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1巻

1-2

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 すると、友人、下山田文しもやまだあやこらえきれないとばかりに噴き出した。

「ぶはははは‼ 真白がワンナイトとか、びっくりなんですけど」
「……笑いたきゃ笑うがいいわ……私だってびっくりしてんのよ。自分があんなことするなんて思いもしなかったし……」

 白い目で見られるより、笑い飛ばされた方がどれだけいいか。親友の反応に、私はどこかホッとしていた。
 文は大学卒業後、調理専門学校に入り、今は実家の洋食店を父親と共に切り盛りしている。文が作る洋食はなんだって美味おいしいが、特にオムライスが絶品だ。立ち寄る度にオムライスを選んでしまうくらい、惚れ込んでいる。
 文が笑いを収めながら、私に向かって手のひらを向ける。

「いや、ごめん。まさか大学時代、かたくなに彼氏に体を許さなかったお堅い真白が、そんなことになってて驚いちゃっただけ。いやあ……人って変わるものですな」
「う……。大学の時のことは言わないでよ……あれはあれで結構トラウマだったんだから」

 大学時代はそもそもずっと恋人がおらず、四年生になって初めて彼氏ができた。でも、その彼氏が見るからにやる気満々で、何かにつけて私をホテルへ連れ込もうと躍起やっきになっていた。そんなことが続いたせいですっかり気持ちが冷めてしまい、すぐ別れてしまった。
 そのことがあったせいで、次にできた彼氏とは卒業まで体の関係を持たないことを条件にお付き合いを決めた。でも、いざ卒業してそういう関係になっても、なぜか上手うまくいかず、その彼とも長くは続かなかった。

「別にエッチが嫌いというわけじゃないのよ。なんていうのかなあ……してても気持ちいいのかどうかがよく分からなくて」
「真白からそういう方面の話ってあんまり聞かなかったもんね。でも、今回の人はこれまでと違ったってことなんでしょう?」
「そうなの!」

 つい興奮して木製のテーブルを叩いて軽く身を乗り出した。それを見て、また文が笑う。

「そんなによかったの?」
「うん……もう、最初から違ってた。キスにとろーんてなっちゃって……気が付いたらホテルに入ってて。流されちゃいけないっていう考えは頭の片隅にあったんだけど、完全に雰囲気に呑まれた……もちろん、それだけじゃないんだけど。相手のテクニックもすごかったし」
「なんかすごそうね……」
「すごかったわ……あんなの初めてだった。びっくりしちゃった」

 一晩で何回も達するとか、気持ちよすぎて気を失いそうになるとか。経験が少ない自分には、とにかく驚くことばかりだった。
 本当のセックスがこういうものなら、今まで自分がしてきたセックスはなんだったのか。
 三十歳にして初めて知ることばかりで、なんだか一晩でものすごく自分がレベルアップしたような気持ちになった。
 私が多くを語らなくても、ある程度は想像ができたのだろう。文がごくん、と喉を鳴らす。

「それはかなり……相手がやり手ね。顔は? イケメンなの?」
「イケメンすぎるくらいよ。しかもスタイルもいいし、仕事もできるし社長だしで……なんか、ダメなところが見つからないパーフェクトな人なの」
「なんだその完璧超人みたいな男は……」

 口をあんぐりしたまま文が固まった。その手にはビールの中ジョッキが握られていて、中身はまだ半分ほど残っている。
 ここはチェーン展開している居酒屋だ。席にはそれぞれ仕切りがあるものの、店内は人の話し声であふれている。私達くらいの年齢の女性や、仕事帰りのサラリーマンが多いが、みんな、自分達の話に夢中で、こちらの会話は耳に入っていないだろう。だからこそのこの会話なのだが。

「完璧超人みたいな人から誘われたから、思わずOKしちゃったのかも……」
「う、うん……まあ私も、もし、そんなすごい人に誘われたら断れるかどうか……好きになるならないは別として、やっぱり興味があるかもしれない」
「イケメンは罪よ……」

 女二人、しみじみと頷き合う。

「その人から連絡とかはあったの?」

 文がこちらに身を乗り出す。たぶん、その後の私達がどうなったのか気になるのだろう。

「ないよ」
「え。ないの?」

 文の顔が一瞬強張こわばった。

「ていうか私、携帯の番号を教えてないから」

 そう言うと、今度は嘘でしょと言わんばかりに文の目が大きく見開かれる。

「なんで教えてないの⁉」
「だって、仕事の連絡は会社にくるし。個人的な番号はそもそも聞かれてないし」
「えーっ! その男、なんで番号聞いてこないかな‼ 普通聞くでしょ……」
「きっと、あの人にとっては遊びだったのよ。もちろん、私もそのつもりで誘いに乗ったんだけど。お互いいい大人だし、あれは一夜限りの割り切った関係ということでいいのよ」
「……いやあ……それだけで遊びだって判断するのはまだ早いんじゃ……もしかしたら、相手は真白のことが本気で好きなのかもしれないし」
「ないなーい‼ そもそも、そんな人がいきなりホテル行こうとか言う~? あり得ないでしょ」

 笑って否定して、ビールをあおる。

「じゃあもし、あとから実は好きでした、俺と付き合ってください、とか言ってきたら付き合うの?」

 つまみに頼んだとりもも串を手に、文が私の顔を窺ってくる。その顔には、実はその人のことが気になってるんじゃないの、と書いてある。

「いや、本当にないから」

 彼と付き合うことを想像してみるが、私の中からときめきは生まれなかった。
 ――いやあ、ないでしょ。
 何しろ八子さんは、普段から女性との距離が近い人だから。
 思い返せば最初に会った時からそうだった。


『鳥梯さんていうの? 初めまして、八子です』


 彼が売れっ子デザイナーとして名をせているのは知っていた。前評判ばかり耳にしていたせいで、イメージが一人歩きしていたところはあったかもしれない。だが、彼を前にした時、まずその容姿に目が釘付けになった。八子さんの顔はすこぶるイケメンだったのだ。芸能人と言ってもすんなり納得できるほど整った顔形と、全身からかもし出される独特なオーラに圧倒された。
 でも八子さんは、まったく偉ぶる素振りもなく、前任者の横にいる私にいち早く気付き、向こうから声をかけてきてくれた。
 最初は、下っ端の私にまで気を遣ってくれる八子さんに好感を持った。もしかしたら誠実そうな彼の微笑みに、ときめいていたのかもしれない。
 しかし、彼に対する印象は、すぐに変わることになる。
 彼の細やかな気遣いは、女性スタッフ全てに向けられているもので、自分が特別なわけではなかったのだ。

『えー、八子さん。私の誕生日覚えててくれたんですか⁉』
『もちろん。千香ちかちゃんのことならなんだって知ってるよ?』

 やだあ‼ と照れる女性と八子さんがじゃれ合っている。
 内装業を営んでいる顔見知りの女性が誕生日だったらしく、誰より先に八子さんが祝っているのを目撃した。私もその女性とは数回顔を合わせたことがあるが、さすがに誕生日までは知らなかった。しかも、名前で呼んでるし。
 ――八子さん、業者さんの誕生日も覚えてるんだ……すごい。
 それともこの女性が特別なのでは……と考えている最中、別の女性が八子さんに近づいてきた。

『八子さんマメだもんねー。私の誕生日の時も現場に私の好きなガトーショコラ買ってきてくれたし。私が好きだって言ってたの、覚えててくれたんですよね?』
『そう。俺、めちゃくちゃ記憶力いいんで。ていうか、あれだけ何度も言われたらイヤでも覚えるでしょ』

 女性に囲まれている八子さんを遠くから眺めながら、彼が親切にするのは私だけじゃない、他の女性にも同じように、もしくはそれ以上に親しく接しているのだと知った。
 そう思って眺めていると、八子さんはとにかく女性との距離が近い。

笠井かさいさんの今日の服いいね』
『あっ、依田よださん‼ この前もらったお菓子すごく美味おいしかった。いつもありがとね』

 うちの会社に打ち合わせで来た時、顔見知りの社員が通りかかると、八子さんは積極的に声をかけていた。もちろん男性社員にも声はかけるが、私が見る限り圧倒的に女性が多い。中には会話の流れで八子さんを食事に誘っている人もいた。そういう時、彼は一緒に何人か誘って飲みに行ったりしていたと思う。
 そういった光景を何度も見ているうちに、勝手に私の中で八子さんのイメージができあがってしまったのだ。
 この人は、チャラい、と。

「あの人にとって女性をホテルに誘うなんて、きっとよくあることなのよ。お互いいい年だし、割り切って楽しみましょうっていう……その場の流れみたいなものなんじゃない?」

 女性に優しくするのは八子さんの癖というか、元々持っている性格的なもので、特別な意味などないと私なりに理解しているのだ。

「ええー。だからって、気持ちもなく仕事先の女性を口説くようなことしないでしょう? 一応社長なんだし、手当たり次第に取引先の女に手を出してたら、仕事がやりにくくなりそうじゃない」
「そんなものかな……お互いに割り切ってれば、そういうこともあるんじゃない?」

 さっきまではセックスがよかったと興奮気味だったのに、付き合うことには後ろ向き。そんな私を、文が頬杖をつきながら眺めている。

「もし相手にとって、あんたが本命だったらどうすんねん……」
「いや、それは絶対ないから」

 ワンナイトから始まる恋なんて無理。いきなり告白とかの経緯をすっとばして体を求めてくるような男と恋人になるとか、私には考えられない。まして相手が、常に周囲に女性がわんさかいそうな八子さんだなんて、ないでしょう。
 ――ワンナイトは一晩で終わり。それでいいじゃない。
 あんなことになってしまったせいで、次に彼に会うのが少しだけ気まずいのは確かだけれど、ここは一つ、大人の対応でやり過ごそう。
 なんせ自分から仕事を取ったら何も残らないのだから。



   二


 友人に話すことによって、自分の行動に落としどころをつけた私は、まるであの夜、何もなかったかのように仕事をこなしていた。
 そして、あの夜から数日後、来るべき時を迎えた。
 ――あー……そうだった、今日、八子さんが来る日だ……
 さすがに、あの夜以来の直接対面となると、若干の気まずさはある。
 でも、気にするほどのことはないのかも。
 そもそも、相手は私よりも社会人経験の長い大人だし、わざわざ周囲に関係を怪しまれるような言動はしないだろう。
 そんなことを考えながら、私は手早く濃すぎず薄すぎないナチュラルなメイクをほどこしていく。それが終わったら、次は髪のセットだ。慣れた動きで髪を上げると、あの夜八子さんにつけられたあとが、ほとんど目立たなくなっていることに気が付いた。
 なかなか消えなくて、ここしばらくはずっと髪を下ろして通勤していたのだが、ようやく分からないくらいまで薄くなった。
 ――よかった、消えてきた。
 なんとなく、これであの夜のことがリセットできたような気になって、少しホッとする。同時に、ほんの少しだけ残念だと思う自分もいた。
 ――ま、いいか。とにかく気持ちを切り替えて、仕事行こっと。
 耳のラインで髪をシュシュで一つ結びにして、垂れ下がるタイプのピアスをつけたら、準備は完了。
 よし、行くぞ、と自分に気合を入れて部屋を出た。
 出社して、いつものようにメールのチェックと、返信、新店候補地の不動産チェックなどを片付けているうちに、八子さんとの打ち合わせ時間が近づいてきた。頭はすっかり仕事モードに切り替わっていて、今日やることを順序立てて整理する。
 この前もらった内装デザイン案は、社長がいたく気に入ったダークブラウンの案を採用することになった。そこにこちらの要望をいくつか入れてアレンジをお願いする、というのが今日の打ち合わせの目的だ。
 約束の時間前にミーティングルームに行き、まずは資料の用意。それからあらかじめ用意しておいた小さいお茶のペットボトルを人数分テーブルに並べる。黙々とミーティングの準備をしていると、開始までにはまだ時間があるにもかかわらず、部屋のドアが開く音がした。
 たぶん、井口さんが来たのだろう。勝手にそう思い込んだ私は、まったく疑わず「井口さん?」とドアの方も見ずに声をかけた。

「八子です」
「えっ⁉」

 慌てて振り返ると、白いシャツと黒いスラックス姿の八子さんが、ドアから入ってすぐのところで口元を押さえている。明らかに、驚く私を見て笑っているのだ、これは。

「何その、熊でも見たかのような顔」
「……す、すみません……」
「まあ、分からんでもないけど」

 八子さんがスタスタと私に近づいてくる。彼が距離を詰める度に、私の心臓がどくどくと鼓動を速めた。
 何度も呪文のように平常心、平常心……と心の中で呟く。私達はもういい年をした大人だ。あんなのはたいしたことじゃない。いつもどおりでいいはず。

「体、大丈夫だった?」
「へ?」
「いや、だから体。俺、相当無理させた自覚あるんで」
「……腰は……痛かったです……」

 まさか体を気遣われるとは思わなかった。拍子ひょうし抜けしたからか、私は素直に腰が痛かったと告げた。

「うわ、ごめん」

 八子さんが本気で申し訳なさそうな顔をする。この人がこんな顔をするのを初めて見たかもしれない。

「それなら一言、恨み言でもいいから連絡くれればよかったのに。俺、携帯番号が入った名刺渡してあったよな?」
「……それは、会社の名刺ファイルに入れてしまったので、手元にはありません」

 これも正直に話したら、今度はなぜか、ははっ、と苦笑された。

「じゃあもう一枚あげるよ。これは鳥梯さんが持ってて」

 言いながら、スラックスのポケットから取り出した財布から名刺を引き抜き、私の前にかかげた。

「えっと……あの……なぜ……?」
「なぜって、俺と個人的にいつでも連絡がとれるように。ほら」

 受け取れよ、と言わんばかりに八子さんが名刺を私の顔に近づけてくる。仕方なくその名刺をもらい、自分の席に置いた。

「それより、鳥梯さんの連絡先、俺まだ教えてもらってないんだけど」
「連絡、先……?」

 何を言われているのかが分からない。
 私が無言で床を指さすと、咄嗟とっさに八子さんが真顔で「違う」と否定した。

「会社じゃなくて、鳥梯さん個人の連絡先。俺、何度も聞いたんだけど、あなた、全然教えてくれなかったよね」
「え。私? そんなこと聞かれましたっけ。いつの話ですかそれ」

 本気で聞かれた記憶がない。驚く私を見て、八子さんは呆れ顔だ。

「いつって……あの夜何回か聞こうとしたけど、その度に鳥梯さん全部に言葉被せてきたでしょ。意図的にやってるのかと思ってたけど、もしかして無自覚……?」
「ちょ、ちょっと待ってください。思い出します」

 八子さんの会話をさえぎって、あの夜のことを思い出す。八子さんと会話らしい会話をしたのは、ことを終えてホテルのエントランスからタクシーに乗り込む時くらいだと思うのだが。

「……あ」

 断片的にだが、ちょっとずつ記憶がよみがえってきた。確かベッドでぐったりしている時、隣にいた八子さんが、そんなようなことを言っていた気がする。

『鳥梯さん、れんら……』
『あーっ‼ もうこんな時間⁉ すみません、私、帰らないと』

 そこから急いで下着をつけている間、ほとんど八子さんの言葉は頭に入らなかった。たぶん、一回目はそこだ。
 二回目は、ホテルの部屋を出てタクシー乗り場に向かう時だ。エレベーターの中で、話しかけられた記憶がある。

『鳥梯さん、さっき聞きそびれたんだけど……』
『えっ⁉ あ、ごめんなさい、ホテル代ですね! 私の分はもちろんお支払いしますので』
『いや、そうじゃなくて……代金はいいよ』
『えっ。ダメですよそんな! ちゃんとお支払いします』
『本当にいいって』

 払います、いらない。の押し問答が続き、エレベーターの扉が開くと八子さんは私から離れ先にフロントに行き、代金を精算してしまった。
 そんなやりとりをしたことを、おぼろげながら思い出した。
 ――ああああ、聞かれてた……!
 無言のまま八子さんを見たら、ちょっとだけ笑われた。

「思い出したか。まったく……それにしても鳥梯さん、なんでそんなにクールなの? こう見えて俺、結構傷ついてるんだけど」

 八子さんの口から傷つくなんて言葉が出て、びっくりした。

「八子さんが傷つく……⁉ そんなことってあるんですか?」
「あるさ。一応普通の人間なんで。……あ、もう時間だな。打ち合わせ、あと何人来るの?」

 話の途中で八子さんがプライベートモードからビジネスモードに切り替わった。それに伴って、私も背筋を伸ばす。

「はい。あと三人来ます」
「分かった。俺の席どこ?」

 こちらです、と手で示すと、彼がその席へ移動した。

「飲み物はお茶でよろしかったですか?」
「あー、できれば水がいいかな。なければお茶でもいいよ」
「はい、じゃあ今……」

 水を取りに行こうと背中を向けたタイミングで、腕を掴まれた。えっ、と思う間もなく、じっと私を見ている八子さんと目が合う。
 ……いや。彼の視線は私の首筋だ。

「なん、なんですかいきなり」

 首筋を見ていた八子さんが、私を見て口角をくっと上げた。

あと、綺麗に消えちゃったね? せっかくつけたのに」
「……‼」

 咄嗟とっさに彼の手を振り払い、そのまま首を隠す。いけないとは思いつつ、つい八子さんをにらんでしまった。

「か……からかうの、やめてください!」
「からかってないけど」

 真顔で返してくる八子さんの真意が分からない。もやもやした気持ちのまま、私は水を取りにミーティングルームの外に出た。
 ――な……なんなの……⁉ 今日の八子さん、いつもと違いすぎない……?
 いつもの軽い感じでこの前はごめんね? とか言ってくると思っていたのに、予想と全然違うから調子が狂う。
 動揺を払いのけながら、私は水を取りに冷蔵庫へ向かうのだった。


 その後の打ち合わせは、スムーズに進んだ。
 基本となる案にこちらからの要望をいくつか伝えると、それならこうするのはどうですか? なんて、八子さんから更に斬新な提案なんかもあり、予想よりもはるかに素晴らしい図案ができあがった。再度社長のチェックは必要になるが、新規出店を担当するスタッフは全員満足しているようだ。

「八子さん、ありがとうございます。あの図案、きっと社長も喜ぶと思います」

 パソコンを閉じ、ケースに収めながら八子さんが微笑む。

「いやー、岩淵いわぶちさんは厳しいからなー。こっちが予想してないところでダメ出しされたりとか、過去に何度も経験あるんで、安心しないようにしときます」

 八子さんが立ち上がり、ミーティングルームを出る。それを、うちのスタッフ三人がドアの外で見送っている。
 責任者の私は社屋のエントランスまでお見送りするため、八子さんのあとに続いた。

「今日はご足労いただきありがとうございました。近いうちにまたご連絡を……」
「鳥梯さん」

 ビジネストークで間を繋げていた私の話をぶった切り、八子さんがこちらを見る。
 やけに真剣な顔だったので、ビジネストークが吹っ飛んでしまった。

「はい……?」
「これから昼だよね。一緒に食事でもどう?」
「……ひ、る……」
「もしかして弁当持ち? だったら弁当持ってきて。どっかで一緒に食おう」

 弁当があると言って逃げようとしたのに、先回りされてしまった。

「いやあのでも、今の打ち合わせの内容を早くまとめて社長に報告を……」
「弁当ないってことね? じゃ、行こうか。昼を食うぐらい岩淵さんも待てるでしょ。……あ、井口さん‼」

 なぜか八子さんが、私を超えた向こうの通路を歩いていた井口さんに声をかけた。いきなり声をかけられた井口さんは、こちらを見て目を丸くしている。

「一時間ばかり鳥梯さん借りてくから‼ 岩淵さんに聞かれたらそう言っておいて」
「えっ⁉ 借りてくって……」

 この人は何を言ってるんだと思いながら井口さんの反応を窺う。すると彼女は無言で頭の上に両手を持っていき、そのまま大きな丸を作った。思いっきりOKのジェスチャーである。
 ――い、井口さん‼
 彼女の反応を見た八子さんが満足そうに微笑んだ。

「これで文句ないだろ。じゃ、行こう」
「いやあの、ちょっと……‼」

 八子さんが歩き出したのを見てから井口さんへ視線を移すと、微笑みながら手を振っていた。まるで私が八子さんに連れ出されるのを心から喜んでいるように。
 ――いやいやいや、私は行きたくないんだって……‼
 しかし、ここまできて、やっぱり無理なんて言えない。諦めの境地で、私は先を歩く八子さんのあとをついていくのだった。
 食事でもと言っていたが、どこへ行くつもりなのかも分からない。聞こうかどうか迷っていると、八子さんがピタッと足を止め、こちらを振り返った。

「やっと二人になれた」

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