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第二章

不安

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「そっか。分かったよ。でも、気が変わったらいつでも言ってね」

 ────という言葉を最後に、サミュエル殿下は再び机へ向かう。
無言で書類仕事を始めた彼を前に、私は壁際へ移動した。
『怒らせてしまっただろうか?』と思いつつ、護衛任務をこなすこと十数時間……日もどっぷり沈んだ頃、私はようやく退勤を許される。
私服のYシャツとズボンに着替え、帰路へつく私は裏門に足を向けた。
その道中────闇に溶け込むような黒髪を目にする。

 あれ?もしかして、そこに居るのは……

「ディラン様?」

 街灯が少ないため確信はないものの、私は一先ず名前を呼んでみた。
すると、その黒髪の男性はピクッと反応を示す。
と同時に、顔を上げた。

「……グレイス嬢、遅いよ」

 そう言って、不満げに顔を顰めるのは間違いなくディラン様だった。
いつものローブ姿で佇む彼は、足早にこちらへ向かってくる。
そして、目の前に来るなり抱きついてきた。

 あれ?ディラン様の体、凄く冷たい。

 背中に回った腕や目の前の胸板から伝わってくる体温に、私は少しばかり目を剥く。
と同時に、顔を上げた。

「まさか、ずっとここで待っていたんですか?」

 もうすぐ夏とはいえ、夜は冷える。長時間、屋外に居れば体温を奪われてもおかしくなかった。

「うん……グレイス嬢のこと、心配だったから」

 『とりあえず、怪我はなさそうで安心した』と語り、ディラン様は私の肩に顔を埋める。
ホッとしたように体から力を抜く彼の前で、私は僅かに眉尻を下げた。

「そうだったんですね。お待たせしてしまって、申し訳ありません」

 『寒かったですよね』と気に掛け、私はディラン様を抱き締め返す。
少しでも体が暖まるように、と。

「これ以上、体を冷やす前に家へ帰った方がいいですね。良ければ、送っていきますよ」

 『ご自宅はどこですか?』と尋ねると、ディラン様はゆっくりと顔を上げた。

「普段は魔塔で寝泊まりしているから、送迎は必要ないよ。というか、そういう気遣いは男性の方がするんじゃないの?」

 『気持ちは嬉しいけどさ』と零し、ディラン様は小さく肩を竦める。
と同時に、私の手を取った。

「だから、送るよ」

「いえ、そんな……申し訳ないです」

 間髪容れずに首を横に振り、私はやんわり手を解こうとする。
が、ディラン様はそれを良しとしなかった。

「グレイス嬢はいつも、遠慮してばかりだよね……たまには、甘えてほしいのに」

 先程より強い力で私の手を握り締め、ディラン様は僅かに顔を歪める。
アメジストの瞳に、不満を滲ませながら。

「……それにさ────グレイス嬢はまだ僕と一緒に居たいとか、思わないの?」

 拗ねたような……でもどこか悲しそうな口調でそう言い、ディラン様はそっと目を伏せた。
かと思えば、トンッと私の肩に額を押し当てる。

「僕は凄く思っているよ」

 絞り出すような小さな……そして掠れた声に、私はハッと息を呑んだ。
今になって、やっと感情面の配慮が足りなかったことに気づいて。

 私、ディラン様の気持ちを蔑ろにしていた。
体調だけ気に掛けても、意味ないのに。

 『恋人失格だ』と自責する中、ディラン様はゆっくりと身を起こした。
と同時に、私の唇を指先で優しくなぞる。

「ねぇ、グレイス嬢。君は本当に────僕のことが好きなの?」

「……えっ?」

 全く予想してなかった質問を投げ掛けられ、私は思わず固まった。
が、直ぐに平静を取り戻して返答に口にする。

「もちろん、好きです。だから、こうしてお付き合いさせていただいているんですし」

「させていただいている、ね」

 何か引っ掛かるような言い方だったのか、ディラン様はフッと自嘲にも似た笑みを漏らす。
握ったままの手に更なる力を込め、ちょっと涙目になった。

「グレイス嬢は本当、僕に謙って遠慮してばかりだね……君とは対等で居たいのに」

 ポロリと一筋の涙を流し、ディラン様は唇を噛み締める。

「君が身分や立場のことを考えて、畏まった言動になるのは仕方ないと思っている。そこは少しずつ慣れてくれれば、って考えていた。でもさ────ただの一度も弱音を吐かず、ワガママを言わず、恋人を頼らないなんて……悲しいよ」

 震える声で必死に訴え掛けてくるディラン様は、堪らず嗚咽を漏らした。
かと思えば、悲痛に顔を歪める。

「付き合う前からそうだったけど、グレイス嬢は自分のためだけ・・に動くことってなかったよね。何かの用事のついでに自分のささやかな願いを叶えることはあっても、それ以上を望むことはないというか……とにかく、欲がない。だから、凄く不安なんだ」

 ゆらゆらと瞳を揺らし、ディラン様はコツンッと額同士を合わせた。

「恋愛感情って、謂わば欲望でしょ?他を蹴落としてでもこの人は手に入れたいとか、何をしてでもこの人は幸せにしたいとか、そういうの……まあ、愛の形は人それぞれだから一概にどうとは言えないけど────僕はグレイス嬢から、そういうを感じたことは一度もない」

 至近距離でこちらを見つめ、ディラン様は心の内を探ろうとしてくる。
が、何の感情も窺えないのか諦めたようにそっと目を閉じた。
ゆっくりと顔を上げる彼の前で、私はただひたすら猛省する。

 ディラン様を……この世で一番大切な人を、泣かせてしまった。その罪は重い。

 こんな風になるまで追い詰めてしまった事実を噛み締め、私は握られた手をそっと持ち上げる。
と同時に、もう一方の手で優しく包み込んだ。

「ディラン様のお気持ちは、よく分かりました。不安にさせてしまって、申し訳ございません。私の愛情表現不足でしたね」

 『さすがに淡白すぎた』と主張し、私はディラン様の手の甲を撫でた。
ピクッと反応して目を開ける彼を前に、私は言葉を紡ぐ。

「でも、貴方を好きな気持ちに嘘はありません」

「……」

 疑心暗鬼に近い状態となってしまったのか、ディラン様は沈黙を選んだ。
『その言葉を信用していいのか』と悩む彼の前で、私はアメジストの瞳を見つめ返す。

「確かにこれまで私の愛を感じた瞬間はなかったかもしれませんが、ディラン様は知っている筈ですよ。私の愛の形……その断片を」

「えっ……?」

 思わずといった様子で声を漏らし、ディラン様は瞬きを繰り返す。
どうやら、心当たりがないらしい。
『一体、何のこと?』と困惑する彼を前に、私はスッと目を細めた。

「ほら、告白のとき言ったじゃないですか。一度ならず二度もディラン様を傷つけたアルカディア様が許せない、と」

「!」

 ハッとしたように息を呑むディラン様は、暫し放心。
その拍子に泣き止んだ。

「なので、私の愛の形は────どんな手を使ってでもこの人は守る、です」

 声高らかにそう宣言すると、ディラン様は目に光を宿した。
と同時に、私の手を掴む力を少し弱める。

「守る……」

「はい。私はたとえ、この身を犠牲にしてでも……他の人を切り捨てることになっても、貴方を守ります」

 確かな覚悟と意志を持って誓い、私は精一杯の愛情を示した。
ディラン様が少しでも、安心してくれることを願いながら。

「私の愛、少しは伝わりましたでしょうか?」

「う、うん……」

 おずおずと首を縦に振り、ディラン様は僅かに頬を赤くする。
そして、迷うように……躊躇うように視線をさまよわせると、控えめにこちらを見た。

「でも、その……まだ足りない────って言ったら、もっと愛を伝えてくれる……?」

 まだ不安な気持ちが残っているのか、ディラン様は恐る恐る追加を求める。
キュッと唇に力を入れる彼の前で、私は小さく笑った。

「それはもちろん、構いませんよ。ですが、私はあまり言葉を知らないので口頭だけじゃ限界がありますね」

 『他に愛を伝える方法はないか』と悩み、私は自身の顎に手を当てる。
その際、うっかり唇に触ってしまった。

「あっ、そうだ。こういうのは、どうでしょう?」

 脳内で恋人同士がするスキンシップを思い浮かべ、私は爪先立ちになる。
そうすると、必然的にディラン様との距離が縮まり────唇が重なった。

「なっ……は……えぁ……」

 ディラン様は真っ赤になって少し仰け反り、目を白黒させる。
私の口元を凝視しながら。

「ず、るい……こんなの」

 絞り出すような声で抗議するディラン様に対し、私は小さく首を傾げた。

「えっ?キスは反則なんですか?恋人同士だから、良いかと思ったんですが……問題があるようなら、今後は控えますね」

 無理やりしたくはないので、自粛を申し出た。
すると、ディラン様は

「ダメ」

 と言って、軽く手を引く。

「も、もっとして……じゃないと、グレイス嬢の愛を感じられない」

 耳まで赤くしながらキスの続行を要求し、ディラン様は口元に力を入れた。
緊張した面持ちでこちらの返事を待つ彼に対し、私は小さく頷く。

「分かりました」
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