがつのる。
 じっと見つめているうちに、またあの夜のことがフワッと頭に浮かんできて、顔が熱くなってきた。
 ――だめだめっ!! 今思い出しちゃだめだってば!!
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとしていると、案の定、須賀君がよくわからないものを見るような目で首を傾げていた。

「飛騨さん? どうかしました?」
「あ……ううん、なんでもない。お昼行こうか」

 彼の様子が気になるけれどそれをグッと抑えて、須賀君と一緒に部署を出た。
 オフィスビルから駅に向かって二分くらい歩いたところに、目的の蕎麦そば屋があった。間口が狭いので店も狭いのかと思っていたら、思いのほか奥行きがあってそこそこの広さだった。カウンターやテーブル席だけでなく、奥には座敷もあるらしい。
 店内は昼時ということもあって、すでに八割ほど席が埋まっている。テーブル席に通された私と須賀君は向かい合って座り、メニューを眺めた。

「私はざるでいいかな~。あんまり入らないし」
「じゃあ僕は、天ざるにします」

 さっきあんなに試食で揚げ物を食べたのに、若いってすごい。
 蕎麦そば茶を持ってきてくれた店員さんに、そのまま注文して二人でお茶をすする。

「あ~、蕎麦そば茶美味しい」
「ですね~」

 お茶を飲んでほっこりしたあと、話題はもっぱら秋の弁当企画のことになった。

「やっぱり千木良さん厳しいですよ~。この前出した企画、どれもよかったと思うんですけどね」

 さっきから須賀君が何度も千木良さんの名前を連呼するので、そのたびに私の心臓がバクバクして、ついお茶ばかり飲んでしまう。おかげで湯呑みはもうカラだ。

「まあ、わざわざうちの立て直しのために総善から出向してきてるわけだし。そう簡単にGOサインは出せないと思うんだよね……」
「そうかもしれないですけど。でも、あれをどうやって修正したらいいのか……。飛騨さん、もう修正案できました?」
「まだ。……ていうか、本当は外でのんびり蕎麦そば食べてる場合じゃないんだよねえ……帰ったらさっさと企画に取りかからないと。次の会議で通らなかったら千木良さんもキレるんじゃないかな」

 普段は穏やかな千木良さんだけど、過去に一度だけ、「怖っ!」と思ったことがある。
 それは、売り上げが落ちていた弁当の中でもそこそこの売り上げを保っていた定番商品の担当者に、千木良さんがリニューアルを要求した時だった。
 その担当者は、私や須賀君と比べたら熱い人で、長年惣菜弁当部門を支えていたその定番商品に対して確固たる自信を持っていたようだ。
 そんな人が、親会社からやってきた部門の立て直し請負人うけおいにんにいきなり自信作を「変えろ」と言われて、「はいわかりました」とすんなり受け入れるはずがなかった。

『この弁当は売り上げもいいですし、長年これを求めてわざわざ買いに来てくださるお客様もいるんです。それをなぜ変える必要があるんですか! リニューアルするなら他の商品でしょう』

 企画会議で堂々と千木良さんに物申したその担当者に、千木良さんは冷静な態度を一切崩さなかった。

『売り上げがいいと言っても、他の商品に比べたらまだいいというだけです。ライバル店と互角に渡り合うには今のままではだめです。実際食べ比べてみましたが、明らかに他店の方が美味でした』

「他店の方が美味」とはっきり言われ、その担当者は言葉を失った。

『昔からの味を大事にするのが悪いとは言っていません。今の美味しさを保つのは当たり前です。私が言っているのは、今以上の美味しさを求めるべきだということです。他社をしのぐ商品を生み出す。それが私達の目標です』
『……っ、ですが、これ以上をどうやって……』


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