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1巻
1-3
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私を見る八子さんの表情は仕事中と違う。優しい微笑みは同じだけど、そこにほんの少し甘さが加わり、彼のファンが見たらその麗しさに悲鳴を上げそうな極上の笑み。
私もその微笑みの威力に負けそうになるけれど、なんとか理性で押しとどまった。
――うっ……ま、負けない……
「さっきも二人だったじゃないですか……」
「まあね、でも話したいことの半分も話せなかったからさ」
「話したいことってなんでしょうか」
「分かってるくせに。あ、足下に気を付けて」
普段下り慣れている会社の階段であろうと気遣ってくれる。八子さんのこういうところが、きっと女子に人気がある理由の一つなのだろう。
階段を下りきったところで、まだ行き先を聞いていなかったことを思い出す。
「それで、どこに行くんです?」
「ああ、とりあえず鳥梯さんを誘い出すことが目的だったから、何も考えてない」
「ええ」
てっきり当てがあるとばかり思っていたので、少し拍子抜けした。
「鳥梯さん、あんまり時間とれないだろう? 近場でいいよ。なんなら一階のカフェでも」
このビルの一階には軽食を食べることができるカフェがある。平日は大概、正午を過ぎた辺りからオフィスに勤める社員がぞろぞろやってきて、十分もすればカフェはほぼ満席になってしまう。
まだ正午前だし、今ならたぶんまだ席には空きがある。
――じゃあ、そこでいい……いや、ダメだ。八子さんとの会話を知り合いに聞かれるのはまずい。
十中八九あの夜の話題なのに、知り合いがいつ来てもおかしくない場所で話すわけにはいかない。
「あの、別のところでもいいですか? 近くにゆったり座れるカフェがあるので……」
「いいよどこでも」
この言い方だと、八子さんにとって場所は二の次らしい。あっさり承諾してもらえたので、とりあえずビルから出る。
それにしても、二人きりで何を話すというのだろう。そのことばかりが頭をぐるぐるしている。
――やだなあ……何言われるんだろう……
背中に重たい空気を背負ったまま、目的地に向かう。
会社から五分くらい歩いたところにある、別のオフィスビルの一階にある老舗のカフェだ。
その店は路地を入ったところにあり、隠れ家のような趣がある。そのせいもあってか、若い人よりも年配の人に人気がある。
最初は私も知らなかったのだが、上司に教えてもらってからたまに利用するようになった。
でもこの時間帯はどこも混み合っているはず。もしかしたら座れない可能性だってある。そのために他の候補も考えておかねば。
「もし空いてなかったら別の店にしますね、すみません。私の都合に付き合っていただいて」
「いーよいーよ、どこだって。それよりも鳥梯さん」
「はっ、はい」
「そろそろ気になっていること聞いてもいいかな。まだダメ?」
はっきり言われてしまい、ひゅっと喉が鳴りそうになった。
――ダメ……じゃない、私もいろいろ聞きたいことはある、んだけど……
今私達が歩いているのは、ビルを出て人がまばらになってきた辺り。ここまで来れば私達の会話を聞かれて困る人も、いないだろう。
「……いいですよ、どうぞ」
承諾したら、八子さんが歩きながら私を見下ろしてくる。
「……八子さん?」
「鳥梯さん、俺のこと避けてない? もしかして俺、嫌われた?」
「ええ? き……嫌ってはいないですよ」
「てはいない、というのは、どういう意味?」
私の返事で八子さんの眉間に深い皺が刻まれてしまった。
――いけない、変な言い方しちゃった。
「嫌いじゃないです! そうではなくて……ちょっと、あの、どう接していいか分からなくなっているというか……避けているように見えたのならすみませんでした」
この言い方で分かってもらえるだろうか。
相手の反応を窺うと、一応納得してくれたのか彼の眉間の皺が消えた。
「まあ……それなら理解できるか。なんか、打ち合わせ中も鳥梯さん、俺とあんまり目を合わせてくれなかったからさ」
「……すみませんでした……でも、八子さんにも責任があるんですよ?」
「え。俺?」
素で驚いているところを見ると、まったく自覚はないらしい。
私だってそんなあからさまな態度をとるつもりはなかった。でも、八子さんが私の方ばかり見るのがいけない。あれじゃ他の社員に関係を怪しまれてしまう。バレないためにはそうせざるを得なかったのだ。
「打ち合わせの最中、こっちばっかり見てきたでしょ……! なのに私も八子さんの顔ばかり見てたら他の人に仲を怪しまれるじゃないですか。だから八子さんの顔をあまり見ないようにしてたんですよ」
「見ないようにって、ひどいな。あの案件の責任者は鳥梯さんでしょう。責任者と視線を合わせるのなんか普通じゃない? そもそも、なんで怪しまれたらダメなの?」
真顔で聞かれて、一瞬言葉に詰まってしまった。
ちなみに、勤務先はわりと自由な社風だ。社内恋愛も問題ない。でも、取引先の関係者との恋愛となると話は別だと思う。もちろん会社で禁じられているわけじゃないけれど、公と私の区別ははっきりつけた方が仕事もやりやすい……と、私は考えている。
「……ダメっていうか……あ、ちょっとこの話ストップで。着きました」
話している間に目的地のカフェに到着。ガラスのドアを開けて中に入ると、カウンターにいたマスターが「いらっしゃい」と声をかけてくれた。
マスターはおそらく五十代後半から六十代くらい。この店の軽食は、全てこのマスターが作っているのだという。
二人です、と言う前に空いてる席へどうぞ、と案内された。見れば、まだカウンターも窓側のボックス席にも空きがある。
「ボックス席でもいいですか?」
「いいよ」
座席はレトロなペンダントライトが天井からぶら下がり、椅子はワインレッドのフェイクレザーで、木目の美しいライトブラウンの木製テーブルが備え付けられている。BGMにはジャズが流れ、インテリアとの相乗効果でよりいっそうレトロな空間を演出していた。
一杯のコーヒーとお気に入りの文庫本があれば、半日くらいここで過ごせそう。特に大人、とりわけお一人様にとっては非常に居心地のいい場所だと思う。
席に着くと、八子さんはまず、運ばれてきた水に口をつける。
「先に注文しちゃいましょう。軽食のおすすめはマスター手作りの厚焼き玉子サンドです」
メニューを広げて写真を指さすと、腕を組んだ八子さんが興味深そうに身を乗り出してきた。
「へー、旨そう。じゃあ、俺はそれで」
「私はカフェラテでいいかな」
「……ん? 鳥梯さん飯、食わないの?」
さらっと注文を済ませようとしたのに、気付かれてしまった。
はっきり言おう。八子さんがいると食欲が湧かないのだ。
「あんまりお腹空いてないんで……飲み物だけでいいです。あ、注文お願いします」
八子さんに何か言われる前にアルバイトの女性を呼んだ。八子さんの軽食とブレンド、私のカフェラテを注文し、改めて八子さんと向き合う。
「……さて」
じっとこちらを見ながら、八子さんが微笑んだ。
「あの夜ぶりだね」
「その節は、すみませんでした‼」
とりあえず、八子さんと二人きりになったら謝ろうと決めていた。だからテーブルにくっついてしまいそうなほど頭を下げて謝った。
何に対して謝っているのか、我ながら説明が難しい。でも、あの翌日から、次に八子さんに会ったら謝らなくてはいけないような気がしていた。
そんな私の謝罪を受けた八子さんは、案の定というかやはりというか、目を丸くしている。
「なんで俺、謝られてるの?」
――まあ、そうか……そうなるよね……
体勢を戻し、前髪を直してから呼吸を整えた。
「あの夜のことでその、いろいろ、ご迷惑をおかけしたのではないかと……。正直、私、途中からあんまり記憶がなくて。あ、もちろんタクシーに乗ってからの記憶ははっきりしてるんですけど」
「別に謝るようなことは何もなかったよ。それよりも謝るのはこっちでしょ。ごめんね、いきなりあんなことして」
謝ってくれたことが意外だった。顔はそんなに申し訳なさそうではないけど。
――謝るっていうことは……やっぱり、あの夜のことは遊びだよ、って言いたいんだよね……?
「まあ、はい……びっくりしました」
「腰も痛めちゃったしね」
――それを言うか。
リアルにあの夜のことを言及してくるので、ドキッとした。
「……二晩くらいで良くなりましたから、どうぞお気になさらず」
「それは何より」
八子さんはここで一旦会話を切った。すぐにやってきた女性スタッフが、彼と私の前に注文したブレンドとカフェラテを置いていったからだ。
女性が去ってから二人とも無言でカップに口をつけた。いつもならコーヒーのいい香りとその美味しさにため息が漏れるはずなのに、今日に限ってはため息も出ない。
――……あ、味がしない……
久しぶりにめちゃくちゃ緊張してる。こんなの転職の時の面接以来ではないか。
「鳥梯さんは、なんであの夜、OKしてくれたの?」
「えっ……」
先にカップをソーサーに戻した八子さんが、じっと私の返事を待っている。
「それは……な、流れと言いますか。ふ、雰囲気に呑まれたと言いますか」
「雰囲気か」
八子さんが口元に手を当て、窓の外を見る。何やらあの夜のことを思い出しているようにも見えた。
「鳥梯さんは、ああいう雰囲気に弱いってことなのかな?」
「そ……そういうわけではないですけど。でも、あの夜は食事会も楽しかったし、お酒も入ってすごく気分が良かったんです。その流れでああなったので、私としてはもう仕方ないかなと」
仕方ない、のところで八子さんがこっちを見た。
「それってどういう意味?」
「え? だから、きっと八子さんも私みたいに気分が良くなって、そういう気持ちになったから、ああいうことになったのかなーって……」
「確かに気分は良かったけど、それでああいうことをしたんじゃないよ」
八子さんの声のトーンが少しだけ低くなった。
「じゃあ、なんで……」
「そんなの決まってるでしょ。好きだからだよ」
八子さんがブレンドを口にして、カップをソーサーに戻す。
その流れを見つめていた私の頭の中は、とんでもないことになる。
――は……? 好き……好き? 今、八子さん、私のこと好きって言った? てことは何、あれはワンナイトじゃないってこと?
「っ‼」
言われたことを理解した瞬間、無意識のうちに口を手で覆っていた。それと同時に浮かんできたのは、マズい、という焦りだった。
「好きな人と一緒の時間を過ごして、余計好きになって、二人で歩いているうちに欲望を抑えきれなくなった。じゃなきゃ酔った勢いだろうが雰囲気に呑まれてようが、取引先の人とあんなことしないって。これで分かってくれた? 俺はワンナイトのつもりはまったくないってこと」
「……無理です」
「え?」
小声だったのに、八子さんが敏感に反応した。
「八子さんって、普段女性との距離が近いじゃないですか。……私以外にも、きっとそういうことを言う相手がいるんじゃないですか……」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。八子さんが「嘘だろ」という顔で、背中を椅子に預けた。
「いやいやいや、待ってくれよ。確かに俺、結構気軽に女性に話しかけるけど、いくらなんでも誰にでもああいうことはしないって」
「そ……それは、そうかもしれないですけど、でも、八子さんが私を好きって言うのは信じられません」
「なんでさ」
八子さんがちょっとだけムッとする。仕事中は見たことがない、レアな表情だ。
「好き……って、わりと簡単に言えるじゃないですか。ラブじゃなくても、ライクでも」
「鳥梯さんに対する俺の好きはライクだってこと?」
「……だと、私は思うのですが」
八子さんが腕を組み、苦笑する。
「ひでえな。どっちかっていうと俺の鳥梯さんへの気持ちは……っと」
ここでタイミングよく注文した厚焼き玉子サンドが八子さんの前に置かれた。食パンの倍はあろうかというぶ厚い玉子焼きがサンドされていて、味を知っているのに目が釘付けになる。
食パンは八枚切りを四枚使用しているので、これだけでもかなり食べ応えがあるのだ。
店員さんが去ってから、八子さんがさっきの続きを言おうとした。でも、美味しそうなサンドイッチが目の前にあるのなら、先に食べてもらいたい。
「話はあとでいいので、先に食べてください」
手のひらを向け、どうぞと勧めたら、何かを言おうとした八子さんが観念したように口を噤んだ。
「食べるけどさ。じゃあ、その間、鳥梯さんの俺に対する気持ちをもう少し詳しく教えて」
「そ、そんな。今話したじゃないですか」
「俺に対する気持ちはまだでしょ。本音を教えてよ」
目の前のカフェラテはまだ半分以上あるけれど、口をつける気になれない。
――本音って……何を言えばいいの。
「私は、その……八子さんのことは、すごく尊敬してます」
「俺が聞きたいのはそういうのじゃないんだけど」
「うっ……」
彼の言いたいことは分かっているつもり。でも、なんて言ったらいいのかが分からないのだ。
言葉に詰まっていると、八子さんがサンドイッチにかぶりついているのが目に入った。
「ん。旨い。玉子焼きがすごくジューシー。ほら、鳥梯さんも一つ食べなよ」
「いえ、私は……」
「食っとかないと午後もたないよ。遠慮すんなって、ほら」
「……じゃあ、お一ついただきます……」
恐る恐る彼の前に置かれた皿に手を伸ばす。一番手前にあったサンドイッチを取ろうとした時、いきなり八子さんに手を掴まれてしまう。
「えっ」
反射的に彼を見ると、さっきよりも視線が熱い。掴まれた手もなんだか熱く感じる。
「俺のことが嫌い? でも、あの夜はそう思わなかったけどな」
あの夜のことを言われると、条件反射で顔が火照る。しかも掴まれている手の力が結構強くて、簡単には放さないという、八子さんの意思が窺えた。
「あの……放してもらえますか。これじゃ飲めないし、食べられないです……」
「俺のことをどう思ってるか教えてくれたら放すよ」
「そんな……」
八子さんが手を握ったまま、人差し指でツー、と手の甲をなぞっていく。わざとだと分かっていても、背中がゾクゾクと粟立つのが止められない。
「ねえ、鳥梯さん。あの夜俺は最高に幸せだったよ。でも、そう思っていたのは俺だけだったのかな」
「……あ、の……」
今度は下腹部の辺りがきゅうっとなって、心臓がドキドキと強く音を立て始める。
――どうしよう……
焦りと困惑で、彼の手に包まれている手の中がじんわりと汗ばみ始めた。
この状況は、私がうんと言えばそのまま付き合おう、って流れかもしれない。でも……正直言って、今はそんな気になれなかった。
八子さんのことは尊敬しているし、これからも一緒に仕事がしたいと思う。でも、それは恋愛感情ではない。
好意を持ってくれて、付き合うつもりでいてくれた八子さんには申し訳ないし、気持ちは嬉しいけど……
八子さんになんて言ったらいいのか。どう言えば彼を傷つけずに気持ちを分かってもらえるのだろう。
「あ……あれは……私の中では、割り切った大人のお付き合いだと思っていたので……」
言われた方の八子さんは、あまり表情を変えなかった。
「大人ね。まあ、そういうのもアリかもしれないけど」
八子さんがふっ、と息を吐いた。
「なら、一晩だけでいいの? また経験したくない?」
また経験。アレを? あの夜を?
考えただけで体が熱くなってきた。
「八子さん……‼」
「俺はしたいけどね。何度だって」
ダメ押しの一言に心臓がひときわ大きな音を立てた瞬間、私は照れも困惑も限界に達し、力任せに彼の手から自分の手を引き抜いた。
そのまま目の前にあるカフェラテの残りを一気飲みしてから、お金を払おうと財布を探す。だが、八子さんによって強引に連れ出されたため、財布を持ってきていないことに気が付いた。
スマホは持っているので、電子マネーでなら支払える。でも残念ながら、このお店は電子マネー決済ができない。
――くっ……また顔を合わせる口実とか作りたくないのに……‼
「怒った?」
「……っ、怒っていません。それより、申し訳ありません。財布を持ってこなかったので、代金を立て替えていただいてもいいですか? 必ずお支払いしますので」
「いいって。ここは俺のおごり」
八子さんが涼しい顔でコーヒーに口をつけている。
こっちがこれほどペースを乱されているのに、その落ち着きぶり。一周回ってイラッとしてくる。
「いえ、そういうわけにはいきませんから! ……すみませんが、私はこれで失礼します」
「何も食べてないじゃん? 少し食べてけば」
「結構です。食欲吹っ飛びましたんで」
「じゃあ、仕方ないか」
どこに笑う要素があったのかがまったく分からないが、なぜか八子さんが笑う。
「……では、お疲れ様でした」
「はい。じゃ、またね」
爽やかに見送られてしまい、これにも調子が狂ってしまう。
――ほんと、勘弁してよ……‼
それでもちゃんと会釈をして、店のマスターにもご馳走さまでしたと一声かけてから店を出た。
別に逃げる必要などないのに、なぜか早足になってしまう。
――もう、もう……‼ なんなの、あの人、ほんとなんなの……⁉
どう考えてもからかわれている。もちろん、誘いに応じたのは自分だ。だけど、まさか八子さんが私を好きとか思うわけがないじゃないか。
「やっぱりあの人、チャラい……‼ 絶対私のことからかってる……‼」
――大体なんで私……? 八子さんなら、他に仲のいい女性なんかいくらでもいそうなのに……
考えれば考えるほど理由が分からない。
帰り道の間ずっとそのことばかり考えたけれど、答えは見つからなかった。
八子さんには食欲が吹っ飛んだ、なんて言ったけど、考え事をしていたらお腹が空いてきた。今からどこかに食べに行く時間も心の余裕もなかった私は、帰り道にあるコンビニでサンドイッチを買って会社に戻る。
食事をしに外出したはずの私がコンビニのサンドイッチを食べているのを目撃し、井口さんが首を傾げていた。
「お昼食べに行ったんじゃなかったんですか?」
席に着くなり、ものすごい勢いでサンドイッチを頬張っている私に、井口さんが近づいてきた。
「……行ったよ。でも、八子さんと一緒だとどうも食欲が湧かなくて。その反動か分かんないけど、別れた途端すっごくお腹が空いたの」
クスッと笑いつつ、井口さんが小さく頷いた。
「あー、なんか分かります。八子さんみたいなすごい人と二人で食事って、緊張しますよね。私だったら絶対無理です」
「八子さんてさあ……うちの女性社員ともよく食事に行ってるよね」
なんとなく口にした言葉に、井口さんがすぐ反応した。
「そうですね。よく女性に囲まれて食事に行きましょうよ、ってねだられてましたね。まあ、八子さんもまんざらじゃなさそうでしたけど、ここ数ヶ月はそういった光景見てないですね」
「え。そうなの?」
「別の案件で一緒に仕事した同期の子が八子さんを誘ったらしいんですけど、なんだかんだ理由をつけて断られたらしいですよ」
「断った⁉ 八子さんって女子の誘いを断ることもあるの?」
てっきり誘われたら二つ返事で応じているものとばかり思っていた。
「あるみたいですよ。やっぱりほら、あれだけ人気のある人だから二人きりで行くと誤解されたり、勘違いされたりするんじゃないですか? 八子さんなりに、そこんとこは気を付けてるんでしょうね、きっと」
「へえ……」
――そんなに人気あるのね、あの人……
さすがイケメン。私の知らないところでもしっかり人気者だった。
「でも、あの人絶対に一対一じゃ食事に行かないんですって。必ず男性も誘うそうですよ」
「……え。一対一じゃ食事に行かない……?」
――それってどういうこと。じゃあ、なんで私は誘われたの……?
悶々としていると、井口さんが何かを思い出したように声を上げた。
「あー、そういえば六谷さんが鳥梯さんのこと探してましたよ。なので、八子さんに連れていかれましたって伝えておきました」
ハムとレタスのサンドイッチをもぐもぐしながら、顔を上げた。
「六谷さんが?」
「はい。今は食事に行っちゃってるみたいなんですけど、驚いてましたよ」
「……そう、分かった。ありがとう」
六谷さんは私が今就いている役職の前任者で、今は出世されて営業部長をしている男性だ。
年齢は偶然にも八子さんと同じ三十二歳で独身。外見は爽やかですらりとしているので、社内の若い女性から密かに人気があると最近聞いて、驚いたばかりだ。
――確かに結構整った顔をしているけど、一緒に仕事してた時はそんなことまったく意識してなかったからな。それに、私が補佐をしてた時、恋人いたしね。
最近も、会えば会話くらいはする。でも、六谷さんも営業部門の責任者になったことで新人の育成や自分の仕事で忙しくしているので、前ほど接点はない。
そんな六谷さんが、わざわざ自分になんの用があるのだろう。
私もその微笑みの威力に負けそうになるけれど、なんとか理性で押しとどまった。
――うっ……ま、負けない……
「さっきも二人だったじゃないですか……」
「まあね、でも話したいことの半分も話せなかったからさ」
「話したいことってなんでしょうか」
「分かってるくせに。あ、足下に気を付けて」
普段下り慣れている会社の階段であろうと気遣ってくれる。八子さんのこういうところが、きっと女子に人気がある理由の一つなのだろう。
階段を下りきったところで、まだ行き先を聞いていなかったことを思い出す。
「それで、どこに行くんです?」
「ああ、とりあえず鳥梯さんを誘い出すことが目的だったから、何も考えてない」
「ええ」
てっきり当てがあるとばかり思っていたので、少し拍子抜けした。
「鳥梯さん、あんまり時間とれないだろう? 近場でいいよ。なんなら一階のカフェでも」
このビルの一階には軽食を食べることができるカフェがある。平日は大概、正午を過ぎた辺りからオフィスに勤める社員がぞろぞろやってきて、十分もすればカフェはほぼ満席になってしまう。
まだ正午前だし、今ならたぶんまだ席には空きがある。
――じゃあ、そこでいい……いや、ダメだ。八子さんとの会話を知り合いに聞かれるのはまずい。
十中八九あの夜の話題なのに、知り合いがいつ来てもおかしくない場所で話すわけにはいかない。
「あの、別のところでもいいですか? 近くにゆったり座れるカフェがあるので……」
「いいよどこでも」
この言い方だと、八子さんにとって場所は二の次らしい。あっさり承諾してもらえたので、とりあえずビルから出る。
それにしても、二人きりで何を話すというのだろう。そのことばかりが頭をぐるぐるしている。
――やだなあ……何言われるんだろう……
背中に重たい空気を背負ったまま、目的地に向かう。
会社から五分くらい歩いたところにある、別のオフィスビルの一階にある老舗のカフェだ。
その店は路地を入ったところにあり、隠れ家のような趣がある。そのせいもあってか、若い人よりも年配の人に人気がある。
最初は私も知らなかったのだが、上司に教えてもらってからたまに利用するようになった。
でもこの時間帯はどこも混み合っているはず。もしかしたら座れない可能性だってある。そのために他の候補も考えておかねば。
「もし空いてなかったら別の店にしますね、すみません。私の都合に付き合っていただいて」
「いーよいーよ、どこだって。それよりも鳥梯さん」
「はっ、はい」
「そろそろ気になっていること聞いてもいいかな。まだダメ?」
はっきり言われてしまい、ひゅっと喉が鳴りそうになった。
――ダメ……じゃない、私もいろいろ聞きたいことはある、んだけど……
今私達が歩いているのは、ビルを出て人がまばらになってきた辺り。ここまで来れば私達の会話を聞かれて困る人も、いないだろう。
「……いいですよ、どうぞ」
承諾したら、八子さんが歩きながら私を見下ろしてくる。
「……八子さん?」
「鳥梯さん、俺のこと避けてない? もしかして俺、嫌われた?」
「ええ? き……嫌ってはいないですよ」
「てはいない、というのは、どういう意味?」
私の返事で八子さんの眉間に深い皺が刻まれてしまった。
――いけない、変な言い方しちゃった。
「嫌いじゃないです! そうではなくて……ちょっと、あの、どう接していいか分からなくなっているというか……避けているように見えたのならすみませんでした」
この言い方で分かってもらえるだろうか。
相手の反応を窺うと、一応納得してくれたのか彼の眉間の皺が消えた。
「まあ……それなら理解できるか。なんか、打ち合わせ中も鳥梯さん、俺とあんまり目を合わせてくれなかったからさ」
「……すみませんでした……でも、八子さんにも責任があるんですよ?」
「え。俺?」
素で驚いているところを見ると、まったく自覚はないらしい。
私だってそんなあからさまな態度をとるつもりはなかった。でも、八子さんが私の方ばかり見るのがいけない。あれじゃ他の社員に関係を怪しまれてしまう。バレないためにはそうせざるを得なかったのだ。
「打ち合わせの最中、こっちばっかり見てきたでしょ……! なのに私も八子さんの顔ばかり見てたら他の人に仲を怪しまれるじゃないですか。だから八子さんの顔をあまり見ないようにしてたんですよ」
「見ないようにって、ひどいな。あの案件の責任者は鳥梯さんでしょう。責任者と視線を合わせるのなんか普通じゃない? そもそも、なんで怪しまれたらダメなの?」
真顔で聞かれて、一瞬言葉に詰まってしまった。
ちなみに、勤務先はわりと自由な社風だ。社内恋愛も問題ない。でも、取引先の関係者との恋愛となると話は別だと思う。もちろん会社で禁じられているわけじゃないけれど、公と私の区別ははっきりつけた方が仕事もやりやすい……と、私は考えている。
「……ダメっていうか……あ、ちょっとこの話ストップで。着きました」
話している間に目的地のカフェに到着。ガラスのドアを開けて中に入ると、カウンターにいたマスターが「いらっしゃい」と声をかけてくれた。
マスターはおそらく五十代後半から六十代くらい。この店の軽食は、全てこのマスターが作っているのだという。
二人です、と言う前に空いてる席へどうぞ、と案内された。見れば、まだカウンターも窓側のボックス席にも空きがある。
「ボックス席でもいいですか?」
「いいよ」
座席はレトロなペンダントライトが天井からぶら下がり、椅子はワインレッドのフェイクレザーで、木目の美しいライトブラウンの木製テーブルが備え付けられている。BGMにはジャズが流れ、インテリアとの相乗効果でよりいっそうレトロな空間を演出していた。
一杯のコーヒーとお気に入りの文庫本があれば、半日くらいここで過ごせそう。特に大人、とりわけお一人様にとっては非常に居心地のいい場所だと思う。
席に着くと、八子さんはまず、運ばれてきた水に口をつける。
「先に注文しちゃいましょう。軽食のおすすめはマスター手作りの厚焼き玉子サンドです」
メニューを広げて写真を指さすと、腕を組んだ八子さんが興味深そうに身を乗り出してきた。
「へー、旨そう。じゃあ、俺はそれで」
「私はカフェラテでいいかな」
「……ん? 鳥梯さん飯、食わないの?」
さらっと注文を済ませようとしたのに、気付かれてしまった。
はっきり言おう。八子さんがいると食欲が湧かないのだ。
「あんまりお腹空いてないんで……飲み物だけでいいです。あ、注文お願いします」
八子さんに何か言われる前にアルバイトの女性を呼んだ。八子さんの軽食とブレンド、私のカフェラテを注文し、改めて八子さんと向き合う。
「……さて」
じっとこちらを見ながら、八子さんが微笑んだ。
「あの夜ぶりだね」
「その節は、すみませんでした‼」
とりあえず、八子さんと二人きりになったら謝ろうと決めていた。だからテーブルにくっついてしまいそうなほど頭を下げて謝った。
何に対して謝っているのか、我ながら説明が難しい。でも、あの翌日から、次に八子さんに会ったら謝らなくてはいけないような気がしていた。
そんな私の謝罪を受けた八子さんは、案の定というかやはりというか、目を丸くしている。
「なんで俺、謝られてるの?」
――まあ、そうか……そうなるよね……
体勢を戻し、前髪を直してから呼吸を整えた。
「あの夜のことでその、いろいろ、ご迷惑をおかけしたのではないかと……。正直、私、途中からあんまり記憶がなくて。あ、もちろんタクシーに乗ってからの記憶ははっきりしてるんですけど」
「別に謝るようなことは何もなかったよ。それよりも謝るのはこっちでしょ。ごめんね、いきなりあんなことして」
謝ってくれたことが意外だった。顔はそんなに申し訳なさそうではないけど。
――謝るっていうことは……やっぱり、あの夜のことは遊びだよ、って言いたいんだよね……?
「まあ、はい……びっくりしました」
「腰も痛めちゃったしね」
――それを言うか。
リアルにあの夜のことを言及してくるので、ドキッとした。
「……二晩くらいで良くなりましたから、どうぞお気になさらず」
「それは何より」
八子さんはここで一旦会話を切った。すぐにやってきた女性スタッフが、彼と私の前に注文したブレンドとカフェラテを置いていったからだ。
女性が去ってから二人とも無言でカップに口をつけた。いつもならコーヒーのいい香りとその美味しさにため息が漏れるはずなのに、今日に限ってはため息も出ない。
――……あ、味がしない……
久しぶりにめちゃくちゃ緊張してる。こんなの転職の時の面接以来ではないか。
「鳥梯さんは、なんであの夜、OKしてくれたの?」
「えっ……」
先にカップをソーサーに戻した八子さんが、じっと私の返事を待っている。
「それは……な、流れと言いますか。ふ、雰囲気に呑まれたと言いますか」
「雰囲気か」
八子さんが口元に手を当て、窓の外を見る。何やらあの夜のことを思い出しているようにも見えた。
「鳥梯さんは、ああいう雰囲気に弱いってことなのかな?」
「そ……そういうわけではないですけど。でも、あの夜は食事会も楽しかったし、お酒も入ってすごく気分が良かったんです。その流れでああなったので、私としてはもう仕方ないかなと」
仕方ない、のところで八子さんがこっちを見た。
「それってどういう意味?」
「え? だから、きっと八子さんも私みたいに気分が良くなって、そういう気持ちになったから、ああいうことになったのかなーって……」
「確かに気分は良かったけど、それでああいうことをしたんじゃないよ」
八子さんの声のトーンが少しだけ低くなった。
「じゃあ、なんで……」
「そんなの決まってるでしょ。好きだからだよ」
八子さんがブレンドを口にして、カップをソーサーに戻す。
その流れを見つめていた私の頭の中は、とんでもないことになる。
――は……? 好き……好き? 今、八子さん、私のこと好きって言った? てことは何、あれはワンナイトじゃないってこと?
「っ‼」
言われたことを理解した瞬間、無意識のうちに口を手で覆っていた。それと同時に浮かんできたのは、マズい、という焦りだった。
「好きな人と一緒の時間を過ごして、余計好きになって、二人で歩いているうちに欲望を抑えきれなくなった。じゃなきゃ酔った勢いだろうが雰囲気に呑まれてようが、取引先の人とあんなことしないって。これで分かってくれた? 俺はワンナイトのつもりはまったくないってこと」
「……無理です」
「え?」
小声だったのに、八子さんが敏感に反応した。
「八子さんって、普段女性との距離が近いじゃないですか。……私以外にも、きっとそういうことを言う相手がいるんじゃないですか……」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。八子さんが「嘘だろ」という顔で、背中を椅子に預けた。
「いやいやいや、待ってくれよ。確かに俺、結構気軽に女性に話しかけるけど、いくらなんでも誰にでもああいうことはしないって」
「そ……それは、そうかもしれないですけど、でも、八子さんが私を好きって言うのは信じられません」
「なんでさ」
八子さんがちょっとだけムッとする。仕事中は見たことがない、レアな表情だ。
「好き……って、わりと簡単に言えるじゃないですか。ラブじゃなくても、ライクでも」
「鳥梯さんに対する俺の好きはライクだってこと?」
「……だと、私は思うのですが」
八子さんが腕を組み、苦笑する。
「ひでえな。どっちかっていうと俺の鳥梯さんへの気持ちは……っと」
ここでタイミングよく注文した厚焼き玉子サンドが八子さんの前に置かれた。食パンの倍はあろうかというぶ厚い玉子焼きがサンドされていて、味を知っているのに目が釘付けになる。
食パンは八枚切りを四枚使用しているので、これだけでもかなり食べ応えがあるのだ。
店員さんが去ってから、八子さんがさっきの続きを言おうとした。でも、美味しそうなサンドイッチが目の前にあるのなら、先に食べてもらいたい。
「話はあとでいいので、先に食べてください」
手のひらを向け、どうぞと勧めたら、何かを言おうとした八子さんが観念したように口を噤んだ。
「食べるけどさ。じゃあ、その間、鳥梯さんの俺に対する気持ちをもう少し詳しく教えて」
「そ、そんな。今話したじゃないですか」
「俺に対する気持ちはまだでしょ。本音を教えてよ」
目の前のカフェラテはまだ半分以上あるけれど、口をつける気になれない。
――本音って……何を言えばいいの。
「私は、その……八子さんのことは、すごく尊敬してます」
「俺が聞きたいのはそういうのじゃないんだけど」
「うっ……」
彼の言いたいことは分かっているつもり。でも、なんて言ったらいいのかが分からないのだ。
言葉に詰まっていると、八子さんがサンドイッチにかぶりついているのが目に入った。
「ん。旨い。玉子焼きがすごくジューシー。ほら、鳥梯さんも一つ食べなよ」
「いえ、私は……」
「食っとかないと午後もたないよ。遠慮すんなって、ほら」
「……じゃあ、お一ついただきます……」
恐る恐る彼の前に置かれた皿に手を伸ばす。一番手前にあったサンドイッチを取ろうとした時、いきなり八子さんに手を掴まれてしまう。
「えっ」
反射的に彼を見ると、さっきよりも視線が熱い。掴まれた手もなんだか熱く感じる。
「俺のことが嫌い? でも、あの夜はそう思わなかったけどな」
あの夜のことを言われると、条件反射で顔が火照る。しかも掴まれている手の力が結構強くて、簡単には放さないという、八子さんの意思が窺えた。
「あの……放してもらえますか。これじゃ飲めないし、食べられないです……」
「俺のことをどう思ってるか教えてくれたら放すよ」
「そんな……」
八子さんが手を握ったまま、人差し指でツー、と手の甲をなぞっていく。わざとだと分かっていても、背中がゾクゾクと粟立つのが止められない。
「ねえ、鳥梯さん。あの夜俺は最高に幸せだったよ。でも、そう思っていたのは俺だけだったのかな」
「……あ、の……」
今度は下腹部の辺りがきゅうっとなって、心臓がドキドキと強く音を立て始める。
――どうしよう……
焦りと困惑で、彼の手に包まれている手の中がじんわりと汗ばみ始めた。
この状況は、私がうんと言えばそのまま付き合おう、って流れかもしれない。でも……正直言って、今はそんな気になれなかった。
八子さんのことは尊敬しているし、これからも一緒に仕事がしたいと思う。でも、それは恋愛感情ではない。
好意を持ってくれて、付き合うつもりでいてくれた八子さんには申し訳ないし、気持ちは嬉しいけど……
八子さんになんて言ったらいいのか。どう言えば彼を傷つけずに気持ちを分かってもらえるのだろう。
「あ……あれは……私の中では、割り切った大人のお付き合いだと思っていたので……」
言われた方の八子さんは、あまり表情を変えなかった。
「大人ね。まあ、そういうのもアリかもしれないけど」
八子さんがふっ、と息を吐いた。
「なら、一晩だけでいいの? また経験したくない?」
また経験。アレを? あの夜を?
考えただけで体が熱くなってきた。
「八子さん……‼」
「俺はしたいけどね。何度だって」
ダメ押しの一言に心臓がひときわ大きな音を立てた瞬間、私は照れも困惑も限界に達し、力任せに彼の手から自分の手を引き抜いた。
そのまま目の前にあるカフェラテの残りを一気飲みしてから、お金を払おうと財布を探す。だが、八子さんによって強引に連れ出されたため、財布を持ってきていないことに気が付いた。
スマホは持っているので、電子マネーでなら支払える。でも残念ながら、このお店は電子マネー決済ができない。
――くっ……また顔を合わせる口実とか作りたくないのに……‼
「怒った?」
「……っ、怒っていません。それより、申し訳ありません。財布を持ってこなかったので、代金を立て替えていただいてもいいですか? 必ずお支払いしますので」
「いいって。ここは俺のおごり」
八子さんが涼しい顔でコーヒーに口をつけている。
こっちがこれほどペースを乱されているのに、その落ち着きぶり。一周回ってイラッとしてくる。
「いえ、そういうわけにはいきませんから! ……すみませんが、私はこれで失礼します」
「何も食べてないじゃん? 少し食べてけば」
「結構です。食欲吹っ飛びましたんで」
「じゃあ、仕方ないか」
どこに笑う要素があったのかがまったく分からないが、なぜか八子さんが笑う。
「……では、お疲れ様でした」
「はい。じゃ、またね」
爽やかに見送られてしまい、これにも調子が狂ってしまう。
――ほんと、勘弁してよ……‼
それでもちゃんと会釈をして、店のマスターにもご馳走さまでしたと一声かけてから店を出た。
別に逃げる必要などないのに、なぜか早足になってしまう。
――もう、もう……‼ なんなの、あの人、ほんとなんなの……⁉
どう考えてもからかわれている。もちろん、誘いに応じたのは自分だ。だけど、まさか八子さんが私を好きとか思うわけがないじゃないか。
「やっぱりあの人、チャラい……‼ 絶対私のことからかってる……‼」
――大体なんで私……? 八子さんなら、他に仲のいい女性なんかいくらでもいそうなのに……
考えれば考えるほど理由が分からない。
帰り道の間ずっとそのことばかり考えたけれど、答えは見つからなかった。
八子さんには食欲が吹っ飛んだ、なんて言ったけど、考え事をしていたらお腹が空いてきた。今からどこかに食べに行く時間も心の余裕もなかった私は、帰り道にあるコンビニでサンドイッチを買って会社に戻る。
食事をしに外出したはずの私がコンビニのサンドイッチを食べているのを目撃し、井口さんが首を傾げていた。
「お昼食べに行ったんじゃなかったんですか?」
席に着くなり、ものすごい勢いでサンドイッチを頬張っている私に、井口さんが近づいてきた。
「……行ったよ。でも、八子さんと一緒だとどうも食欲が湧かなくて。その反動か分かんないけど、別れた途端すっごくお腹が空いたの」
クスッと笑いつつ、井口さんが小さく頷いた。
「あー、なんか分かります。八子さんみたいなすごい人と二人で食事って、緊張しますよね。私だったら絶対無理です」
「八子さんてさあ……うちの女性社員ともよく食事に行ってるよね」
なんとなく口にした言葉に、井口さんがすぐ反応した。
「そうですね。よく女性に囲まれて食事に行きましょうよ、ってねだられてましたね。まあ、八子さんもまんざらじゃなさそうでしたけど、ここ数ヶ月はそういった光景見てないですね」
「え。そうなの?」
「別の案件で一緒に仕事した同期の子が八子さんを誘ったらしいんですけど、なんだかんだ理由をつけて断られたらしいですよ」
「断った⁉ 八子さんって女子の誘いを断ることもあるの?」
てっきり誘われたら二つ返事で応じているものとばかり思っていた。
「あるみたいですよ。やっぱりほら、あれだけ人気のある人だから二人きりで行くと誤解されたり、勘違いされたりするんじゃないですか? 八子さんなりに、そこんとこは気を付けてるんでしょうね、きっと」
「へえ……」
――そんなに人気あるのね、あの人……
さすがイケメン。私の知らないところでもしっかり人気者だった。
「でも、あの人絶対に一対一じゃ食事に行かないんですって。必ず男性も誘うそうですよ」
「……え。一対一じゃ食事に行かない……?」
――それってどういうこと。じゃあ、なんで私は誘われたの……?
悶々としていると、井口さんが何かを思い出したように声を上げた。
「あー、そういえば六谷さんが鳥梯さんのこと探してましたよ。なので、八子さんに連れていかれましたって伝えておきました」
ハムとレタスのサンドイッチをもぐもぐしながら、顔を上げた。
「六谷さんが?」
「はい。今は食事に行っちゃってるみたいなんですけど、驚いてましたよ」
「……そう、分かった。ありがとう」
六谷さんは私が今就いている役職の前任者で、今は出世されて営業部長をしている男性だ。
年齢は偶然にも八子さんと同じ三十二歳で独身。外見は爽やかですらりとしているので、社内の若い女性から密かに人気があると最近聞いて、驚いたばかりだ。
――確かに結構整った顔をしているけど、一緒に仕事してた時はそんなことまったく意識してなかったからな。それに、私が補佐をしてた時、恋人いたしね。
最近も、会えば会話くらいはする。でも、六谷さんも営業部門の責任者になったことで新人の育成や自分の仕事で忙しくしているので、前ほど接点はない。
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